【俳句新空間参加の皆様への告知】

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2013年9月6日金曜日

第36 号 (2013.09.06 .) あとがき

北川美美

各地で激しい雨による被害がでています。御見舞申し上げます。

【俳句作品】として「秋興帖」がはじまりました。また<現代風帖>として中村猛虎さん、ふけとしこさんに御寄稿いただきました。

豈同人である恩田侑布子さんの『余白の祭』(深夜叢書)が第23回 Bunkamuraドゥマゴ 文学賞を受賞されました。おめでとうございます!! 急遽筑紫相談役の俳句四季『俳壇観測』を転載いたしました。

このドゥマゴ賞、選考方法は、『毎年「ひとりの選考委員」によって選ばれ、選考委員の任期は1年間。』となっている賞で、恩田さんの受賞は松本健一氏(歴史家)の選考によります。対象は小説、評論、戯曲、詩ですが、このフランスの香りのする賞に俳句評論集が選ばれたことに、とても驚きました。今後文学、学術の世界で俳句評論という分野が注目される可能性が大いにあるのかと思います。まさに俳句界の快挙です。

『余白の祭』は、俳句という形式を纏った美学について述べられている、という感想を持ちました。俳句評論というと、とても難解な文章で難解に論じる、という印象があるのですが、恩田さんの論評は、俳句の美的感覚を女性らしい表現で紐解いていくような気がします。美という感覚が俳句を通して伝わってきます。恩田さんの文章の、明解さ、女性らしさには、逆の真理を突く落とし穴があるのかもしれません。それが恩田マジックなのかもしれません。恩田さんのこの『余白の祭』がより多くの方に読まれ、翻訳され海外でも広く読まれることを切望します。おめでとうございます!!





筑紫磐井

○関悦史氏が、超多忙の中を芝不器男俳句新人賞応募を勧める一文を書いてくれた。いままで、多くの人(私や高山れおなも含め)が芝不器男賞を外から書いていたが、内側から書いてくれた貴重な文章である。特に、芝不器男俳句新人賞を踏み台として、確実に成長を果たしたその秘密もよく伺えるであろう。「作品はワープロ専用機で打ち込み、3.5インチフロッピーを封筒に入れて、それを当時下宿していた東十条の郵便局から締切間際に郵送した」という一節を読むと、大本義幸が語る、攝津幸彦が「俳句研究」の50句競作に応募するためにアパートの窓から作品を投げてよこしたという伝説のエピソードを思い出し、いつの時代も変わらない作者魂を見る思いがするのである。

○先週の土曜日、8月31日は「陸」(中村和弘主宰)の記念大会の日だった。「陸」創刊40周年と併せて、創刊者の田川飛旅子の生誕100年を祝うというものであった。創刊**周年は珍しくないが、生誕100年を祝う会はあまり経験したことがない。

そういえば、田川飛旅子は戦後の社会性俳句から前衛俳句の時代にかけて、しばしば評論や座談会で活躍していた。社会性俳句は昭和28年11月の「俳句」の特集として「『俳句と社会性』の吟味」を組んでいたが、この時5編の評論が掲載されていた、沢木欣一「草田男の場合」・能村登四郎「俳句の非社会性」・原子公平「狭い視野の中から」・田川飛旅子「実作を中心として」・細谷源二「俳句の社会性の吟味」だった。次の前衛俳句時代のこうした特集を見て行くと、ここでも原子公平、田川飛旅子がしばしば登場する。金子兜太や古沢太穂が自ら実践するアクターであったとすれば、それを調停し、解説するという役割を負っていたのがこの二人ではないかと思う。こうした幾つかの役割分担をしながら、戦後俳句が形成されて行くのだ。これは、いま、「BLOG俳句空間」で特集している<戦後俳句を読む>のまさに狙い所でもあるのだ。「陸」の記念大会ではそんな感想を述べてみたのだが、後日、中村さんから電話がかかってきて、是非戦後俳句の見直しを進めて欲しいと激励された。師系を大事にすると言うことは、師匠の作品を顕彰すると言うだけではなくて、その人がねらったものが何であり、どのような思想を紡いだのかを再体験することではないかと思っている。「BLOG俳句空間」がどれほどの役割を果たせるかは分からないが、こうした期待には応えて行きたい。

       *      *

「陸」の記念大会では、もう一つ、私の兄貴の世代に当たる、団塊以前の世代のことについても触れた。彼らは65歳以後となるわけだが、これらの人を「老人」と括ってしまうことはいかがなものであろうか。65歳以上を、初・中・後とわければ、「初」は青春・「中」は壮年・「後」になってやっと本当の老年となるのであろう。中村氏や坪内稔典氏、高野ムツオ氏などは血気盛んな老人青春時代で、社会的なしがらみ(例えば会社勤め・学校勤めなど)から解放されて、好き勝手の出来る暴走老人と言ってよいはずだ。俳壇を攪乱するよう大いに期待したい、といったのだがなかなか評判がよろしかった。

実はこれには裏の話があり、老人もそうであれば若手も同様であり、若手も初・中・後とわければ、「初」は本当の青春・「中」は壮年・「後」は老年となるのであろう。30代だからと行って、皆が若々しいわけではない。就職し、結婚し、子供が生まれ、そこそこ出世すると人間は保守的になる。家庭では実権を獲得した配偶者が横暴をふるい、職場では半沢直樹に出てくるようないやな上司が滅茶苦茶を言う(かといって自分は半沢直樹になれるわけでもなし、倍返しも出来ず、土下座することになるのであろう)環境では、天衣無縫な老人の青春時代のような自由は望むべくもない。人生の反面を述べたものだが、ただしこの話の方はあまり評判がよろしくはなかった。

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