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2014年7月25日金曜日

【俳句時評】  吉村昭の放哉 外山一機

笹沢信の遺作『評伝 吉村昭』(白水社)が刊行された。吉村昭といえば戦史小説や歴史小説の名手であるが、没後八年にして自身の評伝が成ったわけである。吉村は一九七七年から石寒太ら親しい仲間とともに隔月で句会を続けており、句集『炎天』(私家版、のち二〇〇九年に筑摩書房より刊行)もある。もっとも、笹沢も指摘しているように句会はあくまでも友人との楽しみとして行われていたものであって、句作もまた趣味のひとつとして認識していたようである。俳句にかかわる吉村の文学的営為についていうならば、むしろ尾崎放哉の評伝『海も暮れきる』(講談社、一九八〇)の執筆をその筆頭に挙げねばなるまい。

本作がなみなみならぬ放哉への畏敬と共感の念から書かれたものであることはすでに吉村自身が何度か告白しているところである。そもそも放哉と吉村との出会いは一九四八年のこと。学習院高等科文科甲類に入学したもののその八ヶ月後に末期の結核患者として絶対安静の状態となった吉村が、眼に負担をかけぬものとしてひもといたのが改造社版の『現代俳句集』であり、そのなかに放哉の作品が掲載されていたのだった(ちなみに、『炎天』に収められたエッセイのなかで吉村は筑摩書房版と述べているが、これは刊行時期を考えると吉村の記憶違いであろう)。この放哉との出会いを笹沢は次のように書いている。

吉村昭は衝撃を受けた。俳句それ自体も人の胸を衝くものがあったが、自由律俳句という型にとらわれないスタイルが、なにやら短詩の趣を醸し出していたからである。素晴らしいものを作り出したな、と思った。

「衝撃を受けた」という箇所については、吉村が「私の好きな句」(『炎天』所収)で語っているところであるが、「素晴らしいものを作り出したな、と思った」という感慨は何に基づいて書かれたものなのか僕にはわからない。だがこの言い回しは、若き日の吉村が放哉の句を同時代のそれとして認識してもおかしくはないほど接近した時代を生きていたのだということを僕たちに気づかせてくれる。笹沢の手柄はここにあろう。放哉の死は一九二六年で、吉村は一年後の一九二七年に生まれている。そして改造社版の『現代俳句集』は一九二九年の刊行で、吉村が同書で放哉の句に出会うのはその一九年後の一九四八年のことであった。

それにしても、なぜ放哉だったのか。ここでいくつかの補助線を引いてみたい。ひとつは吉村が川端康成に心酔していたということである。笹沢は「吉村文学の原点にあるのは、多くの血族の死であろう」とし、また川端が「幼くして血族の多くの死に遭遇した体験は吉村昭と共通するといえる」と述べている。吉村には「戦艦武蔵」などの戦史小説、歴史小説がある一方で、「透明標本」「星への旅」など死を扱った多くの作品がある。

これまでの創作過程を総括すると、吉村昭の初期作品には一つの顕著な特徴がみられる。「死体」「さよと僕たち」「白い虹」「白衣」「墓地の賑い」につづく、遺体献体を描いた「青い骨」、少女の遺体が解剖され骨と化していく「少女架刑」、美しい骨格標本作りに執念を燃やす外科医を主人公にした「透明標本」などであるが、これら初期の秀作に共通するのは人間の死、重い病気を扱った暗いテーマのものが際立つことである。(略) 
これらは吉村昭が結核で大量喀血、左胸部の肋骨五本の切除などの体験を引きずってきたことを窺わせる。(略) 
一方、吉村昭も少年期から思春期にかけて周囲は「死」で彩られていた。そうした状況の中で吉村昭は川端と同じく「死」の世界を通して、その文学的資質が磨かれたのではないだろうか。

吉村による放哉への注目はこうした吉村の文学的資質からすれば自然なことであった。とりわけ、重篤な結核患者としての放哉は吉村にとって近しい存在であったろう。「放哉の日記、書簡を読むと、その心情があたかも自分のそれであるかのような不思議な思いであった」「少なくとも、この作品を書いている間、私は、放哉とともにあった」(「後記」『吉村昭自選作品集』第十巻、新潮社、一九九二)という言葉は、なんら誇張のないものであったように思われてならない。

