【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2026年1月16日金曜日

第260号

 次回更新 1/30


【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井 》読む

■新現代評論研究

[新春論考]1954年の寺山修司(前編) 佐藤りえ 》読む

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第6回:「実作者の言葉」…「遠星」/米田恵子 》読む

新現代評論研究(第17回)各論:村山恭子・後藤よしみ・佐藤りえ 》読む

現代評論研究:第21回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第21回各論―テーマ:「老」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子
第五(12/12)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第六(12/26)神谷波・川崎果連・加藤知子・曾根毅・松下カロ
第七(1/9)渡邉美保・小林かんな・田中葉月
第八(1/16)眞矢ひろみ・小沢麻結・花尻万博・林雅樹

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬
第三(12/12)ふけとしこ・岸本尚毅・瀬戸優理子
第四(12/26)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第五(1/9)神谷波・川崎果連・曾根毅
第六(1/16)渡邉美保・小林かんな・田中葉月・小野裕三

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

 俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【新連載】俳壇観測276 ユネスコ登録の進め方1――我々はユネスコ登録にどう立ち向かうべきか  筑紫磐井 》読む

【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『伊丹三樹彦の百句 解説と鑑賞』(伊丹啓子&青群同人) 豊里友行 》読む

英国Haiku便り[in Japan](58) 小野裕三 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり42 栗林浩『うさぎの話』 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】9 「希望」のバトン  宮崎斗士 》読む

【新連載】口語俳句の可能性について・6 金光 舞  》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(65) ふけとしこ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

1月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

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篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

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麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【新連載】俳壇観測276 ユネスコ登録の進め方1――我々はユネスコ登録にどう立ち向かうべきか  筑紫磐井

  「俳句四季」で連載していた俳壇観測が終了したのでその続編を執筆することとしたい。BLOGなので余り文章の長さを気にすることなく自由に書いてみたい。

 第1回は、「豈」68号で特集した「特集・ユネスコ登録戦略の最前線」について述べてみる。当面の俳壇でユネスコ登録は極めて重要な課題となると思うからだ。この特集で私の書いた「真面目な顔をした俳句ユネスコ登録論」はこの種の論争で当時一番論点整理されたと考える林桂氏の「鬣」の論文を踏まえて書いてみたものだが、「豈」68号ではより進んだ論点が提出されていると感じた。特に、トマス・マーティン氏の「ドイツから見たユネスコ登録問題」は論争を展開する材料を漏れなく整理して頂いた力作でありこれを踏まえてこれについて私の考え方を述べてみたい。

 何回かに分けて考察したいと考えるのだが、第1回はマーティン氏の論点ではなく、論争の予備知識として現代俳句協会が置かれている現在の状況を客観的に述べてみることとしたい。これは論争することまでもない客観的な事実であるが、論争するに当たっては念頭に置いておく必要なことである。特に調べればわかる客観的事実であるが、今までの論争参加者のほとんど調べることをしなかった事実だ。この事実を知らないままの論争は砂上の楼閣に近くなるだろう。

1.大前提

 ユネスコ登録の発端は、4協会が合意して登録を進めることを文部科学省に要請したことにある。従ってユネスコ登録とは文部科学省と協会の問題であり、俳人一般・俳句一般の問題(俳人の権利義務の問題)ではないことに注意すべきである。文部科学省がユネスコ登録をするかどうか国としての独自の判断もあるが、基本的には日本の俳句活動を代表するとされる4協会の要望があったから開始されたのである。

 ユネスコ登録に関心のある人は大半がいずれかの協会に参加しているようだから、協会を通じて発言する機会はある。しかし、一般人や俳句愛好者が評論家的な意見を言うことは可能であるが、だからと言って直接文部科学省に働きかけ、登録を進め、あるいは登録を断念させることは出来ない(例外はあるが、これは複雑な条件が重なるので追って説明したい)。

 だから、ユネスコ登録をしないという意見は協会員が協会(多分現代俳句協会)を説得して実現しなければならない。今のところ、現代俳句協会はユネスコ登録をしないという意見に納得していない(これは毎年総会で会員から意見が出されているが、協会として納得していないことは明らかである)。従って理論闘争により実現しなければならない。ここではそうした理論闘争をどう進めるかを考察してみたい。


2.協議会参加の適法性

 先ず様々な準備の末、平成29年1月26日に日本記者クラブにて、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会発起人会(第2回)が開催され、4月24日に協議会設立総会を開催することを決定し記者会見を開いた(この時俳句に無季・自由律が含まれることを言明)。参加者は有馬朗人国際俳句交流協会会長、稲畑汀子日本伝統俳句協会会長、鷹羽狩行俳人協会会長、宮坂静生現代俳句協会会長及び伊賀市長であった。

 これを受けて、現代俳句協会では、平成29年3月25日協会の総会で、「平成29年度事業計画」を提案し、現代俳句協会総会で委任状の提出を含めた過半数の会員の同意を得て了承を受けた。その内容(29年度新事業)は次のようなものであった。


【平成29年度事業計画(抜粋)】

19.外郭団体の後援

➀俳句のユネスコ無形文化遺産登録を目指す活動

 俳句4協会及び関係自治体による協議会の設立総会・記念講演会(4月24日・東京都荒川区)


 他協会においてもほぼ同趣旨の手続きを踏んでいる。その結果、29年4月24日俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会設立総会が開かれ協議会の設置が了承された(上記協会の各会長及び伊賀市・松山市・荒川区・大垣市が参加)。

 以上の経緯から、協会はそれぞれの内部手続きを完了し、4協会合意が成立したと考える。


3.協議会参加決定の拘束力

 現在、一部会員から現代俳句協会の全社員の意向投票を望んでいる。万が一採択された場合は、現代俳句協会は協議会から脱退することとなる。しかし公的な責任を負う団体としての4協会合意がある以上現代俳句協会の一方的な脱退はできず、4協会と協議会の全会一致の了解を得なければ脱退出来ないはずである。一部でも反対があれば脱退できないということを認識しなければならない。

 さて協議会発足の経緯から見ても、協議会から現代俳句協議会が脱退することはユネスコ登録を極めて困難にするので、協議会のみならず今まで尽力してきた、国際俳句協会、俳人協会、日本伝統俳句協会のみならず、協議会に参加する参加自治体に対し、いったん参加に同意したにも関わらず脱退という変節をした合理的な理由を説明し、陳謝し、相応の条件をのまざるを得ないと考える。そして合意をする場合の提示される具体的な条件として想定できるのは、次のようなものであると考えられる。


【現代俳句協会の協議会脱退の条件案】

➀現代俳句協会が協議会から脱退した後は、協議会が従来の経緯に拘束されず俳句の定義を定めて(例えば有季定型)ユネスコ登録に望む場合に、現代俳句協会はこれに異議を申し立てたり、その活動を妨げないことを確約すること。

➁ユネスコ登録により関係機関が受けるべき不利益の損害を補填すること。


 ➀については、俳人協会の保守派の人々は基本的に、無季・自由律俳句を含めることを主張している現代俳句協会が退会することは歓迎であると考えるが(協議会発足に当たって有馬会長の主導によって行われた俳句に無季・自由律が含まれるとの言明は俳人協会にとって大きなミスであったと考えられる)、現代俳句協会の協議会脱退にあたり問題を矛盾なく清算させることは必要不可欠だと考えられる。

 それは昭和36年に俳人協会分裂に当たって無季自由律を排除する諸活動を行って来たことからも明らかであり、さらにその後平成11年に俳人協会が「教科書に掲載する俳句は有季定型を厳守せよ」という「教科書出版会社への要請」を会長名で送付していること、平成22年に岡田日郎副会長が俳人協会において「学校教育においては「俳句」(有季・定型・文語)と「俳句に似たもの」(無季・自由律俳句など)と区別する必要がある」と講演していることなどからも基本的イデオロギーは変わらないと考えられる。

 ➁については、3協会というよりは会員となっている40余の自治体が登録によって得べかりし地域振興の利益を喪失するからであり、これがどの程度のものか想像するのも難しい。


 いずれにしろ、現代俳句協会は、こうした利害を勘案し、脱退するか、さらには投票を実施するかを決めるべきだろう。私個人としては➀の条件を受け入れるなど現代俳句協会の存在意味を失うくらい致命的な条件である。つまり現代俳句協会は協議会から脱退できないことになると思うのだが。


4.「パブリックコメント」「国民からの意見」

 ところで、ユネスコ登録に関し会員の意向を確認する方法は別にないわけではない(1.で述べた留保条件について述べる)。ユネスコ登録はユネスコ条約と文化財保護法により手続きが進められているように協議会関係者は説明しているが、実は文部科学省のこれらの活動は、その上位規定として文化芸術基本法とそれに基づく文化芸術推進基本計画(5年計画であり、現在第2期)に基づき行われている。ユネスコ登録が検討される以前から、小説、戯曲、現代詩、短歌と並んで国策として文化芸術基本法によりその振興がうたわれ、基本計画に基づき具体的な施策が行われている。この枠組みの中でユネスコ条約登録と文化財保護法の指定が位置付けられるのである。そして実は文部科学省はユネスコ登録を含めた政府の基本計画について5年ごとに「パブリックコメント」「国民からの意見」を広く求めているのである。次のそのタイミングが令和9年となっている。

 ユネスコ条約登録と文化財保護法の指定は1.で述べたように文部科学省と4協会の話し合いにより進められているということだが、この「パブリックコメント」「国民からの意見」については、(4協会の合意に縛られることなく)各協会それぞれが独自の意見を述べる機会があり、のみならず協会員であっても協会の意向に反した意見を会員として述べることも出来、さらにはどこの協会にも属していない俳人や一般国民も意見を述べることができる。前回は高校生・大学生の意見を求めていたが、文化の継承問題から考えれば文化を担う次世代の意見は重要であるからだろう。多分外国の方も意見を述べることができると思う。

 色々難問が山積している現代俳句協会の投票を検討するのもよいが、先ずは現実的な「パブリックコメント」「国民からの意見」を出してはどうか。従来基本計画に寄せられた「パブリックコメント」「国民からの意見」を見ても(前回はあらゆる芸術分野から309件の意見が寄せられた)、俳句のユネスコ登録については一つも意見が寄せられたことがなかったようである。これは俳人としても、俳句愛好者としても怠慢であったと言わざるを得ない。俳句を愛するならば是非意見を出すべきだ。こうした行動をとらず、評論や論文だけを書いていることは自己満足にしかすぎないように思われる。

 もし俳句をユネスコ登録にすべきでないという意見が「パブリックコメント」「国民からの意見」に大量に提案されれば、文部科学省はその意見を無視できないはずである(この「パブリックコメント」「国民からの意見」はユネスコ登録を最終的に決定する文化審議会に提出され審議される予定である)。私としては公平な立場から、ユネスコ登録を推進する協会や自治体も意見を出してほしいと思っている。それこそが多少なりとも国民の総意に近づく結論となると思う。もちろんその結果がどのように出るかは予断を許さないが、少なくとも現在のような、意見があるが何も進まないというフラストレーションの溜まる状況からは解放されるはずである。

  *

 ただひとつ言っておきたいのは「パブリックコメント」「国民からの意見」は行政技術的な条件がありそれを勉強して行わないと効果があまりない可能性があるということである。少なくとも現在各所で提案されているユネスコ登録反対の論文そのものは「パブリックコメント」「国民からの意見」としては受け取られないと思う。これらの長大な論文を文部科学省の担当者が読みこんで意見としてまとめてくれるほど親切ではないし行政も暇ではない。意見提出者が、「パブリックコメント」「国民からの意見」の趣旨をよく学び、どのような形式で提出するか、文部科学省がどのようにそれを処理するかを十分学んで、それに適合するような意見の提出の仕方をする必要がある。意見提出者の方に責任があるのだ。少なくとも長大な論文ではなく、簡潔明瞭に白黒をはっきりさせた短い意見で出すことが望ましい。このためには、意見を出そうとする者が勉強会を開いておくことが望ましいだろう。現代俳句協会などがそうした場を用意することは有意義である。


