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2014年3月28日金曜日

【俳句時評】 「村越化石」をめぐる困難について /  外山一機

昨年刊行された保坂健二朗監修『アール・ブリュット アート 日本』(平凡社、二〇一三)において、美術史家の亀井若菜はアール・ブリュットの語りがたさについて次のように述べている。

アール・ブリュットの造形について、もっと語られるべきだとは思うものの、それを「美術」の言葉―「美術」に組み込まれている価値観、歴史観、作品感をも含む言葉―によって語ったり、「美術史」的に研究したりすることは、大変難しいのではないかと思っている。(略)それは、アール・ブリュットが、正規の美術教育を受けていない人の造形と定義されたものであり、誰かに見られることを想定せず、完成を目指さず、息をするかのように作られる、とされるものだからである。何かを参照することなく、自分一人の世界で、完成を目指さずに制作された作品を、歴史的社会的に位置づけ意味づけることは難しい。アール・ブリュットはそもそも、「美術史のどこにも位置しない」ものとして発掘されてきたものなのである。(「『他者』の造形を『語る』ということ」)
翻って、俳句におけるアール・ブリュットとはどういうものだろうと考えていくと、そもそもこのアール・ブリュットなる概念を俳句に適用することに無理があることに気づく。というのも、アール・ブリュットが「正規の」美術教育を受けていない者による造形を指すものであるのならば、その前提として「正規の」俳句教育というものがなければならないが、俳句における「正規の」教育という言葉の響きにどこか怪しげな印象を持つのは僕だけではあるまい。また美術教育において「正規の」という言葉がまかり通るためには、その教育が目指すべき「正規の」美術というものがあるはずだが、いったい、「正規の」俳句というものがあるのだろうか。「正規の」俳句などということをいえば、多くの人が眉をひそめるに違いない。そういえば、先日創刊された俳句誌『クプラス』における「いい俳句」についてのアンケートで、そもそも「いい俳句」などという言葉そのものに対する違和感を表明していた者がいたのは、俳句の制作という行為、あるいは読むという行為において、あるひとつの方向を肯定的なそれとして前提させる思考を危惧するというような、それはそれで実に正しい思考の結果であったように思う。

椹木野衣はこうした美術「史」を持ちえない日本の状況を「悪い場所」という言葉で語ったが、このような状況は俳句においても同様であろう。たとえば俳句を「文学」の言葉で語ろうとした子規について考えてみるならば、そもそも名付けえない何ものかについて、それを「文学」の言葉で語ろうとしたときに「俳句」という呼称をとりあえずそれに貸与しておいたということにこそ、子規の仕事の画期性があったように思われる。そしてこのようにしてそれを「俳句」という名で呼ぶことで、そのたびに僕たちは「悪い場所」としてのそれの性質を失念きたのではあるまいか。とすれば、子規以後に新傾向俳句が俳壇を席巻するなかで虚子が新傾向俳句という「文学」運動に対する「他者」としての自意識を表明したのは、「俳句」なるものが本来的に持っているこのような軋みが発現したものであったように思われる。

幾万の俳句人口があるといいながらも、その幾万の俳句表現を除外しごく一部の「優れた」俳句表現だけを安易に語ることによって「俳句」についての認識の枠組みを形成していくような俳句批評のありかたに僕は疑問を感じる。なぜなら、それを「俳句」という名で呼ぶことによってこの軋みを忘却している僕たちの至らなさにあまりに無自覚であると思うからである。

とはいえ、この軋みは少し目を凝らせば至るところに見つけることができる。先日亡くなった村越化石をはじめ、ハンセン病患者による俳句が持っているある種のとりつき難さもまたここに起因するものであるように思われる。たとえば、化石を含む栗生楽泉園俳句会の句集『火山翳』(近藤書店、一九五五)が編まれたとき、その帯には「四十四人の無名作家療園句集」と記されていたが、この「無名作家」という呼称はまさに化石らハンセン病患者の俳句が「俳句」の内なる他者として発見されたことを意味しているだろう。話を再び「アール・ブリュット」に戻すと、主として精神病患者や知的障害者によるアートを指す「アール・ブリュット」について、亀井は次のようにも述べている。

「美術」には、自己の外部にあるプリミティヴな未知の造形に対して興味を示し、それを自己の内部に取り込み消化し搾取してきた歴史がある。(略)人にとって、自分とは違う異質の「他者」は、様々な局面に存在する。西洋にとっての東洋、白人にとっての非白人、男性にとっての女性、異性愛者にとっての同性愛者、など。それと同じように、健常者にとっては、精神病者や知的障害者は「他者」となる。(略)
「外部」をなくそうとするとは、「他者」の「他者性」を認めず、自己の内部に取り込んでしまうということだろう。外部にあるものを「アール・ブリュット」、というジャンルを立てて括る(「他者」のものとして括る)ことを行うのならば、それを単純に「わかった」と思ってはいけないのではないか。「他者」の「わからなさ」を尊重し大切にし、最大限の想像力を発揮してわかろうと努力し、言葉を尽くして語っていくことが求められるのだと思う。(亀井若菜、前掲文)
いわゆる「療園俳句」と「アール・ブリュット」とは異なるものだが、「療園俳句」の評価にはえてしてその作り手の境涯の特異性がつきまとう。「療園俳句」が他者のそれとして発見された所以である。そして、「『美術史のどこにも位置しない』ものとして発掘されてきた」のが「アール・ブリュット」であるならば、「療園俳句」もまた、俳句史の文脈を外れたところに発見されたのではなかったか。実際、「療園俳句」の発見は俳句史よりも一九五〇年代における生活記録ブームから説明したほうが理にかなっているように思う。また、その「ブリュット」(=生な、手付かずな)という呼称が示しているように、「他者」としてまなざされる「アール・ブリュット」は同時にプリミティヴな性質への期待を引き寄せるが、そういえばこの『火山翳』の帯文には、石田波郷による次の言葉が記されてもいた。

