【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2025年12月26日金曜日

第259号

   次回更新 1/9


【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『細谷源二の百句 北方俳句への軌跡』(五十嵐秀彦)  豊里友行 》読む

■新現代評論研究

新現代評論研究:『天狼』つれづれ 第6回:「実作者の言葉」…「遠星」/米田恵子 》読む

新現代評論研究(第17回)各論:村山恭子・後藤よしみ・佐藤りえ 》読む

現代評論研究:第20回総論・「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会 》読む

現代評論研究:第20回各論―テーマ:「女」を読む・その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 図像編 川崎果連 》読む

新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子
第五(12/12)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム
第六(12/26)神谷波・川崎果連・加藤知子・曾根毅・松下カロ

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬
第三(12/12)ふけとしこ・岸本尚毅・瀬戸優理子
第四(12/26)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

 俳句新空間第21号 発行※NEW!

■連載

【新連載】口語俳句の可能性について・6 金光 舞  》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(65) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり41 仙田洋子『はばたき』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](57) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】8 豊里友行句集『地球のリレー』 栗林浩 》読む

句集歌集逍遙 董振華『語りたい龍太 伝えたい龍太—20人の証言』/佐藤りえ 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む

インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

12月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …




■Recent entries

中村猛虎第一句集『紅の挽歌』を読みたい インデックス

篠崎央子第一句集『火の貌』を読みたい インデックス

中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい インデックス

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい インデックス

なつはづき第一句集『ぴったりの箱』を読みたい インデックス

ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい インデックス

加藤知子第三句集『たかざれき』を読みたい

眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい インデックス

葉月第一句集『子音』を読みたい インデックス

佐藤りえ句集『景色』を読みたい インデックス

眠兎第1句集『御意』を読みたい インデックス

麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【新連載】新現代評論研究:天狼つれづれ(6)「実作者の言葉」…「遠星」  米田恵子

  『天狼』昭和23年1月号の「実作者の言葉」に「遠星」「遠星 ふたたび」という項目が2つ出て来る。「遠星」は、昭和22年6月に出版された句集の題名である。誓子は「星の遠いことは、もとより云ふまでもないことである。その中、とりわけ光微かなる星を、私は遠星と呼んだ。眼を凝らせば、いよいよ遠く見えるといふような星である」と述べる。

 句集『遠星』の出版について、その後記に「遠星の名は」野尻抱影との「訂交を記念する為のものである」と誓子は書いている。「訂交」は中国語で「交流」という意味であり、それは『星戀』の出版を意味する。句集『遠星』出版の前に、昭和21年6月に『星戀』が出版されているからだ。これは、戦前から誓子の星の俳句に興味をもっていた野尻抱影が、誓子に誓子の俳句に自分の随筆を載せた本を出版しないかと持ちかけたことから実現した。野尻抱影は、英文学者であるが、星に興味を持ち、星の異名を集めたりといった民俗学的な研究をしている学者でもある。今、戦争で人々の心は疲弊している。だからこそ、誓子の星の句と自分の随筆で人心を慰めたいと考えたのである。もちろん誓子は拒否する理由はなく、出版の運びとなる。意外と知られていない誓子と野尻抱影の『星戀』である。

 さらに「遠星」については、『天狼』昭和23年3月号に「遠星 みたび」として登場するが、1月号で「遠星」という語は自分の造語と断言していたが、『佩文韻府』と『啄木歌集』に「遠星」という語が出ているため、自分が作った言葉でないことを暗に伝えている。

 句集『遠星』は誓子が付けた題名であるが、では、結社「天狼」の命名は誰なのか。それが野尻抱影である。誓子は、句集を出したいが、どういう名にしたらいいかを野尻抱影に相談した。野尻抱影は「天狼」を提案した。しかし、妻の波津女が、「狼」という漢字から「こはい名前」と言ったため、句集名としては「天狼」ではなく、誓子は「遠星」を使った。しかし、「天狼」は昭和23年1月に創刊した俳句誌名つまり結社名とした。これには、波津女も賛成した。英語名はシリウスであるが、中国名の「天狼」、やはり、怖そうな名前である。私も波津女の気持ちはよくわかるが、「天狼」は誓子を象徴する結社名にはふさわしいかもしれない。冬に燦然と輝く一等星、シリウス、天狼である。

 ところで、話は変わるが、神戸大学にスターバックスができた。山口誓子記念館の隣の建物の2階に2024年10月に開店した。私のような世代の人間には、大学にカフェ?流行るの?採算が合うと見込んだから、出店したんだろうけれども、本当、大丈夫?職員には給湯設備があるし、先生たちもそれぞれの研究室にはコーヒーやお茶を入れられるようになっている。学生は?自販機なら100円少しで飲めるコーヒーに1000円近くもお金を使うだろうか、なんて勝手に考えていた。お客さんが入らなかったどうするんだろう、なんて心配もし、そこで、私にひらめいたことは、誓子の『星戀』である。10月と言えば、神戸大のスターバックスからの眺めは最高になる。夜景が本当にきれいで、神戸の夜景は100万ドルなんて言うが、それ以上の価値があると私は思っている。その夜景を背景に誓子の『星戀』の俳句とその自解を朗読するのはどうであろうか。集客にはならないかもしれないが、朗読後のコーヒーは格別だし、売り上げにも貢献できるというものだ。

 しかし、豈はからんや。スターバックスは流行っているようだ。いいことである。でも、「誓子俳句朗読の夕べ」はどうであろうか。


【新連載】名俳句鑑賞へのラブレター『細谷源二の百句 北方俳句への軌跡』(五十嵐秀彦・著、2025年刊、ふらんす堂) 豊里友行

【編集人加筆】

 豊里さんは精力的に「豊里友行の俳句集の花めぐり」を連載して頂いているが、これは豊里さんの名句集鑑賞。いろいろアイデアがたぎっているようで、今回は名句集鑑賞を鑑賞する企画を送って頂いた。「花めぐり」の中で続けるのは少し性格が違うので、新しいシリーズとして立ててみた。常識的な枠組みの中で営々と続けるのもいいが、独創的な枠組みを作り出していただくのもBLOGの効用だ。ご提案頂けると嬉しい。(筑紫磐井)

     *

  今年2025年は敗戦80年目(「戦後80年目」)の節目の年ですね。さまざまな俳句鑑賞や批評、俳句議論も熱く語られたことでしょう。さてっ。俳句の多様性は、どのように次世代へ継承されてきたのだろうか。この名俳句鑑賞へのラブレターは、次世代の末席に座るひとりとして私なりのこれまでの俳句史の中の名俳句鑑賞を少しでも御紹介できたらというひとつの試みであり、俳句鑑賞の座の分野を私なりに継承していきたい。

 ふらんす堂の“百句シリーズ”は、良い仕事だな~と思いつつも今回の『細谷源二の百句 北方俳句への軌跡』(五十嵐秀彦・著、2025年11月刊、ふらんす堂)は、俳句史に疎い私にとって北方俳句の発掘に瞠目せざるを得なかった。

 この『細谷源二の百句』もそうだが、五十嵐秀彦氏の選句眼が見出した名句たちが、その俳人の風貌を時代の闇に埋もれさせることなく照射し浮き彫りにしながら見出されている。

 私の不勉強のため知らなかった俳人の存在について本シリーズの意義を考えさせられた。今後も「名俳句鑑賞へのラブレター」として優れた俳句鑑賞をチョイスしてラブレターのように勉強させていただきたい。

 先ずは、本著の巻末に掲載されている細谷源二論「細谷源二 —新興俳句から北方俳句への軌跡」から細谷源二とは、何者なのかを引用したい。

 細谷源二の名は、新興俳句弾圧事件の犠牲者として俳句史に刻まれている。俳誌「広場」の中心的作家であった源二は、昭和一五年に関西から始まった新興俳句弾圧事件が東京に及んだ昭和一六年に逮捕され、二年半の獄中生活を強いられた。弾圧事件に関する研究の中で、東京三(戦後の秋元不死男)、橋本夢道らとならび、源二の名も長期拘留者として挙げられている。しかし俳句史の中で彼の名を見るのはそこまでかもしれない。 (抜粋と省略) ところが細谷源二の作品を通して読んでいると、彼が独自の光を放ったのは北海道に渡ってからのことだった。中央から遠く離れ、またかつての俳友との交流も自分からはあまり求めなかったが、戦後の北海道でひとり新興俳句をどう発展させるかを課題として奮闘を続けた人であった。

 では五十嵐秀彦氏の俳句鑑賞を抜粋して紹介したい。くどいですが、五十嵐秀彦の選句眼が、細谷源二俳句を際立たせながら見出していることを特筆しておく。


兵器庁門前の坂まちへ墜つ

 現代を象徴するモチーフを探し、それを描写する模索の句だ。昭和一一年、青年将校によるクーデターの二・二六事件が起きたのを契機に軍部の発言力が高まり、ついに一二年日中戦争が始まる。そんな時代の影を「兵器庁門前の坂」として描いた。まちに墜ちるとしたところに戦時体制が庶民に影を落としていることを感じる。


鉄工葬おわり真赤な鉄うてり

 句集『鉄』を代表する句。そして新興俳句時代の源二の代表句であり、新興俳句そのものの代表句とも言える作品だ。「鉄工葬」というのは造語である。労災死した仲間のために組合で葬儀を出したのだろう。それを「鉄工葬」として置いたとき、そこに季語は必要なかった。花鳥諷詠から脱却した俳句というものを、理屈ではなく生なましい作品で示して見せた。工員仲間の葬儀の後は静かな追悼ではなく、労働者の人生を象徴する赤く燃えた「鉄」を打つという行為。労働者の生の象徴であると同時に、怒りの儀式だ。


英霊をかざりぺたんと坐る寡婦

 新興俳句時代の源二俳句の代表句のひとつ。戦争で死んだ夫の遺骨が帰ってきた。その変わり果てた姿を英霊という美名のもとにかざらねばならない妻。英霊という言葉ではなにひとつ救われない。虚脱と絶望。放心し畳の上にぺたんと座るその姿を描くことが、彼の精一杯の反戦であった。


地の涯に倖せありと来しが雪

 第三句集『砂金帯』の句であり、よく知られた源二の代表句だ。この句が、新興俳句俳人であった細谷源二が北海道で生まれ変わるきっかけとなった。『鉄』『塵中』の先立つ二作に躍動していた工場労働者の俳句からの決別と再出発の象徴的な作品となる。昭和二〇年三月の東京大空襲で焼け出され途方に暮れていた源二一家が見た、目黒署の開拓団募集の立て看板。「父ちゃん行こうよ」という妻の声。家族七名で見たこともない北海道に渡り、与えられた土地を見た時の絶望。その一連の時間と感情のすべてがこの一句に凝縮された。


僕を解剖せよ冬虹もきっと出てくる

 「僕を解剖せよ」という激しい呼びかけは、自分自身の内側を深く見つめることで本質を暴き出し、何か確かまものを摑もうとしている。その果てに浮かび上がるのが「冬虹」というイメージだ。ここで「虹」が単なる美しい自然現象ではなく、冬の寒さの中に現れる存在であることが重要。それは源二が見つめた人生の本質ともつながる。

 『細谷源二の百句』の選句眼で見出された北方俳句と細谷源二論「細谷源二 —新興俳句から北方俳句への軌跡」を合わせて読むことで立ち現れた俳人・細谷源二の俳句に私は、姿勢を正す思いがした。


【新連載】新現代評論研究(第17回)各論:後藤よしみ、村山恭子、佐藤りえ

★ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第四章 敗戦と思想的転換

 1945年の敗戦は、日本社会全体にとって価値観の逆転をもたらしたが、高柳重信にとっても、それは精神の根幹を揺るがす出来事であった。戦前・戦中において皇国史観に深く感化されていた重信は、敗戦によってその思想的支柱を喪失し、虚脱と虚無の状態に陥る。彼はこの時期を「魂も身体も根こそぎ病んでいた」と回想している¹。

 敗戦直後の重信は、勤王文庫『保健大記』『中興鑑言』を筆写し、亡国を嘆いたとされる²。これらは江戸期の尊王論や後醍醐天皇の事績を記した書であり、重信がなお皇国精神にすがろうとしていたことを示している。また、同時期に小崎均一らと憂国の情に基づく行動を企画していたと推定されており、その志は後の三島由紀夫の自決事件と通底するものがある³。

 重信は、三島の死に対しても一定の理解を示している。「天皇についての見解も…たただちに狂気の沙汰だとは、簡単には言いきれないような気がする」と述べており⁴、これは戦前期に培われた皇国精神が、敗戦後も彼の深層に残り続けていたことの証左である。

 しかし、重信はこの精神的彷徨の中で、次第に思想的転換の兆しを見せ始める。1946年には俳誌「群」を復刊し、創作活動を再開。病床での闘病生活は、自己省察を促し、内面の追及を深める契機となった。翌1947年、重信は「敗北の詩」を発表し、戦前の思想との訣別を明示する⁵。

 この「敗北の詩」は、単なる敗戦の感慨ではなく、思想的再構築への宣言であった。重信は、戦時下に自己を確立せざるを得なかった世代として、その傷痕を抱えながらも、新たな思想形成に向けて歩み始める。彼は「新しい自分になってゆく」ために、評論活動を通じて自己の理念を鍛えていく⁶。

 このように、敗戦は重信にとって精神の崩壊であると同時に、思想的再生の契機でもあった。皇国史観に基づく忠義と献身の美学は、彼の深層に残り続けながらも、批評と創作を通じて新たな詩的世界へと昇華されていく。


脚注

¹ 高柳重信「略年譜」『高柳重信全句集』沖積社、2002年。

² 同上。

³ 高柳重信「『蕗子』の周辺」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。

⁴ 高柳重信「戦後俳句について」『俳句研究』1971年5月号、『集成第十二冊』夢幻航海社、2001年。

⁵ 高柳重信「敗北の詩」『全集Ⅲ』1985年。

⁶ 高柳重信「模糊たる来し方」『全集Ⅱ』1985年。


★―7:藤木清子を読む8 / 村山 恭子


8 昭和11年 ③


    不眠症          京大俳句3月

めつぶればこほる瞳に灯が憑けり

 目をつぶってみると、氷のような冷たい瞳に灯がつきました。「つく」は「灯く」ではなく「憑く」を用いて、霊が宿る意味合いを持たせ幻想的な心情を醸し出しています。

 なかなか眠れず苦しんでいる姿を「こほる」と「憑く」で表現しています。

   季語=こほる(冬)