(以下続く)

2:ユネスコ登録への3つの態度(俳壇の動向)

3:ユネスコ登録の根拠の吟味(マーチンさんに答える)


【特別稿】口語俳句の可能性・余滴  筑紫磐井

 本BLOGでは金光舞氏の「口語俳句の可能性」の連載が続いているが、ここでこれに関連した話題を少し紹介してみたい。

 2025年11月24日(月・祝)、ゆいの森あらかわ「ゆいの森ホール」にて開催された第50回現代俳句講座 「昭和百年 俳句はどこへ向かうのか」では、柳生正名、神野紗希、筑紫磐井によるシンポジウムが行われ、その中で口語俳句に関するディスカッションが集中的に行われた。多くのデータを踏まえた分析であるので口語俳句研究の今後の参考になるのではないかと思うので、紹介したい。


●柳生正名

 「現代俳句」が1年間かけて行っている昭和100年・戦後80年を回顧しての現代俳句協会役員・評議員アンケートの発表が行われたが、この中でトップを占める俳句作品に口語俳句が多かったことが指摘された。


 池田澄子 じゃんけんで負けて蛍に生れたの(同率1位11点)

 渡辺白泉 戦争が廊下の奥に立つてゐた(同率1位11点)

 金子兜太 おおかみに螢が一つ付いてゐた(同率3位8点)

 金子兜太 梅咲いて庭中に青鮫が来ている(同率3位8点)


 現代俳句においては口語化が進んでいるのではないかという観点から議論が進められた。


●神野紗希

 神野氏はまず今回のアンケート結果を踏まえ、口語俳句の抽出を行った。力作である。


➀新興俳句の口語(※言い切りの語尾)

頭の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋

山鳩よみればまはりに雪がふる  同

夏草に汽罐車の車輪来て止る 山口誓子

水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼

              

➁戦時の口語(※肉声としての口語)

戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡邊白泉

憲兵の前で滑つて転んぢやつた  同

灯をともし潤子のやうな小さいランプ 富澤赤黄男

やがてランプに戦場の深い闇がくるぞ  同

           

➂戦後俳句の口語(※韻律と主題)

人体冷えて東北白い花盛り      金子兜太

彎曲し火傷し爆心地のマラソン    同

銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく  同

あやまちはくりかへします秋の暮    三橋敏雄

八月の赤子はいまも宙を蹴る    宇多喜代子


④自由としての口語(※異質性のエッセンス)

おおかみに螢が一つ付いていた    金子兜太

梅咲いて庭中に青鮫が来ている    同

少年来る無心に充分に刺すために  阿部完市

ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん  同

たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典

三月の甘納豆のうふふふふ       同

              

 これに加えて平成以降の作品、特に若い世代の作品を含めて新しい口語俳句の摘出を行った。


⑤現代×日常の口語

起立礼着席青葉風過ぎた       神野紗希

ゆず湯の柚子つついて恋を今している 越智友亮

寒いなあコロッケパンのキャベツの力   小川楓子

寝静まるあなたが丘ならば涼しい     大塚凱

初夢の代はりにYouTube見てる     葉ざくら


⑥現代×主題の口語

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの  池田澄子

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る  福田若之

蝶よ川の向こうの蝶は邪魔ですか  池田澄子

Rest in Peace 向日葵は泣かない 光峯霏々

ねむる天牛だめなことをだめって言うちから 林田理世


●筑紫磐井

 これに対し、筑紫は、口語俳句はすでにホトトギスの俳句の中にも多くみられたことを指摘した。


街の雨鶯餅のもう出たか 富安風生(ホトトギス12年)

月見草開くところを見なかつた 島田摩耶子(ホトトギス昭和28年)


 これらの句は虚子の参加した句会で取り上げられという。口語俳句はホトトギスの花鳥諷詠の中で十分鑑賞に堪え、盛況を見たのであった。

 特にこの他の作家としては星野立子に着目したい。戦前から口語趣味的な俳句が詠まれていた。


娘らのうかうか遊びソーダ水  8年

吾子と姪同じにかはい藤は実に  15年

皆が見る私の和服巴里薄暑   31年

火を入れしばかりの火鉢縁つめた 36年

幸福が見つかりそうに朝焚火 40年


 口語俳句が見られると言っても数はまだそれほど多くはなく、圧倒的に文語の俳句が多かった。しかしここで転換期を迎える。立子は45年に脳梗塞で倒れ、10年以上にわたる闘病生活とリハビリ生活を送ったが、不死鳥のようによみがえった。その際、従来のような文語の居住まいの正しい俳句から多くの口語俳句を詠むようになった。


白芙蓉隣の家は留守らしく(56年11月)

風花を呼ぶこの雲がこの風が(57年5月)

老鶯のだんだん遠くそれっきり(58年8月)

計画は生まれて消えて秋の空(58年11月)

春寒し赤鉛筆は六角形(59年4月絶筆)


 立子の口語俳句への意図的な転換は、ことによると脳梗塞という病気の影響もあったかもしれない。これは今後考えてみたい課題である。

 いずれにしろホトトギス俳句から生まれた口語俳句は、新興俳句や戦後俳句(神野のあげた➀―➂)と明らかに異なる色調を帯びていた。どちらかと言えば、若い世代の俳句(神野のあげた⑤-⑥)は、ホトトギスの口語俳句と調和しているように思われる。


【筑紫・補足】

 「街の雨鶯餅のもう出たか」は、「ホトトギス」の昭和12年6月号に載っている。この句自身についてはあまり議論が出ていないがおもしろいことが分かる。実は7月号の「まさおなる空よりしだれ桜かな」という富安風生一代の名句、文語の格調高い句ができているのだ。口語俳句をべたに作ってる人ではなくてたまたま作る人というのがいて、その人は文語俳句で精一杯つくるとそれと併行して口語俳句の傑作も生まれる、そういうところがあるという気がした。文語と口語、そういう対比的に面白いところから、特に花鳥諷詠系の口語俳句というのは出てくるのではないかと思える。

 「月見草開くところを見なかつた」は「街の雨」と違って侃侃諤諤議論があった。実は似た句があるではないかと言われた。どういう句かというと、成瀬正俊の「炎天下吸いしタバコが苦かった」という句である。これと同巧ではないか弟子たちが議論しているのだが、虚子がいうには、とにかくこの句は面白い、かつ自然にできていると、そういう言い方でほめている。考えると、昭和28年というのは社会性俳句が出た最初の時期で、例えば兜太の「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」のような重苦しい句が出てくる時代に、「月見草」の軽みや面白みというのが受け取られるようになったのではないか。神野さんが作った新興俳句系の口語俳句の表のとなりに花鳥諷詠口語俳句の一覧表を作ってみると、口語俳句の本質というのがもう少しわかってくるように思える。

 神野さんの「起立礼」の句も、これは風生や島田摩耶子の隣に並べた方がよくわかる。花鳥諷詠の真骨頂というか、他の新興俳句や戦争中の口語俳句等と並べると違和感を覚える。この句は花鳥諷詠の中でとらえるとものすごく引き立つのでないか。

 今回のシンポジウムのために柳生さんと何度かメールをやりとりしてそのときに言われたのが、河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」は明治の口語俳句ではないかと言われて、確かに気づいたのだが、それは今の私がやっと気づいたのであって、当時の人たちは気づいてたのかどうか。調べてみたところ、明治の新派俳句を代表する「赤い椿」の句だが、これが俳壇で脚光をあびたのは、正岡子規が「明治29年の俳句界」という有名な論文で取り上げているからである。しかしそれをいくら見ても子規は口語俳句と言っていない、注目しているのは、この句は印象鮮明である、碧梧桐はこれに邁進すべきだっていってるけれど、口語俳句とは一言も言ってない。正岡子規はこれ口語だって気が付かなかったのではないかと気づいた。実はその後高浜虚子の有名な「進むべき俳句の道」という本がありその冒頭に碧梧桐の句について書いてるけれど、「赤い椿」の句は印象鮮明な句だと言っているけれどやはりこれが口語俳句だと言ってない。子規も虚子ですらもこれが口語俳句とは気づいていなかった。言われて初めて気づく口語俳句というのは結構たくさんあるような気がする。

 そういう意味では口語的な言葉遣いだけに固執するより、口語的な精神、そちらの方が大事なのではないかという気がしている。


英国Haiku便り[in Japan](58)  小野裕三

ワードレス・ポエム

 これまでの連載でも幾度か触れたが、昨年末にhaikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加した。その展覧会にアート作品を出展した現代アート作家たちに、haikuについての考えを質問して僕がエッセイを書く、という企画を国際俳句協会のウェブサイトで行った(「現代アート作家たちが見たhaiku」)。詳細はそちらに譲るが、驚いたのは、英国在住の現代アート作家というもっとも俳句的環境から遠そうな人たちが、的確に俳句の本質を捉えていたことだった。

 例えば、今回出展したリサ・ミルロイさんは俳句の特質として次の点を列挙する。「感情と概念的な複雑さに結びつく美しい形の経済性 、強力な視覚的イメージ 、対立する力のコントラスト、驚きの要素を備えた遊び心の質、物質的なものと非物質的なものとの相互作用 、タッチや熟練の軽さ、物質世界・自然・日常的な物への集中した観察、スペース・タイミング・リズム・流れ 、言われていないことを通して言われたこと」。果たして日本の俳人がここまで挙げうるかとすら思うくらい、どれも本質的な指摘だ。

 haikuへの彼女らの理解を後押しした背景として、英語を介することで日本語や日本文化のしがらみなしに俳句を見られる、外観の表層的シンプルさという意味で現代アートと俳句は似ている、などの点が思いつく。だが、彼女らが言語芸術ではなく視覚芸術を専門にするという、まさにその点に彼女らが俳句を正確に理解できる鍵があるとしたらどうか。

 例えば、英語の世界ではhaikuを「ワードレス・ポエム(wordless poem)」つまり「言葉のない詩」と呼ぶことがある。語義矛盾のような言い方だが、実はこの矛盾こそが俳句そのものだとも思う。言語で表せない何かを表そうとすることが芸術や詩の根本だとするなら(そして視覚芸術を専門とする現代アート作家は、この課題に日々向き合っているはずだ)、俳句はその矛盾をその短さにおいて明確に引き受けた。つまり、ワードレス・ポエムとも呼ばれうる、ギリギリの矛盾した輝きこそが俳句だとしたら。

 例えば、出展者の一人、オリビア・バックスさんは「編集は最も難しい仕事のひとつなので、俳句での制約はむしろそれから自由にしてくれます」と回答した。俳句の短さは、編集作業という執筆全般にまつわる煩雑な行為を回避する(もちろん推敲は別だ)。結果として、言葉をナマの質感のままぽんと提示するような感覚をもたらし、それは絵画や彫刻という視覚芸術のふるまいとも似通う。

 そんなことを思えば、俳句は言語芸術よりもどこか視覚芸術に近い側面を持つのかも知れない。少なくとも、現代アートとhaikuという、一見縁遠そうな関係から俳人たちが学べることは多そうだ。

※写真はKate Paulさん提供

 (『海原』2024年10月号より転載)

