(2012年3月2日・9日)
●―1:近木圭之介の句―「老」を読むー/藤田踏青
失イツクシ。蝶残ル
平成6年の「層雲自由律2000年句集」(注①)所収の作品である。この年には圭之介は82歳になっており、既に老境に入っている。失ったものは何か、自己の人生に於けるものか、現存在としての眼前の状況か、それともこの世界そのものへの洞察か。色々と想像できるが、そこにはハイデッガーの「現存在」の存在構造としての時間性を認める事ができる。掲句の真ん中に置かれた句読点は、上句の時間性と下句の現存在を示すものであると共に、時間という一般的には「過去・現在・未来」という不可逆的方向性を持つという認識への切断をも意味していると考える。残った蝶は現存在であると共に未来をも示唆しており、更に失われた過去へも回帰してゆくものであるから。つまり、ハイデッガーの述べている「根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものである。また現在もそれ自体で生起するのではなく、『死へ臨む存在』としての我々が行動する(あるいはしない)時に立ち現われるものである。」(注②)という事に通じるものがある。その時間性に関する句をあげてみよう。
日付けのない暦背負って逃亡しようか 平成1年作 注③
月炎える 私未来図どうあろうと 平成3年作 注③
ひとり神の方を見ていたが 暗くなった 平成14年作
過去の破片に 居場所はなかった 平成16年作
取除くことは ここ数日の一行 平成17年作
そこに過去・現在・未来が均質的に続いてはいない。そして晩年に至る程、過去から遠ざかろうとすることも「老」に対応する方法論の一つかもしれない。それは「死へ臨む存在」への傾斜とそれによって作り出された空間へと集約されてゆくようだ。
生の裏に球体の小さな翳り 平成13年作
宙(そら) 一滴 平成16年作
ひとつ椅子に残る 存在 平成16年作
これら個としての存在論的なあり方と地球、宇宙という存在的なあり方との対比に無時間性も視る事ができよう。さらにこの様な思いは下記の詩の中で既に用意されてもいた。
「三秒あれば」抜 昭和27年作 注④
三秒あれば
コップの水を土に捨て
中に宇宙を入れることも
出来る
この詩はまさしく後年の句「宙 一滴」と対をなすものであろう。
最後に平成21年に97歳で没するまでの最晩年の句を掲げてみよう。
指先 一つの生 美もありそう (94歳) 平成18年作
己れの記憶の中で笑った (94歳) 平成18年作
己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ (95歳) 平成19年作
おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ (95歳) 平成19年作
ここに存在的なあり方ではない、存在論的なあり方が提示されているようにも思えるのだが。
注①「層雲自由律2000年句集」 合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊
注②「存在と時間」 マルテイン・ハイデッガー 岩波文庫、ちくま学芸文庫
注③「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会 平成16年刊
注④「近木圭之介詩抄」 私家版 昭和60年刊
●―2:稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦前編)/土肥あき子
引越して手勝手違ふ炭をつぐ 「春蘭」昭和14年2月号
掲句は昭和14年にA氏がきくのに与えた赤坂福吉町への転居の折りのものである。川が流れ、橋が掛かっていたという800坪の広さもさることながら、裏は九条家、東隣は黒田侯爵家という立地からもその財力がうかがわれる。
福吉町の地名の由来は、江戸時代このあたりは福岡藩黒田家、人吉藩相良家、結城藩水野家の屋敷があり、明治5年(1872)三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」が誕生した。当時、「福」と「吉」の文字が連なる縁起の良い町名ということで人々の間で評判になったといわれ、黒田侯爵家、九条家、一条家という大邸宅を抱えた土地となる。
南側の飲食店街では、きくのが引越す6年前の昭和8年(1933)2月、小林多喜二が芸妓屋で仲間を待っていたところを、特高に踏み込まれ20分に渡って逃げ回った路地がある。