寒き巨き夜の貌われをあざけりぬ    同

 寒くて巨大な夜の〈貌〉が、我を見下して笑っています。〈貌〉は物のすがたで、〈寒き巨き夜〉と擬人化し、眠れぬ夜のみじめさを表しています。

   季語=寒し(冬)


凍みる灯に脳蒼ざめて萎えほそり    同

 〈灯〉〈脳〉〈蒼ざめ〉〈萎え〉と漢字表記で印象的に展開しています。特に「青」ではなく「蒼」により「顔面蒼白」などブルーというよりは灰色がかった寒々とした色を呈示し、〈萎えほそり〉の様子がよく解ります。

   季語=凍む(冬)


   ひかりの幻惑        天の川3月

暖炉耀り白蠟の手のダイヤ燃ゆ

 暖炉が耀り、その光の中で〈白蠟の手〉のダイヤが揺らめきながら輝いています。〈白蠟〉がこの句の眼目で、蝋人形のような命を持たない冷たさの「白」とダイヤを取り合わせ、無限に続く煌めきを表現しています。

   季語=暖炉(冬)


    放浪の弟に寄す

飢えつゝも知識の都市を離れられず   同、旗艦17号・5月

 放浪の弟への思い。飢えていても都市を離れられないのは、田舎とは違う〈知識〉=文明が満ちているからです。遠くにいる者を心配すると共に、都市へ向かう若者の社会構造が見えてきます。

  季語=無季


凍えては国禁の書を手に触れな

 〈国禁の書〉は治安警察法などで発禁・販売禁止になった書籍を指します。

 文末の「な」は「~するな」「~してはいけない」という禁止を表し、〈凍えて〉いても

〈国禁の書〉に手を出すなと警告しています。

 石川啄木の〈赤紙の表紙手擦れし国禁の書(ふみ)を行李(かうり)の底にさがす日〉もあり、〈國禁の書〉は社会詠でよく取り上げられます。

   季語=凍る(冬)


★ー5:清水径子の句 / 佐藤りえ

 満月の下を下をとわがひとり  「鏡」(昭和四十年以前)


 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和38年6月号の特別作品「悪漢」20句内の「ひとりゆく満月の下を下を」。特別作品は同人の投稿制コーナーで、当時の同人作品欄「星恋集」とは別に自主的に応募を促すものであった。というのも、昭和30年代の同人作品は集まりが芳しくなく、創刊十周年の頃には80名を越す同人が在籍しながら、「星恋集」は毎回20人前後の掲載に留まっていた。他誌においてその鎮静ぶりを非難されるようなこともあった。

 径子自身も欠詠の多い同人のひとりだった。創刊の翌年、6号より同人作品欄が設けられ、最初の同人12名に径子も名を連ねた。昭和29年のなかば頃から欠詠が目立ち、31年2月には初期結核で長期の入院生活を送る。不死男の日記抄や編集後記に同人らと見舞いに訪れた記述がある。入院中はずっと欠詠、また翌年(昭和32年)作品を寄せたのは2月と6月の二回に留まった。


「悪漢」を発表した昭和38年も、事実上「氷海」に作品を寄せたのはこの一回きりであった(外部への執筆:角川「俳句」9月号に「邂逅」掲載 はあった)。特別作品は後日同人による批評が組まれ、「悪漢」評は「氷海」9月号掲載されたが、横山衣子の筆致はなかなか手厳しい。「一連の作品から新しい感動を得ることはなかった」とした後、「青麦の邂逅は小説のように」「もう童女ではなし雪を見つめおり」「乳児の掌がものを思わす青葉木菟」などの作品を引き、次のように批判した。

作者の実験室の試験管の中で生れた両親のない子供だと考えた方が、私にはずっと自由に話し合えそうだ。

 1950年代、ウサギの体外受精が初めて成功し、試験管という表現はそうした自然科学への関心の高まり、報道から来たものと推察するが、批判のための言説といった書きぶりで、繰り出した比喩の過激さに評者自身が陶酔している気がしないでもない。「試験管ベビー」にも両親はもちろんいるわけで、「親のない子供」なる言い方で評者が言いたいのは、径子の作品にたぐりよせるべき個人的な生活臭が感じ取りづらい、句の材料となった実生活の端緒が見えない、といったところだろう。引用した句を実験的な表現とみなし、それに対しての嫌悪とでもいうような忌避感が見える。何がどうなった、という5W1H的な見方では理解しづらい作品が多いことは確かではある。「邂逅は小説のように」はもう一段階かみ砕いてもらえまいかという気もするし、「邂逅」と「小説」のいずれかにウェイトを置き、片方に絞るのが望ましい気もする。「もう童女ではなし」は率直すぎるようでもあり、「ものを思わす」の中七の面白さは未整理な状態で提示されてしまったようにも見える。

 全反射せる雪何処より溶くる  津田清子(「氷海」昭和31年3月号「女流俳句鑑賞」)
 白く峻しく泣きそうになる迄雪嶺攀づ  加藤知世子
 寒き三畳の部屋をハガキへ御殿と書く  三浦ふみ(「氷海」昭和32年5月号)
 遅刻せし通勤区間風花す  村瀬寸未子
 鳩の首(なじ)啼かす硬く霜寄りて  大類悦子

 当時は特に破調の作品が横溢といっていい頻度で発表され、掲句の初出の形もそうした試行錯誤の中途に生まれたものであろう。字余り、字足らずの作品が多産されていたが、それらはリズムをどうこうする、ねらって外すといった効果より、「古い」文語表現からの脱却、言いたいことを言うために必要な要素が盛り込まれた結果であった。がたぴしとひしめきあうような音韻と、斬新さを求め「平凡」=花鳥諷詠を忌み嫌う格闘が続けられていた。

 ひとりゆく満月の下を下を

 満月の下を下をとわがひとり

 句集に収録されたかたちへの推敲は韻律としてもなめらかでありつつ、曖昧な意思の提示を思わせる自動詞「ゆく」が「わがひとり」へと姿を変えたことで、動きではなく意思が打ち出された。「わがひとり」は奇妙な表現ではある。「わが暮らし」でも「わが魂」でもなく、連体詞「わが」に「ひとり」を持たせている。この稿を書いていて、最近見たインターネット上のつぶやきを思い出した。

“わたしはわたしだけのものであり、人間としてさまざまな権利を有しております。”(金井球 2025-10-03 14:25:54)

https://x.com/tiyk_tbr/status/1973982821317538034

 「自分は自分だけのものである」という所信表明に雷に打たれたような思いがした。自分が誰よりも自分であるという、当然のはずのことがうすぼんやりしていたのに気づかされてしまった。径子の「わがひとり」には、ひとりぼっちであるわたしを抱え込む「わたし」が存在する。ここに入ることが可能なのは、ものや感情でなく「ひとり」という把握に他ならない。「下を下を」のリフレインは下降を続けるようでもあり、夜が続くようでもある。「ゆく」が姿を消しても、この部分で推進するイメージがある。句の姿は美しく変貌し、一字の無駄もなく厳しく統制された世界がある。

「ひとり」であることは径子のアイデンティティに深く根ざしている。師・秋元不死男の妻は姉であり、「氷海」創刊当時の同人清水野笛は弟であるが、大人の人生は実質「家」単位で進む。姉弟とはいえ、深く立ち入ることも、もたれ掛かることも、望ましいことではない。


 不遇な子供とされたさきの三句も、出来はどうあれ、一字一字と語順のつらなりが厳しく統制されていることに変わりはない。径子の句業は当初から「なんとなく」な部分を極力廃していこうとする、困難そうな道が選ばれていた。欠詠が多いのは暮らしにまつわる疲労や艱難辛苦によるものだけでなく、なんとなく埋め合わせで、勢いで発表しようという姿勢ではなかったから、ではなかろうか。手厳しい反発を受け、「氷海」のなかで大きく共感を呼ぶにはまだ時間がかかりそうな径子の句は、それでも誰にも似ていない、独自の文体をつかみ取ろうとしていた。

【新連載】口語俳句の可能性について・6  金光舞

  前稿では口語俳句におけるモンタージュについて述べた。田村奏天『ハンカチのはりねずみ』の句を例に、口語俳句の自立性は、固定化した伝統形式の美にではなく要素の断片の結合がもたらす創造的な意味生成の運動そのものに宿っていることを確認した。


 突然だが、わたしは2025年夏、愛媛松山で行われた俳句甲子園全国大会を観戦した。一日目の大街道での試合から二日目の決勝戦まで熱い戦いが繰り広げられていた。ぜひその様子は11月に発売された『第28回俳句甲子園公式作品集』や、公式YouTubeのアーカイブを見てほしい。高校生が俳句に誠実に向き合う姿を見て胸を打たれたのもそうだし、わたしの母校である星野高校が二日目の舞台で頑張る姿を見て、言葉に表すことが難しいほどうれしかったのもそうだ。そんな中で印象に残った試合がある。予選トーナメント3vs4会場の試合だ。兼題は「葉桜」。赤チームに北海道旭川西高校、白チームに星野高等学校。この試合で面白いと思ったのは北海道旭川西高校による葉桜の捉え方である。


花は葉にかつての君に恋文を

告げにけり花は葉になつてしまふから

花は葉に靴は記憶の本になる

葉桜や思い出さざるラブレター

葉桜や君の返事を待つてゐる


 5句中4句が恋句なのである。この挑戦について、この試合のここがポイント! 執筆者・田中泥炭は「単なる青春性の発露に留まらぬよう、表現に工夫を凝らしており、等身大に溺れぬしたたかさを兼ね備えていた 」と述べる。

 葉桜は、花の盛りを過ぎた後の状態を示す季語であり、一般に「過去」や「喪失」を想起させる。しかしこの4句において葉桜は、単なる回顧や追憶の記憶ではなく、現在進行形の恋情が置かれる舞台として機能している。

 「花は葉にかつての君に恋文を」「告げにけり花は葉になつてしまふから」の2句について、審査員・中原道夫が「こういう青春性に惹かれる(意訳)」と称していた。ここで注目すべきは、口語俳句が単なる表現上の流行や技法として選択されているのではなく、高校生という発話主体が恋情に向き合うための、ほとんど必然的な言語選択であるという点である。

 高校生にとって恋愛は人生経験として未整理であり、語彙や感情の枠組みが十分に用意されていない領域である。そのような状態で文語的・定型的な抒情を用いることは、恋情を実感よりも先に「物語化」「様式化」してしまう危険を孕む。恋を美化し、完成された感情として提示することは可能であっても、それは必ずしも誠実な表現とは言えない。

 その点口語俳句は、未完成で、揺れ動き、時に気取ってしまう現在の感情を、そのまま言語化することを許す文体である。たとえば〈葉桜や君の返事を待つてゐる〉という句において語られるのは、恋の成否ではなく、待っているいまの心的状態である。これは、経験の浅い主体が、自身の感情を結論づけることを避け、現在の感情にとどまろうとする態度の表れである。

 高校生があえて口語を用いることは、背伸びをしないという選択であると同時に、感情を過剰に整えないという倫理的態度でもある。口語俳句は、恋情をうまく語るための手段ではなく、誤魔化さずにそこに置くための器として機能している。葉桜という季語が象徴するすでに盛りを過ぎた現在は、高校生の恋愛が持つ時間感覚とも重なる。恋は始まったばかりであるにもかかわらず、同時に失われる可能性を孕んでいる。その不安定さを、口語俳句は一瞬として切り取り、固定するのではなく、未完のまま差し出す。

 高校生たちは口語俳句という文体を選ぶことで、恋情を完成された物語へと回収することを拒み、現在の感情に対して誠実であろうとしたと言える。口語は未熟さの表れではなく、未熟であることを引き受けるための言語なのではないだろうか。


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(65)  ふけとしこ

  山に雲

大綿の現れてより山に雲

橋を行き橋を戻つて雪ぼたる

山応ふ母の嚏の聞こえてか

煎餅の粗目零るる寒くなる

日は西に冬至南瓜はポタージュに

      ・・・

 坂本宮尾句集『ゆるやかな距離』の中に

 仏蘭西のリボンで束ね風信子

という句があった。好きな作品が数多ある中であら! と立どまった。内容はごく普通のことであり、どうということもないのだけれど、そして仏蘭西のリボンというのもとてもお洒落なのだけれど、それ以上に新鮮に思えたのである。何故だろう。〈フランスのリボンで束ねヒヤシンス〉と書かれても意味に変りはないが、仏蘭西と書き、風信子と書かれると目に入る印象ががらりと変わる。風信子はヒヤシンスではなく、別名のフウシンシと読むのだとしても。

 音の明るさと漢字からくるノスタルジーのようなものが作り出す世界があるからだろうか。

 耳から音として入る句ではなく、目から入って来る句では、漢字、片仮名、平仮名の使い分けがとても重要だと思う。

 古い話だが「耳の句会」というイベントに出たことがあった。選をするのが難しかった。発せられた語をまず理解しなくてはならない。例えば私が一番迷ったのが「ハイコウ」であった。前後の関係から廃港や配光は考えにくかったが、それでも廃校か廃坑かと悩んだのであった。うろ覚えだが〈ハイコウやぐんぐん太る蜂の腹、或いは蜂の尻〉だったような。後で分かったのは「廃校」であった。


 漢字のことになるが、西班牙・葡萄牙・埃及・伯剌西爾・亜米利加・仏蘭西・伊太利・緬甸・濠太剌利等々の国名のことである。

 故人となられた秦夕美さんが、これらの外国名を網羅した俳句を作っておられたことがあった。アメリカやイタリアなどはともかく、その殆どが読めなかった。それにしても、画数も多く、どことなく威圧感のある字ばかり。もとより当て字だがよくもこんな漢字を当てたものだと眺めることしばし、だった。

 私自身も「出埃及記」が云々という句を作ったことがあったが、読んでくれた人が無かったことなどを思い出した。

 外国映画のタイトル、今は原題のままのことが多いが、かつては抒情的な日本語に翻訳とか意訳とかされていたことも多々あった。

 昔々の『風と共に去りぬ』はそのままだとしても『望郷』の原題は確か「ぺぺル・モコ」という人名ではなかったかしら。『旅情』にしても「サマータイム」だったと思うし。まるで違うと言われればそうだなあ、と頷くしかない。

 アメリカの人にそのことを指摘されて、翻訳した人か、関係の人かは分からないが、「いやいや、我国では御国のことを米国、つまりライスカントリーというのですから」と言って黙らせたとか、笑わせたとかいうことを聞いたこともあった。いつ頃からか原題のままで、という様に変わってきたような。

 こんな古い事ばかり思い出すのはやっぱり加齢の所為だろうか。

(2025・12)