[新春論考]1954年の寺山修司(前編)  佐藤りえ

 必要があって俳誌「氷海」を創刊号から読み進めていたところ、主宰選の選句欄「氷海集」に寺山修司の名前を見つけた。


 わが声もまじりて卒業歌は高し  寺山修司

 もしジャズが止めば凩ばかりの夜

 冬浪がつくりし岩の貌を踏む

 老木を打ちしひゞきを杖に受く

 雪嶺の主峰が見えずむつみあふ (「氷海」17号/昭和27年5月)


 秋元不死男主宰の「氷海」は「天狼」東京支部報から出発した「天狼」の僚誌であり、この時創刊4年目、経済的な事情などから前年なかばより誌面はガリ版刷りとなっていた。

 二句目、「もしジャズが止めば」など、そうと知らされなければ昭和20年代の少年の句とは思いがたい、モダンな趣がある。「冬浪がつくりし」についても〈岩の貌〉を〈踏む〉と収めるのは、少年の力量としては並外れているのではないか。当時の「氷海」は山口誓子提唱の「根源俳句」について手探りの段階にあり、作品内容は時代背景を反映した貧困、戦後の困難にあえぐ内容、また社会性俳句の一歩手前、工業化、機械文明への批判的なものなど、誤解を恐れずいえば「大人の地声」がひびきあうような場所だった。寺山と並んで友人の京武久美の名前もある。選評で不死男は彼らについて「俳句のうまさは、まさに驚くばかり」「末おそろしき若者というべきである」と述べている。ときに寺山修司、京武久美ともに16歳。

 青森高校の同級生同士は「山彦俳句会」を立ち上げ、機関誌「青い森」を発行、地元の俳句会「暖鳥」句会に出席、俳誌「寂光」に投句、競って読売新聞の「よみうり文芸欄」(秋元不死男が選者をつとめた)に投稿…と俳句漬けの日々を送っていた。のちの述懐によると、京武が「暖鳥」誌に掲載されたのを見て鼓舞された寺山が俳句に熱中し、できた句を夜も昼もわかず見せに来たという。


「氷海集」は不死男の単独選句欄で、最大5,6句から1句まで掲載される。巻頭はもちろん栄誉である。寺山は次の掲載回、「氷海」18号(昭和27年6月)でいきなり巻頭を取る。


 夜間飛行回廊の果てに女立つ

 ジャズさむく捨てし吸殻地で湿る

 花電車人と触れいて和し易し

 野火うつる鏡のなかに抱きおこす

 校舎ふり向く松蟬の松匂ふなか

 母と別れしあとも祭の笛通る

 籐椅子や女体が海の絵をふさぐ

 べつの蟬鳴きつぎ母の嘘小さし(「氷海」18号/昭和27年6月)


「氷海集」はこの当時まだ投句者がわりあい少ない(そもそもガリ版刷り時代の「氷海」はページが少なく遅刊も続き、昭和27年に刊行されたのは8冊のみだった)。後年人数増に従い、より初心者向けの投句欄が新設されるなどした。この時の寺山の掲載句8句は巻頭のなかでも最大規模のものだったのではないだろうか。選後雑感で不死男は特に「母と別れしあとも祭の笛通る」「べつの蟬鳴きつぎ母の嘘小さし」を「青年らしい純情と哀愁があって好もしい」と評した。「ジャズさむく」「籐椅子や」は大人の世界の話を無理にしている感もある。「夜間飛行」「野火うつる」はイメージ先行で句意が曖昧である。しかし言葉の耀き、一句を整える手腕は見事である。

 この頃寺山は前述した地元の俳誌、新聞のほかに受験雑誌「学燈」「蛍雪時代」、俳誌「七曜」「天狼」「寒雷」「萬緑」に投句していた。創刊されたばかりの西東三鬼「断崖」にも投句している。受験雑誌はともかく、俳誌の投句欄で巻頭を取ったのはこれが初めてではないだろうか(「七曜」「断崖」は未見、後日確認したい)。これについて寺山はどう思ったか。


 浴衣着てゆえなく母に信ぜられ

 虹に向く砲を砲口より覗く

 木の実ふるわが名谺に呼ばすとき

 赤とんぼ孤児は破船に寝てしまふ

 木の実おとせし粗きひゞきの杖つかむ(「氷海」20号/昭和27年11月)


 19号には掲載なく、20号で寺山はふたたび「氷海集」巻頭掲載となった。続けて巻頭を取る者は他にもいる、初めてのことではない。しかし掲載開始から三度目で二度の巻頭、はどうだろうか。きわめて稀なことではないか。この号の選後雑感で不死男は個個の作品評を書かず、「感想」を記した。

じぶんを生したいといふことは、じぶんの個性を発揮したいといふことになる。個性といへばそれは生きてゐる一個の人間の、いろいろな精神的機能であるが、これを文学的な表現でいへば、人間の息づかいのことだ。(中略)現在は永遠にとび去る。この「永遠の今」といふ感じを知ることが、俳句をつくることである。(中略)じぶんとのめぐりあひ、それを尊しとおもふ、そのじぶんを大切に、いとほしく感じたい、さういふおもひがわたしに俳句をつくらせるのである。だから、わたしの一句一句は、わたしの生命と生活の記録である。といふ風におもつてゐるのである(後略)。(「氷海」20号・氷海集「選後雑感」)

「氷海集」の投句者たちは学生とは限らないが、同人よりは作句経験の少ない人々であることは違いないだろう。不死男はそうした人々に向かって、嚙み砕いた書き方ながら「善く生きよ」「生活実感を大事にせよ」と言った。今回の寺山の作品も、完成度という意味では他の投稿の追随を許さないと思う。しかしここに何かがないことを不死男は感じ取ったのだろう。

 不死男が選後雑感で個個の作品評を書かないことは時折あるが、往々にしてそれは作品が低調だった場合に多い。好調な作品(でなければ、5句も選ばれはしないはずだ)を迎えつつ、その「よさ」ではなく、精神を説くことを、不死男は選んだ。

 この後寺山が「氷海集」で巻頭を取ることは二度となかった。以後、投句自体は昭和29年まで続いた。昭和28年は発行された9冊(合併号があるなどしたためこれが年間に発行された全冊だった)すべての「氷海集」に掲載され、最高位は11月号の二位、1月号と4月号で二度、三位に入っている。昭和29年の10月号には成績優秀者として「新人集」に迎えられ、「小飛行」15句が掲載された。この「新人集」を最後に、寺山は「氷海」から姿を消した。翌月、寺山は「短歌研究」第二回五十首応募作品「チェホフ祭」で特選を受賞する。


 麦の芽に日あたるごとき父が欲し

 花売車どこへ押せども母貧し

 母は息もて竈火創るチエホフ忌

 いまは床屋となりたる友の落葉の詩(「小飛行」「氷海」昭和29年10月号)


 そもそも、寺山はなぜここまで手広く投句を繰り広げたのだろうか。投句先の傾向はどう見ても一傾向とは思えない。数打ちゃ当たる方式のつもりだったのだろうか。現在はどうなっているのかわからないが、当時は特に、そんなめっぽう打ちでどこかにひっかかる、というやり方が通用するとは思えない。

 さらに言えば、なぜ「氷海」に投稿したのだろうか。むろん、新聞選者であり、著名な「天狼」創刊同人である秋元不死男めがけて――ということはあるかもしれない。「牧羊神」創刊号には「「青高俳句会」が不死男先生を囲んで若い情熱をあたゝめ」という記述がある(「牧羊神」創刊号編集後記)。「青高俳句会」の機関誌「青い森」の顧問に不死男を招いたことから、直接の会合を持ったのかもしれない。新興俳句にも興味があったというから、不死男の「街」「瘤」を読んで惹かれたのかもしれない。不死男にも理知的な句、イメージの強い句、乱調な句もある。あることにはあるが、前述した不死男の精神論的な観点から、寺山の感覚的な俳句を高く買うのぞみは少ないように思う。第一、不死男の師・誓子の「天狼」にも投句しているのだ。結社なり主宰なりが、自作と合うー合わないという基軸が見えない。それ自体は、特に作句をはじめて間もない頃なら、そういうものかもしれない、とも思う。自分の傾向というものが見えるには多少の時間がかかる。いや、そもそも、「自分の句を誰ならより評価してくれるか」という考え方を、寺山は持っていなかったのかもしれない。

 そもそも(何回目だろう。しかし、知れば知るほどそう言いたくなる)、寺山の俳句観とはどのようなものだったのか。「氷海」等結社への投句をしながら、並行して昭和29年(1954年)、俳誌「牧羊神」を創刊する。参加者たちは畏友・京武のほか、全国の、寺山が目を付けた各誌への若い投稿者たちだ。住所のわかるものへは直接、わからないものへは学校宛てに手紙を送り、参加を促した。寺山が打ち立てたメルクマールは若さを武器とした「俳句の革新」である。「牧羊神」には作品のほか、毎号のように寺山の筆によるアジテート的な文章が載った。

僕らの俳句革命運動は、本誌三号あたりからPAN宣言として、僕や京武君などが交代で毎号の巻頭にその理論を体系づけてゆくつもりであるが、古い言い方を借りれば「論より実行」。諸君の実作がペンの余滴の何行にも勝るようになることを信じて疑はない。(「牧羊神」創刊号編集後記)

僕たちも考えよう。こゝに創刊したPANは現代俳句を革新的な文学とするため、そして僕たちの「生存のしるし」を歴史に記し、多くの人々に「幸」の本体を教えるための「笛」である。(中略)僕たちはこのPANの方向を仮に憧憬主義と名づけたい。(「牧羊神」第二号「PAN宣言」)

僕等最後の旗手、僕らは僕らだけに許された俳句の可能性を凡ゆる角度から追求せねばならない。ロマン・ロランは「今有難いのは明日がある事だ」と言ったが、僕らにとっても是程はっきりとした「明日」という日は又とあるまい。(「牧羊神」第五号「PAN宣言――最後の旗手」)

 表現は微妙に変化しつつ、革命を呼びかける声高な宣言文が並ぶが、主要な内容にはあまり変化が見られない。具体的な指針、柱となる理念、作品といったものは見えてこない。第六号において、かろうじてその観念のフックとなるべきものが示される。

 ところで見たことを書く俳句は決して私小説ではないし、石田波郷氏によって固定づけられた俳句の「私性」的な宿命に追いつめられたものでもない――と小さな断定を私が胸の中へ火のように育みはじめたのはつい最近のことである。見たことは在ったことと決して同じではない、ということは考えてみるとひどく私らの力となりそうな気がしたからである。

「俳句的人生」という一見ひどく前時代風のことを私が新世代の俳句をする青年たちへ呼びかけようとするのは、つまり人生を俳句に接近させることにほかならないのだがその場合、俳句は無論既成の俳句ではなくて私ら新世代によって革命化された新理想詩を指しているのである。(中略)私らは在ったことではなく、見たことを俳句とし、つねにそれを私ら人生の「前」avantに置こうとたくらんだ訳である。つまり私小説は実生活のあとにあるが、私らの俳句は実生活の前にあろうという訳で、私らが美しい日々を送るために俳句は美しかるべきであろうし、尚思索的でもあるべきだろう。

 見る――なるほどこれは在ったものに触れる以上に精神の純粋さを強要し、私らの「生きる」ことへの方法論を提示してくるにちがいない。したがって私らは西東三鬼氏――左様あれほど尊敬していた――を蹴とばさねばならなくなった。なぜなら三鬼氏が内臓しているハイデッガーの、そしてあるいはヤスパースの実存主義には「生」をすでに有限とみなしたニヒリズムと絶望が厳然として存在しているからでもあるし、「生」へあまりにも中年的な興味をもちすぎているからである。(「牧羊神」第六号「光への意志」)