『火山翳』四十四人の俳句は、凡ての癩文学がさうであるやうに、ライの宿業を詠んで愴然たるものがあるが、特に茲には「最後の癩者たらむ」とする覚悟が、世を隔てた生の哀歌や人間の触合ひに浸透し、環境の自然風物までも光被して、読む者の心に、厳粛でありながら平安な光明感をもたらす。同時に俳句表現の不思議な力にも人は驚くであらう。

このような賛辞は他の「療園句集」にも見ることができる。たとえば国立療養所多摩全生園の俳句部が制作した合同句集『心開眼』(杉浦強編、全生園多摩盲人会俳句部、一九七四)には、指導者である杉浦強の次のような言葉が見られる。

ふりかえって多摩盲人会俳句部の作句態度を見ると、そこには厳しい自然との対決も陶酔もない。そこにあるのは、ただ「自己との対決」だけである。病苦を超越した人として、また人として誰もが探求しなければならない人間性の再発見に重点を絞っていることである。(略)多くの人たちが日々人間性を喪失している今日、最も人間らしい本来の姿に帰ろうとしている兄弟たちは一面から見れば幸せだと思う。 
全生園の兄弟には失礼だが、私はいつも囲いの中を「地上の楽園」と呼んでいる。彼らに肉体的な再起、社会復帰の問題が山積みされていることは確かだが、隔離されているといえ、現代の巨怪なシステムに押し流されない素朴さ、単純さ、精神の純化を見るのである。「俳句は祈りの結晶」との合言葉を生むまでに至った敬虔な態度に心ひかれるのである。

化石は、周知のとおりハンセン病を患ってきた俳人であった。今後、化石についての何らかの言及がなされる際にも、この「周知の」事実は幾度となく語られることと思う。そうした語りは、化石の俳句表現にいわば文脈としてのハンセン病を引き寄せるものであって、見方を変えれば、それは文脈から独立した批評からはほど遠いものとなる。あくまでも俳句表現そのものの批評にとどまるという自制的な精神に俳句批評の倫理があるとすれば、このような批評はいかがわしいものであろう。それはそれでひとつのありかたとして真っ当なのだろうけれど、しかしながら、たしかに自制的ではあるものの、その実どこか高踏的な倫理に基づくそうした批評は、そもそも何のために書かれるのだろうか。たしかに、化石の代表句「除夜の湯に肌触れあへり生くるべし」について、特効薬であるプロミンの開発によって生きながらえることが可能になったハンセン病患者としての化石の境涯を引き寄せずに読むことは可能であろう。実際、そのような文脈はこの句自体から読みとることはできない。だから、提示された俳句表現の外部にある諸事情を批評に持ち込むことはいかにもお門違いであるかのように見える。けれど、そのようないかがわしさから切り離された読みというものは、本当にできるものなのだろうか。少なくとも、僕にはそのような読みかたをする自信がないし、さらにいえば、そのようないかがわしい読みにこそ俳句批評の倫理を見出すことができるとも思うのである。化石の句が僕たちにもたらすある種の読み難さは、読み手がこの二つの倫理に引き裂かれつつ読むことになるがゆえの困難ではなかろうか。

化石は大野林火の主宰する「浜」に入会した当初ハンセン病患者であるということを隠していたという。ならば、後に告白した自らの境遇とその俳句表現とが林火の次のような評価を引き寄せたことについて、いったい、僕たちはどう考えたらよいのだろうか。

生命の危機感に病者ほど敏感なもののないのはいうまでもない。また、その危機感が幾多の名作を生ましめたことも事実だ。しかしその多くは死と直面した声、死を凝視した声である。そこから離れたときのよろこびや、今日一日を生き得たよろこびから詠ったものは乏しい。病者の句は前者に終ることが多い。したがって死から遠ざかるとともに虚脱感に陥入(ママ)り、精神の空白状態をつづけるのが常だ。死から離れてゆくよろこび、今日一日を生き得たよろこびへの転換が示されないのだ。
化石の句をすがすがしくしているのは多くの病者の句に欠けているそれが勁く経て糸となって貫いているからであろう。生命の尊厳への認識がその底に清冽に流れているからであろう。(「作家と『場』(一)村越化石」『浜』一九六〇・二,三)


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