【連載】現代評論研究:第20回(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会⑦(仲寒蝉編集)

投稿日:2011年12月23日 


7.職業・仕事と遷子について。

 筑紫はまず教師、政治家、医師、灯台守などの職業は単なる生活費を得るための活動ではなく、〈倫理が先に存在し、社会がその種の職業人に敬意を持って処遇する〉ものであることを指摘。「恩給」という言葉を〈官吏は国家のために身命を賭して働くからその老後の蓄財もないわけで、そうした国家への忠誠に対して御恩として給付される〉と解説、公務を行う者には労働の対価としての給与(給料)は存在せず、〈高邁な無償のサービスに対して生命を維持するために国家から給されるもの(俸給)であった〉という昔の考え方と〈極めて合理的な労働原理の中間に遷子や同世代の人々が存在したことを忘れてはならない〉と述べる。


 原はもし遷子が地方の開業医でなく研究者の道に進んでいたら人間的な幅はかなり狭められていたと指摘し、地域医療従事者としての生活が否応なく他者との関わりをもたらし、遷子の意識に影響を及ぼしたと言う。このことは孤独が深まるということも含め〈人間を詠むと言う短絡的なことではなく、自然に対する態度にも反映されたのではない〉かと述べる。


 中西は馬酔木の職業俳句の特集に医師俳句が並んでいる中で遷子の句を見てバッハを思い出したと言う。〈同じ時代の作曲家の作品と一緒に演奏されると、バッハの曲がとてもチャーミングだった。これと同じで、医師本人のことばかりを詠っている医師俳句の中にあって、遷子の句が、患者との対応を詠い真に迫っていると思った〉と。遷子の医師俳句は〈時に厳しい見方も随所にあるが、患者の農民の様子を描いたからこそ〉登場する医師もとても生き生きと見える。〈患者との対人関係を描くことによって医師俳句が立体的に見えた〉と言う。


 深谷は〈遷子が地域医療の最前線に立って患者やその家族と接してきたことを抜きに、遷子俳句は語れない〉と述べ〈何よりも生と死のせめぎあいの切迫感を読む者に伝えてくれる〉と言う。その一方で〈東京の大学などに籍を置き、最先端医療の研究に従事したかったという思いは後年まで抱え続けていた〉のではないかと推測する。


 仲は職業や患者に対する遷子の態度、信条を次の5点にまとめた。


1)生真面目。俳句を読んでも「滑稽」や「笑い」からは程遠い。ペットや盆栽にも興味なく、仕事と俳句にひたすら打ち込む真面目人間。

2)優しさ、温かさ。遷子は手遅れの患者を叱ったり風邪の患者に金を払えば即他人と言ったりもしたが、根は患者思いの医師であった。彼が患者に優しかったのは自分自身や家族が病弱であったことと無関係ではなかろう。

3)人間嫌い。患者や人間が嫌いだったのではなく世俗の人間関係が鬱陶しかったのだろう。

4)正義感。常に弱者の立場に立とうとする姿勢。

<5)潔癖。生真面目と通じるが媚びる自分を許せないようなところがある。

【連載】現代評論研究: 第20回各論―テーマ:「女」を読む その他―  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀

(投稿日:2012年02月10日)

★―1近木圭乃介の句 / 藤田踏青

 灯 中に神のような夜の女もあろう

 昭和28年の「ケイノスケ句抄」(注①)所収の作品である。そこに圭乃介が生活していた門司や下関の港の裏通りにポッと灯がともる情景を思い浮かべる。この場合の「神」とは、自然界の万物を擬人化した存在としてのアニミズム的な発想のものではなく、現実世界そのものとして受け入れる汎神論的なものとして受け取れば「夜の女」への思いも自然と頷かれるであろう。そこでは人知を超える必要はなく、ただその女の精神的な無垢だけを見つめていれば良いのかもしれない。「灯」のあとの一字空白は灯から夜の女そのものへの視点の移動と、「灯」そのものの中にその女が浮かび上がるような効果をもたらせている。「灯」と「夜の女」とは必然的に補完関係にあるかの如くに。尚、この作品は次掲の作品と連作の形で発表されている。

 近く笑う夜の女 離れる   昭和28年作  注①

 からだ売る青い石ゆびに       々

 コップ二つの等しい液体       々

 これ等の句により夜の女が娼婦であることが解るが、圭乃介の眼差しはそれに優しく注がれており、立ち位置も同じである。その事を次の句が示してもいる。

 虹茫と 女くらい肩していた          昭和54年作  注① 

 かわいいもの手垢のない単語よっぱらい女   昭和60年作  注①

 歌謡曲ではないけれど港に酒と女はつきもののようであるが、圭之介は昭和30年に上記の句の流れに沿った次のような詩を発表している。


「女」   注②

女の背の部分が

海のようにつめたくなる

汽船は寒流をのがれ 乳房を迂回し

胸の大きなうねりに咆哮する

なまあたたかい汐風に

へんぽんとひるがえる旗

青い海ばらに一すじ

女の黒髪がなびいている


 この詩はコクトーの詩(注③)にも影響されたのであろうか。海を見つめている女の後姿に哀愁が漂っている。


注①「ケイノスケ句抄」  層雲社  昭和61年刊

注②「近木圭乃介詩抄」  私家版  昭和60年刊

注③ J・コクトー


「レア」  『寄港地』より(堀口大學・訳)

珊瑚のように

はだかのレアは

ベッドの上に腰かけて

カーテンあげて眺めます

港が海をせきとめる

帆ばしらの櫛で


★―2稲垣きくのの句【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園/土肥あき子

 今までテーマに沿って俳句を見つけては背景を探ってきたが、準備期間も含め約一年で関連した書物や思いがけない出会いから当初不明だったいくつかが判明したりもしている。

 また、きくのの著作権継承者でもある姪の野口さん(仮名)よりお借りしているものに、きくのの六冊のアルバムがある。アルバムは多くのページを残して新しくされたり、手書きの書き込みにきくのの素顔を見つけることができたり、写り込んでいる風景に当時の生活や文化が見え、それなりの心境の変化も映し出されている。

 時系列で当時の流行や時事なども並記しながら、きくのの人生を追ってみたいと思い、今後のテーマを「流転」とした。神奈川県厚木の船宿に生まれたきくのの一生は、点々と安住の岸辺を探し尋ねるような転居の連続であった。


本題【テーマ:流転】麹町永田町〜芝公園

 引越の荷のてつぺんの菊の鉢

 稲垣きくの、明治39年(1906)7月26日神奈川県厚木市生まれ。本名野口キクノ。稲垣家の四男だった父(佐市)が同じ相模川で船宿を経営していた野口家の養子となる。長男、次男、長女、きくの、三男、四男の6人兄弟。大正3年(1914)横浜西部に転居するも、大正12年(1923)の関東大震災で住居喪失のため父の実家座間へ移る。この年より東京神田の正則英語学校タイプ科で学び、卒業後横浜銀行勤務。同時に同志座募集を新聞で知り、応募。父母の反対を押し切り、ただ一人の理解者であった姉の家から同志座の旗上げ公演に参加。大正14年(1925)、同志座座員、宮島文雄と結婚。昭和3年(1928)離婚し、野口姓に復籍する。

 以上が俳句と接する前の稲垣きくのの略歴である。

 そして、きくのの人生にとって最大の影響を及ぼすことになる財界人A氏との出会いがある。出会いの一切はベールに覆われているが、A氏の影はきくののエッセイ集『古日傘』の「さくらんぼ」のなかで東京・大阪間の初旅客飛行に搭乗したという箇所に注目した。

 日本の本格的なエアライン誕生は、政府と財界の協力で昭和3年(1928)「日本航空輸送」が設立され、8月27日、東京・大阪間で初の有料旅客貨物空中輸送を開始した。初飛行を控えた東京朝日新聞には連日「大阪東京間は秀麗富岳を中心とする東海道の絶景、東京仙台間も松島の美風景あり、汽車に比して四倍迅速なる上に、地上には見難き佳景大観を領しつつ、愉快に往復しうる幸福は確かに我が旅客飛行の誇りである。室内は安楽イス、便所の設備あり、自動車よりも遙かに広くかつ美麗である。是非この空中最新設備を利用されんことを切望する。」という広告が大きく掲載され、川崎ドニエ式メルクール型旅客機の定期運行に自信をみなぎらせている。

 当時大卒初任給が50円という時代に、東京・大阪間は30円、同時就航した東京・大連間は145円である。同年きくのは、弟の婚礼のために大連へも当機を利用している。離婚直後、蒲田撮影所へ入所早々の22歳の女優が気軽に使える手段ではないだろう。

 その後、きくのは麹町永田町に引越したが、車関係の会社が近隣にあり試験をする騒音でやりきれなかったので、芝公園へ転居する。しかし、こちらも電車通りに沿いで自動車やバスの行き交う騒々しさに悩まされたという。掲句はこのどちらかの折りの作品であると思われる。我が名を持つ花が、新天地へと向かって揺れている。「てつぺん」の象徴する誇らしさと不安定なゆらぎに、微妙な女心が投影される。

 昭和42年(1967)俳人協会賞受賞の折りの本人の手による略歴では、俳句は昭和11年(1936)大場白水郎主宰「春蘭」をたまたま購読したことから始めた、とある。この「たまたま」に、「事情は一切省きますが、結論としてはこうなのです」というきくの的表現を感じる。掲句は初出とは別に「春蘭」昭和14年(1939)1月号の「春蘭主要作家を語る」(春蘭同人伊藤鴎二)にも引かれる作品である。

 門松につながれもする小犬かな

 夏帯の波うつてゆく急ぎ足

に並び、伊藤の文章は「句会へ余り顔を見せず、俳人の交遊もさして多いとは思えない。俳壇的雰囲気から遠ざかってあれほどの佳句を投じているのは感心する。特質として句が快楽的、観照が純粋」と続く。

 この時期のきくのには、俳句はまだそれほど大きな存在ではなかったのかもしれない。

 そして次第に俳句の十七音は、多くを語らぬきくのの代弁者となってこの世に送り出されていくのである。


★―4齋藤玄の句/飯田冬眞

 母死してえのころ草に劣るなり

 昭和23年作。第3句集『玄』(*1)所収。

 男にとって最も身近でありながら、もっとも遠い女。それが「母」ではないだろうか。亡くなった母を恋い慕い、長いあごひげが胸元に届くようになるまで泣き喚いていたというスサノオの故事を持ち出すまでもなく、また、亡き母の面影を浮かべる義母と情を交わし、子供まで産ませてしまった光源氏のように「母恋」は日本文学の底流をなす重要なモチーフといえるだろう。

 掲句は、そうした亡き母を恋い慕う狂おしいほどの激情を露ほども感じさせない。取り乱すことで精神の安定が保たれることもある。だが、玄はそうした安全弁を安易に用いない。むしろ非情と思えるほど、徹底的に対象を描写してゆく。肉親の死を眼前にしているにもかかわらず、だ。

 それは掲句の同時発表句(「壺」昭和23年9・10月号掲載)からも感じ取れる。

 母死すとき夏露のごときを目に湛ふ

 棺に母ありて蜩森にありき

 涼しきか悶絶の母陰隆(たか)し

 母親の臨終の姿が克明に描写されており、息を呑む。いまだかつて、悶絶してのけぞる母親の陰が盛り上がるほどたかいことを詠んだ作家がいただろうか?〈涼しきか〉の上五が常軌を逸している。

 母を死なする風鈴を吊りにけり

 悶絶の母を刺す蚤数あらず

 瀕死の母が一息の息暑へ灑(そそ)ぐ

 母逝くか否か自問の雲の峰

 これは掲句の前号(「壺」昭和23年8月号)に掲載された句の一部で、ここでも母親の死を凝視している玄の姿が認められる。悶絶する母親を眼前にしながら、その体に蚤がたかっていることに誹味を見いだせるものだろうか。だが、ここでも玄はリアリズムを貫き通している。

 作品と同時に「KSANA」と題した短文も掲載されており、そのなかで玄は臨終間近の母親への想いとそれを見舞う人たちの欺瞞を書き連ねている。

一夜、私は母を抱え最後の訣別を済ました。私は母の如く、母は子たる私の如く、暗黙の中の恍惚たる数分であった。母の生涯の光芒はこの瞬間に集注したと私は信じた。私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。私の真を知る唯一の魂との訣別を終えて、もう絶対に泣かぬと決めた。

 玄にとっての母親とは、自身の魂の真実を知る唯一の存在であったことがわかる。「私は哭するといふことの如何に素直なる心のはたらきであるかを知つた。」の一文に玄の深い悲しみが滲み出ている。その母親との訣別を済ませたあとの玄は、感情に溺れることを自身に禁じたのだ。

 だからこその徹底的な描写であったのだ。齋藤玄という作家の死生観を形成するのに多大な影響を与えたのは、この母親との訣別の一夜であったのだろうと推察する。

 わが母を見舞ひ、わが母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達を私は憤怒と嫌悪のまなざしで見つめた。糞ヒューマニズムの片鱗は隠してもわかる。当人自ら気がつかなくとも私は見透した。

 危篤状態の母の前で、「いい人」を演じて悦に入る人間の欺瞞性を糾弾する玄がここにいる。この欺瞞性に対抗する手段として玄はリアルな母の死を描こうとしたのではないか。

 掲句の鑑賞に戻ろう。

 〈えのころ草〉はねこじゃらしの名で、ありふれてはいるが、親しみやすい雑草として、秋風にゆれながら道端や空き地に群生する植物である。優しげで頼りなく、どこか滑稽な風姿さえ持つ。そうした〈えのころ草〉と母の死という重く悲しい事件を対比させ、〈劣るなり〉と断定した意図は何であったのだろうか。そこには自己の悲しみを投げ出すことで他者に共感を求める姿勢は微塵も感じられない。

 しかし、この断定はある意味、戦後の日本人の死に対する考え方を反映しているととらえることもできるだろう。死んでしまえば、どんなに愛した母親でも眼前にある〈えのころ草〉ほどの価値すらなくなってしまう。それは、死後の救済を売り物にする戦後宗教への批判のようにもみえる。あるいは既存の「死んだらみんな仏様になる」という素朴な死霊観に対する問題提起ととれなくもない。