見たことは在ったことと決して同じではない」「在ったことではなく見たことを俳句とする」「私らの俳句は実生活の前にあろう」。ここで寺山は、さきに引いた秋元不死男の「わたしの一句一句は、わたしの生命と生活の記録である」という言葉に相対する考えを述べている。波郷の説「俳句一句は不完全であるがゆえに、その作者そのもの、また他の作品を知ることにより一句を理解していく」にも異を唱えている。依然、最大の武器は「若さ」である。若さによって、経験ではなく、記録でもなく、「見たことを俳句にする」。虚構と呼ばれる脚色、いわゆる「取り合わせ」ともまた別の手段としてのコラージュ、寺山としてはオマージュのつもりなのかもしれないが、なかなかそのようには写りづらい引用。寺山自身の実作をものがたる文章とてしては理解できるものである。


「牧羊神」同人たちにとっては、これらの文章はどのように映ったのであろうか。寺山は俳句革新を、と呼びかけ扇動するが、その方向性、共有すべき目標には具体性がない。最も実現可能と考えられる目標は「牧羊神」を育て、俳壇に無視できぬ存在として在り続けることであろうが、彼らは勇み足に過ぎた。ここまでの「牧羊神」からの引用文は、わずか半年間に書かれたものである。昭和29年2月の創刊号をかわきりに、第三号までは毎月発行、遅れた第四号と第五号は7月から8月に相次いで発行された。この間寺山は大学に進学、他の同人も進学や就職で郷里を離れるものもあった。俳句革新運動のため、夢中で俳句を作るのは欠かせぬ活動であろうけれど、手がけた雑誌を月刊とするのは並大抵のことではない。創刊からほどなく会費の値上げ、同人と会員の別を作るが、同人に留まって欲しいという連絡、新聞の公募に応募して賞金を活動費として充てられたい―などというお願い、さまざまな呼びかけが「牧羊神」内で行き交う。

 同人達の中にはそれぞれ「七曜」「群蜂」など結社に所属するものもあり、既成の俳句を打倒するという目的に、どのように折り合いをつけるか、といった内心の問題も発生するのではないだろうか。「既成の俳句」にはそれぞれが所属する結社の長の作も含まれるのである。


 駄目押しで追加すると、寺山はこの時期さらに詩誌「魚類の薔薇」創刊に参加している。「十代のモダニストを糾合せんとする意図」の下に発足した「魚類の薔薇」詩人会には京武久美、近藤昭一、金子黎子などのちの「牧羊神」メンバーも参加していた。

 詩と俳句というジャンルは違えど、全国から同志を募り雑誌を立ち上げるというアイデアは「魚類の薔薇」に始まり、「牧羊神」に発展した。

「魚類の薔薇」は情報が乏しく詳細に不明点が多いが、昭和28年から29年にかけての4号まで参加、詩作品を寄せ、鼎談にも参加している(*『寺山修司 ぼくの青春ノオト』久慈きみ代/論創社)。29年には北園克衛のVOUに参加、「vou」42号に「航海日誌」「menu・幸福の」「航海」詩三篇が掲載されている(「vou」の詩誌批評欄に「魚類の薔薇」への言及もある)。同年Vouクラブに属する安藤一男の詩誌「ガラスの手袋」に参加、詩を寄せている(現物未確認)。30年の「文章倶楽部」詩欄(鮎川信夫・谷川俊太郎選)では「誕生」が入選作として掲載された。

 短歌だって書いていた。中学時代の寺山はどちらかといえば短歌、詩、童話を主に書いていた。昭和27年(1952年)の歌誌「日本短歌」5月号には読者作品欄の推薦作品として以下二首が掲載されている。

 寒卵を卓にこつこつ打つときに透明の器に冬日たまれる
 古びたる碗と枯れたる花ありて父の墓標はわが高さなる

話がこんがらがってくるので、年表にまとめてみる。


 詩の活動を青字、短歌の活動を赤字で示した。

 まさに全面展開、絨毯爆撃といおうか、昭和27年から30年ごろにかけての寺山は「常軌を逸した文芸活動」(『寺山修司 ぼくの青春ノオト』帯文)を繰り広げていた。

 ものの文章に目を通すと、寺山は「牧羊神」を足がかりに俳壇に打って出ようとしたのだ、というが、それは本当にそうなのだろうか。矢継ぎ早に巻を重ねた「牧羊神」は寺山の情熱とは裏腹に、作品の革新が目立って進んでいるようには見えない。

 野心のためというには、「牧羊神」は結果的に素朴な集まりであった。一年を持ちこたえることなく刊行は滞り、さまざまな企画がたてられつつ、躓き、頓挫した。そのかたわらで、寺山は幾人かの同人に中城ふみ子の「乳房喪失」を見せて感想をたずねるなどしている。同時期に詩や短歌もさかんに作っていた。

 いったい寺山はどこへ行こうとしていたのか。あるいは、どこへ行こうというのでなく、何ができるかを模索していたのか。(つづく)



【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター 2『伊丹三樹彦の百句 解説と鑑賞』(伊丹啓子&青群同人、2021年刊、ビレッジプレス)を再読する。 豊里友行

 元祖・写俳の伊丹三樹彦俳句と伊丹啓子&青群同人の解説と鑑賞を秋の夜長に堪能する。

 せっかくなので私も俳句鑑賞にて俳句をいくつかピックアップした。

 伊丹啓子&青群同人の解説と鑑賞は、伊丹三樹彦俳句をより深めてくれている。

 カバー写真の故・岩崎勇氏も伊丹三樹彦俳句とマッチしていて素晴らしい。

 独自の分かち書きも俳句界で異彩を放つ。


  あとがきによると「俳人であり、私の父である伊丹三樹彦は二〇十九(令和元)年九月二十一日に永眠した。満九十九歳七ヶ月の大往生だった」(伊丹啓子)とある。

俳句や写真をささえにされていたのを私の句集・写真集献本の返礼の葉書を読んで溢れるほど感じとれた。

 俳句の眼と写真の眼は、釈迦の開眼のごとくの感さえ覚えていた。


なお生きて 生き抜く朝の 蟬声浴

生き残り生き残りして 絵双六

死ぬまでの句作 尺取虫歩む

句作以て しぶとく生きねば 紙風船

命果つまでの日々詠む 白木槿

朝日 夕日 浴びて この世にまだ生きて

 生きる力は、意思の強靭さ。

 生きることと死ぬことの表裏のどれも俳句に支えられていたようだ。

 どの俳句にもそのしなやかで逞しい意志が溢れている。


椰子割って 汁吸う 実剥ぐ 喝采浴ぶ

 海外詠ならではの鮮やかな映像を俳句から喚起させる。

 Lee凪子解説によると写俳集『隣人 ASIAN』所収。シンガポール詠。「現代俳句に一生を捧げた亡き父にエールを送りたい。」


抱けば子が首に手を纏く枯野中

 矢野夏子解説によると「昭和二十八年作、『人中』所収。掲句のモデルは三歳の頃の私である。」とある。首に手を纏く。その素晴らしい描写力で植物の命が枯れた野原のなかに子の生命力を鮮やかに感受させている。


秒針のふるえまざまざ 妻 往生

 鈴木啓船解説によると「青群」第三十五号「慟哭哀句」より。「私のような末端の弟子に対してさえ、結婚の折や妻や母との死別の際には、心に染み入る俳句作品を贈って下さったのだから、生涯に書いたこの種の作品の数は推して知るべしである。」

いただきに立つ俳人たちの惜別の句の多さにも注目すべきだと感じた。


白足袋の裏も無垢にて 花見の歩

 兼田京子解説によると「三樹彦先生が私をモデルに詠んで下さった思い出の一句です。その時先生は吟行する着物姿の私の後姿も撮影されていて、その写真と小色紙に記した掲句を写俳作品にしてプレゼントして下さったのでした。」とある。

 白足袋の裏まで詠める俳人の心遣いに感服した。

 生涯、俳人であること。私は、この俳人の、その覚悟にたじろがされる。

 これら伊丹三樹彦の百句に添えられた思いは、大切な出会いの財産でもある。

 いろんな思い出を添えて下さる俳句仲間や御遺族の方々にとってかけがえのない財産。

 天まで届いているんでしょうね。


共鳴句をいただきます。


長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

樹懶ぶらりとひとりものの前

ピカソの胸毛消えて梅雨蒸す地下シネマ

古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

好日の 虻溺れきる 枇杷の花

風が沁むから抱き合う 波止場の突端で

折からチャイム はらら はららと 麦蒔く指

筆圧を強める 文通の友への今

一碧の天を戴き 彼岸花

杭打って 一存在の谺 呼ぶ


【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】9 「希望」のバトン  宮崎斗士

 少年兵は地球パズルの繋ぎ目

 少年兵たちのひたむきな姿勢とそれに伴う深い憂い、そして平和への切なる祈りが、「地球パズルの繋ぎ目」――地球という星を司り形成していくという。いたく奇抜な詩想ではあるが、作者の戦争、地球との対峙――その視座がくっきりと伝わってきた。


レノンの眼鏡の平和って しゃぼん玉

万華鏡みたいな遺品の眼鏡

 十二月八日は太平洋戦争の開戦日であり、平和を歌ったジョン・レノンの命日でもある。レノンのシンボルでもある眼鏡の万華鏡のような美しさ、そしてしゃぼん玉の輝きと儚さにも似た「平和」のありようを作者は強く訴えている。


原爆ドームは人類の眼球だ

 原爆ドームの形状を眼球に喩えた一句。私はこの眼球を全人類にたった一つの眼球と解釈。その眼球は世界中の戦禍、また核の闇をぐいいっと睨みつけているようだ。


警鐘の眼となる死者の花梯梧

戦争を止める目力木の葉蝶

空蟬の眼は人類の核シェルター

なども「眼」をモチーフとした作品群、各々の「目力」に地球に住む一個人としてあらためて背筋を正される思いがする。


僕らの白シャツのどれも核ボタン

 今着ているシャツのボタンが核のスイッチだったら……。昭和五十一年生まれの作者の平和な健やかな日々に潜む核の恐怖。一歩間違えれば、の地球上にいる確かな実感。


闘争は嫌っでで虫の角がいい

虹の楽譜を独奏かたつむり

渋滞の中の快速かたつむり

こつこつと生きる蝸牛の流星

 句集『地球のリレー』には蝸牛を詠んだ句が多数収載されている。殺伐とした血生臭い闘争より「でで虫の角がいい!」と明るい笑顔の作者、虹の橋を渡る蝸牛に雨上がりの爽やかな旋律を捉える作者、その緩慢なスピードも長い渋滞の中では「快速」に変わり、こつこつと生きる(前進する)健気さに流星の煌めきを汲み取る。


蛙鳴く銀河系の膨張音

蛙鳴くたび星屑のポンプ漕ぐ

惑星の軌道が弾む蛙鳴く

蛙とぶ地球の弦の虹はずむ

蛙の目だけ浮く月面到着

宇宙史のX光年の蛙とぶ

 そして表紙や本文中のパラパラ漫画に頻繁に登場する蛙を詠んだ作品群。蛙と大宇宙との朗らかな交信、何とも快く麗しい。


蒲公英の絮は弾む地球のリレー

ごろんごろん地球のリレーの野菜籠

万物の命が弾む地球のリレー

 句集タイトルでもある「地球のリレー」というフレーズ。蒲公英の絮も瑞々しい野菜たちも「希望」という名のバトンを後世へと繋げているようだ。長きに渡る歴史の変動の中にあって、一つ一つの命の輝きが嬉しい作品群――。そしてこの一冊の句集だった。


