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2014年2月14日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」⑤ / 筑紫磐井

⑤吉田利徳の風景

私が創刊早々の「沖」に入ったのは40年前の昭和47年9月、じっさい作品が掲載されたのは11月号からである。正木ゆう子はその約1年後、48年に初投句している。当時の我々の目に映じたのは、主宰である能村登四郎や主要同人の作品、巻頭作品もさることながら、その前後(47年10月に)発表された第2回俳句コンクール(沖では毎年作品を募集していた)の作品であった(正木ゆう子は入会前だが兄・正木浩一からこの時の作品を読まされていると思われる)。それも入選作品(この時、鈴木鷹夫、十時海彦らが入選していた)ではなく、佳作に入った次のような作品であった。

    羅      吉田利徳 
明易き篁いそぐ訃音かな 
蛇捕りが青き樒の山とほる 
よこたへて梯子繕ふ夏の暮 
濃あぢさゐ母はこまかき布を継ぐ 
羽抜鶏忘れられゐて羽ひらく 
あやまちに似て空蝉の草つかむ

「沖」が能村登四郎の志向に沿って、心象的な作風の俳句が多かったものの、ここまで徹底した心象風景は類を見なかった。有季定型を守ったから、季節の風物は存在したにもかかわらず、その巧緻な言葉の斡旋は実体をかき消し、かの世を覗いているような風景が続くのである。

やがて多くの「沖」の作家たちは、擬人法やら象徴法を用いるようになる。なかなか肉体を切り捨てると言うことは難しかったからである。そうした中でストイックなまでにその姿勢を守り通していたのである。だから吉田利徳は、地方にいて姿を現わさないと言うことと併せて、その作風から幻の俳人として語られることが多かった。じっさい、「沖」には登四郎以外に、福永耕二、鈴木鷹夫、今瀬剛一、坂巻純子などの伸び盛りの作家がいたにもかかわらず、正木ゆう子、正木浩一、十時海彦、大関靖博などの若手が憧れている作家は吉田であったのである。

   *     *

吉田の華々しい登場を再度見るのは一年後の沖創刊3周年記念作品の発表であった。昭和48年10月号に入選第三席となって登場している。

   遠流     吉田利徳 
浄瑠璃や母はうすもの着て泣けり 
みごもりの水母漂ふ旅は憂し 
炎天を刃物となりて水の先 
羽抜鶏墓域のどこかいつも見ゆ 
まくなぎや狂ひし者らあつめられ 
亡き父の母とつれだつ螢籠 
母死ぬ日待つ藍染の甚平着る 
日ぐれては遠流のごとし自然藷掘 
氷塊に映りゐしものみな消ゆる

「浄瑠璃」の句は絶唱である。その後の吉田を代表する句の一つとなっている。当時「沖」で流行っていたテーマ俳句に似ているが、厳密な意味でのテーマは設定されていない。心象性は変わらないから、むしろこうした心象世界に住んでいて、日常詠として詠まれていると言った方がよいであろうか。

 1位入選こそ逸したものの入選したわけであるから、吉田の本望は達せられたと言うべきであろうか。後々聞くと、「沖」入会直後の第一回コンクール(昭和46年)にも応募して佳作となっているから、吉田は沖入会後その作風に馴染むためこの応募作品の機会を十分に利用したということになる。

 しかし、吉田のこうした作風は別にそうした修練を積んでなったものではなかったようである。当時私は知るよしもなかったが、後年その初期作品『地蔵』にこんな作品が載っている。
炎天の柵あるかぎり柵に沿ふ

遠ざかる白帆の生涯も雪ならむ
十代の作品である。「沖」入会直後の作品と本質は異ならない。吉田の能村登四郎選への投句、沖コンクールへの投稿は、自らの作風が沖にどれほど受け入れられるものかの確認であって、自らを曲げてあたらしい人気有る俳句雑誌へ迎合しようとするものではなかった。だからこそ若い作家たちに抜群の人気を誇り得たのであろう。

 そんな吉田が、我々二十代作家とどのように共存し得たか。後年、正木ゆう子はこんなことをいっている。至極共感する文だ。


徳島に吉田汀史あり。三十年前、その名前は「沖二十代の会」の若者たちの憧れだった。三十年後の今、吉田汀史は、私たちの誇りである。」(平成十九年刊『海市』帯文より)


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