一方、きくのが居を構えた北側は、大きな屋敷が点在する閑静な土地で、晩年きくのは当地を「緑地帯でまことによい環境だったので私は終焉の地を卜したつもりでいた」(『古日傘』「騒音地獄」)と振り返る。
「春蘭」同号には
開け違へはたと屏風につき當る
これは慣れない屋敷のなかで、うっかりこちらから開けてしまうと屏風の裏に出てしまうという、ちらっと舌を出すようなあどけない失敗や、隣家の威風堂々たる借景と思われる
お隣の雪吊が化粧部屋の外
なども並ぶ。
当時の写真を見ると、暖炉の洋間ではカウチで優雅にくつろぎ、見事な床の間のある和室では火鉢に凭れるきくのがいる。その顔は幸せと喜びに輝いているが、しかし、一般の新居撮影と異なる点は、その広すぎるほどの家のなかのどこでも、きくのがひとりで写っていることだろう。
掲句の「手勝手違ふ」とは、幸せが基調になる違いであることは間違いない。兄姉弟の6人兄弟と両親という家族で暮らしていた頃の暮らしや、折り合いが悪かった姑と同居していた元夫との生活を比較すべくもないが、炭を継ぐという俯く仕草のなかにふと孤独の影もよぎるのだ。
●―4:齋藤玄の句– 「老」を読む -/飯田冬眞
冬の日と余生の息とさしちがふ
昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。
個人差はあるのだろうが、男性にとって「老い」を実感するのは、容姿というよりも肉体の機能の衰えによるものが大きいのかもしれない。たとえば、それまで難なく上っていた駅の階段が途中で息を継がなければ上れなくなったり、それまで軽々と持ち上げていた鞄が急に重く感じたりすることが、男に「老い」を自覚させる契機になるようだ。そうした機能面の衰えを自覚した後に鏡などで筋肉の落ちた自身の肉体を視覚的に突きつけられたとき、ようやく「老い」は内面にまで浸透してゆく。
流氷を待ち風邪人となりゆけり 昭和47年作
老体を氷湖の道がつきぬける 昭和47年作
しんしんと肉の老いゆく稲光 昭和47年作
この年、齋藤玄は58歳。一、二句目は、石川桂郎とともに厳寒の網走を旅した折のもの。氷点下の白銀世界の中で〈風邪人〉となりながら流氷を待った男たちは、ようやく自身の肉体に「老い」が近づいていることを悟ったに違いない。だが、氷の上を走り来る風の冷たさを受け止めている〈老体〉はまだ感覚的なもので、視覚化されてはいない。
三句目は同年の秋の句。処女作以降六千句の句業を千六百句余りにまとめた第三句集『玄』を刊行した後の作。稲光の閃光に映し出された自身の肉体を目の当たりにしたとき、静かに進行している肉体の衰えを自覚したようだ。
枯るる森重ね重なりものわすれ 昭和48年作
若いうちから物忘れの多い人はいるだろうが、玄の場合は若年期より和洋の詩文を諳んじていたというから記憶力にかけてはかなり自信があったようだ。さりげない句ではあるのだが、〈枯るる森〉と〈ものわすれ〉の取り合わせに、そこはかとない「老い」の自覚を嗅ぎ取ることができる。
八ツ手散るままに晩年なしくづし 昭和49年作
残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉 昭和49年作
「老い」の意識が内面に浸透し尽すと次には「晩年」意識が首をもたげてくるようだ。八ツ手の花の散りざまから自身の晩年が〈なしくづし〉に進攻している哀しみが表れている。この年、胆のう炎を患い初めて入院生活を経験し、「晩年」および「残生」の意識が心中に深く刻み込まれてゆく。この年、60歳。
残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲 昭和50年作
晩年の不意に親しや秋の暮 昭和50年作
晩年へ来ては出でゆく秋の暮 昭和50年作
病床の石川桂郎を見舞う直前の作。「晩年」および「残生」の意識は、清澄な精神性とともにある種の「余裕」を玄にもたらしたことがわかる。それは自身の残生が〈おほよそ見ゆる〉ことができたためかもしれない。開き直りといっては悪いが、天の配剤なのだという自覚が芽生えてきたからこそ、老いの時間が〈不意に親し〉くなるのだろう。そうした〈晩年〉に対する余裕とは、自意識の放下によってもたらされたものかもしれない。それは〈鰯雲〉や〈秋の暮〉といった自身の力の及ばない時候や天文の季語に身を寄り添わせているところからも推察できる。
齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり 昭和50年作
晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな 昭和50年作