【連載】現代評論研究:第21回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 仲寒蟬編

(2011年12月30日)

8.病気・死と遷子について。

 筑紫は〈これこそみなさんに聞いてみたい〉と言い、遷子の死についての反応を〈①応召を受けての戦場での死の対応、②病気となって最後は死を免れないと自覚した時の死への対応〉、の2点に分けて考える。

①このような死の危険は普遍的ではないとしつつ、死に対して臆病な遷子の言動を紹介する。「馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともうまっさきに降りているのですよ」(堀口星眠聞き書き)「生来臆病な私にとっては、小銃弾の音さへもあまり有難くはありませんでした」(遷子の回想)。

②〈無神論者からすれば、次の世や神の国は存在しないのだから、死はあらゆる世界の崩壊である〉から〈この崩壊寸前の世界の最後の瞬間を、たった一人孤独に耐えてどう見るか〉が遷子だけでなく我々にとっても問題と言う。その意味で〈我々は、遷子の俳句を語っているつもりで、実は自分の死に臨む姿勢を考えているのである。「微塵」が美しいかどうかではなくて、美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理を考えてみたい〉と述べる。


 は突然に来る戦地での死と異なり、病気の場合は一歩一歩死に近づくので〈自分だけの孤独な心の揺れがあ〉ると述べる。〈病状に一喜一憂しつつ、その折の心情に正直な句が並ぶ中での「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、意志のかたちを取った虚無なのか、それとも静かな覚悟か、今も分か〉らないと言う。原句「何も残さず」から「微塵となりて」への推敲については〈言葉によって心身の昇華を願った結果〉かと考える。


 中西は自身の病気(生来の胃弱、戦中戦後の肋膜炎、死に到った癌)という意味でも医師として毎日病気の人を治療していたという意味でも〈遷子にとっては病気は常に身の回りにあった〉と述べる。

 だからと言って病気と死に慣れるものではないが〈自身の死期は他人には言わなくても、分かっていた〉、だからこそ「冬麗の微塵となりて去らんとす」という辞世を用意できたと言う。

 〈死によってすべてなくなるという発想は、再生も輪廻もない、無宗教のものである。死を学ぶことを医師として良かれ悪しかれ患者を通して体験的にしていた〉と述べる。


 深谷は患者の病気や死を対象とした作品は医師俳句として結実し、自身の病気については晩年の闘病俳句となった、と言う。「冬麗の微塵となりて去らんとす」については〈文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹した〉と述べる。


 は『山河』の闘病俳句を読めば諦めたり強がり言ったり煩悶したり、心が揺れ動いているがこれは人間として自然で、〈冬麗の微塵の句になってやっと覚悟が定まったかに見える〉と言う。ただ遷子は揺れ動く自分を冷静に見て「写生」しており〈患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがない〉という意味で〈極めて科学者的な目を持った人であった〉と述べる。

 自分を「無宗教者」と決めつけ、信仰を持たず、「死は深き睡り」に過ぎないと考えていた遷子は死後故郷の自然と一体化すると思っていたのではないかと推測する。


8のまとめ

 遷子は生涯に少なくとも2度死に直面している。

 最初は応召されて戦地へ向かった時であるがこれに触れたのは筑紫と原のみであった。これに関しては誰もが経験するものとは少し異なり、ことに現在のような平和な日本ではあまりピンとこないものであろうが忘れてはなるまい。筑紫の紹介する死に対して臆病な遷子の言動は決して誰も笑えないものである。

 一方、癌を患ってから死に至るまで遷子が思い悩み、考えたことはほぼそのまま俳句として結実しており、それこそが我々の心を打った。この死を前にした時の揺れ動く気持ちは誠に人間的で原、仲がこの正直さに注目している。また病気自体は医師遷子の周りに常にあったものだが、中西はだからこそ自身の死を覚悟で来たと述べ、仲は患者や身内の病気・死に対しても自分のそれに対しても冷徹な姿勢はぶれることがなかったと強調する。

 死に対して無宗教者、無神論者であった遷子の虚無的な死生観についてはほぼ全員が触れている。筑紫はそこから我々のうちやはり無神論者である者が学ぶものが多くあると考える。

 また辞世と言われる「冬麗の微塵となりて去らんとす」を全員が挙げており、筑紫は美しい言葉を吐きたいと思った遷子の心理に注目、原は推敲の過程から言葉によって心身の昇華を願った思いを忖度、中西は患者から死のあり方を学んだ末の覚悟と言い、深谷は文字通りの絶唱で古武士の最期を見る感があると述べ、仲は故郷の自然と一体化する思想を読み取っている。


【連載】現代評論研究:第21回各論―テーマ:「老」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭(今回欠稿)、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(2012年3月2日・9日)

●―1:近木圭之介の句―「老」を読むー/藤田踏青

失イツクシ。蝶残ル

 平成6年の「層雲自由律2000年句集」(注①)所収の作品である。この年には圭之介は82歳になっており、既に老境に入っている。失ったものは何か、自己の人生に於けるものか、現存在としての眼前の状況か、それともこの世界そのものへの洞察か。色々と想像できるが、そこにはハイデッガーの「現存在」の存在構造としての時間性を認める事ができる。掲句の真ん中に置かれた句読点は、上句の時間性と下句の現存在を示すものであると共に、時間という一般的には「過去・現在・未来」という不可逆的方向性を持つという認識への切断をも意味していると考える。残った蝶は現存在であると共に未来をも示唆しており、更に失われた過去へも回帰してゆくものであるから。つまり、ハイデッガーの述べている「根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す働きのようなものである。また現在もそれ自体で生起するのではなく、『死へ臨む存在』としての我々が行動する(あるいはしない)時に立ち現われるものである。」(注②)という事に通じるものがある。その時間性に関する句をあげてみよう。

 日付けのない暦背負って逃亡しようか   平成1年作   注③

 月炎える 私未来図どうあろうと     平成3年作   注③

 ひとり神の方を見ていたが 暗くなった  平成14年作

 過去の破片に 居場所はなかった     平成16年作

 取除くことは ここ数日の一行      平成17年作

 そこに過去・現在・未来が均質的に続いてはいない。そして晩年に至る程、過去から遠ざかろうとすることも「老」に対応する方法論の一つかもしれない。それは「死へ臨む存在」への傾斜とそれによって作り出された空間へと集約されてゆくようだ。

 生の裏に球体の小さな翳り   平成13年作

 宙(そら) 一滴        平成16年作

 ひとつ椅子に残る 存在    平成16年作

 これら個としての存在論的なあり方と地球、宇宙という存在的なあり方との対比に無時間性も視る事ができよう。さらにこの様な思いは下記の詩の中で既に用意されてもいた。


「三秒あれば」抜       昭和27年作  注④

三秒あれば

コップの水を土に捨て

中に宇宙を入れることも

出来る


 この詩はまさしく後年の句「宙 一滴」と対をなすものであろう。

 最後に平成21年に97歳で没するまでの最晩年の句を掲げてみよう。

 指先 一つの生 美もありそう      (94歳)  平成18年作

 己れの記憶の中で笑った         (94歳)  平成18年作

 己れは己れへ消えるため 風むきえらぶ  (95歳)  平成19年作

 おのれの風よ。今の笑いも昔のものよ   (95歳)  平成19年作

 ここに存在的なあり方ではない、存在論的なあり方が提示されているようにも思えるのだが。


注①「層雲自由律2000年句集」 合同句集 層雲自由律の会  平成12年刊

注②「存在と時間」 マルテイン・ハイデッガー  岩波文庫、ちくま学芸文庫

注③「層雲自由律90年作品史」 層雲自由律の会  平成16年刊

注④「近木圭之介詩抄」 私家版  昭和60年刊


●―2:稲垣きくのの句【テーマ:流転】赤坂時代(戦前編)/土肥あき子

 引越して手勝手違ふ炭をつぐ 「春蘭」昭和14年2月号

 掲句は昭和14年にA氏がきくのに与えた赤坂福吉町への転居の折りのものである。川が流れ、橋が掛かっていたという800坪の広さもさることながら、裏は九条家、東隣は黒田侯爵家という立地からもその財力がうかがわれる。

 福吉町の地名の由来は、江戸時代このあたりは福岡藩黒田家、人吉藩相良家、結城藩水野家の屋敷があり、明治5年(1872)三藩邸を合併して一町とし、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって「赤坂福吉町」が誕生した。当時、「福」と「吉」の文字が連なる縁起の良い町名ということで人々の間で評判になったといわれ、黒田侯爵家、九条家、一条家という大邸宅を抱えた土地となる。

 南側の飲食店街では、きくのが引越す6年前の昭和8年(1933)2月、小林多喜二が芸妓屋で仲間を待っていたところを、特高に踏み込まれ20分に渡って逃げ回った路地がある。

 一方、きくのが居を構えた北側は、大きな屋敷が点在する閑静な土地で、晩年きくのは当地を「緑地帯でまことによい環境だったので私は終焉の地を卜したつもりでいた」(『古日傘』「騒音地獄」)と振り返る。

 「春蘭」同号には

 開け違へはたと屏風につき當る

 これは慣れない屋敷のなかで、うっかりこちらから開けてしまうと屏風の裏に出てしまうという、ちらっと舌を出すようなあどけない失敗や、隣家の威風堂々たる借景と思われる

 お隣の雪吊が化粧部屋の外

なども並ぶ。


 当時の写真を見ると、暖炉の洋間ではカウチで優雅にくつろぎ、見事な床の間のある和室では火鉢に凭れるきくのがいる。その顔は幸せと喜びに輝いているが、しかし、一般の新居撮影と異なる点は、その広すぎるほどの家のなかのどこでも、きくのがひとりで写っていることだろう。

 掲句の「手勝手違ふ」とは、幸せが基調になる違いであることは間違いない。兄姉弟の6人兄弟と両親という家族で暮らしていた頃の暮らしや、折り合いが悪かった姑と同居していた元夫との生活を比較すべくもないが、炭を継ぐという俯く仕草のなかにふと孤独の影もよぎるのだ。


●―4:齋藤玄の句– 「老」を読む -/飯田冬眞

 冬の日と余生の息とさしちがふ

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 個人差はあるのだろうが、男性にとって「老い」を実感するのは、容姿というよりも肉体の機能の衰えによるものが大きいのかもしれない。たとえば、それまで難なく上っていた駅の階段が途中で息を継がなければ上れなくなったり、それまで軽々と持ち上げていた鞄が急に重く感じたりすることが、男に「老い」を自覚させる契機になるようだ。そうした機能面の衰えを自覚した後に鏡などで筋肉の落ちた自身の肉体を視覚的に突きつけられたとき、ようやく「老い」は内面にまで浸透してゆく。

 流氷を待ち風邪人となりゆけり  昭和47年作

 老体を氷湖の道がつきぬける   昭和47年作

 しんしんと肉の老いゆく稲光   昭和47年作

 この年、齋藤玄は58歳。一、二句目は、石川桂郎とともに厳寒の網走を旅した折のもの。氷点下の白銀世界の中で〈風邪人〉となりながら流氷を待った男たちは、ようやく自身の肉体に「老い」が近づいていることを悟ったに違いない。だが、氷の上を走り来る風の冷たさを受け止めている〈老体〉はまだ感覚的なもので、視覚化されてはいない。

 三句目は同年の秋の句。処女作以降六千句の句業を千六百句余りにまとめた第三句集『玄』を刊行した後の作。稲光の閃光に映し出された自身の肉体を目の当たりにしたとき、静かに進行している肉体の衰えを自覚したようだ。

