朝日俳壇(2014年3月10日朝日新聞)から
◆梅咲けば古き村とぞ思ひける (福津市)松崎佐
長谷川櫂の選である。稲畑汀子も一席に抜いている。句の形状はオーソドックスである。上五の「ば」は仮定・条件の「ば」というよりも時間の経過を示す「ば」であろう。当然、中七の内容は、梅が咲かなくとも一年中そうなのであるが、梅が咲くと座五の「思ひ」が強くなるということである。中七の「古き」と句の形状のオーソドックスさがピタリと合っていて、形と心が一致している。がオーソドックスであることから古めかしさを感じるのは筆者だけであろうか。文語表現の格調の高さもあるが、現在では文語表現でも、また和歌や俳句以外に、一般ではほとんど使用しない「けり」(掲句のばあいは連体形の「ける」になっている)は、取って付けたように読めてしまう。多分選者は、多くの経験から「けり」にアレルギーを感じないだけの修練を積んでおられるのだろう。
そもそも掲句の初読で感じるのは、係助詞「ぞ」(掲句の場合は「とぞ」のかたちになっている)と座五の「・・ける」(助動詞「けり」の連体形)が係り結びになっているところである。所謂「係り結びの法則」だ。「とぞ」は「・・ということなのだ」の意であり、「古くからの歴史を持つ村なのだ、と思うことだなあ」と「思ふ」ことに感動をまじえている。係り結びの法則に熟達することは句作のテクニックを向上させる手段かもしれないが、実際に日常語としては使用しないものであるだけに矢鱈には使用できない不自由さもあるように考える。
梅は菅原道真にまつわる話にもあるように、当時は大陸からもたらされた高度な文化の象徴的存在でる。庭木として植えられたであろう梅の古木は、そのまま村の古い歴史と文化の集積を回想させている。季語としての「梅」は、「桃」が実を指示するのに対して、咲いた花を指示している。とすれば上五の「咲けば」は重複であり、咲いたこともしくは梅が咲き出すことの強調である。強調の度合いが大きいと句意の中心が中七座五であることと競合してしまうのではないだろうか。上五は「白梅や」くらいにして切れを作った方が良いのではないかと愚考する。
【執筆者紹介】
- 網野月を(あみの・つきを)
1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。
成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。
2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。
現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。
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