いまのいま余生に加ふ焚火跡 昭和51年作
昭和50年11月に30年余の刎頚の友であった石川桂郎に、51年1月に相馬遷子の長逝に相次いで遭い、「晩年」意識は「軽み」の姿を帯びてゆく。〈齢抱くごと〉の比喩が〈熟柿をすする〉作者のありようを内面とともに的確に描いており、微笑を誘う。少しでも力の加減を誤れば、〈熟柿〉は見る影もなく崩れ、甘い臭気とともに無残な果肉を周辺に撒き散らす。「老い」とはまさにそのようなものなのだろう。
冬の日と余生の息とさしちがふ 昭和52年作
「晩年」意識は畏友たちとの長逝という訣別を経て、「余生」へと変化してゆく。掲句は前立腺手術の入院生活から解放されて、しばしの安息を味わっていた頃の句。冬のある日、自らが吐いた白い息が自分の顔を包んだのだろう。玄の住む北国でなくとも冬の日常風景としてはごく当たり前のことである。それを〈余生の息とさしちがふ〉としたところが、非凡である。〈さしちがふ〉の措辞に齋藤玄という俳人のもつ「あらがう生」をかいま見た思いがした。
「老い」の意識とは、精神から肉体の変化を経て、ふたたび精神へと戻ってゆくものであることが、玄の「老い」を詠んだ俳句の語彙の変遷をたどることで理解することができるだろう。「晩年」「残生」「余生」とは決して受身のことばではなく、〈さしちがふ〉ほどの覚悟が心の底に潜んでいることを忘れてはならない。
*1
第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
●―5:堀葦男の句– 「老」を読む -/堺谷真人
夏樹揺れ少女に老いの日の翳り
『機械』(1980年)所収の句。
鬱蒼と茂る夏の樹々。風に揺れ、葉ずれの音を散じている。緑蔭にたたずむ一人の少女は、降り注ぐ木洩れ日の中で溢れんばかりの若さに輝いている。が、ふとした瞬間、何気ない表情の中に作者は数十年後の彼女の衰老を先取りして見てしまったのだ。錯覚か、妄想か。見てはならぬものを窃視したかのように擬議する作者。しかし、数瞬の後、眼前で屈託なく笑う彼女はもう元の少女にもどっている。
不思議な俳句である。作者は現存する少女を詠みながら、少女の可能態としての老女を詠んでいる。若さと生命力の絶頂を顕示する存在を前にして、却ってその対極にある老年に思いを馳せている。赤い三角形を見てから視線を白紙上に転ずると、残像として淡い緑の三角形が浮かび上がる。ちょうど赤がその補色である緑を吸い寄せるように、若さが老いを想起させるのである。
ところで、葦男が自らの老いを意識したのはいつの頃からであったろう。金子兜太はある文章(*1)の中で「葦男には老成観がなかった」と至極簡単に総括しているが、これはあくまでも作句態度における話である。一方、作品に即して老いの徴候をみてゆくとき、我々は葦男が自身の加齢現象に向けた率直なリアリズムの視線に気づくであろう。
父もかく老う浴槽の波顎に受け 『機械』
花辛夷わが歯いくつか亡びつつ 『山姿水情』
霞む山に浮かぶ黒点わが眼の斑(ふ) 同
皺っ腹さむざむしょせん風羅坊 『過客』
これやこの痩脛皺腹初風呂に 同
還暦前後から70代半ばにかけての作品である。特に、一句目、四句目、五句目がいずれも入浴シーンであることは注目してよい。葦男は見ることを重んじた作家であり、一糸まとわぬ自己の肉体の老化からも目をそらさなかったのだ。
それでは、自身の肉体的老化には十分に自覚的であった葦男は、精神的な老いについてはどのように感じていたのでろうか。残念ながら、筆者はこの疑問を解く鍵をまだ手にしていない。ただ、年譜(*2)に見える次のような項目から、おぼろげに見えてくる情景というものがある。
1986年11月 神戸一中三十五回生、古稀祝賀会
1987年 8月 東大経十六年会
1988年 6月 東大経十六年会
1991年 4月 神戸一中三十五回生総会の旅・弁天島
1993年 2月 六高会
古稀の賀を境にして、葦男は学生時代の級友との交流が次第に密になってゆく。それぞれの職業人としての責務から解放された旧友同士で酌み交わす酒の味は格別であったに違いない。ともに青春を謳歌した者は、数十年の時空を一瞬に超越して語りあうことができる。
外見はたとえ白頭翁、禿頭翁となっていても、彼らは互いの中に今もなお白皙の書生や日焼けしたアスリートが歴々として存するのを見ているのだ。
樫の芽や書生という語いまも好き 『過客』
かつて少女に「老いの日の翳り」を幻視した葦男が、ここでは逆に老年の中の青春を余すところなく享受している。肉体の老化を通過して再び炙り出されてきた青春性こそ葦男にとっての真実であった。彼に精神の老いを感じている暇などなかったのである。