 枯るる森重ね重なりものわすれ   昭和48年作

 若いうちから物忘れの多い人はいるだろうが、玄の場合は若年期より和洋の詩文を諳んじていたというから記憶力にかけてはかなり自信があったようだ。さりげない句ではあるのだが、〈枯るる森〉と〈ものわすれ〉の取り合わせに、そこはかとない「老い」の自覚を嗅ぎ取ることができる。

 八ツ手散るままに晩年なしくづし   昭和49年作

 残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉   昭和49年作

 「老い」の意識が内面に浸透し尽すと次には「晩年」意識が首をもたげてくるようだ。八ツ手の花の散りざまから自身の晩年が〈なしくづし〉に進攻している哀しみが表れている。この年、胆のう炎を患い初めて入院生活を経験し、「晩年」および「残生」の意識が心中に深く刻み込まれてゆく。この年、60歳。

 残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲    昭和50年作

 晩年の不意に親しや秋の暮   昭和50年作

 晩年へ来ては出でゆく秋の暮   昭和50年作

 病床の石川桂郎を見舞う直前の作。「晩年」および「残生」の意識は、清澄な精神性とともにある種の「余裕」を玄にもたらしたことがわかる。それは自身の残生が〈おほよそ見ゆる〉ことができたためかもしれない。開き直りといっては悪いが、天の配剤なのだという自覚が芽生えてきたからこそ、老いの時間が〈不意に親し〉くなるのだろう。そうした〈晩年〉に対する余裕とは、自意識の放下によってもたらされたものかもしれない。それは〈鰯雲〉や〈秋の暮〉といった自身の力の及ばない時候や天文の季語に身を寄り添わせているところからも推察できる。

 齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり   昭和50年作

 晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな   昭和50年作

 いまのいま余生に加ふ焚火跡    昭和51年作

 昭和50年11月に30年余の刎頚の友であった石川桂郎に、51年1月に相馬遷子の長逝に相次いで遭い、「晩年」意識は「軽み」の姿を帯びてゆく。〈齢抱くごと〉の比喩が〈熟柿をすする〉作者のありようを内面とともに的確に描いており、微笑を誘う。少しでも力の加減を誤れば、〈熟柿〉は見る影もなく崩れ、甘い臭気とともに無残な果肉を周辺に撒き散らす。「老い」とはまさにそのようなものなのだろう。

 冬の日と余生の息とさしちがふ   昭和52年作

 「晩年」意識は畏友たちとの長逝という訣別を経て、「余生」へと変化してゆく。掲句は前立腺手術の入院生活から解放されて、しばしの安息を味わっていた頃の句。冬のある日、自らが吐いた白い息が自分の顔を包んだのだろう。玄の住む北国でなくとも冬の日常風景としてはごく当たり前のことである。それを〈余生の息とさしちがふ〉としたところが、非凡である。〈さしちがふ〉の措辞に齋藤玄という俳人のもつ「あらがう生」をかいま見た思いがした。

 「老い」の意識とは、精神から肉体の変化を経て、ふたたび精神へと戻ってゆくものであることが、玄の「老い」を詠んだ俳句の語彙の変遷をたどることで理解することができるだろう。「晩年」「残生」「余生」とは決して受身のことばではなく、〈さしちがふ〉ほどの覚悟が心の底に潜んでいることを忘れてはならない。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


●―5:堀葦男の句– 「老」を読む -/堺谷真人

 夏樹揺れ少女に老いの日の翳り

 『機械』(1980年)所収の句。

 鬱蒼と茂る夏の樹々。風に揺れ、葉ずれの音を散じている。緑蔭にたたずむ一人の少女は、降り注ぐ木洩れ日の中で溢れんばかりの若さに輝いている。が、ふとした瞬間、何気ない表情の中に作者は数十年後の彼女の衰老を先取りして見てしまったのだ。錯覚か、妄想か。見てはならぬものを窃視したかのように擬議する作者。しかし、数瞬の後、眼前で屈託なく笑う彼女はもう元の少女にもどっている。

 不思議な俳句である。作者は現存する少女を詠みながら、少女の可能態としての老女を詠んでいる。若さと生命力の絶頂を顕示する存在を前にして、却ってその対極にある老年に思いを馳せている。赤い三角形を見てから視線を白紙上に転ずると、残像として淡い緑の三角形が浮かび上がる。ちょうど赤がその補色である緑を吸い寄せるように、若さが老いを想起させるのである。

 ところで、葦男が自らの老いを意識したのはいつの頃からであったろう。金子兜太はある文章(*1)の中で「葦男には老成観がなかった」と至極簡単に総括しているが、これはあくまでも作句態度における話である。一方、作品に即して老いの徴候をみてゆくとき、我々は葦男が自身の加齢現象に向けた率直なリアリズムの視線に気づくであろう。

 父もかく老う浴槽の波顎に受け   『機械』

 花辛夷わが歯いくつか亡びつつ   『山姿水情』

 霞む山に浮かぶ黒点わが眼の斑(ふ)   同

 皺っ腹さむざむしょせん風羅坊   『過客』

 これやこの痩脛皺腹初風呂に   同

 還暦前後から70代半ばにかけての作品である。特に、一句目、四句目、五句目がいずれも入浴シーンであることは注目してよい。葦男は見ることを重んじた作家であり、一糸まとわぬ自己の肉体の老化からも目をそらさなかったのだ。

 それでは、自身の肉体的老化には十分に自覚的であった葦男は、精神的な老いについてはどのように感じていたのでろうか。残念ながら、筆者はこの疑問を解く鍵をまだ手にしていない。ただ、年譜(*2)に見える次のような項目から、おぼろげに見えてくる情景というものがある。


   1986年11月  神戸一中三十五回生、古稀祝賀会

   1987年 8月  東大経十六年会

   1988年 6月  東大経十六年会

   1991年 4月  神戸一中三十五回生総会の旅・弁天島

   1993年 2月  六高会


 古稀の賀を境にして、葦男は学生時代の級友との交流が次第に密になってゆく。それぞれの職業人としての責務から解放された旧友同士で酌み交わす酒の味は格別であったに違いない。ともに青春を謳歌した者は、数十年の時空を一瞬に超越して語りあうことができる。

 外見はたとえ白頭翁、禿頭翁となっていても、彼らは互いの中に今もなお白皙の書生や日焼けしたアスリートが歴々として存するのを見ているのだ。

 樫の芽や書生という語いまも好き   『過客』

 かつて少女に「老いの日の翳り」を幻視した葦男が、ここでは逆に老年の中の青春を余すところなく享受している。肉体の老化を通過して再び炙り出されてきた青春性こそ葦男にとっての真実であった。彼に精神の老いを感じている暇などなかったのである。

 1993年2月8日、旧制六高の同期会で俳句の話をして帰宅した葦男は、翌2月9日の朝、入浴中に腰背部に激痛を訴えて入院、2ヵ月半後に不帰の客となった。入院直後の句は重病人である自己の状況を端的に詠んでいる。が、そこに悲嘆や不安といった要素は希薄である。新しい体験をむしろ好奇のまなざしでとらえ、表現する精神の快活さと柔軟さを葦男は最後まで失わなかった。

 浅春ベッド管と数字に取りまかれ   『過客』

 漂客に点滴隣の寺に春の句座   同


(*1)「一粒」第29号「樫の年輪」2004年3月

(*2)『朝空』「堀葦男年譜」1984年/「一粒」第1号「堀葦男年譜」1997年3月


●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭【21,22は休み】


●―9:上田五千石の句―「老」を読む― /しなだしん

 冬銀河青春容赦なく流れ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十五年作。

 「老」とはいつから始まるものだろうか。

 この句の制作年で、五千石は二十七歳。普通に考えて老いを感じるにはまだまだ早い。しかし私がはじめて老いまたは老けを感じたのは、二十七のころだったような覚えがある。それを老いというのは少し大げさだろうか。体力の衰えや体調の変化を、察知したとき、それを老いの兆しとして感じたのかもしれない。それはまさしく「青春」の終焉を感じ取った瞬間ともいえる。そんな理由から私の中で「青春の終り」と「老いのはじまり」は近しい感覚がある。

 五千石もこの頃、そんな感慨をいただいていたのだろうか。

     ◆

 掲出句と同じ「青春」を詠んだ句に、昭和四十年作の「青春のいつかな過ぎて氷水」があり、この句の自註(*1)には〈二児の父となっては、青春をとどめようもない〉とある。また昭和三十七年にも「冬夕焼わが青春の余白尽く」を作っており、「青春」への追憶が濃く滲んでいる。なおこの「冬夕焼」の句は『田園』には収録されておらず、補遺として『上田五千石全句集』に収められている。

     ◆

 掲出句。「渋民村」と表題の付いた四句のうちの三句目。

 自註には〈私は「銀河ステーション」から夜の軽便鉄道に乗った。これが「銀河鉄道」とは知らなかった。「青春」という駅を、いま通過する〉と記している。

 渋民村は「しぶたみむら」と読み、岩手県岩手郡にある村で、現在は盛岡市に属している。石川啄木のふるさととしても知られる。

 また自註にある「軽便鉄道」は岩手軽便鉄道、現在の釜石線のこと。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われており、自註はそこのこと指している。

 時は冬。寒々しい夜、銀河鉄道に揺られて車窓から雪景色を見るとき、過ぎゆく青春を実感したのだろうか。それは銀河鉄道というシチュエーション、そのセンチメンタリズムが少ながらず影響しているのかもしれない。

 ちなみに同時作は以下の三句。

 雪の渋民いまも詩人を白眼視

 星夜出て反骨教師雪つかむ

 寒昴死後に詩名を顕すも


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井

 墓地抜ける生色少女のふくらはぎ

 昭和38年『孤客』、と自句自解にはあるが、全集本の『孤客』にはない。いつの段階で最終句集原稿から消えたものやら。もとより無季俳句。

 何となく楠本憲吉のからみつくような嫌らしい視線を感じるが、まさにその通りである。憲吉が慶応義塾大学の講師を務めていたとき、慶大俳句会のメンバーを連れて鎌倉近代美術館へ吟行に行った。その時長谷寺を抜けて行く教え子の女子大生の若々しいふくらはぎが目にとまってこの句が出来たという。

 自句自解には、この1年、池田弥三郎の推挽で慶応義塾大学の講師となったと言うが、年譜では講師を務めたのは昭和40年とある。何が本当なのか憲吉についてはさっぱり分からない。本当は調べて書くべきなのだが、そんな調査をする価値があるとも思えないので矛盾した資料そのままに書いておく。

 それでも、38年に講師だったらしいことは、翌39年、この女子大生(筑紫出身)を詠んだこんな句があるから間違いなさそうだ。

 春一番筑紫乙女は幻めく

 講師の期間は1年だったらしいから翌年はもう教え子としての関係は途切れているが、憲吉としてはこの女子学生に相当未練があったらしい。憲吉先生、41歳の男盛り。その前年、長男が同じ慶応義塾中等部に入学しているというのに!