また、『尾崎放哉全集』(井上三喜夫編、彌生書房、一九七二)が刊行され、放哉に関する資料にアクセスしやすい状況が生まれたことも吉村にとっては幸運であった。もっとも吉村が若き日にあれほど衝撃を受けた放哉について長年書かずにいたのは、放哉の享年をこえるまではその理解ができないだろうという自制心からであったが、少し見方を変えると、これは吉村が自らの文学的営為において参照するに足ると認識していた俳句を他に持たなかったということでもあろう。たとえば吉村は久保田万太郎の句を称賛しているが、それは俳句表現史から一線を画した位置から発せられる称賛であった。吉村は中村真一郎の『俳句のたのしみ』(新潮社、一九九〇)の一節を引いて次のように述べている。

戦後、桑原武夫氏が俳句を「第二芸術」だと論じ、それによって俳句作者たちは、俳句を「『第二芸術』の域から引きあげて、作者の人生観、世界観、社会観などの全体的表現の点で、現代詩や小説などに匹敵する役割を演じさせようと、血の流れるような努力をし、技法的にも現代の前衛詩である超現実主義までも吸収している」と書いている。(略) 
素人の俳句愛好家である私は、はなはだ時代遅れもいいところで、現代の俳人の句をまったく新しい観点から見なければならぬのだ、と、専門俳人からすれば、今さらなにを、と大笑いされるようなことを知ったのである。(略) 
中村氏は、万太郎の作風を「江戸風の発句の面影を残し」たもので、「それが極度の技巧の冴えを見せ、その方向では行くところまで行っているという印象を与える」と記している。そして、氏は、万太郎の句が「文学と人生との、あるいは表現と魂との関係において、素人だという嬉しい印象を与えてくれるのである」とも書いている。 
私も嬉しくなった。私が万太郎の句を好きなのは万太郎の句が素人のものであり、それだからこそ素人である私にもよく理解できるのだ、と。

吉村はあくまで「素人の俳句愛好家」としてのスタンスをとっていた。これはむろん、謙遜交じりの自負であろう。この「素人の俳句愛好家」という自意識には、戦後俳句史への関心の薄さを装うことでそれを容易には認めまいとする吉村の批評精神がうかがわれる。あるいはまた、これをもう少し深読みするならば、『現代俳句集』的な史観への愛着の発露とみることもできるかもしれない。『現代俳句集』における万太郎らの扱いについては橋本直が次のように指摘している。

俳句の配列は、まず旧派宗匠俳人が17人。次に「日本」「ホトトギス」関係俳人が85人。非ホトトギスの有季定型(「懸葵」「石楠」の大須賀乙字や臼田亜浪ら)10人。そして新傾向や自由律(「三昧」「層雲」「海紅」の碧梧桐、井泉水、一碧楼ら)33人。「秋声会」(巌谷小波、伊藤松宇ら)21人。文人俳人4人(万太郎、龍之介、三汀、犀星)となっている(ちなみに女性は4人しかでてこない)。俳壇史的流れに沿って冒頭には旧派宗匠がおいてあるものの、後はあくまで有季定型派が先で無季自由律派は後まわし。さらに秋声会や小説家のような趣味派?は最後にまわされてしまっている。いたって「ホトトギス」中心的で素っ気ない。(「週刊俳句」2007年8月12日

橋本は同書の人選について「おそらくは各有力俳人の推薦を編集部で集め、虚子が正否を決めたのではないかと思われる」とも述べているが、こうした編集が若き日の吉村の目にどのように映ったのかは定かではない。ただ、笹沢は吉村が「死んだらこの現代俳句集を棺桶に入れて欲しいと頼」んだとも記している。「無季自由律派」や万太郎を俳壇の主流からそれたものであることを示唆する『現代俳句集』の編集方針と、同書を愛読し後に「素人の俳句愛好家」を自称する吉村が放哉や万太郎に執着したこととの間に何らかの関係を見出すのは、強引に過ぎるだろうか。

さて、改めて「海も暮れきる」に話を戻そう。笹沢は、「放哉の最晩年を、吉村昭はまるで自身の自伝を書くように描いている」「おそらく放哉を書くことは、吉村昭自身を書くことでもあったのだろう」と述べているが、放哉と自身とを重ねあわせたかのような記述はたしかに本作に見られる。