1993年2月8日、旧制六高の同期会で俳句の話をして帰宅した葦男は、翌2月9日の朝、入浴中に腰背部に激痛を訴えて入院、2ヵ月半後に不帰の客となった。入院直後の句は重病人である自己の状況を端的に詠んでいる。が、そこに悲嘆や不安といった要素は希薄である。新しい体験をむしろ好奇のまなざしでとらえ、表現する精神の快活さと柔軟さを葦男は最後まで失わなかった。
浅春ベッド管と数字に取りまかれ 『過客』
漂客に点滴隣の寺に春の句座 同
(*1)「一粒」第29号「樫の年輪」2004年3月
(*2)『朝空』「堀葦男年譜」1984年/「一粒」第1号「堀葦男年譜」1997年3月
●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭【21,22は休み】
●―9:上田五千石の句―「老」を読む― /しなだしん
冬銀河青春容赦なく流れ 五千石
第一句集『田園』所収。昭和三十五年作。
「老」とはいつから始まるものだろうか。
この句の制作年で、五千石は二十七歳。普通に考えて老いを感じるにはまだまだ早い。しかし私がはじめて老いまたは老けを感じたのは、二十七のころだったような覚えがある。それを老いというのは少し大げさだろうか。体力の衰えや体調の変化を、察知したとき、それを老いの兆しとして感じたのかもしれない。それはまさしく「青春」の終焉を感じ取った瞬間ともいえる。そんな理由から私の中で「青春の終り」と「老いのはじまり」は近しい感覚がある。
五千石もこの頃、そんな感慨をいただいていたのだろうか。
◆
掲出句と同じ「青春」を詠んだ句に、昭和四十年作の「青春のいつかな過ぎて氷水」があり、この句の自註(*1)には〈二児の父となっては、青春をとどめようもない〉とある。また昭和三十七年にも「冬夕焼わが青春の余白尽く」を作っており、「青春」への追憶が濃く滲んでいる。なおこの「冬夕焼」の句は『田園』には収録されておらず、補遺として『上田五千石全句集』に収められている。
◆
掲出句。「渋民村」と表題の付いた四句のうちの三句目。
自註には〈私は「銀河ステーション」から夜の軽便鉄道に乗った。これが「銀河鉄道」とは知らなかった。「青春」という駅を、いま通過する〉と記している。
渋民村は「しぶたみむら」と読み、岩手県岩手郡にある村で、現在は盛岡市に属している。石川啄木のふるさととしても知られる。
また自註にある「軽便鉄道」は岩手軽便鉄道、現在の釜石線のこと。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われており、自註はそこのこと指している。
時は冬。寒々しい夜、銀河鉄道に揺られて車窓から雪景色を見るとき、過ぎゆく青春を実感したのだろうか。それは銀河鉄道というシチュエーション、そのセンチメンタリズムが少ながらず影響しているのかもしれない。
ちなみに同時作は以下の三句。
雪の渋民いまも詩人を白眼視
星夜出て反骨教師雪つかむ
寒昴死後に詩名を顕すも
*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊
●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井
墓地抜ける生色少女のふくらはぎ
昭和38年『孤客』、と自句自解にはあるが、全集本の『孤客』にはない。いつの段階で最終句集原稿から消えたものやら。もとより無季俳句。
何となく楠本憲吉のからみつくような嫌らしい視線を感じるが、まさにその通りである。憲吉が慶応義塾大学の講師を務めていたとき、慶大俳句会のメンバーを連れて鎌倉近代美術館へ吟行に行った。その時長谷寺を抜けて行く教え子の女子大生の若々しいふくらはぎが目にとまってこの句が出来たという。
自句自解には、この1年、池田弥三郎の推挽で慶応義塾大学の講師となったと言うが、年譜では講師を務めたのは昭和40年とある。何が本当なのか憲吉についてはさっぱり分からない。本当は調べて書くべきなのだが、そんな調査をする価値があるとも思えないので矛盾した資料そのままに書いておく。
それでも、38年に講師だったらしいことは、翌39年、この女子大生(筑紫出身)を詠んだこんな句があるから間違いなさそうだ。
春一番筑紫乙女は幻めく
講師の期間は1年だったらしいから翌年はもう教え子としての関係は途切れているが、憲吉としてはこの女子学生に相当未練があったらしい。憲吉先生、41歳の男盛り。その前年、長男が同じ慶応義塾中等部に入学しているというのに!