 おそらく、先の短文のように「母を看とることを人徳の如く考へて振る舞ふ人達」に代表される人間の根源的な卑しさを〈劣るなり〉で表現したのだろう。

 それが、齋藤玄にとって、「私の真を知る唯一の魂」の持ち主である母という永遠の女性との訣別の辞でもあったのだ。


*1 第3句集『玄』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載


★―5堀葦男の句/堺谷真人

 夕さくら照るや少女のまた暴投

 遺句集『過客』(1996年)所収の句。

 葦男作品の中で女性を表す語彙は多様だ。第一句集『火づくり』から『機械』『山姿水情』と順に拾ってゆくと、妹(いも)、妻、母、少女、主婦、女、酌婦、老婆、女給仕、女児、老女、幼女、婆、美女、山姥、遊君、女性(にょしょう)など女の一生の諸相が含まれている。(山姥はちょっと違うが・・・)また、パンプス、鮮衣、夏手袋など換喩(メトニミー)で女性を表現したり、睫毛、垂れ髪、黒乳房、くちびるの朱など身体的特徴をもって女性を示唆する作例もある。これらの語彙のうち、『火づくり』の第1章「風の章」に特徴的に見られるのが「妹」という言葉だ。

 あの汽車に乗れば妹がり麦そよぐ

 桔梗(きちかう)に妹の眸(め)澄めり雨を来て

 妹が髪つゆけしいまは別れなむ

 妹もいま空見てあらむ頭巾つけ

 1944年6月、葦男は網野冨美子と婚約する。その前後の作とおぼしきこれらの「妹」からは、俳句以前に若き葦男がなじんでいた短歌的リリシズムの余響を聞きとることができる。

 『万葉集』に頻出する古語を採用したのは、婚約期間の昂揚感を文学的に昇華したいとの

気持ちが働いたためであろうか。葦男ら大正世代の男女にとって自由恋愛はまだ少数派であった。今日の我々からすると物事の順序が転倒して見えるが、婚約のあとから恋愛感情が芽生え、結婚に向けてこれをはぐくんでゆくという流れは、そう珍しくなかったのかもしれない。上記作品は制作年代からいえば「戦後俳句」ではない。が、戦後日本を担った大正世代の男女のありようを示唆する好個の作例である。

 背負ふ鉄帽がつと触れ合ひ少女なり

 これも『火づくり』「風の章」所収の句。葦男の句集収録作品における「少女」の初出である。戦時下の実景。人ごみの中、恐らくは防空壕か列車のような狭い場所であろう。背負ったヘルメット同士ががつりとぶつかる。反射的に振り返り、「失礼」と言おうとした作者の前にいたのは一人の少女であった。

 戦時下の少女は、樹下で読書にいそしんだり、夢見がちに窓の外を眺める存在ではない。バケツリレーや竹槍の操練に汗を流し、麦藁帽の代わりに鉄帽をかぶる少女なのである。

 近現代の総力戦にあっては、非戦闘員たる銃後の女性も軍需工場などの生産現場に立ち、それまで男性中心だった職種に進出する。総力戦と女性の社会進出には正の相関性があるのだ。その意味で、1940年代前半は日本女性の集合的ジェンダーが目覚しい変容を遂げた時期に当たる。静から動、柔から剛へと変身する非常時の女性たち。鉄帽を背負った少女はそのような時代相の鮮やかな点描である。

 前置きが長くなったが、冒頭の句にもどる。ソフトボールのピッチャーであろうか。満開の夕桜を背景に最悪のタイミングで暴投する少女。しかも1回目ではない。逸れたボールはあらぬ方に転がり、走者は次々とホームインする。守備チームの歎息が聞こえて来そうな場面であるにもかかわらず、読後感はからりと明るい。少女の自由闊達さ、有り余るエネルギーが紙背から照射されているからである。

 この句が作られたのは、1989年頃。平成バブルのさなかである。1986年4月の男女雇用機会均等法施行後、狂熱的な好況といういわば経済の総力戦の時代を迎え、空前の売り手市場となった雇用情勢のもと、総合職採用の女性が大挙して企業社会に飛び込んできた。1940年代前半と同様、女性の社会進出が一気に加速した時期である。葦男の句集収録作品において「少女」を詠んだ最後の句となった本作品もまた、いみじくも女性の社会進出の時代の所産であった。


★―8青玄系作家の句/岡村知昭

 いつからの癖 あなたの胸で爪噛むのは   黒原ます子

 彼女は戸惑っている、そして自分自身が嫌でたまらなくなってしまいそうである、なにしろ恋人の抱擁のまっただなかにあるにも関わらず、なぜか「爪噛む」自分なのである。彼に対する感情がどうこうというわけではないはずなのに、恋人からの抱擁を真正面から受け止めることができない自分なのである。肝心のときになぜ、との思いが彼女の心に重くのしかかるなか、そんな彼女の感情を知ってか知らずか、恋人からの抱擁はさらに強く、熱さを帯びてくるものとなる。それとともに彼女はさらに強く「爪噛む」自分に出会ってしまい、自己嫌悪に爪も心も荒れ模様というところであろうか。しかし彼女のそんな堂々巡りにどこかいじらしさとかわいらしさも感じ取れてしまうのは、彼女が「爪噛む」のは恋人との関係においての自分自身のありようへの不満がもたらすものであるのを、本人が一番わかっているからだ。かつてジュディ・オングが歌った「魅せられて」(作詞は阿木耀子)には「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」という一節があったのだが、この句の「好きな男の腕の中」にいる彼女には、いまやそんな余裕すらないのである。

 掲出句は1965年(昭和40)11月号に掲載。現在『俳句現代派秀句』(1996年1月 沖積舎)に収められている伊丹三樹彦の選評を以下に引いてみる。

 これは又、大胆なベッドシーンの接写ではないか。といっても、猥らな感じはさらさらなく、あるのは愛する相手(男)の胸の中でするおのが行為をいぶかしむ作者(女)の大人っぽい感傷であり、情感なのである。(中略)

 「おのが行為をいぶかしむ」女性像の居場所を、三樹彦は「ベッドシーン」に設定し、そこから鑑賞を進めてゆく。この設定の仕方のほうがよほど大胆ではないだろうかというのは置いて、この読みを進めることによって狙っているのは、女性像をより裸身に近い形で鮮明にすること、さらには彼女の行為を通して男女間の物語への想像力をより読者に対して喚起してゆくことの2点にある。その狙いがどこまで達せられたかはさておき、このときの評者の脳裏にはまぎれもなく、日野草城の「ミヤコホテル」の句の数々がよぎっていたであろうことは想像に難くない。「ミヤコホテル」の3句目から5句目、新婚の妻と迎える「ベッドシーン」は次のように展開してゆく、自分の行為そのものに対して、決していぶかしむことのないままに。

 枕辺の春の灯は妻が消しぬ     日野草城

 をみなとはかゝるものかも春の闇

 薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ


 その上で掲出句に戻ってみると、「をみなとはかゝるものかも」とクライマックスを巧みにぼかしながら想像力を強く喚気させるのとは対照的に、クライマックスを過ぎた気だるさは確かに感じられる部分はある。だが、より具体的な鑑賞を進めようとするあまり、彼女の心象をどこかで取りこぼしてしまわっていないだろうかとの危惧もまたある。掲出句はどこかで「をみなとはかゝるものかも」との男性の期待に「大人っぽい感傷であり、情感」をもって応えていながら、一方においては抱擁のまっただなかにありながらまとまりのつかない苛立ちに心揺さぶられる姿を描くことで「をみなとはかゝるものかも」との視線に対する疑問を読者に対して突きつけてくる。彼女はいつでもどこでも、恋人の抱擁にただ喜んでいるだけの「かゝるものかも」ではないことを描く作者の目線は、どこか恋人の抱擁のまっただなかで「爪噛む」彼女の苛立ちのようにも見えてしまうのである。

 最後に別の一句(「夜の渚で ひろった あなたの冷たい耳」)の評の一節を引いてみたい、どうやら作者の「わたしは『かゝるもの』では決してありません」との声に、決して気づいていなかったわけではなさそうなのがわかる評である。

 この種の俳句では、いうまでもなく草城に秀れた先業があるが、ます子の仕事は、より主体的であり、より具象的であるところに、やはり戦後を濃厚に感じさせてくれる。


★―9上田五千石の句 / しなだしん

 柚子湯出て慈母観音のごとく立つ   五千石

 第一句集『田園』所収。昭和三十六年作。

 男性作者の女性を対象にした句というのは基本的には「恋の句」となるのが一般的だろうか。

 女性が詠む恋の句は、情念的であったり、傷心的であったり、あるいは女性の身体を詠うことで恋心をあらわし、一般的にも受け入れやすく、秀句として残る作品も多い。

 一方、男性が詠む恋の句は生すぎるのか、どこか嫌味に受取られるのか、市民権を得られていないようだ。だが森澄雄や鷹羽狩行の「妻恋い」や蜜月俳句のように、妻を詠んだ句は語り継がれる作品も多くあり、一線を画す。その違いは単純だが「恋」と「愛」の違いということになろうか。

     ◆

 掲出句も、妻を詠んだ句である。

 厳密に言えば「母」である妻の母性と、その母性をたたえる妻の姿にはっとし、さらに愛を深くした句、といえるかもしれない。

 この句の年、五千石は28歳。同年9月23日、長女日差子が生まれている。

 この句について、自註(*1)に〈母は私をみごもったとき、狩野芳崖描く「慈母観音」の写真版を掲げて、胎教としたという。これは眼前の柚子母子〉と記している。

 また著書 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「自作を語る」の中では、その狩野芳崖の慈母観音がなんとなく脳裏に焼き付いてしまった、と書き、〈ある日ある時のでない、昭和三十六年十二月の冬至の夜の母子入浴後の姿〉として〈眼前に、私の「慈悲観音」像となって再現された〉と記す。

 慈母観音の絵を胎教に、というのも面白い話だが、それが五千石に伝えられ、五千石もそれをずっと覚えていた、というのも何だかすごい。

     ◆

 この句は「柚子湯」が効いたのかもポイントだが、「柚子湯」といえば「風邪を引かない」ということからも子への親の愛情を感じることもできるし、柚子湯のころの寒さを考えれば、風呂上がりの体からは湯気が立ち上っていたことは想像に難くない。

 慈悲観音は菩薩であり、その像は赤子を抱いた姿のものも少なくない。この句の観音である五千石の妻、霞の腕には生後三ヵ月ほどの長女日差子がしっかりと抱かれていたのだろう。

 湯気は「柚子」色のイメージを纏い、まるで後光がさすようだという感覚も頷ける。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊


★―10楠本憲吉の句【テーマ:妻と女の間】/筑紫磐井

 妻よわが死後読めわが貴種流離譚

『楠本憲吉集』より。

 貴種流離譚とは高貴な身分の者が、親たちにはぐれて数奇な境遇をたどり、悲哀を舐めて再び高貴な身分に戻るという伝承類型であり、日本であれば源義経や塩冶判官などの物語をいうことになる。

 一言で言えば、まことに気障で嫌みな俳句である。自らを貴種ととらえ、いくつか職場を転々とした経験を流離と詠んでいるのだが、傲慢きわまりないというべきだ。おまけにそのシチュエーションを、自らが妻に語る場面としているのだからやりきれない。おそらく妻は「また言ってんのね」とせせら笑っているにちがいないが、憲吉はそうした凍り付くような心理状況を全くカットして得々と語るのである。「死後読め」というのは生前には評価されないという言い訳を含んでいるのであろう。女性の方がしたたかであり、そんな未練な男のことなどさっさと忘れてしまうということは気がつきもしない、妻は綿々と自分の回想に耽ってくれると思うお馬鹿な男なのである。

 もちろん憲吉はある意味で貴種であった。職業・俳句も流離であったことは間違いない。楠本家系図と、憲吉年表を見ればそれは証明してくれる。この句なかりせば、私も「戦後俳句を読む」で憲吉を書くに当たって貴種流離という言葉を不用意に使ってしまうかも知れない、そうした状況は確かにあったのである。ただ残念ながら憲吉のこの句を知ってしまった以上、あらゆる評論家にこの言葉は禁忌となる。憲吉の言葉を真に受けてしまってように思われて、評論家の沽券にかかわるからである。

 俳句については別に語る機会があると思うが、職場については自らこんな風に語っている。田中千代学園短期大学教授に就任し、殊勝にも「ここで老ゆべし女子大学の青き踏む」と詠んだが、14年間つとめた挙げ句田中千代学長から解雇を言い渡された。理由は、休講が多いのと教授会に出席しないこと。全く自業自得である。

 というわけで、この句は憲吉の数ある句の中でも愛唱に値する名句である。私個人としても、憲吉を知るために後世にぜひ残ってほしい。


★―12三橋敏雄の句【テーマ:『眞神』を誤読する】⑥⑦/ 北川美美

⑥ 晩鴉撒きちらす父なる杭ひとつ

 骨太な男の匂いがする句である。

「ばんあまきちらすちちなるくいひとつ」

 こうすると、「ちち」がかわいいヌードになり、鎧が外されたようにみえてくる。しかしひらがなにしたからと言って意味は降りて来ない。まずは親近感を持ち声にしてみる。何度も復唱する。再び凝視してみる。

 通常であれば、上から素直に主格を探し句意をかみしめるだろう。しかし、この句は隠れた助詞の読み方により主格が覆される。後半の「父なる杭ひとつ」を主格とし「晩鴉を撒き散らす」という読みを推奨したい。「撒き散らす」は空一面にカラスが飛び交っている様子、ヒッチコックの映画『鳥』のようなサイコサスペンスである。赤赤とした空にけたたましく飛ぶ黒いカラス。父であろう杭が、大地の男根そのもの、あるいは人柱のように打込まれている。社会のために枯渇して死んだ男の碑かもしれない。その上をカラスが祭のように飛び交うのである。

 「晩鴉(ばんあ)」という言葉に漢語からくる瀟洒で知的な響きがある(*1)。それに対して「撒き散らす」は乱暴と言えば乱暴な負の印象である。鴉は、腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の化身のように言い伝えられ、悪や不吉の象徴として描かれることが多い。しかし、その逆に神話・伝承では、世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」として崇められてきた鳥でもある。ここでは「晩鴉」を神の化身と捉えたい。まるで祭であるかのように鴉が鳴き叫ぶその異様な景は、家を、国を、社会を支えてきた孤独な男である父への「挽歌(ばんか)」と掛詞になっていなくもない。『男たちの挽歌』(1986年香港・チョウユンファ主演)はハードボイルド映画だけれど、『眞神』は俳句のハードボイルドである。烏(からす)を撒き散らすのではなく敢て「晩鴉」を撒き散らしたことにその緊張感が生まれているのだろう。

