他人の巣 小津夜景
帰り道、車内でわたしたちが交した会話は、とても他愛ないものだつた/その人は新しいレコードを買つたから近いうちに聴きにおいでと言つた/わたしが「うん」と言へずにゐると、その人は話の中にさりげなく別の人物をまぜた/八月になつたら、あの人も誘つてみんなで旅行に行かう/今、北欧行きの飛行機が安くなつてるから白夜でも見に/その人物の名を聞いて、わたしはやつと普段の調子で会話するきつかけをつかんだ/白夜?/それ夏至の頃でせう?/そんなてきたうな台詞に騙されて、あの人が旅行に行くわけないと思ふよ/さうか/でも僕はあの人が嫌がる顔を見るのが好きだし、さうなつたら却つて嬉しいかもね/無理にでも連れて行くさ/さう言ふとその人はこちらを向くのを止めた/そしてほんの少し車の速度を上げた/前方にあいまいな闇が力なく迫り、切られるハンドルの大きさだけ、視界はその安定を奪はれてゐるやうだつた/しばらくして、白つぽい樹林の光景が左右にあらはれると、わたしたちはヌガーを思はせるその柔らかな檻のなかへゆつくり車ごとのめり込んでいつた/ときをり訪れるなだらかなカーブだけが、変容のないこの空間が時間に生け捕られてゐる感覚を、誰にともなく示してゐた。
ひるねより目覚めてからだ薄くなる
過ぎゆきしはづを緑雨の重さかな
南風よふくれつつらの帆の寛容よ
夏帽子ねざめのやうに酔ひなして
日時計の黴をぬぐうて旅立てり
なつぞらよとろむぼおんの灰に充ち
飲み干せばまぼろしと砂日傘かな
風鈴の手を眠りへとさしまねく
ゆふだちやまつしろな鋏を下ろす
白き夜のここは他人の巣なりけり
【作者略歴】
- 小津夜景(おづ・やけい)
1973生れ。無所属。
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