嫌らしい視線といえば、こんな視線の句もある。
スリットがこぼす脚線ころもがえ
昭和61年『方壺集』より。ちょっと目のやり場に困るような句だ。そもそも「スリット」という言葉が何故出てきたかというと、憲吉の句会の袋回して「スリット」という題がでて最初のスリットの句を詠んだという。とんでもない句会だ、スリットなんて題を出す句会がどこにあるだろう!憲吉はそれ以来病みつきになり、盛んにスリットの句を詠み始めたらしい。しかし、この句、その中ではスリットの本意をよく詠んでいる秀作である。王道を行くスリットの句であろうか。
●―12:三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】/北川美美
⑩ 渡り鳥目二つ飛んでおびただし
渡り鳥の目だけが飛んでくるようなスピード感ある凄まじい光景がただ浮かぶ。渡り鳥は命をかけて飛ぶのである。その臨場感が伝わってくる。世界中に散らばる渡り鳥たちが、同じ地をめざし、どんな経験を積み重ねているか。克明に映像化した『WATARIDORI』(原題:
Le Peuple
Migrateur/2001 監督:ジャックペラン)は、生きるためだけに鳥たちが北に向かっていく姿だけを収めた壮大な映像である。彼らの繁殖が生まれ故郷の北極でしか行われないことは自然界の神秘的な法則である。
敏雄に鳥の句は多い。『眞神』では、晩鴉(6句目)、渡り鳥(10句目)、信天翁(32句目)、発つ鳥(72句目)ひばり(82句目)、飛ぶ鳥(97句目)などが散りばめられている。『創世記』のノアの箱舟では、洪水の40日後にノアは水が引いたのかを確かめるため、はじめに鴉を手放す。『眞神』が鴉からの登場していることは偶然かもしれないが感慨深い。
船上生活の永い敏雄は沢山の鳥たちをみてきたことだろう。『眞神』の中の鳥たちは天界の使者のような八咫烏(やたがらす)の役目とも思えてくるのだ。八咫烏になりえる実在の鳥が敏雄の審美眼により選び抜かれ配置されているように思えるのだ。
『眞神』というタイトルから日本の神話、山岳信仰、陰陽道などを連想することができるが、それは無季句をより効果的にするためのトリックのように感じられ、八咫烏は実在しない上にそのイメージがあまりにも付きすぎているため『眞神』の中では排除されているのだろう。昇天した敏雄自身が八咫烏のような気がするのである。
無季句を追求する敏雄にとり、鳥は、読者を異世界に連れて行くことのできる橋渡しである。掲句は無季句でありながら散文になることも感情を込めることもなく表現されている。命を賭けた鳥たちがただただ北に向かっていく姿だけが詠われている。人間は太古より鳥になることを夢見ていた。
⑪ 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ
陰陽道では、「北」について引いてみると、黒(色)、冬(季節)、羽(五音)、皮膚(五感)とでる。前掲句⑩の渡り鳥と⑪の羽のキーワードが一致。巧妙な句配列である。真北から西に6度ほど傾いているのが磁北になる。『眞神』であるならば磁北のことだろう。
南の日照時間が多くなればその方位の家の老朽化が進み確かに北側に傾くというのは確かに頷ける。
下五の「如何にせむ」は『古今集』ですでに使用されており「名取河せぜの埋木あらはれば如何にせむとかあひみそめけむ 読人不知」などがある。途方に暮れる嘆きの様子が雅やかに映る。現在、ビジネス文書あるいは国会中継で「いかがなものか」という台詞に遭遇するが、これには批判的意向が大いに含まれており、『古今集』の頃の「如何にせむ」とは使い方が変化している。掲句の「如何にせむ」にも少なからず批判的意志が含まれているとみる。
というのは、ここで登場する「家」は、『眞神』の中でひとつのテーマとなり昭和30-40年代の日本の社会の底辺をも描いているように思えるからだ。「家」から広がる家族そして村社会が背景に潜む。
写真集『筑豊のこどもたち』(1959土門拳)、映画『砂の女』(1963 原作:安部公房、監督:勅使河原宏)は『眞神』の世界をイメージするに恰好の資料と個人的に思う。特に、阿部公房と『眞神』の世界観には、前衛性を保ちながら、マクロの視点で人間の存在を観察し、アナキズムの匂いがある点に於いても共通項が多い。この人間の業を言葉に置き換えようとする作者の枯渇は戦争体験を通して戦後という時代を生きた人の心の渦のように感じるのである。
『眞神』には思想的なものは何も含まれていない。一句一句に言葉によるシャーマンが隠れているだけなのだ。しかしながら家の老朽化の影に家族の不在も匂わせる掲句は社会的な日本の風景をも暗喩していると感じる。そういう村へ読者を連れて行く『眞神』の旅を楽しめばよいのだ。
『眞神』(1973年上梓)の発刊周辺の日本、世界の激動を一部挙げておく。
1972年
日本陸軍兵 横井庄一 グアム島で発見
連合赤軍・浅間山荘事件
佐藤栄作退任 田中角栄就任
ウォーターゲイト事件
川端康成自殺