 母に続く、父の登場である。

 再び高柳重信の『遠耳父母』より父の句を引く。


沖に

父あり

日に一度

沖に日は落ち


 重信の父は沖に遠い。敏雄の父は大地に根付き生活臭、家族臭がある。そして『眞神』の中の母は女、父は男として位置を示してくる。重信、敏雄の両者が父母を題材にした句を意識的に発表していることに互いの影響力を大いに感じ、それぞれの精神的内部を垣間見る像として浮かび上がってくるようだ。『眞神』の中の父、母の句のプロローグである。

 そして助詞を省いた敏雄の句に、「言葉」の力を信じようとする厳格な姿勢が伺える。散文的な内容、句意よりも言葉。雰囲気ではなく言葉。欲しいのは言葉。言葉がもたらす響き、陰影、情念、知性、過去、未来・・・言葉の力を改めて推し進め句意を排除しているようでもある。『眞神』が難しいと思うのは、この助詞の省略、切れをどう読むかにより読者の品格すらも疑われる怖さも秘めるからだ。言葉が一句の中で回転し、無言に立ち上がり器械体操のように動きだす。読者自身が着地点を定めるしかない。それが昭和48年発刊以来『眞神』はいまだ人気の句集である所以だろう。

 「晩鴉撒きちらす」を司祭のように飛び交う鴉たちの光景と思うと、上掲句は『眞神』のタイトルとなった、#55句目の「草荒す眞神の祭絶えてなし」と呼応するように思えてきた。『現代俳句全集 四』(立風書房)に収録された『眞神』ではこの#6「晩鴉撒きちらす」を冒頭句に配置換えしている。改めて#55句目で再検証したい。


*1)「晩鴉(ばんあ)」は夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスである。戴復古の詩に「煙草茫茫帶晩鴉」の一文がある。「遠くの霞んだ草むらは、ぼうっとして果てしなく、夕暮れに鳴きながら巣に戻るカラスの姿が長く列になって続いている。」というものである。「晩鴉」は、人に例えるならば晩年、季節ならば秋だろうか。


⑦ 蝉の穴蟻の穴よりしづかなる

 七句目にして俳句で見慣れた言葉に出くわし懐かしくもあり安心もする。穴のリフレインとともに蝉と蟻の季重ねは、逆に古典的ともいえよう。

 確かに蝉の穴は蟻の穴よりも静かである。蝉は地上にでるまでに数年を費やし、自力で土を掻き除けて地上にでる。蝉の穴は蟻の穴よりも深く暗く大きい。「よりしづかなる」とう表現により、「意外にも蝉の穴の方が静かではないか」という驚きとも読み取れる。また闇である穴を比較し涅槃の選択をしているようにも読める。

 蝉の幼虫における地下生活は3-17年(アブラゼミは6年)に達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ恐るべき小動物である。蝉の地中での生活実態はまだ明らかになっていないことが多いらしい。穴を詠みつつ命の時間を暗示している点は見落とせないだろう。充分にアフォリズム的な深読みを読者それぞれが楽しめる。

 深読みをしてみよう。イソップ童話の「アリとキリギリス」の結末はさまざま改変がされ続けているらしいが最も有名なのは、ウォルト・ディズニーの短編映画で、アリが食糧を分けてあげる代わりにキリギリスがバイオリンを演奏するというもの。地中海南欧沿岸のギリシアで編纂された原話では本来「アリとセミ」である。冬まで生きられないセミがクライマックスで食糧を懇願する矛盾はあるが、掲句に重ねるならば、地中に出たセミから物乞いされたアリが、「永年地中にいたセミが穴からやっと出て行ったが、静かであると同時に物寂しい」とアリ自身が思っているという見方も考えられなくもない。

 蟻の穴は迷路のように複雑で沢山の同胞がうごめいている。『蟻の兵隊』(2006年/監督:池谷薫)というドキュメンタリー映画の中で日本軍残留を強いられ蟻のようにただ黙々と戦ったという証言が脳裏をよぎる。蝉の穴は大きく暗く深く、まもなく、あるいはすでに命が消えているかもしれない。涅槃として考えるならばどちらがよいのだろうか。両者とも過酷な涅槃の穴である。

 上梓から39年目の『眞神』の地中で過ごした蝉の幼虫は今年もしずかに地上に這出てしずかな穴を残すのである。


⑧ 火の気なくあそぶ花あり急ぐ秋

 複雑な句である。

 火の気、花、秋が、「なく」「あそぶ」「あり」「急ぐ」で繋がっている。ジグソーパズルのようだ。一句の中の動詞、形容詞の多用は新興俳句、ことに戦火想望俳句に多くみられる。

 射ち来る弾道見えずとも低し 『弾道』

 そらを射ち野砲砲身あとずさる  〃

 ⑧にみる動詞、形容詞の多用は、「新興俳句は壊滅した」(渡邊白泉全句集・帯文)と言い切る敏雄の帰るところのない修練なのだろう。動詞の多用による散文化を拒む敏雄独自の創作の視点がみられる。そして「季」について考えるつづける吐露のようにも思える。

 「火の気なく」と言えば、火がない、あるいは人がいない様子。「あそぶ花あり」とは、はっきりとした目的をもたない花の動作、あるいは、華やかな女性の様子等が想像でき多義である。「急ぐ秋」は、足早に秋が過ぎゆくとともに人生の残りの時間を考えているようにも読める。

 ここでは「あそぶ」と「急ぐ」、「花」と「秋」が対極になっているのが面白い。意味よりも、技法的試みがこの句には見られる。⑦⑧⑨に関しては、言葉の繋がり、遊び、一句中の言葉の配置、句集中の配置に目が行く。


⑨ こぼれ飯乾きて米や痛き秋

 ⑧の「急ぐ秋」につづき「痛き秋」である。身近な言葉で先人たちが多く詠んだ「秋」という壮大な詩歌の季の原点に還っていることに気が付いた。『古今集』の時代には、秋を時間とともに物が移ろう悲しい季節と感じていた。「急ぐ秋」「痛き秋」は、詩歌が生まれた頃の秋を現代に通じる季として言い換えているように思えるのである。

 「こぼれ飯乾きて米や」は、確かにありえる風景である上に、上五中七の12音で水分が抜ける時間経過を示し、且つ古俳句の趣がある。下五に「痛き秋」を持ってくることにより、さらに敏雄独自の風格が出たのだと思う。

 「痛き秋」が米が刺さって痛いのか、痛切な心情を言っているのかは、はっきりと理解できない。しかしながら「痛き」という響きがすでに人の心に刺さってくるような、視覚からもジンジンくるような感覚はわかる。

 また「こぼれ飯」とは、当然、食事中、配膳中にこぼれた飯のことだろう。確かに「飯をこぼす」「食事をこぼす」という。「飯」ではなく「米」をこぼす句は過去に作例がある。「立春の米こぼれをり葛西橋 石田波郷」は、葛西橋に闇米の検問所があった様子の句らしい。さらに「こぼれ米」について甲乙つけがたい下記例句があった(@日めくり詩歌 高山れおな風)。

 逆立つは屍の黄金虫こぼれ米   山本紫黄

 尼たちの菫摘みけんこぼれ米   桜井梅室

 「米」をことさら大切にする国民性だからこそ「こぼれ米」が効く。ならば敏雄の「こぼれ飯」もそれと同じ効果がある。「こぼれた飯が乾いて炊飯前の米になった、痛い秋だな」という以外多分何も言っていないのである。

 ⑦⑧⑨は俳句の軽みを思いながら読み進めることができる。その中で特に⑨は秀句として取り上げられることが多い。古俳句の趣と「痛き」による感覚表現が時代をクロスオーバーしているからだろう。


★―13成田千空の句/深谷義紀

 荷一つの夜店をひらく女かな

 今回のテーマは「女」である。正直に告白すれば難渋した。前回述べたように、千空作品の中で、「男」の姿は明確な輪郭をもって立ち上がってくる。北の大地で懸命に生きた農夫たちである。それに対し、「女」を描いた作品がいまひとつ脳裏に浮かんで来ないのである。

 千空作品で取り上げられた女性といえば、まずもって母ナカと妻市子夫人であるが、彼女たちはむしろ「家族」という範疇で捉えるべき存在であろう。また、義母や伯母を詠んだ作品もあるが、これらも親類縁者という位置付けで考えるべきである。

 一方、第8回(テーマ:肉体その他)で取り上げた、

 虫送る生身の潤び女たち   『白光』

の句や、

 雪やぶは女体の丸さ奥津軽   『白光』

などは「女」という性を取り上げて印象深い作品ではあるが、著しく象徴性が高い。

 一時は、「具体的女性像が描かれていないのが千空作品の特徴だ」と結論付けて、半ば居直ろうかとも思いかけたが、句集をもう一度読み返し、あらためて「女」の句を拾ってみた。以下に幾つか記してみよう。

 一つのカテゴリーは、前回の農夫の鏡写しのような農婦の句である。

 腰太き南部日盛農婦かな   『天門』

 新米を大きく握る農婦かな    『忘年』

 もう一つのカテゴリーは、千空がある時期深く傾倒した太宰治関連の、

 美しき白服の人園子なり   『忘年』

 太宰忌や雨に花咲く女傘   『忘年』

などである。ちなみに、一句目の「園子」は太宰の娘、津島園子である。

 だが、どちらのカテゴリーの句も、「女」をテーマとした千空の代表作というには何か物足りない気がした。

 あきらめかけた頃、目に止まったのが掲出句である。

 第3句集「天門」所収。

 奇を衒った叙法もなく、句意は平明。だが、一読後鮮やかに一つの景が目に浮かぶ。少し蓮っ葉な感じの女でもいいだろう。何しろ女一人で夜店を切り盛りし、生き抜いてきたのだから。上五の「荷一つの」という措辞が、その女の今の姿を活写し、さらにはそれまでの人生を暗示するようである。

 千空の眼差しは、慈愛に満ちたというより、むしろ淡々とそうした女性の姿を捉えている。しかし、決して突き放してはいない。淡々と詠むことで、かえってそうした女の姿あるいは人生を己に引き寄せているような印象がある。千空らしい「女」の詠み方だと感じた。


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり41 句集『はばたき』  豊里友行

  句集『はばたき』(仙田洋子、2019年刊、角川書店)の共鳴句の(目印に)付箋紙が沢山貼られているので私の蔵書の森で眼に止まったので再読している。

冬銀河かくもしづかに子の宿る

百年は生きよみどりご春の月

 仙田洋子俳句の子への眼差しが私は好きだ。

 私もいつかこんな子への眼差しで俳句を創れたらと思いつつもこのような名作の実感を持って作品創造することは、もう私には出来ないのかもしれないと不安が過るのを掻き消すように今の私は、途方に暮れる。私は、俳句と写真の道にまっしぐらに突き進む。私の場合、写真家というのは、職業というよりも生き様という心境で写真作品を創造するために人生を惜しみなく注ぎ込んできた。沖縄の不条理に鼈(スッポン)のように喰らい付いてきたつもりだが、己の人生を振り返るとこのくらいで自分自身が幸せに生きることも大切にすべきだと考えがおよぶ。私を尊べないで誰もが本当のより良く生きる道が、導き出せるだろうか。それは、オセロのように沖縄での私の逆境をひっくり返せるほど写真家ひとりの力を過信できない。私の写真家としての軌道修正は、だいぶ長い月日を費やす。とはいえ私にとって俳句と写真は、より良く生きる糧だ。そこから私なりの沖縄からより良く生きる道を切り拓きたい。

 だいぶ私の自戒が前置きとしては脱線気味に長くなりましたが、仙田洋子俳句の子への眼差しは、この「百年は生きよ」と我が子へ願う命の俳句は、人間の根源的な尊厳の輝きを成している。学ぶ点の多い人生の先輩俳人のひとりから私なりの人生の軌道修正を奏功させたい。

さびしさを知り初めし子も手毬つく

マフラーを殺むるごとく巻いてやる

朴落葉どの子の顔を隠さうか

草餅をけんくわの子らに一つづつ

わが腕を逃れ少年泳ぎけり

凱旋のごとく水着を干しにけり

子供らとしやがんで蟻の国に入る

 親と子の絆(きずな)は、私には想像の域を出ません。だけれども母から観て淋しさを知り始めている子の手毬は、どのように鳴り響いていたのだろう。冒頭で紹介した「冬銀河かくもしづかに子の宿る」「百年は生きよみどりご春の月」など連続テレビのような仙田洋子俳句の物語だ。

 マフラーで殺すことはないにしろ愛情いっぱいにぎゅっと巻く。

 子どもたちを平等に見つつも朴落葉で我が子の顔を隠してみたいし、草餅を喧嘩した子に一つ一つあげながら我が子とも仲良くしてねと願う。

 母の腕を離れて泳げる少年の巣立ちもちょっとさみしくもある。

 その少年の成長は、凱旋の水着を干すようでもある。

 子どもらとしゃがんで蟻の目線に入るくらいの蟻の国を眺める時間が愛おしい。


 「こぼれ落ちさうにふらここ漕ぐ子かな」「木登りの子らつぎつぎと夏を告ぐ」「小さき子の手を引いていく秋しぐれ」「茎立や子らも背伸びをしてゐたる」「初夢の中までついて来し子かな」「自転車をどつと投げ出し黄水仙」「たんぽぽを摘みためて母訪ねけり」「子の沈みそうな夏野や子の手引く」「ラケットを振りて夏雲湧きたたす」「子と走り出せば光りぬ雲の峰」「子供らのまだ跳ねてゐる秋の暮」「雀の子一直線に跳ねて来ぬ」「うすものやくるみ殺すといふことも」「くすぐつてあやしてからすうりの花」「夏雲やみんなで腹筋して帰る」「抱擁を蛇に見られてゐはせぬか」「叱りてもついて来るなり蟇」「香水の減るよりも疾く子の育ち」「流木を重ねて夏の砦とす」「船虫を取り放題と言はれても」「さみしげな子にくれてやる梅もどき」など仙田洋子さんのかけ替えのない仙田洋子俳句日記には、輝ける俳句たちが、俳句にたずさわっていたからこそ人生の形に鮮やかに記憶される。

そのあとは煮込んでしまふ茄子の馬

 もちろん俳人・仙田洋子さんといえば、家族俳句以外にも名句は多い。

 「茄子の馬」の季語は、祖先の霊がこの馬に乗って訪れ、また帰るとされる。茄子や瓜を使って作られたこれらの精霊馬は、先祖を敬う気持ちを表現する重要な文化的象徴でもある。・・・・そのあとは、煮込んで食べる辺りも第一線の女流俳人といいたいが、男性も料理はしないとね。見習いたい。あやかりたい。