かれは、着物の裾を開き、股の間に体温計をさしこんでみた。が、腿も骨が浮き出ていて両腿に力を入れてみても、体温計の先端がふとんの上に脱け落ちてしまった。かれは、疲れきって検温をあきらめた。体が痩せこけて体温計すらはさめぬようになっていることに、暗い気分になった。体重をはかるすべはないが、もしかすると、九貫匁程度しかないのかも知れなかった。 
かれは、旅人に体温計をはさめぬので検温できない旨をしたためた手紙を書き送った。そして、句帳に、 
肉がやせて来る太い骨である 
と、書きとめた。

吉村はこの句を冒頭に据えたエッセイ「病床での実感」(『炎天』所収)で、結核で入院していた当時を次のようにふりかえっている。

絶対安静を守って寝たきりの生活をつづけていたが、病状の悪化に伴って体に変化が起こった。掌をかざしてみると、皮膚が極度に薄くなったらしく、動、静脈の毛細血管がきれいに浮き出て、交通網図そっくりにみえた。(略)喀血してから半年後に手術のため入院して体重を測(ママ)ってみると、六十キロの体重が二十五キロも減っているのを知った。(略)

この句は、私の実感そのものであった。なんという太い骨かと、突き出た鎖骨にふれながら思ったりした。

 ここで吉村が三五キロに落ちた自身の姿を描いていることと、「九貫匁」すなわち約三四キロ程度にまで落ちたかもしれない体重を危惧する放哉の姿を描いていることとを、たんなる偶然の一致といってすませてよいものか。別のエッセイ(前掲「私の好きな句」)でも吉村は「かれの句に表現されている肉体の衰えと迫る死を見つめる心情は、そのまま私自身のものであった」と述べたうえで「肉がやせて来る太い骨である」を挙げ、「この句が実感として感じられた」と語っている。結核で生死の境をさまよっていた当時の吉村自身の体重と放哉のそれとが一致して書かれていることは偶然ではあるまい。吉村にとって、「尾崎放哉」を書くということは、たとえば両者の体重を一致させつつ書いていくということなのではなかったか。両者の体重が実際に同じであったとか違っていたとかいうことは問題ではない。これを自己演出だというなら、これほど命懸けの自己演出がほかにあるものか。「少なくとも、この作品を書いている間、私は、放哉とともにあった」という吉村の言葉を僕が信用するのは、僕には放哉を書く吉村が自らにとっての書く行為の意味を僕たちの前に端然と提示しているように思われるからである。

いわば、吉村にとって「尾崎放哉」を書くということはすなわち「吉村昭」を書くことであった―そう思うとき、吉村の遺書が放哉の死のありようとどこか一致することも肯ける。たとえば笹沢は吉村の妻である津村節子の作品(「紅梅」)をもとに、吉村昭のしたためたという遺書の内容を紹介している。そこには「家族葬とすることは、死顔を第三者に見せぬためである」という一節があるが、一方で吉村は、「海も暮れきる」において肉親に死顔をさらすことを拒みながらも妻の馨の写真を手許に置くことを欲する放哉の最晩年の姿を描いている。また、死の少し前、食事もろくにとれなくなり厠に行くこともできなくなった放哉が小沢武二から送られた煙草をのむ姿は、死の前日にビールとコーヒーを所望する吉村の姿と重なって見える。

かれは、早速、マッチで煙草に火を点じた。一口吸ったかれは、うまい、と思わずつぶやいた。高価な英国製煙草が、これほどの味であったのか。(略)食欲も失われたかれには、煙草の味と香りが得がたい貴重なものに感じられた。(「海も暮れきる」) 
そして死を把握した三十日の朝、吉村昭は人生の別れに、まずビールを所望する。津村節子が吸呑みに入れて渡すと、一口飲んで「ああ、うまい」と言う。しばらくして「コーヒー」と言ったので渡すと旨そうに飲んだ。以後、すべてを断った。(『評伝 吉村昭』)

ところで、死に際といえば、『評伝 吉村昭』の巻末で斎藤洋子が「本書は笹沢の絶筆、遺作になりました」と記している。笹沢は食道癌に冒されて入院する直前に本作の第一稿を書きあげ、その後のわずかな退院期間の間に推敲を重ね、脱稿したのだという。一方、本作において笹沢は、遺作となった「死顔」の果てしない推敲を続ける吉村の最期の姿を描いている。「死顔」の推敲を死ぬまで続けた吉村と、その吉村のありようを書き終えてまもなく死を迎えた笹沢―両者の執筆活動への執念もまた、偶然の一致ではあるまい。





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