大阪・千日デパート火災
1973年
ベトナム戦争終結
日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件
金大中事件
⑫ 雪国に雪よみがへり急ぎ降る
2011-2012年の冬は厳しかった。この氷河時代の前触れのような気象は雪国の老朽化した家々に例年の倍以上の雪を降り積もらせた。積雪に押しつぶされそうになりながら家の中でひっそりと暮らす独居老人がニュースに映されていた。けれどそこに暮らす老人の顔は決して苦悩に満ちてはいない。人間という業を生きるということを映像から垣間見た気がした。
「よみがへり」とは、このような雪国という神話のような世界を示す地域に降る積雪のことなのだろう。雪国という名称に降る豪雪という自然の猛威。「急ぎ降る」という措辞に雪に埋もれながら孤独に年老いていく人の姿が隠れているように読める。
⑬ 冬帽や若き戦場埋もれたり
日本陸軍の冬帽子に「椀帽」というものがある。フェルト製のお椀型になっているもので星のマークがついている。またソ連軍が被る耳アテ付の毛皮帽を満州北部に渡った筆者の父の19歳の写真からも確認することもできる。
この句の「戦場」が満州を意識しているのかは定かではないが、極寒の地に散った青年は確かに多い。敏雄にとり戦争句を詠みつづけることは戦友への鎮魂であった。「埋もれたり」という下五により、嘆き、落胆、人を埋葬すること、雪に埋もれてしまうことを想像し、戦争が人々の記憶の彼方に埋もれてしまうという危惧をも感じる。
若き兵その身香し戰の前 『弾道』
支那兵が銃を構へて来り泣く 〃
戦火想望俳句と全く異なる戦後の戦争俳句を詠むことを敏雄は『眞神』で確立したのである。敏雄の戦争詠は20年のスパンで変貌していく。
⑭ 針を灼く裸火久し久しの夏
夏の句である。けれど郷愁の夏を詠んだ句と読む。
「灼く」「裸火」「夏」、更に「針」まで登場し灼熱地獄の拷問を連想する言葉たちである。
突然の措辞「久し久し」が痛々しいまでにやさしく感じられる。言葉による飴と鞭である。
囲いの無い火が「裸火(はだかび)」である。「裸火厳禁」という札はよく見かけたが、「はだかび」という読みに気が付くと、妙に艶めかしい。火(ひ)が裸(はだか)という捉え方がさすが源氏物語の時代の妖艶さに感心しきりである。「裸火」の場景をランプの囲いガラスを外して針を焼いている船内と想像した。敏雄が船内のランプの火で針を焼いているのである。
「久し久し」と懐かしんでいる様子が伝わるが、子供の頃、母が傍で針を焼いていた記憶を言っていると読める。母親が敏雄の為に針を灼いて消毒をしている姿。それを今、自分が火を見つめながら針を灼いている。燃えている火をみつめると様々なことを想う人間の心理状態をよく観察している。
掲句は大人になった作者が母親(あるいは乳母、養母など)を女という対象として捉え郷愁の中で優しい気持ちになっている感覚になる。しかし、掲句は何もそのようなことを書いていない、言っていないのだ。
⑮ 夏蜜柑双涙かわくばかりなる
「反対の言葉を置いてみる。」掲句から山本紫黄との会話を思い出した。紫黄に書いた俳句(らしきもの)を見ていただくと、右手にぐい飲みを持ったまま無言で数分過ごし、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。あまり俳句の話を自分からしなかったが、時に実作の極意らしきことを語る時は遠慮がちに「と三橋さんがよく言っていた。」と必ず付け加えていた。
涙は流れるものであるが、ここでは乾いている。「涙」という言葉から感じるものは、「悲しい」「滲みる」「流れる」「しょっぱい」などであるが、それが「乾く」とどうなるのか。「乾く」とは、「心」「荒野」「砂漠」・・・と言葉の連鎖が不思議な感覚を産む。下五の「ばかりなる」の措辞が絶妙である。「乾く」までは考えたとしても「ばかりなる」がどうすれば降りて来るだろうか。何度もこの句を唱えて凝視していると、反語を使用した、
鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 渡邊白泉
がその先にみえる。
涙が乾くという表現により、逆に涙が流れ続け、心があらわになり、悲しみがどこまでも続いているような感覚が生まれる。夏蜜柑が心のかたちのように、すぐそこに置かれているように思えてくる。敏雄のことを「三橋さん、三橋さん」と嬉しそうに思い出していた紫黄が妙に懐かしい。会いたいのに会えないのは辛い。双涙かわくばかりなる。
⑯ 著たきりの死装束や汗は急き
人の死亡が確認されてから全ての人体機能が停止するまでには時差があり、それまでに痛みに苦しんだ表情がやわらかくなったり、掲句のように汗をかくということは考えられることだ。通夜の席で、ご遺体が微笑んでいるようだ、亡骸が一番美しい顔だったということに遭遇することは多々ある。その美しさを前に、すでに魂がこの世に無く、亡骸そのものが仏になったということを実感するのである。