母の日の母デパートに溢れをり

 母の日の母がデパートに溢れているという現代社会をユーモラスに斬新にでも心温まる俳句作品にする。このような名句も見逃せない。


 その他の共鳴句も下記にいただきます。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

豆撒の父の白髪かがやけり

恋猫にシャネルの五番かけてやる

鷹鳩と化して大いに恋をせよ

鍵盤を踏んで仔猫の来たりけり

色を問ふ暇なかりしよ蝶二つ

火のつきしごとくに蝶や山開

のうぜんの一花一花をもてあそぶ

大空に紺を加へし帰燕かな

真葛原ひとめぐりして恋さます

瀧凍てて亡骸のごとありにけり

父母の老いては鴨のごと歩む

雛の目のだんだん怖くなつてきぬ

鳥雲に母おとろふるはやさかな

やはらかく書くよくさもちさくらもち

獅子頭振りて山河を呼び覚ます

手毬つくだんだんはやくおそろしく

恋せよと恋せよと芥子そよぎけり

大干潟まぶたのごとく灼かれをり

白鷺が花瓶のやうに立つてゐる

鴨の子の機械仕掛けのごと潜る

ビーチパラソル開いて海をよろこばす

墓洗ふあたま洗つてあげるやうに

焼芋のやうな熱さでお慕ひす

蟇穴を出て笑はれてゐたりけり

春の月ビオラかかへてゆく夫よ

幼年やうつとりと蟻おぼれさせ

出目金と秋のあはれを分かちあふ

はなむけに風船葛でもくれよ

鰯雲恋告げられてひろがりぬ

鷹のまだあどけなき貌してゐたる

切山椒無口になりし子とつまむ

少女らにもてあそばれて白兎

慰むるためにたんぽぽ摘んでゐる

柚子のみなしづかにまはる柚子湯かな

声変りせし子と食へり牡丹鍋

あちこちに産卵されて山笑ふ

木の芽風われも芽吹いていくことよ

黒揚羽迅し思春期始まれり

未来すぐ来るよ七五三の子よ

はばたきに耳すましゐる冬至かな

まわり道して蠟梅のそばにゐる

毛糸編むさびしさ編んでゆくやうに

鳥交る天神さまをはばからず

スニーカーてんでんばらばらに脱いで春

好きなだけ蝶々とまれ花衣

父の日の父よ黙つて飯を食ふ


【参考資料】

「俳句αあるふぁ」2016‐17年12‐1月号の特集「仙田洋子の世界 自選二百句」

2025年12月12日金曜日

第258号

  次回更新 12/26


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新現代評論研究(第16回)各論:村山恭子・佐藤りえ・後藤よしみ 》読む

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現代評論研究:第19回各論―テーマ:「男」その他― 藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子 》読む

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新現代評論研究:音楽的俳句論 解説編(第1回)川崎果連 》読む


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令和七年夏興帖
第一(10/10)杉山久子・辻村麻乃
第二(10/24)仙田洋子・豊里友行・山本敏倖・水岩瞳
第三(10/31)仲寒蟬・ふけとしこ・浅沼 璞
第四(11/21)岸本尚毅・小野裕三・瀬戸優理子
第五(12/12)冨岡和秀・堀本吟・木村オサム

令和七年秋興帖
第一(10/31)杉山久子・辻村麻乃・仙田洋子
第二(11/21)豊里友行・山本敏倖・仲寒蟬
第三(12/12)ふけとしこ・岸本尚毅・瀬戸優理子

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…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。 

【広告】―俳句空間― 豈 68号 表紙絵:風倉匠

創刊45年、攝津幸彦没後30年

祝! 大井恒行氏現代俳句協会賞、なつはづき氏現代俳句協会年度作品賞受賞

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目次 

● 第 10回攝津幸彦記念賞

 准賞「歪み合ふ」朽木れん

 佳作「蜜をしへ」斎藤秀雄

 佳作「部屋の大きな窓について」超文学宣言

 佳作「あんなあ、いきなりなあ、村に夥しい数のいもうとが自生し始めてん」  雨霧あめ

 選評 筑紫磐井(総評)・藤原龍一郎・冨岡和秀・大井恒行


● 特集・ユネスコ登録戦略の最前線

真面目な顔をした俳句ユネスコ登録論―我々はユネスコ登録にどう立ち向かうべきか 

筑紫磐井  

処士横議のすゝめ―ユネスコ問題から俳句批判へ        堺谷真人

改めて問う、その中身と現代俳句協会のなすべき当面のこと。  大井恒行

ドイツから見たユネスコ登録問題               トマス・マーティン

「アート」としての俳句はどこへ向かうのだろうか       中島 進

価値について                        干場達矢


● 追悼

追悼 高橋比呂子句集『風果』を読む             川名つぎお

不思議な豈同人「山村曂」さんを悼む―一人ぼっちで書くことの意味について  堀本 吟

追悼 大橋愛由等                      亘余世夫

異才・大橋愛由等の死を悼み                 冨岡和秀


● 句集・俳書評

五島高資句集『星辰』 星の位置                 高山れおな

高山れおな句集『百題稽古』評 王朝和歌と現代俳句の二物衝撃   小池正博

小池正博編『LPの森/道化師からの伝言』(石田柊馬作品集)評

   伝言を拾いあつめて                    八上桐子

高橋修宏著『暗闇の目玉 鈴木六林男を巡る』を巡る        林  桂

金糸雀の詩―夏木久『風詩夏伝』巻一・巻二を読む         川村蘭太

加藤知子句集『情死一擲』を読む 賭け金としての情死       斎藤秀雄


● 第 68号作品評・エッセイ

その先に見えるもの                       伊藤左知子

じれったい文學―新しい俳句                   村山恭子

在りし日の証言―高柳重信逝去前後の「俳句研究」の顚末      島 一木

私の出合った歌人・詩人・俳人そして忘れ得ぬ人々         わたなべ柊


● 作品

飯田冬眞 井口時男 池田澄子 伊藤左知子 打田峨者ん

大井恒行 岡村知昭 男波弘志 各務麗至 加藤知子

神谷波 神山姫余 川崎果連 川名つぎお 北村虻曳

倉阪鬼一郎 小池正博 五島高資 小湊こぎく 堺谷真人

酒卷英一郎 佐藤りえ 清水滋生 城貴代美 白石正人

杉本青三郎 妹尾健 妹尾健太郎 関根かな 瀬戸優理子

仙川桃生 高橋修宏 高山れおな 田中葉月 筑紫磐井

冨岡和秀 中島進 中嶋憲武 夏木久 なつはづき

萩山栄一 橋本直 羽村美和子 早瀬恵子 藤田踏青

藤原龍一郎 干場達矢 墨海游 堀本吟 真矢ひろみ

村山恭子 森須蘭 山崎十生 山本敏倖 凌

わたなべ柊 亘余世夫 あんだん亭37 宮村明希


【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(64)  ふけとしこ

 短日

ばらばらと転がる硬貨神の留守

風紋へ止まりたくて反る木の葉

皀莢の莢へ風来る霙くる

すがれゆくものに刈萱力芝

短日を大きな石と遊びけり

・・・

 この春、芽吹きの頃に芦屋市の山手へ吟行した。この日は「ヨドコウ迎賓館」の見学がメイン。旧山邑家別邸であるが、山邑家とは大きな酒造会社だったとか。帝国ホテルを手掛けたとして有名なライトの設計。ライト自身は設計のみでこの館の完成を待たずに帰国し、後は弟子達によって完成させたとのこと。

 芦屋に限らず、六甲山麓の瀬戸内海を見晴らす地は、大阪の商人達が競って別邸を構えたとして知られる。

 迎賓館へは通称ライト坂と呼ばれる坂道を登って行かねばならない。当時の「ええし」の人達はこの坂を人力車で上ったのだろうか。車に頼る今の人達と比べて健脚だったにしても、日々となれば、辛い時もあっただろう。

 肝心の作句の方は、贅を尽くした調度も建物も立派過ぎて私の手には余る。作った句は全ボツに等しかった。

 帰りは阪急電車の芦屋川駅まで下る。

 この駅のすぐ北側に、「重信醫院」と看板を掲げた建物がある。ちょっとレトロな感じの由緒ありそうな建築である。

 以前、この近くの美術館への行き帰りにいつも気になっていた医院である。

 谷崎潤一郎の『細雪』は、大阪船場と芦屋のこの辺りが舞台になっていたが、その主人公達の、つまり蒔岡家の皆が世話になっていた医院である。今ならかかりつけ医というのだろうか、その「棚橋醫院」のモデルになったとして知られている。

 内科・小児科の医院だが、患者でもないのに中を見させて下さいとも言えない。ネットで検索すると内部の写真が多少は見られる。

 現在の院長は三代目とのことだから、御祖父様の時代に建てられた物。それが大正15年のことだとか。いわゆる大正モダンの建築。当時は目を引いたことだろう。

 この辺り、私が知っていた頃には個人商店が並んでいたが、閉店したり更地になっていたりと様変わりが顕著である。

 お茶でもしない? という話になって「ホテル竹園」のカフェへ連れ立つ。このホテル、かつては「竹園旅館」といい、読売巨人軍の定宿であった。今もそうだろう。高校球児たちも宿泊していたはずだ。

 お洒落なカフェでゆっくりお喋りして、この日の吟行は終わった。

 (2025・11)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり 40 『芭蕉三百句』(山本健吉著、1988年刊、河出文庫)を再読する。 豊里友行

 私たちは、松尾芭蕉【まつお ばしょう、寛永21年(1644年)〈月日不明〉- 元禄7年10月12日〈1694年11月28日〉】(ウィキペディアより)が大好きだ。

 和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる句風との頂(いただき)を確立し、今現在の俳句の祖として海外でも「Haiku」として世界的にも親しまれる。俳句する私も一番、影響を受けている俳人なのだが、俳句鑑賞や論評も沢山あるので私の句集鑑賞としては、のけていたのだが、此処が私の原点になる頂(いただき)であることは間違いないので私なりの俳句鑑賞をしてみたい。

 野ざらしを心に風のしむ身哉 

 旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る

 せっかくなので沖縄の俳人なりの沖縄の地を舞台に俳句鑑賞を展開してみたい。

 私の俳句鑑賞は、俳句を“なぞる”のではなくもっと自由に鑑賞していきたい。

 野ざらしの野に晒されるままに朽ち果てて骨になる心境とは、なんだろう。その心には、野ざらしの風が染み入るほどの覚悟がある。

 松尾芭蕉は、生涯、俳諧という場(座)で生きた俳人なのだろう。その座において生きながらも芭蕉の心境は、我が身が野ざらしの骨となり、風雨に晒されようとも俳句の独自性を確立させる覚悟を持ち続けた。その覚悟は、後の俳句する人たちの作句にも多大な影響を与え続けている。

 俳諧の座の仲間たちとの交流の旅も病に伏す中で芭蕉の生涯を貫いた夢は、枯野を駆け廻り続けるだけの俳句の熱量だ。

 松尾芭蕉の生きた当時のおおよそ1644年から1694年ごろにかけて和歌の57577の韻律から俳句の575への独立は、今日の私たちが、俳句鑑賞する上でも色褪せることの無い俳句の魂を燈し続けている。

 古池や蛙(かはづ)飛(とび)こむ水のをと

 蛙が飛び込むその瞬間だ。

 古池の水面を割るような水の音が、鳴り響く。

 河の流れのような和歌の作風とは、芭蕉の魂は、何かが違うのだ。

 575の短い韻律には、芭蕉にとっても俳句の宝箱である人生の様々な俳諧の座の心遣いや出会い、風流な季節が織り成す地球の贈り物がある。それら出会いの財産は、芭蕉の心の水面にも沢山たくさん飛び込んで来たのだろう。蛙は、芭蕉の覚悟と俳句への飛翔だ。

 閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の声

 芭蕉もたぶん作句においては、没頭の日々を過ごしてきたのだろう。蟬の声は降りしきる旅の途中なのだが、この時代には、蟬時雨なんて季語もありません。通常ならば降りし切る蟬の声は、暑さと心の喧騒を巻き散らしているはずなのだ。芭蕉の575への没頭ぶりは、まっしぐらに俳句の独自性を確立させるべく俳句1句1句への松尾芭蕉の俳句哲学の物語が展開されていく。閑(しづか)さは、岩に染み込んでいく。芭蕉の俳句への没頭と心の安息は、作句の喜びと自己に向き合い生涯を俳句に捧げた1句1句から垣間見える。

 荒海や佐渡(さど)によこたふ天(あまの)河(がは)

 この俳句を1枚の絵画を愛でるように鑑賞してみよう。

 荒ぶる海は、吼える。佐渡に添い寝するように天河を横たえる。

 「荒海」「佐渡」「天河」の三つの事象が俳句の器へ怒濤のパッションで雪崩れ込み、ピカソの絵画の情熱の断層のように造形力で盛り込まれる。

 夏草や兵(つはもの)共(ども)がゆめの跡

 塚も動け我泣(わがなく)こゑは秋の風

 むざんやな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす

 乱世の世も続くというのに行く道の夏草には、ちらほら野ざらしの髑髏の兵士たちが点在する。その兵士の夢の跡を見出す俳人もまた「夏草」や「きりぎりす」の生命力から生きることに向き合い、戦没者の遺品となる甲(かぶと)や俳友の死と向き合いながら俳句物語を紡ぐ。


 こつこつとですが、俳句の歴史上の俳句集成からも句集鑑賞をしていきたいと思います。

 共鳴句をいただきます。

海くれて鴨(かも)のこゑほのかに白し 

山路(やまぢ)来て何やらゆかしすみれ草 

蓑(みの)虫(むし)の音を聞に来(コ)よ艸の庵(いほ)

旅人と我(わが)名(な)呼ばれん初しぐれ

かたつぶり角(つの)ふりわけよ須磨明石

おもしろうてやがてかなしき鵜(う)舟(ぶね)哉

冬籠りまたよりそはん此(この)はしら

草の戸も住(すみ)替(かは)る代(よ)ぞひなの家

行(ゆく)はるや鳥啼(とりなき)うをの目は泪(なみだ)

あらたうと青葉若葉の日の光

木啄(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立

風流のはじめや奥の田植うた

五月雨(さみだれ)のふり残してや光(ひかり)堂(だう)

蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと

凉さを我(わが)宿(やど)にしてねまる也

さみだれを集(あつめ)て早し最上川

暑き日を海にいれたり最上川

猪(ゐのしし)もともに吹(ふか)るゝ野分(のわき)哉

鎖(ぢやう)あけて月さし入(いれ)よ浮(うき)み堂

有明(ありあけ)もみそかにちかし餅(もち)の音

秋深き隣は何をする人ぞ

【新連載】新現代評論研究(第16回)各論:村山恭子・佐藤りえ・後藤よしみ

 ★―7:藤木清子を読む7 /村山 恭子


7 昭和11年 ②

    幼き姪を詠める             旗艦14号・2月

クリスマスの夜のいとけなきピアニスト

 聖なる〈クリスマスの夜〉に、あどけないピアニストが曲を奏でている。十二月二十五日はキリストの誕生日。教会や家庭では聖樹を飾り祝います。つたない演奏でも幼子がいる情景は微笑ましく、心の温まる豊かな夜を過ごしています。

  季語=クリスマス(冬)


北風つのりビル吹きおろす垂直に       旗艦15号・3月

北風つのり巨き資本の息荒く         同

北風つのり巨き資本の煙真黒         同

 〈北風〉は「きた」か「きたかぜ」か。「きたつのり」の定型がすっと心になじみ、切れがあります。また動きが出で、速い風の様子がよくわかります。〈つのり〉はますますはげしく、ひどくなること。上五を同じとする三句の一句目は写生句で標準的な作句です。二句目、三句目はビルから〈巨き資本〉へと展開しています。〈息荒く〉の擬人化、〈煙真黒〉の写生、〈資本〉の「乱暴さ、どす黒さ」を表現し、思考しています。

   季語=北風(冬)


北風落ちて人と自動車と舗道に置く      同

 「きたおちて」が句に軽い切れができています。〈人〉と〈自動車〉と〈舗道〉の間を〈北風〉が吹き荒れます。

季語=北風(冬)


暖爐耀りダイヤの稜に星棲める        同、天の川3月

 〈耀り〉は「てり」と読み、暖爐が光り輝いています。ダイヤのカッティングの角に星が棲んでいると叙情ゆたかに詠んでいます。火を焚いて暖められた部屋は心情も表し、ダイヤを眺めている姿は幸せそのものです。

   季語=暖爐(冬)


皮膚(はだ)まぶしダイヤの稜の光釯に        京大俳句3月 

 〈光釯〉は光のすじ。ダイヤの稜線には光のすじができ、そのダイヤを付けた皮膚(はだ)はまぶしく輝いています。性的な想像をもたらす「肌」を用いないのは、作者の意図でしょう。

 季語=無季


ダイヤ耀り深空のそこひ星湧けり       同

 〈深空〉は「みそら」。〈そこひ〉は「底ひ」で、極まる所、奥底を意味します。 ダイヤが光輝き、澄んだ大気の広々とした空の底に星が湧いていますと、この世界の写生でありながら、心情も重ねています。

   季語=無季


北風落ちて丘秀麗に昏れてゐる        同

 北風「きた」が吹き荒れ、丘が大層美しく日が昏れています。極限の美しさを表しています。

 季語=北風(冬)



★ー5:清水径子の句/佐藤りえ

 油虫この世のくらき隅に倦く(「寒凪」昭和46年)

引き続き「鶸」より。径子の句には句集題でもある鳥が多く詠まれているが、虫もめっぽう多く登場する。「鶸」に現れる虫の種類はざっとこんな感じ。

虫・地虫・揚羽・螢・蟬・かなかな・蚊・蜂・蜘蛛・鈴虫・舟虫・みの虫・綿虫・蝶(紋白蝶)・蟻・虻・蟋蟀・空蝉・鉦叩・雪虫・蠅・蟷螂・油虫

 みの虫に一日咳の出る日かな(「火の色」昭和42年)
 棺に蓋すれば紋白蝶が翔つ(「白扇」昭和45年)

 このうち最も登場回数が多いのは「蚊」の六句、ついで「螢」が五句ある。いずれも身めぐりの虫といっていいラインナップだ。つまり、径子はこれらを凝視しているのだろう。鳥の句が多いのも、好ましく思わないでもなかろうが、それを目にする機会が多いからこそ詠まれている。径子の生活の伴走者であり、ひとりの空間にひそむものたちでもある。地虫、舟虫、虻といった地味な虫を、厖大な句群から句集に残すのは、径子の美意識の現れの一端であろうと思う。径子は「氷海」誌上で鷹羽狩行の作品に対し「綺麗すぎる」などの評を昂然昂然と加え、「氷海集」の前号評では次のように述べることもあった。

 休日や点打つて飛ぶ午の蚤  塩川星嵐

一匹蚤の逃亡を捉えたことによって、休日の所在ない倦怠感を惻々と一句の裏側ににじませている。ユーモアーとは何ともかなしいものであろう。(「前月の氷海集から」清水径子『氷海』昭和33年11-12月号)

 師・不死男にも「子を殴ちしながき一瞬天の蝉」があるが、虫という素材の扱い方にかなり距離があるように見える。径子が詠む虫たちはドラマチックな装いなく、季題として主情に沿って配されているというより、掲句の油虫に至っては擬人的に捉えられ、虫そのものが主役だ。投影と見てもいい、ダウナーな情景が徹底されている。さきの評言「ユーモアーとは何ともかなしいものであろう」といった径子の視点、見方が、「氷海」誌上では長らく異端だった。

 「天狼」の衛星誌として出発した「氷海」は当初より同人に評論の執筆と実作の両輪を不死男が勧め、誓子の研究、社会性俳句、俳句の精神性といった文章を初期同人、小宮山遠、林屋清次郎、酒井徳三郎、菅第六らが発表していくが、女性で俳人論、作品評といったものを書いていくのは径子ほぼ一人であった。径子以外のこれら同人達の論調は素直に師・不死男のトーンを継ぎ、根源俳句解釈のなかでも人間主義を中心にすえた「善人性」が重んじられていく。陰惨な現実も、憂鬱な情実も、そこに立ち止まるのではなく、どこか明るい方へ向かっていくべきであり、作品にもそうしたそぶりが求められているふしがある。

 昭和30年代の「氷海」では年末または年初に同人の自選五句を掲載、そこから感銘句を選び集計するコーナーがあった。主宰の不死男が圧倒的に共鳴を集めるのはともかく、径子の作品に対して票の集まりはかなり少ない。伊藤トキノ、中尾寿美子といった若き後輩たちが登場、生活実感をうたいつつ鮮やかで力強い作品を頻発(伊藤トキノは女性初の「氷海」賞受賞者となる)していく。径子の作風は、この時点では文学趣味的なものと見做されているように見える。

 掲句をもう一度見る。油虫は隅にいる。まあ、そうだろう。「くらき」隅にいる。そこは「この世」の「くらき隅」である。ただならぬ暗き方、どん詰まりにいて、そこに「倦」きているのだという。油虫にすら「もうええわ」と思われてしまう隅、どんだけ暗いんだ。歳時記などで油虫の例句を見ていると、その動きの可笑しさやしとめられた情景を捉えたものが圧倒的に多い。あるいは見て驚く、人間側のあわてふためく描写になっている。


 ごきぶりを打ちわが静脈のみぐるしき 殿村菟絲子
 かくながき飛翔ありしや油虫  山口波津女
 一家族初ごきぶりに動顛す  林翔


「倦く」はあきらかに作者自身の投影だろう。そこにいるのがあたりまえとされる油虫。そんな虫だって、くらき隅に倦んでいるかもしれない。作者はむしろ油虫に共感を覚えているのかもしれない。善人性にあふれた俳句のなかに、ひとりの困難、ひとりの沈鬱な思いを、如何にせん。


 鳴きながら鈴虫がもらはれてゆく(「蓬」昭和47年)

 庭でとらえたものか、買われたものか。鈴虫は鳴く。鳴くゆえにもらわれていく。写生のようでいて、運命そのものを描き取った鮮やかさに彩られているのは、口語の冴えと、その構成による。径子の作品が善人性の枠をすでに超えていくことを、「鶸」の句は予見させている。


★ー3 「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―/後藤よしみ


第三章 平泉澄の思想とその影響

 高柳重信の思想形成において、平泉澄の存在は決して見過ごすことのできない影響力を持っていた。平泉は東京帝国大学文学部国史学科において、敗戦まで教授職にあり、日本中世史を専門としながら、生涯にわたり国体護持の歴史を説き続けた。彼の歴史観は、国家神道に基づき、天皇を現人神とする万世一系の神国史観であり、十五年戦争期には正統的歴史観として支配的地位を占めた¹。

 平泉の講義は、体系的な思想史というよりも、道徳訓話のような連想の連鎖によって構成されていた。丸山眞男は、彼の講義で新田義貞の忠誠を語る場面において、平泉が涙を流す様子を記録している²。このような感情的な語り口は、門下生に強い影響を与え、久保田収の授業にも色濃く反映されていた。

 重信は、久保田の授業を通じて、平泉史学の精神的エッセンスを受け取っていた。とりわけ、後醍醐天皇への共感や南朝への傾倒は、重信の祖先が伊勢北畠氏に属していたこととも重なり、個人的な親近感を伴って深化していく。平泉が重視したのは、歴史を動かす少数の英雄的存在であり、民衆はその価値観を模倣する存在に過ぎないとした³。重信もまた、エリート意識を持ち、「終始一貫してエリートであろうとした」と述べている⁴。

 敗戦直後、平泉の門下生の一部は宮城事件(1945年8月14日夜のクーデター未遂)を引き起こし、将校二名と阿南陸軍大臣が自決した。平泉は「同学が一番奮闘し、数多くの血を流したのは、二・二六と今度である」と語っている⁵。このような思想的忠誠は、重信にも影響を与えた。敗戦時の重信は「魂も身体も根こそぎ病んでいた」と述べ、勤王文庫の筆写や憂国の情に基づく行動を企画していたと推定される⁶。

 このような精神的傾斜は、後年の三島由紀夫の自決に対する重信の反応にも表れている。重信は「天皇についての見解も…たただちに狂気の沙汰だとは、簡単には言いきれないような気がする」と述べ、三島の精神に一定の理解を示している⁷。これは、戦前期に培われた皇国精神が、敗戦後も重信の深層に残り続けていたことを示す証左である。

 平泉澄の思想は、重信にとって単なる歴史観ではなく、精神的な支柱であり、英雄的死への共感、国家への献身、そして詩的昇華への道筋を形づくる重要な要素であった。

脚注

¹ 片山杜秀『皇国史観』文藝春秋、2020年。

² 植村和秀『丸山眞男と平泉澄』柏書房、2004年。

³ 同上。

⁴ 高柳重信「『蕗子』の周辺」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。

⁵ 植村和秀『前出』。

⁶ 高柳重信「略年譜」『高柳重信全句集』沖積社、2002年。

⁷ 高柳重信「戦後俳句について」『俳句研究』1971年5月号、『集成第十二冊』夢幻航海社、2001年。


【連載】現代評論研究: 第19 回各論―テーマ:「男」を読む その他―  藤田踏青、土肥あき子(今回欠席)、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、北川美美、深谷義紀、吉村毬子

(投稿日:2012年01月20 日)

「戦後俳句を読む」も既に18回続いたこともあり、今回から少し体裁を変えて、

①それぞれの設定したテーマ(今回は「男」)を読む鑑賞と、

②作家固有のテーマに基づき読む鑑賞に分けて構成することとした。

 執筆者たちが、「戦後俳句を読む」でそれぞれの執筆者が取り上げた作家の主題に突き当たったと実感したからである。また目次のあり方も変えて、作家ごとに頁で表示することとした。まだ作業中であるが、近いうちにそれぞれの作家鑑賞ごとにーーーつまり執筆者ごとにまとめてアーカイブを読めるようにして、長編の作家論としても読めるようにしたいと思う。

 『戦後俳句全集』への第一歩が始まったと実感している。


●―1:近木圭之介の句/藤田踏青

 接続と切断 ひとり男のかげ

 平成16年の圭之介の晩年(92歳)の作品である。「接続と切断」とは男としての人生に対する複雑な思いとそれへの回顧でもあろう。それ故「かげ」とはネガテイブな面だけを示しているのではなく、「かげ」全体が人生そのものを包含しているという意味を持ち、背中合わせの存在として対峙している。そして「かげ」そのものも現実の明暗の中で接続と切断を繰り返しているという二重構造にもなっている。また一字空白は時間と空間と思考の異化という自己と実在との分化作用を示しており、それが上句と下句への両方へ覆いかぶさる効果をももたらしている。この様な人生に対する思いは当然、晩年の作品に多く見られる。

 男朽ち 牡丹ボウボウ        平成9年  注①

 沈黙の叫び 男あり 或いは欲望   平成16年

 夢でしかない獣が己にいて。今も   平成18年

 ただ一つの生 男はさぐる      平成18年

 朽ちて形を失ってゆくが故に男であり、牡丹なのであろう。そして沈黙の中に夢の中に、欲望としての獣が尚も蠢いているのも男ならではの事。己という「ただ一つの生」とは果して如何なるものであったのか、そこでは生と死が呼び交わしているのであろうか。そのような男の姿は次の詩にも表れている。


    「パレットナイフ 37」抜   注②

 Ⅴ 言葉は主体から完膚なき迄に引き離され

  男は拙い道化役でしかなかった

  冷たい土の上ああ蝶はもう飛べない


 ここには沈黙と道化役と飛べない蝶としての自己があるばかりである。そしてそこには男の少し淋しい自画像があるばかりである。

 自画像をすこし笑わせておく     昭和32年  注③

 顔の左右の分離する自画像を持つ   昭和38年

 自画像が笑わなくなっていた     昭和39年  注③

 自画像の風化した頤が微笑する    昭和40年  注③

 自画像の笑いの変遷は男の自嘲的な人生を物語っているのであろうか。そしてその分裂した角質化した笑いはやがて風化した頤に嵌められた存在になっていったのかもしれない。また常に関門海峡を見つめていた圭之介の内部と外部とでは次の様なドラマも展開されていた。少し長いがその詩を掲げる。


「パレットナイフ 1」   注②

  Ⅰ 航海に出ようともせず汽船はどろどろ

  五臓を流れた。季節は春である

Ⅱ 男には男の悪の火。

  菜の花はいちめん炎え 下弦の月。

Ⅲ 卵 かなしみの町 敗北をみとめる男

  タンカーの標識燈 みな憎めない

Ⅳ 血冥ク路地裏

  海難事故報ハシル

  二月ノ雨ガ燐ノ如ク凍ル

Ⅴ 死者がふりむき聞いたもの未知のこえ

  それは海流と共に消えた


 全て過ぎ去り、残ったものは浪の音だけだった。

 男がいて鍵穴 浪の音する 昭和35年   注③


注①「層雲自由律2000年句集」合同句集 層雲自由律の会 平成12年刊

注②「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会  平成17年刊

注③「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊


●―2:稲垣きくのの句/土肥あき子(今回欠稿)


