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【ピックアップ】

2014年5月30日金曜日

 【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その十七~ 網野月を

(朝日俳壇平成26年5月26日から)

◆母の日や母に会はざる年重ね (芦屋市)酒井湧水

稲畑汀子の選である。作者にとっては、上五の「母の日」の提示によって母の日に特に思いおこされることはやはり「母」のことであった。「会はざる」は単純否定である。会わないのでもなく会えないのでもない。行動として会わないのでもなく、気持ちがあっても何かの都合で不可能なことを表してもいない。この「会はざる」によって既に他界した母に対して会っていないことの客観的表現になっている。作者の意志の反映はないのである。そうして会わないでいるうちに時を経てしまったという意味での「年重ね」である。上五の切れ字によって亡母へ話しかける作者の母恋しの心が詠まれているように感じる。

◆幸せになろうとしてた春だった (横浜市)神野志季三江

長谷川櫂の選である。たぶん作者の現況は幸せなのでありましょう。筆者はそう想像する。そうしていま幸せになってみると、嘗て「幸せになろうとしていた」頃の己の若さや至らなさが、恥ずかしくもあり眩しくもあるのだ。「春」は季節の春であるとともに人生の春を投影している。「春」は日本においては卒業や転勤、入学や入社のシーズンであり人生の春における節目がある時季である。特に若い世代にとっては決まって春に別れと出会いが訪れる。

俳句は、よく現在の景を詠むものである、と言われる。「だった」のような過去形は使用しずらいものである。と同時にうっかり使用すると注意されたりすることもあるようだ。掲句の場合の「だった」は、現在から過去のある時点を回顧してのものであって、現在の想いが主眼になっていることから、俳句は現在の景を詠むものであるとする先生方からも許されるのではないかと考える。今年の春を迎えて幾多の過去の春春が思い起こされているのである。





【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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