 嫌らしい視線といえば、こんな視線の句もある。

 スリットがこぼす脚線ころもがえ

 昭和61年『方壺集』より。ちょっと目のやり場に困るような句だ。そもそも「スリット」という言葉が何故出てきたかというと、憲吉の句会の袋回して「スリット」という題がでて最初のスリットの句を詠んだという。とんでもない句会だ、スリットなんて題を出す句会がどこにあるだろう!憲吉はそれ以来病みつきになり、盛んにスリットの句を詠み始めたらしい。しかし、この句、その中ではスリットの本意をよく詠んでいる秀作である。王道を行くスリットの句であろうか。


●―12:三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】/北川美美

⑩ 渡り鳥目二つ飛んでおびただし

 渡り鳥の目だけが飛んでくるようなスピード感ある凄まじい光景がただ浮かぶ。渡り鳥は命をかけて飛ぶのである。その臨場感が伝わってくる。世界中に散らばる渡り鳥たちが、同じ地をめざし、どんな経験を積み重ねているか。克明に映像化した『WATARIDORI』(原題: Le Peuple Migrateur/2001 監督:ジャックペラン)は、生きるためだけに鳥たちが北に向かっていく姿だけを収めた壮大な映像である。彼らの繁殖が生まれ故郷の北極でしか行われないことは自然界の神秘的な法則である。

 敏雄に鳥の句は多い。『眞神』では、晩鴉(6句目)、渡り鳥(10句目)、信天翁(32句目)、発つ鳥(72句目)ひばり(82句目)、飛ぶ鳥(97句目)などが散りばめられている。『創世記』のノアの箱舟では、洪水の40日後にノアは水が引いたのかを確かめるため、はじめに鴉を手放す。『眞神』が鴉からの登場していることは偶然かもしれないが感慨深い。

 船上生活の永い敏雄は沢山の鳥たちをみてきたことだろう。『眞神』の中の鳥たちは天界の使者のような八咫烏(やたがらす)の役目とも思えてくるのだ。八咫烏になりえる実在の鳥が敏雄の審美眼により選び抜かれ配置されているように思えるのだ。

 『眞神』というタイトルから日本の神話、山岳信仰、陰陽道などを連想することができるが、それは無季句をより効果的にするためのトリックのように感じられ、八咫烏は実在しない上にそのイメージがあまりにも付きすぎているため『眞神』の中では排除されているのだろう。昇天した敏雄自身が八咫烏のような気がするのである。

 無季句を追求する敏雄にとり、鳥は、読者を異世界に連れて行くことのできる橋渡しである。掲句は無季句でありながら散文になることも感情を込めることもなく表現されている。命を賭けた鳥たちがただただ北に向かっていく姿だけが詠われている。人間は太古より鳥になることを夢見ていた。


⑪ 家枯れて北へ傾ぐを如何にせむ

 陰陽道では、「北」について引いてみると、黒(色)、冬(季節)、羽(五音)、皮膚(五感)とでる。前掲句⑩の渡り鳥と⑪の羽のキーワードが一致。巧妙な句配列である。真北から西に6度ほど傾いているのが磁北になる。『眞神』であるならば磁北のことだろう。

 南の日照時間が多くなればその方位の家の老朽化が進み確かに北側に傾くというのは確かに頷ける。

 下五の「如何にせむ」は『古今集』ですでに使用されており「名取河せぜの埋木あらはれば如何にせむとかあひみそめけむ 読人不知」などがある。途方に暮れる嘆きの様子が雅やかに映る。現在、ビジネス文書あるいは国会中継で「いかがなものか」という台詞に遭遇するが、これには批判的意向が大いに含まれており、『古今集』の頃の「如何にせむ」とは使い方が変化している。掲句の「如何にせむ」にも少なからず批判的意志が含まれているとみる。

 というのは、ここで登場する「家」は、『眞神』の中でひとつのテーマとなり昭和30-40年代の日本の社会の底辺をも描いているように思えるからだ。「家」から広がる家族そして村社会が背景に潜む。

 写真集『筑豊のこどもたち』(1959土門拳)、映画『砂の女』(1963 原作:安部公房、監督:勅使河原宏)は『眞神』の世界をイメージするに恰好の資料と個人的に思う。特に、阿部公房と『眞神』の世界観には、前衛性を保ちながら、マクロの視点で人間の存在を観察し、アナキズムの匂いがある点に於いても共通項が多い。この人間の業を言葉に置き換えようとする作者の枯渇は戦争体験を通して戦後という時代を生きた人の心の渦のように感じるのである。

 『眞神』には思想的なものは何も含まれていない。一句一句に言葉によるシャーマンが隠れているだけなのだ。しかしながら家の老朽化の影に家族の不在も匂わせる掲句は社会的な日本の風景をも暗喩していると感じる。そういう村へ読者を連れて行く『眞神』の旅を楽しめばよいのだ。

『眞神』(1973年上梓)の発刊周辺の日本、世界の激動を一部挙げておく。


1972年

 日本陸軍兵 横井庄一 グアム島で発見

 連合赤軍・浅間山荘事件

 佐藤栄作退任 田中角栄就任

 ウォーターゲイト事件

 川端康成自殺

 大阪・千日デパート火災

1973年

 ベトナム戦争終結

 日本赤軍によるドバイ日航機ハイジャック事件

 金大中事件


⑫ 雪国に雪よみがへり急ぎ降る

 2011-2012年の冬は厳しかった。この氷河時代の前触れのような気象は雪国の老朽化した家々に例年の倍以上の雪を降り積もらせた。積雪に押しつぶされそうになりながら家の中でひっそりと暮らす独居老人がニュースに映されていた。けれどそこに暮らす老人の顔は決して苦悩に満ちてはいない。人間という業を生きるということを映像から垣間見た気がした。

 「よみがへり」とは、このような雪国という神話のような世界を示す地域に降る積雪のことなのだろう。雪国という名称に降る豪雪という自然の猛威。「急ぎ降る」という措辞に雪に埋もれながら孤独に年老いていく人の姿が隠れているように読める。


⑬ 冬帽や若き戦場埋もれたり

 日本陸軍の冬帽子に「椀帽」というものがある。フェルト製のお椀型になっているもので星のマークがついている。またソ連軍が被る耳アテ付の毛皮帽を満州北部に渡った筆者の父の19歳の写真からも確認することもできる。

 この句の「戦場」が満州を意識しているのかは定かではないが、極寒の地に散った青年は確かに多い。敏雄にとり戦争句を詠みつづけることは戦友への鎮魂であった。「埋もれたり」という下五により、嘆き、落胆、人を埋葬すること、雪に埋もれてしまうことを想像し、戦争が人々の記憶の彼方に埋もれてしまうという危惧をも感じる。

 若き兵その身香し戰の前 『弾道』

 支那兵が銃を構へて来り泣く 〃

 戦火想望俳句と全く異なる戦後の戦争俳句を詠むことを敏雄は『眞神』で確立したのである。敏雄の戦争詠は20年のスパンで変貌していく。


⑭ 針を灼く裸火久し久しの夏

 夏の句である。けれど郷愁の夏を詠んだ句と読む。

 「灼く」「裸火」「夏」、更に「針」まで登場し灼熱地獄の拷問を連想する言葉たちである。

突然の措辞「久し久し」が痛々しいまでにやさしく感じられる。言葉による飴と鞭である。

 囲いの無い火が「裸火(はだかび)」である。「裸火厳禁」という札はよく見かけたが、「はだかび」という読みに気が付くと、妙に艶めかしい。火(ひ)が裸(はだか)という捉え方がさすが源氏物語の時代の妖艶さに感心しきりである。「裸火」の場景をランプの囲いガラスを外して針を焼いている船内と想像した。敏雄が船内のランプの火で針を焼いているのである。

 「久し久し」と懐かしんでいる様子が伝わるが、子供の頃、母が傍で針を焼いていた記憶を言っていると読める。母親が敏雄の為に針を灼いて消毒をしている姿。それを今、自分が火を見つめながら針を灼いている。燃えている火をみつめると様々なことを想う人間の心理状態をよく観察している。

 掲句は大人になった作者が母親(あるいは乳母、養母など)を女という対象として捉え郷愁の中で優しい気持ちになっている感覚になる。しかし、掲句は何もそのようなことを書いていない、言っていないのだ。


⑮ 夏蜜柑双涙かわくばかりなる

 「反対の言葉を置いてみる。」掲句から山本紫黄との会話を思い出した。紫黄に書いた俳句(らしきもの)を見ていただくと、右手にぐい飲みを持ったまま無言で数分過ごし、ぽつりぽつりと言葉をこぼしていく。あまり俳句の話を自分からしなかったが、時に実作の極意らしきことを語る時は遠慮がちに「と三橋さんがよく言っていた。」と必ず付け加えていた。

 涙は流れるものであるが、ここでは乾いている。「涙」という言葉から感じるものは、「悲しい」「滲みる」「流れる」「しょっぱい」などであるが、それが「乾く」とどうなるのか。「乾く」とは、「心」「荒野」「砂漠」・・・と言葉の連鎖が不思議な感覚を産む。下五の「ばかりなる」の措辞が絶妙である。「乾く」までは考えたとしても「ばかりなる」がどうすれば降りて来るだろうか。何度もこの句を唱えて凝視していると、反語を使用した、

 鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ   渡邊白泉

がその先にみえる。

 涙が乾くという表現により、逆に涙が流れ続け、心があらわになり、悲しみがどこまでも続いているような感覚が生まれる。夏蜜柑が心のかたちのように、すぐそこに置かれているように思えてくる。敏雄のことを「三橋さん、三橋さん」と嬉しそうに思い出していた紫黄が妙に懐かしい。会いたいのに会えないのは辛い。双涙かわくばかりなる。


⑯ 著たきりの死装束や汗は急き

 人の死亡が確認されてから全ての人体機能が停止するまでには時差があり、それまでに痛みに苦しんだ表情がやわらかくなったり、掲句のように汗をかくということは考えられることだ。通夜の席で、ご遺体が微笑んでいるようだ、亡骸が一番美しい顔だったということに遭遇することは多々ある。その美しさを前に、すでに魂がこの世に無く、亡骸そのものが仏になったということを実感するのである。

 「著たきり」の措辞がややこしいのだが、遺体を送る側が見たご遺体の様子という見方と、死んだ人が俳句を詠んでいるという見方と二種類読めることにある。「昨日と同じ服で汗臭くて参ったな」と故人が汗をかいたことを自覚しているというように読めるのである。ここでは、後者の故人目線として視点を浄土へ飛ばしたということを考えてみたい。

 『眞神』では、作者の位置があちこちへ飛ぶのだが、視点を彼の世に飛ばして、下界を見るという一種のトリックにも思えるのだ。読者の視点を転換させるということが考えられる。

 「死装束」は、ご遺体を棺に納める際に故人に施されるもので、仏式では、故人の浄土での旅路にふさわし巡礼者の支度をさせるのが習わし。映画『おくりびと』での納棺の儀式で本木雅弘が死者に着せている装束である。

 この死者目線が昨今記憶にあるものは、新井満日本語訳の「千の風になって」(原題〝Do not stand at my grave and weep“直訳:私のお墓で佇み泣かないで)の視点がそうだ。死者が「泣かないでください」と残された人を慰めている視点と同じなのだ。

 「著たきり」の措辞により、霊的視点の読み方を選択したのは、霊的な存在が主人公となる「能」の世界の「夢幻能」と共通するジャンルが『眞神』と共通するからである。「夢幻能」は旅の僧など(ワキ)が名所旧跡を訪れると、ある人物(前シテ)があらわれて、その土地にまつわる物語をする。前シテは、中入りの後、亡霊、神や草木の精など、本来の霊的な姿を明示しながら登場し(後シテ)、クライマックスに舞を舞う。

 能は、シテが演じる役柄によって「神(しん)、男(なん)、女(にょ)、狂(きょう)、鬼(き)」の5つのジャンルに分けられる。これに「鳥」が入ってくると、なんとも『眞神』の登場物に似ていることになる。今まで何度観ても眠くなっていた能が『眞神』に共通項があると思うと、俄然、興味が湧いてくるのも不思議なものだ。能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てていることから「急ぐ」というこのキーワードも後シテの役割のようにも思える。