「著たきり」の措辞がややこしいのだが、遺体を送る側が見たご遺体の様子という見方と、死んだ人が俳句を詠んでいるという見方と二種類読めることにある。「昨日と同じ服で汗臭くて参ったな」と故人が汗をかいたことを自覚しているというように読めるのである。ここでは、後者の故人目線として視点を浄土へ飛ばしたということを考えてみたい。
『眞神』では、作者の位置があちこちへ飛ぶのだが、視点を彼の世に飛ばして、下界を見るという一種のトリックにも思えるのだ。読者の視点を転換させるということが考えられる。
「死装束」は、ご遺体を棺に納める際に故人に施されるもので、仏式では、故人の浄土での旅路にふさわし巡礼者の支度をさせるのが習わし。映画『おくりびと』での納棺の儀式で本木雅弘が死者に着せている装束である。
この死者目線が昨今記憶にあるものは、新井満日本語訳の「千の風になって」(原題〝Do
not stand at my grave and
weep“直訳:私のお墓で佇み泣かないで)の視点がそうだ。死者が「泣かないでください」と残された人を慰めている視点と同じなのだ。
「著たきり」の措辞により、霊的視点の読み方を選択したのは、霊的な存在が主人公となる「能」の世界の「夢幻能」と共通するジャンルが『眞神』と共通するからである。「夢幻能」は旅の僧など(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)があらわれて、その土地にまつわる物語をする。前シテは、中入りの後、亡霊、神や草木の精など、本来の霊的な姿を明示しながら登場し(後シテ)、クライマックスに舞を舞う。
能は、シテが演じる役柄によって「神(しん)、男(なん)、女(にょ)、狂(きょう)、鬼(き)」の5つのジャンルに分けられる。これに「鳥」が入ってくると、なんとも『眞神』の登場物に似ていることになる。今まで何度観ても眠くなっていた能が『眞神』に共通項があると思うと、俄然、興味が湧いてくるのも不思議なものだ。能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てていることから「急ぐ」というこのキーワードも後シテの役割のようにも思える。
「能」は「幽玄の美」と言われているが、敏雄は世阿弥の「幽玄」に戻って『眞神』を構成したというのも考えられることだ。
さらに「汗は急き」の「急」の文字使用が『眞神』に3句もある。
火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋 8句目
雪国に雪よみがへり急ぎ降る 12句目
著たきりの死装束や汗は急き 16句目
3句ずつ離して「急」を使用した句を配置している。暗号解き、ミステリーツアーのようになってきた。能の話に戻るが、能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てている。「急」は五番目の切能にあたり、シテは「鬼」となる。このことから「急ぐ」というこのキーワードが能の番組と関係しているようにも思える。
かつて、高柳重信は『蒙塵』の構想を中村苑子への書簡で明かしている。もしも『眞神』構想メモが、発見されれば、戦後俳句の遺産ともいえるのではないだろうか。
また「著たきり」と「汗は急き」の検証として、「死装束」に他の言葉を馬鹿馬鹿しく置き換えてみる。
著たきりの揃いの浴衣や汗は急き
著たきりのめ組の法被や汗は急き
著たきりの海水パンツや汗は急き
著たきりの越中褌汗は急き
他人が汗をかいているのか、自分が汗をかいているのかという点でいうと、やはり、自分が汗をかいているということがわかる。「汗は急き」が汗をかいた本人が実感する生理現象ということもあり、やはり死者が汗をかいているという見方の方が『眞神』らしいのかと思う。
更にこの句から読み取れるのは、納棺されることのないご遺体が汗をかいていると想像するのである。死ぬ瞬間に汗をかくのは苦しかろう。「死に水をとる」とは臨終の際の死者を生き返らせたいと願う儀式である。この句の死者の死に水ととるのは、わたしたち読者と思えてくる。
⑰眉間みな霞のごとし夏の空
「眉間みな霞のごとし」がわからない。
再度、能を確立した世阿弥の世界を考えてみる。
世阿弥は舞台における芸の魅力を自然の花に例えて心と技の両面から探求した。花とは観客がおもしろい、めずらしいと感じる心のこと。自然の花はそれ自体が美しいものであるが、その美しさの意味を舞台の芸として具体的に再現しようとしても、それを観るすべての観客が美しいと感じるわけではない。そこで世阿弥は、舞台の芸を種として観客の想像力に働きかけることで、ひとりひとりの観客が心の中にそれぞれの美しい花を咲かせる方法を工夫する。夢幻能はそのための様式として確立されたものなのである。
読者の想像に働きかけること、それを敏雄は実践したのだろうか。
