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2013年4月19日金曜日

戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟

【十一】津田清子の発見・昭和二十五年「遠星集」入選作

1)第一回天狼賞 薄鵜城

ぎつしりと霜柱物を言はんとす  (薄 鵜城) 
東京寒し夜間飛行の音止まず 
癈墟かなしなほ降る雪にうづもれず 
天金より指さし入れて爐火搔けり 
セル著て佇つ滾ちゐるもの渦のみかは 
臥してすぐやはらかさ増す苜蓿 
犬吠えに吠ゆる避暑より帰りしや 
積亂雲生まれて間なし犬吠ゆる 
人泳ぐ岐阜も颱風圏なるに 
花火のみち見れば若さはとゞめがたし(天狼・第二巻第一號・昭和二六年一月號)

天狼賞はかねての計画であつたが、その第一回の受賞作品を電撃的に發表した。昭和二十四年度の遠星集より抽いて賞するものである。(山口誓子 編集後記) 

2) 第二回 津田清子、天狼賞受賞作品

   第二回天狼賞作品  奈良  津田清子
(第三巻第一號 昭和二十六年一月號掲載) 
礼拜に落葉踏む音遅れて着く 
鶏にも夜が長かりしよ餌つかみてやる 
北風に唄奪られねば土工よし(註。原句では、「奪(と)られ」とルビ) 
雪激し何の夾雑物もなし 
聖歌中勇気もて爐の灰落す 
讃美歌の余韻咳なほ堪へてをり 
火星に異変あるとも餅を食べて寝る 
雪積る中滑らかな水車の軸 
夏潮や柵正しくて画にならず 
うろこ雲うろこ粗しや眠り足る

第二回の天狼賞受賞者が決定した。前年度に於ける二句以上の入選作より精選したものである。(山口誓子 編集後記。天狼題四巻第一號)

「天狼」第三巻第一号(昭和二十六年 一月号)には、表表紙裏側に、第二回天狼賞の受賞者津田清子の十句が書かれてある。(前回抜書した遠星集入選作からさらに山口誓子が選んだもの)

3) 清子句についての誓子評(遠星集《選後獨斷》より)

これについては、前年度誓子の《選後獨斷》で、批評がある。
(以下清子の句と誓子の批評の引用は総べて昭和年二五年の天狼誌より抜粋。)

☆  礼拜に落葉ふむ音遅れて着く  清子    (一月號3人目三句)  

(略)作者はその落葉を踏む跫音を以て、刻に遅れてきた一信者を詩化した。時間のことは、教会でも喧しいさうだが、遅刻からはかういふ詩も生れるのである。(誓子《選後獨斷》一月號)

鷄(とり)にも夜が長かりしよ餌つかみてやる 清子 (二月號)

(略) 秋の夜は長い。飽き飽きする長さである。起きて鶏小屋に行つてみると、鶏も起きてそこにゐる。さだめし鶏たちにとつてもさうであらう。禽獣のことゆゑ、その長さはどうにもならぬ長さであつたろう。憐憫の情が強く湧く。作者は餌箱から餌を手掴みにして、それを鷄にやるのである。「つかみて」は作者の愛のあらはれに他ならぬ。(誓子《選後獨斷》二月號)

北風に唄奪られねば土工よし 清子 (三月號)

(略)―労働は自然に唄を誘ひ出し、その唄がまた労働を活気付ける。

この女性作家は、唄とともに働いてゐる土工を微笑ましい、いゝ職業だと思つて見る。
しかし、北風はその唄を土工から吹きさらひ、奪ひ去る。遠慮も会釈もない。うたふ唄を絶えず奪われてゐる土工は、実にみじめである。そのときの土工はたいしてもいい職業とは思へない。
この女性作家は、それを引つくりかへして、「北風に唄奪られねば土工よし」と詠つた。美事な手際である。
土工をこのやうに詠ふことは階級闘争の立場からは、非難攻撃されるかも知れない。
しかし、これは作者の人間として偽はることのできぬ実感である。このやうに実感を活かす場が俳句なのだ。(誓子《選後獨斷》・三月號) 

この句の読みどころとして、誓子は「引つくりかへ」したことを、「美事な手際」だと関心する。また、女性作家には珍しい、労働者の生態をとらへていること。階級闘争の立場からではなく、実感を生かすことが俳句せある、ことを指摘している。

雪激し何の夾雑物もなし 清子 (巻頭句三句のうち。四月號)
(略)雪片は同じ速さで激しく地上に向つて急ぐ。その激しさの故に、雪片は白く美しく純粋さを極めるといふものである。「作者」これを「なんの夾雑物もなし」と云ふ表現で以てあらはそうとした。
この表現は荒々しいにちがひないが、雪をその質に於て捉へてゐるから、單にしろいとか、美しいとか云つた場合よりも幾層倍も純粋な感じを受ける。決して抽象に終つてはゐないのである。言葉の摩訶不思議とはこのこと。
雪そのものは天の夾雑物ではないのか。(略)それを夾雑物と感じる限り、この詩は生れない。(誓子《選後獨斷》四月號、註・下線は堀本吟)

この作品の読み方には、山口誓子の、俳句を一個の詩空間として捉えようとする視点と、清子の物の見方に、呼応している。その引き込まれ方が率直に吐露されている。表現が「荒々しい」が「雪をその質に於て捉へてゐる」というのは、雪に関する普通の描写ではないことと、一切の説明を省いて雪の降り方を「激し」といっているところである。