 「能」は「幽玄の美」と言われているが、敏雄は世阿弥の「幽玄」に戻って『眞神』を構成したというのも考えられることだ。

 さらに「汗は急き」の「急」の文字使用が『眞神』に3句もある。

 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋   8句目

 雪国に雪よみがへり急ぎ降る   12句目

 著たきりの死装束や汗は急き   16句目

 3句ずつ離して「急」を使用した句を配置している。暗号解き、ミステリーツアーのようになってきた。能の話に戻るが、能の番組は「序」「破」「急」の流れで仕立てている。「急」は五番目の切能にあたり、シテは「鬼」となる。このことから「急ぐ」というこのキーワードが能の番組と関係しているようにも思える。

 かつて、高柳重信は『蒙塵』の構想を中村苑子への書簡で明かしている。もしも『眞神』構想メモが、発見されれば、戦後俳句の遺産ともいえるのではないだろうか。

 また「著たきり」と「汗は急き」の検証として、「死装束」に他の言葉を馬鹿馬鹿しく置き換えてみる。

 著たきりの揃いの浴衣や汗は急き

 著たきりのめ組の法被や汗は急き

 著たきりの海水パンツや汗は急き

 著たきりの越中褌汗は急き

 他人が汗をかいているのか、自分が汗をかいているのかという点でいうと、やはり、自分が汗をかいているということがわかる。「汗は急き」が汗をかいた本人が実感する生理現象ということもあり、やはり死者が汗をかいているという見方の方が『眞神』らしいのかと思う。

 更にこの句から読み取れるのは、納棺されることのないご遺体が汗をかいていると想像するのである。死ぬ瞬間に汗をかくのは苦しかろう。「死に水をとる」とは臨終の際の死者を生き返らせたいと願う儀式である。この句の死者の死に水ととるのは、わたしたち読者と思えてくる。


⑰眉間みな霞のごとし夏の空

 「眉間みな霞のごとし」がわからない。

 再度、能を確立した世阿弥の世界を考えてみる。

 世阿弥は舞台における芸の魅力を自然の花に例えて心と技の両面から探求した。花とは観客がおもしろい、めずらしいと感じる心のこと。自然の花はそれ自体が美しいものであるが、その美しさの意味を舞台の芸として具体的に再現しようとしても、それを観るすべての観客が美しいと感じるわけではない。そこで世阿弥は、舞台の芸を種として観客の想像力に働きかけることで、ひとりひとりの観客が心の中にそれぞれの美しい花を咲かせる方法を工夫する。夢幻能はそのための様式として確立されたものなのである。

 読者の想像に働きかけること、それを敏雄は実践したのだろうか。

 「眉間」は表情がでるところである。そして顔面の急所である。記号的な読みとして、急所を調べてみると、眉間(烏兎)・鼻の下(人中)・下顎の前面(下昆)・こめかみ(霞)・、耳の下(露霞)、みぞおち(鳩尾、水月)等がある。これは武術でいう部位の呼称だが、広辞苑をはじめとする辞書にはどこにも出ていない。烏兎が日月を表すことから、眉間が襲われると、太陽と月が一気にでてくるような攪乱を起すという意味ではないかという説がある。記号的逆読みで掲句をみると、「月日の経過は早くこめかみが痛くなる思いで、夏の空はギラギラしていて眩しい限りだ。」と、わかった気になる。

 さて、「霞」を眉間とするならば、眉間で思い出されるのは、筆者世代では、劇画『愛と誠』(原作・梶原一騎)の主人公の早乙女愛と太賀誠が赤い糸で結ばれた蓼科高原スキー場での事故である。愛が誠の眉間に大きな傷を負わせる。早乙女愛を一途に愛する男・岩清水弘も懐かしい。花園高校というネーミングがまた想像を掻き立て、初めて新宿の花園神社を知ったときは、その中に『愛と誠』の学園が存在するのかと思った。

 そうとんでもないことを考えると、太賀誠の眉間の傷も過去のことであり、過去に操られ人生を翻弄するのは、霞のようなことであると思えてきた。何度も思うのだが、敏雄の句には人生のリセット願望を示すような句に遭遇すること多々なのである。

 秘すれば花。『眞神』は、残像の花を咲かせる。


●―13:成田千空の句– 「老」を読む -/深谷義紀

 小春日の雀となりて遊びたし

 平成17年作。句集「十方吟」所収。

 この句集は千空の6番目の、そして生前最後の句集であるが、この句集について千空自身は次のように語っていたと言う。

 「あの句集はちょっと優しく、柔らかになりすぎてねえ。私としてはもう一冊、なんとか骨のある、水位の上った、口あたりはよくなくても喰いたりる作品で飛翔したいんですよ。(中略)私の到達点をそこに持ってゆきたい。『十方吟』を通過した最後の句集をねえ」(角川書店「俳句」追悼大特―成田千空の生涯と仕事― 黒田杏子『太宰 志功 寺山そして成田千空』より)

 確かにこの句集の作品は、それまでの千空らしい骨太さがやや後退し、どちらかと言えば穏やかな詠み振りの作品が目立つ。しかし、見方を変えれば、懐の深さを示し、自在あるいは闊達な制作スタンスにシフトしたとも言えよう。この辺りの事情を、千空自身はこの句集のあとがきで次のように述べている。

 「ここ十数年NHK青森、弘前文化センター俳句教室、BAR俳句教室等、月に八回の俳句教室を担当して、私自身の作風に幾らかの変化を自覚した時期の作品といっていいように思う。」

 この「作風の変化」について、別の場でもう少し具体的に語っている。

 「俳句教室ではみんな職業が違うんです。(中略)私も影響を受けてますよ。(中略)農業を五十年、六十年とやっている方の人生体験。そういう人から聞く話はおもしろいですね。(中略)自分の世界を自分のことばでどうとらえるか。しかし、俳句の骨法はちゃんと学びながら、そういう方向へもっていきますので、カルチャーは私自身、張り合いがありますし、勉強になるんです。」(角川選書「証言・昭和の俳句」より)

 この句集には、こうした句境を象徴したような作品もある。

 八十の路八方に稲穂かな   『十方吟』

 死去の直前まで、千空は「俳句は沸くように出来る」と語っていたと言う。まさに、昨日までの自分を壊し、新しい俳句作家として生まれ変わっていく。そんな作業が楽しくて仕方ないといった様子が窺える。過去の実績に囚われることなく、新しい可能性をひたむきに探っていく。そんな向日性が、晩年に至るまで千空のバックボーンであり続けていたように思う。

 この「十方吟」を越えた句集を編みたかったという千空だが、残念ながらその思いは叶わなかった。千空自身も心残りであったろうし、千空ファンの一人として、千空が最後にどのような作品世界に辿り着いたのか、千空の言う「到達点」を是非とも見たかったという思いは強い。

 さて掲出句に戻ろう。一見すると、穏やかな老境を淡々と詠んだ作品とも見えるが、ここでは少し違った見方を提示してみたい。

 千空の生涯は、ある意味、恐ろしく「大器晩成」型だったと言える。もちろん32歳にして萬緑賞を受賞するなど、早くから結社内では注目される作家であったが、その人柄からか、あるいは津軽の地を決して離れようとしなかったからなのか、長い間全国的注目を浴びることは稀だったと思う。ところが、77歳にして第4句集「白光」で蛇笏賞を受賞した辺りから様相がガラリと変わってくる。その3年後には第5句集「忘年」で日本詩歌文学賞を受賞(80歳)、また平成17年には読売新聞俳壇選者にも就任する(84歳)。80歳前後にして注目度が急上昇し、句業が一気に花開いた感がある。それはそれで喜ぶべきことなのだろうが、はたして千空自身はどう思っていたのだろうか。掲出句は、まさにその当時詠まれたものである。穏やかな老境とは程遠い、びっしりと詰まったスケジュール。「こんな筈じゃなかった」という千空の嘆きの呟きが聞こえてきたような気がする、と言ったら穿ち過ぎだろうか。

2026年1月9日金曜日

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり42 句集『うさぎの話』(栗林浩、2019年刊、角川書店)を再読する。  豊里友行

 目と耳を置いて消えたる雪うさぎ

 この場合の「雪うさぎ」は、雪を兎(うさぎ)の形にして固めた雪像のこと。雪を溶かしてしまう太陽の陽射しだろうか。雪の兎像は、目と耳の他は、消えてしまう。それは、観察眼と雪解けの移ろいをしっかりと眼差していなければ、このような言葉の発見は、できただろうか。この雪うさぎは、地球の自転の何処かで子らの賑わいと一緒に佇んでいるのだろう。


くしやくしやと蝶一斉に羽化したる

 蛹より蝶の羽化し始める。くしゃくしゃの蝶の羽が一斉に羽化する様は、まるで芸術の絵画を見ているようだ。その時を言葉にとどめることで俳句という詩もまた芸術を喚起する。


鯨啼く夜間飛行の瞬きに

 一枚の絵画を読み解くように咀嚼してみる。気球のような夜間飛行の鯨が啼く。それは、眠りの瞬きの一瞬の物語。この一句に小説や絵画のひとつの物語が凝縮されているようだ。


すかすかな原爆ドーム秋の風

 原爆ドームの剥き出しの骨組みや構造物をすかすかと感受させる秋の風。

 だが原発を売り歩いて来た我が国の快適便利な核の世の責務は、すかすかな原爆ドームと感じさせるほど空虚さを私たちにも感じさせてしまう。


鰭酒や栃木の雨の話など

 鰭(ひれ)酒は、日本酒の飲み方のひとつ。河豚(ふぐ)や鯛(たい)など食用魚をあぶり焼いて、燗酒に入れたもの。最初に切り落とした鰭を干して強火であぶり、コップなどに入れ、これに熱燗(あつかん)の酒を注ぐ。栃木の雨の話題が風土性を増す。俳人の座で多方面に活躍する俳句評論家との話は尽きないことだろう。


追い越せぬものに逃水わが言語

 追いかけても逃水は、追い越せない。

 作者は、ずっと自身の我が言語を追い越せない黄昏に佇んでいるのだろうか。



フラミンゴの檻の中まで雪が降る

冷気立ちずらり尾鰭のなき鮪

おほかたの土偶はをんな蕎麦の花

プール出るときの地球の重さかな

くちびるといふ春愁の出口かな

脱ぎ捨てて脱藩のごと蛇の衣

 フラミンゴのいる檻にもまた天より雪は降り注ぐ。これら栗林浩俳句の中にそこはかとない感情が、まるで試験管の中で化学反応するように生じる。

 冷気が立ちずらりと尾鰭のない鮪が、市場の競りに並ぶ。その市場の活気をも喚起している。

 大方の土偶を女と言いきることと蕎麦の花の逞しく可憐さに思いは託されている。

 プールの水中では感じなかった地球の重力を切り取った絶妙さ。

 唇を春愁の出口でもあると感じとる趣きが堪らない。

 蛇の衣を脱藩のように抜き捨てる覚悟まで感じ取れて脱帽。

 これらモノの本質を掴み取った俳句が、栗林浩俳句の俳句の面白み。その感じ方に豊かな趣きがある。

 共鳴句もいただきます。


白靴のジゼルとなりて跳んでこよ

星みがく係がいいと卒園す

船虫の楚歌に奔れる兵のごと

犬ふぐりここもローマに続くのか

銅鏡はいつも裏みせ鳥曇

砂時計反へし夜長のダージリン

十能の熾火の匂ひ雪くるか