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2013年1月25日金曜日

赤尾兜子の一句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

烏賊の甲羅鉛のごと澄む女眼の岸   『虚像』

これはかなり難解。リズムは6-8-7と大幅に定型を外れている。イメージとしては明らか、難しい単語や言い回しはない。それでも難解と感じるのは何故だろう。尤もこの頃の兜子の俳句はほとんどがこのような「表現は明解、意味は難解」なものばかりであるが。

抑も中七(8字)の「澄む」の主体は烏賊の甲羅の方か女眼の岸の方か、どちらだろうか。それに鉛という金属の中でも最も清澄感から程遠いと思われる黒くて重い印象のものを、何故「澄む」の比喩として使ったのか。文脈からすれば例の波郷の「霜の墓抱き起こされしとき見たり」と同じで、上五(6字)の「烏賊の甲羅」で切れると見るのが普通だろう。従って澄んでいるのは「女眼の岸」の方だ。鉛の比喩は謂わば逆説ではないか。「眼」や目が澄むという表現はよくある。反対に濁った目というのも存在する。敢えて「鉛のように澄んでいる目」と不可解な表現にすることで一見鉛のように濁っているけれどこれでも澄んでいるのだと言いたかったのかもしれない。

さて、次は「女眼の岸」である。女と眼とは切れ目なしにつながっていると取った。女眼は文字通り女の眼であろう。女眼と言うからには男眼を意識しているのだ。最近はともかく、この当時で言えば男はほとんど泣かず、女はよく泣くという違い。女眼は優しく男眼は恐い、女眼は包み込み男眼は突き刺す、など色々と考えられる。

全体を通して意味を探ろうとするから難解に感ずるのだ。「烏賊の甲羅」「鉛のように濁ってはいるがそれでも澄んでいる眼」「女の眼のようにやさしく包み込む岸」これらのイメージを次々と思い浮かべつつ全体を覆う海辺の雰囲気を味わえばそれで足りる。


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