また、「何の夾雑物もなし」というのは、これだけ天をうずめきって降ってくる雪の反語的なまた抽象的な形容だが、「決して抽象に終つてはゐないのである。」かえってリアリティががある。「言葉の摩訶不思議とはこのこと。」誓子の中には、現実の描写を超えてあるいは直観やイメージとは違う、言語表現としての現実の活写を求める意向がある。

☆  聖歌中勇気もて爐の灰落す 清子
(略)「勇気もて」と云つた為に、それを敢えてするのに非常な決意を要したことががわかつて面白い。聖なる歌に對し、それほどまでに憚つたのが面白い。その憚りは、やがて、 
讃美歌の余韻咳なほ堪へてをり  
にも現はれて、微妙な句を爲すに至つてゐる。(誓子《選後獨斷》四月號》


雪積る中滑らかな水車の軸  清子 (六月號)
(略)(ありふれた図を俳句にするためには表面を撫で回しただけではいけない。と誓子は書き)/この作者が爲したやうに喰い入らねばならぬのである。/降り積もつた雪の中、廻轉する水車、滑かな軸の廻轉、これがしづかなる雪の秩序の中で行はれてゐるのである。私にはその水車の軸がただの機械とは思へない。
(略)。(井伏鱒二の「つらら」という詩を引用。)
 
場所は
甚九郎方裏手の水車小屋
毎年冬になると
その水車の幅につららが張る
 
私には、この詩よりこの俳句に惹かれる。(誓子《選後獨斷》六月號》

というように、山口誓子は、清子の作句が、水車への観察の徹底していることと、それを「雪の秩序の中」していること、に及び、「ただの機械とは思へない。」と言わしめるまで作品として完成していることを述べる。井伏鱒二の詩がここにもちだされているのも興味深い。先の「虹二重」について、中村草田男や石田波郷の句を引き合いにして、津田清子という女性の俳人(まだ駆け出しである)の感覚が当時の詩の言葉としてあたらしいはけkんであり、井伏鱒二の詩に比べて、その韻文詩のつくり方が如何に象徴的な暗示に優れているかを指摘している。

☆  うろこ雲うろこ粗しや眠り足る 清子
 津田清子さん―晝間に一睡を貰つたのである。眠りは深かつた。疲労は回復した。頭の中はしびれるほど澄みきつてゐた。外に出て見ると秋晴で、天の高処を鱗雲が覆うてゐた。鱗雲はその一枚一枚が不思議なくらい粗く見えた。それは作者の目が頭と同じく澄み切つてゐることの証拠であつた。
「粗し」と云ふ選ばれた語は、その時の感覚を遺憾なくあらはしてゐる。
このやうなことが生理学の書に書かれてゐるかどうか、私は知らぬ。しかし、これは確かに詩に於ける生理学である。 (誓子 十二月號)

4)参考資料「天狼遠星集入選作品ー第三巻第一号から十二号」(昭和二十五年)

礼拜に落葉ふむ音遅れて着く      (一月號3人目三句)    
 
秋雨の洞を賛美歌もて盈たす
 
鷄(とり)にも夜が長かりしよ餌つかみてやる (二月號3人目二句) 
インテリが稲雀追ふ声短く 
北風に唄奪(と)られねば土工よし(三月號 二句) 
枯野にて追ひ縋りたき汽車の長さ 
雪はげし何の夾雑物もなし   (四月號 巻頭三句) 
聖歌中勇気もて炉の灰なおす 
讃美歌の餘韻咳なほ耐えてをり 
連翹やシヤツも下着も高く干す(五月號5人目三句)  
火星に異変あるとも餅食べて寢る 
炭焼くを業とし狭き額汚す 
雪積もる中なめらかな水車の軸(六月號3人目二句)  
 
暖炉漏る焔や禱る肩しづめ
 
春月が樹間にまどか放浪やむ (七月號14人目一句) 
クローバに二十四時間の昼夜過ぎる   
オール流す鹹き水とも思はずに奈良(八月號20人目一句) 
開衿の首清潔に受診待つ 
一指だに触れぬ恋緑陰を出る(九月號42人目一句) 
夏潮や柵正しくて画にならず 
冷房や手の高さにてドア汚る(十月號2人目三句)  
百姓の子にて水田の底ぬくし 
働きて憩ひて靑田ならざるなし 
父に匿れて泳ぐ流れの底冷たし(十一月號6人目二句) 
シミーズに伸びゆく手足不幸なるや 
下積みの聖書こおろぎ通ふ路 (十二月號3人目三句) 
うろこ雲うろこ粗しや眠り足る   
かなしみもち吾より触れし曼珠沙華

以上、昭和二十五年度の津田清子作については、その都度、山口誓子の的を射た読みどころが示されている。遠星集には、すでにかなりの実力者が登場しているが、そのなかで、津田清子が抜擢されたことは、清子自身のもつ才能と彼女のエネルギーを引き出したい、という誓子の期待が大きかったはずだ。清子のみずみずしい一句を読み解こうとする山口誓子の文の調子には、私が従来感じていた誓子像とはやや違う熱っぽさを認めなければならない。(この稿。以上。)

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