「眉間」は表情がでるところである。そして顔面の急所である。記号的な読みとして、急所を調べてみると、眉間(烏兎)・鼻の下(人中)・下顎の前面(下昆)・こめかみ(霞)・、耳の下(露霞)、みぞおち(鳩尾、水月)等がある。これは武術でいう部位の呼称だが、広辞苑をはじめとする辞書にはどこにも出ていない。烏兎が日月を表すことから、眉間が襲われると、太陽と月が一気にでてくるような攪乱を起すという意味ではないかという説がある。記号的逆読みで掲句をみると、「月日の経過は早くこめかみが痛くなる思いで、夏の空はギラギラしていて眩しい限りだ。」と、わかった気になる。
さて、「霞」を眉間とするならば、眉間で思い出されるのは、筆者世代では、劇画『愛と誠』(原作・梶原一騎)の主人公の早乙女愛と太賀誠が赤い糸で結ばれた蓼科高原スキー場での事故である。愛が誠の眉間に大きな傷を負わせる。早乙女愛を一途に愛する男・岩清水弘も懐かしい。花園高校というネーミングがまた想像を掻き立て、初めて新宿の花園神社を知ったときは、その中に『愛と誠』の学園が存在するのかと思った。
そうとんでもないことを考えると、太賀誠の眉間の傷も過去のことであり、過去に操られ人生を翻弄するのは、霞のようなことであると思えてきた。何度も思うのだが、敏雄の句には人生のリセット願望を示すような句に遭遇すること多々なのである。
秘すれば花。『眞神』は、残像の花を咲かせる。
●―13:成田千空の句– 「老」を読む -/深谷義紀
小春日の雀となりて遊びたし
平成17年作。句集「十方吟」所収。
この句集は千空の6番目の、そして生前最後の句集であるが、この句集について千空自身は次のように語っていたと言う。
「あの句集はちょっと優しく、柔らかになりすぎてねえ。私としてはもう一冊、なんとか骨のある、水位の上った、口あたりはよくなくても喰いたりる作品で飛翔したいんですよ。(中略)私の到達点をそこに持ってゆきたい。『十方吟』を通過した最後の句集をねえ」(角川書店「俳句」追悼大特―成田千空の生涯と仕事― 黒田杏子『太宰 志功 寺山そして成田千空』より)
確かにこの句集の作品は、それまでの千空らしい骨太さがやや後退し、どちらかと言えば穏やかな詠み振りの作品が目立つ。しかし、見方を変えれば、懐の深さを示し、自在あるいは闊達な制作スタンスにシフトしたとも言えよう。この辺りの事情を、千空自身はこの句集のあとがきで次のように述べている。
「ここ十数年NHK青森、弘前文化センター俳句教室、BAR俳句教室等、月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。」
この「作風の変化」について、別の場でもう少し具体的に語っている。
「俳句教室ではみんな職業が違うんです。(中略)私も影響を受けてますよ。(中略)農業を五十年、六十年とやっている方の人生体験。そういう人から聞く話はおもしろいですね。(中略)自分の世界を自分のことばでどうとらえるか。しかし、俳句の骨法はちゃんと学びながら、そういう方向へもっていきますので、カルチャーは私自身、張り合いがありますし、勉強になるんです。」(角川選書「証言・昭和の俳句」より)
この句集には、こうした句境を象徴したような作品もある。
八十の路八方に稲穂かな 『十方吟』
死去の直前まで、千空は「俳句は沸くように出来る」と語っていたと言う。まさに、昨日までの自分を壊し、新しい俳句作家として生まれ変わっていく。そんな作業が楽しくて仕方ないといった様子が窺える。過去の実績に囚われることなく、新しい可能性をひたむきに探っていく。そんな向日性が、晩年に至るまで千空のバックボーンであり続けていたように思う。
この「十方吟」を越えた句集を編みたかったという千空だが、残念ながらその思いは叶わなかった。千空自身も心残りであったろうし、千空ファンの一人として、千空が最後にどのような作品世界に辿り着いたのか、千空の言う「到達点」を是非とも見たかったという思いは強い。
さて掲出句に戻ろう。一見すると、穏やかな老境を淡々と詠んだ作品とも見えるが、ここでは少し違った見方を提示してみたい。
千空の生涯は、ある意味、恐ろしく「大器晩成」型だったと言える。もちろん32歳にして萬緑賞を受賞するなど、早くから結社内では注目される作家であったが、その人柄からか、あるいは津軽の地を決して離れようとしなかったからなのか、長い間全国的注目を浴びることは稀だったと思う。ところが、77歳にして第4句集「白光」で蛇笏賞を受賞した辺りから様相がガラリと変わってくる。その3年後には第5句集「忘年」で日本詩歌文学賞を受賞(80歳)、また平成17年には読売新聞俳壇選者にも就任する(84歳)。80歳前後にして注目度が急上昇し、句業が一気に花開いた感がある。それはそれで喜ぶべきことなのだろうが、はたして千空自身はどう思っていたのだろうか。掲出句は、まさにその当時詠まれたものである。穏やかな老境とは程遠い、びっしりと詰まったスケジュール。「こんな筈じゃなかった」という千空の嘆きの呟きが聞こえてきたような気がする、と言ったら穿ち過ぎだろうか。