●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞

 男にはうすずみ色を恵方道

 昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

 「男」を読み込んだ句は齋藤玄の後半生の句集には2、3例を数えるのみで、とりあげるべき句を探しあぐねて頭を抱えた。全句集全体にも収集の範囲を広げてみたが、これといったものが見つからない。そこで、ライフサイクルの中で、男だけが演じる役割の「父」の句から「男」について考えることにした。

 日曜の春昼なれば父恋ふる    昭和17年作  『飛雪』

 父の手に子供ねむたし椎の花   昭和17年作  『飛雪』

 齋藤玄の父俊三は、二科会に所属した画家で咀華(そか)と号し、川端龍子などと交流があったというが、大正7年(1918)に若くして亡くなっている。玄が四歳の時である。幼少の頃、父親の結核療養のため小田原に移り住んだらしく、春の野にイーゼルを立てて絵筆を動かす父の傍らで、青空に浮かぶ雲を飽かずに眺めていた記憶があるという。一句目の前書には「亡父咀華の遺作一点を入手す、即ち掲げ」とあり、幼少時の記憶を手繰り寄せながら父の面影を遺作の中から探り出そうとしている男の孤独が〈日曜の春昼なれば〉によく描出されている。

 二句目の〈父の手〉は、玄自身の手である。前年の昭和16年に長女が生まれ、自らも父親となったが、二十八歳の玄はまだ父親になりきれていない男だったようだ。〈椎の花〉の青臭さと乳臭い幼児とが、うまく響き合っている。眠る幼児を抱きながら途方にくれている若き父親の姿が浮かんできて、その心の柔らかさまでもが伝わってくる。

 産声の框(かまち)のわれや蛞蝓(なめくじり)  昭和18年作  『飛雪』

 次女が生まれたときの句。当時のお産は自宅に産婆を呼んだことが、〈框のわれや〉からうかがえる。ここでの框は土間から床への上がり口に水平に取り付けられる化粧材の「上がり框(かまち)」のことだろう。下五を〈蛞蝓〉で抑えているので、赤ん坊に産湯をつかわせるために、かまどのある台所で湯を沸かす役をしていたのかもしれない。なめくじは台所などのじめじめしたところを好むからだ。当時の台所は土間とひと続きであったことを考えれば、民俗資料としても興味深い。子供が生まれるのを待つときの男は、たいてい何もできずに框あたりでおろおろするだけのものである。

 麻痺の子の矢車夜半を鳴り出づる  昭和25年作  『玄』

 麻痺の子の行水あはれ水多し   昭和25年作   『玄』

 この年、四歳になる長男が小児麻痺で左腕を不随にした。男の節句を迎えても不治の息子の将来を思うとき、素直に喜べず、悶々と眠れない夜が続いたという。その頃の玄は、銀行の職を辞したばかりで、妻の宝石類を売り食いするほどの貧困生活を送っていた。

 雪に呷(あお)る焼酎耶蘇の鐘永し   昭和25年作  『玄』

 西日に酌めば市井無頼と言はれけり   昭和25年作  『玄』

 酒に逃げたといえばそれまでだが、そうするしかないときもある。これ以降、玄は父親としての視点で俳句を詠むことをやめる。そして、昭和26年、再就職を果すと、句作からも次第に遠ざかってゆく。「俳句は僕にとって、他に自己を通ずる要諦である」と『飛雪』の跋文で書いた玄が、句作から距離を置くようになったのは、おそらく父親として夫としての自身を復活させるために家庭生活に没入しようとの決意があったのではないだろうか。三度の飯よりも好きな俳句を断ち、他者との関係を遮断して、家庭人としてやり直す。それも男の姿勢として肯える。昭和28年に主宰する「壺」刊行を断った理由として、俳人たちの足の引っ張り合いや陰口をたたきあう浅ましさに嫌気がさしたことをあげているが、遠因としては、家庭を支える男としての役割を果すためではなかったかと思うのだが、邪推だろうか。

 男にはうすずみ色を恵方道   昭和52年   『雁道』

 〈恵方道〉とは、年初にその年の恵方にあたる神社仏閣に行く途中の道のこと。恵方は年神(歳徳神)がやって来るめでたい方角で、塞がりの方角に対する明きの方角をいう。〈うすずみ色〉は、薄墨色で、ねずみ色のこと。句意としては、幸せになる道を求めて歩むとき、男にとっては地味で目立たない薄墨色がふさわしい、とでもなろうか。平畑静塔は、この「を」を係助詞で、強調の「こそ」の意ととる(*2)が、文法的な裏づけに欠ける。なぜなら、どの古語辞典を紐解いても「を」に係助詞の用法が見当たらないからだ。間投助詞「を」であれば、強調の意はある。その場合は、あえて訳出しないことが多いようだ。

 男と女の恵方への道はそれぞれ異なる。女のそれは明るい色を曳いている。男のそれはうすずみ色を曳いている。別に不思議はない。(*3)

 自註をみると男女の恵方の受け止め方の違いを詠んだものであることがわかる。そこでの「男」は、父親、夫といった役割のない男本来の持つ「性(さが)」のようなものを言いあてているように思うのだが、どうだろうか。

 亡父ひたにそびゆる夏の平かな   昭和54年  『無畔

 病床の中で玄は亡父の幻を夏の地平の中に見出しながら「父親」になりきれなかった自身をふりかえっている。やはり男は、女が母や妻になるようには、簡単に父や夫になることはできないのかもしれない。


*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載

*2 平畑静塔 「『雁道』の手法」 『俳句』昭和55年8月号所収 角川書店刊

*3 自註現代俳句シリーズ・第二期16『斎藤玄集』 昭和53年 俳人協会刊


●―5:堀葦男の句/堺谷真人

 男出て茄子畑を蹴る雹の変

 『山姿水情』(1981年)所収の句。

 夏の夕方。突然の雷鳴とともに、ばらばらと大粒の雹が降りそそぐ。雹がやむとあとには無残な光景がひろがっている。車の窓ガラスや街灯の覆いは割れ、ビニールハウスは裂け、収穫を待つばかりだった野菜や果物は薙ぎ落とされている。屋内に避難していた男が畑を見回り、腹立ちまぎれに落ちた茄子を蹴っている。

 葦男の俳句には様々な男たちが出てくる。友、父、吾子、師と呼ばれる近しい存在から、少年、青年、老人など人生の多様なステージにある男性像までがそこには含まれる。

 父子新年ボデイを軽く打ち合って   『機 械』

 まばゆい少年池畔に栗の花荒さび    同

 更に、給仕、火夫、勢子といった職掌・役割を持つ人々や、髭面、広額、剃り跡青い仲間、濃い眉毛同士など身体的特徴で示唆される一群の男たちがいる。

 給仕戻る寒の外気の香を放ち     『火づくり』

 動乱買われる 俺も剃り跡青い仲間   同

 彼らには年齢・境遇相応の属性が賦与されている。表情や身のこなし、話し方の癖や体臭といったもの、つまり身体性にもとづく男くささを備えているといってもよい。しかし、葦男俳句にひとたび「男」「男等」という抽象的語彙が使われると、状況は一変する。

 男等の事務暗しチューリップの割れ目  『火づくり』

 頭かかえた男置き 脚の群とだえる     同

 どんどん溢れる無言の男等夜霧の駅     同

 みどり流れる車鏡 男のさびしさ照り  『機 械』

 これらの作例に出てくる男たちには身体性にもとづく男くささが乏しい。寡黙かつ無表情、去勢された家畜のように存在感が希薄なのである。その中でわずかに生きた人間の体温を感じさせるのが茄子畑を蹴る男であろう。もっとも、予期せぬ天変を前になすすべもない彼にとっては、売り物にならない茄子を蹴ることでなけなしの怒りを吐き出すのが精一杯の感情表出なのだが。

 ところで、「男」に随伴するこのような諦念もしくは無力感イメージは葦男という作家に巣くう或るコンプレックスの表象ではないかと筆者は疑っている。すなわち、さきの大戦における日本の敗北および自身の軍歴欠如によるそれである。

 秋風が面うつ打つにまかせける

 『火づくり』「風の章」の連作「終戦 三句」の第一句めは敗戦に呆然とする葦男の自画像である。連合国に対する無条件降伏と陸海軍解体は当時の多くの日本人に集合的トラウマを与えた。しかし、肺患を以て兵役を免ぜられた葦男の敗戦には「戦わずして敗れた」という苦味が伴ったのである。

 国民皆兵の軍国にあって兵役を果たせないのは一種の不能者であり、友人や兄弟の戦死の報に接するごとに、葦男が焦燥と無力感を募らせたであろうことは想像に難くない。日本は負けた。死力を尽くして戦ったが、負けた。だが、少なくとも自身に関する限り、一弾も放つこともなく負けたのである。敗戦がもたらす集合的トラウマと兵役免除による個人的トラウマ。表象としての国家レベルでの去勢と自身の不能意識。これらが知的操作の及ばぬ葦男の無意識の中でいつしか無力で受け身の「男」イメージへと結像していったのではないか。

 葦男という俳号は『古事記』の葦原色許男(葦原醜男とも書く)に由来すると聞いたことがある。葦原色許男は大国主神の別名である。肇国神話の英雄の名を己が俳号とした葦男。

 そこに男性性への屈折したこだわりを見るのは深読みに過ぎるのであろうか。

 アイスキャンデー売れず予備隊志す   『火づくり』


●―8:青玄系の作家の句/岡村知昭

 煮えきらぬ会話 男ものの時計を嵌め    梶谷節子

 いくら恋する男女だからといって、いつも高揚した気分のまま進むわけではないのは当たり前の話。掲出句に登場するふたりの間にはいま微妙な空気が漂っていて、そうなると会話もなかなかにはずまないのは致し方ないところ。彼も彼女も微妙に気まずい今の雰囲気を何とかしなくてはいけないとは心の内では分かっているのだけれども、さりとて状況を打開できるきっかけがなかなかに見出せず、ただ「煮えきらぬ会話」を繰り返すしかないのが、彼女の苛立ちをさらに掻き立ててやまない。「ねえ、何とか言ったらどうなのよ」と言い募るわけにもいかず、だけどこのままにしておくのも気分が悪い、苛立ちによって鋭さを増しつつある彼女の視線に、彼の方だって気が付いていないわけではないのだが、だからといって自分がどうしたらいいのかは分からないのは彼女と同じ。会話は弾まず、ふたりの間を漂う微妙な雰囲気は変わらず、なんともやるせない気分がお互いの心を覆ってしまっている、そんな只今のふたりである。

 ここで出てくるのが「男ものの時計」。普通に考えれば彼が嵌めている時計のことを指しているはずなのだが、彼と視線を合わせたくないばかりに視線を彼の手元に移している彼女からすれば単に「時計」とだけしておいてもいいはずなのに、彼女はわざわざ「男もの」と手元の時計のあり様をしっかりと確かめている。「男ものの時計」を嵌めているのがまぎれもなく彼なのであれば、彼女はここで彼の「男」である部分に対して醒めた視線とかすかな疑問を抱きだしていると見ておいたほうがよさそうだ。いかなる理由で会話が「煮えきらぬ」ようになったかは定かではないが、こんなことになったきっかけを作ったのは彼のほうにあるはず、でも彼はそのことを果たしてわかっているのか、との想いに彼女はすっかりとらわれている。「男ものの時計」を嵌めている彼への苛立ちはいまや「あなた本当に男なの?」との思いを彼女に抱かせているのだ。

 でもここまで鑑賞しながら、もし「男ものの時計」を嵌めているのが彼女のほうだったらとの読みも考えてしまうところもある、というのは男性が嵌めているものに対して「男もの」との限定をしてくるのがどうしても違和感の残るところであったからである。「煮えきらぬ」会話の続くことに耐えられない彼女はいま何時だろうかと時計に目を落とす。手に嵌めている「男ものの時計」は今日のデートに合わせて家族から借りただろうが、今の重苦しい雰囲気とともに、なじみのない時計の重みが手首に、そして全身に回りつつあるかのようだ。だけど「男ものの時計」を嵌めていることが彼女がいまの微妙な雰囲気になんとか耐えている支えになっているのかもしれない、時計を替えてきた今日はいつもの私とは違うのよ、決していつものようにはいかないんだからね、という感じで。きっかけさえつかめば、彼女は一気に彼に対して言葉を連ねていくのかもしれない、それがどのような結果をもたらすのかはともかくとして。分かち書きを活用した二句一章に内蔵された彼と彼女のストーリーはなかなか簡単にはいかないようである。

 作者は愛媛県出身、高校時代に部活動として俳句に出合い、顧問の教師が「青玄」同人だったのがきっかけで「青玄」入り。掲出句は楠本憲吉編の『戦後の俳句 〈現代〉はどう詠まれたか』の「十代作家の登場」の章に「洋裁学校生」との肩書きで登場する。この章は「青玄」の作家たちを取り上げており、梶谷のほかに登場するのは伊丹三樹彦、穂積隆文(学生)、諧弘子(主婦)。この章で取り上げられた作品を以下に挙げてみよう。

 神戸の秋は淋しい 忠告下さいお母さん   梶谷節子

 揺れていた吊橋 好きだと言われた日

 覇者にも鋭い 鎖骨の窪み ファンファーレ   穂積隆文

 ふふーんふふーんとシャンソン 明日へ漬けるキャベツ   諧弘子

 この時期の「青玄」では1964年(昭和39)9・10月号で「10代作家10人集」、翌年1965年(昭和40)9・10月号で「20代作家20人集」と、若手作家の特集を積極的に組み、俳句現代派運動における成果として世に知らしめようとしていた。ひとつの運動体における、まぎれもない青春の季節のまっただなかに「青玄」はあった。


●―9:上田五千石の句/しなだしん

 雪催松の生傷匂ふなり   五千石

 第二句集『森林』所収。昭和四十四年作。

 第二句集『森林』の第一句目に置かれた句である。この句について、自註(*1)には、〈赤松の幹の生なましさが、いつまでも心を離れなかった〉と記す。

     ◆

 これは男の句だ、と思う。だが、それはなぜだろうか。

 「生傷」という不穏な言葉からか、「傷匂ふ」という身体感覚からか。どちらもそうだという気がするし、さらにいえばこの情景に着目し、それを詠もうとした心持ち、それ自体に「男」を感じるのだと思う。実はこの句を知らない初心の頃の私にも、似たような句がある。私の句は「雪折」の松の傷口に着目したものであったが。

 さて、この「生傷」は、幹に付けられた外的なものか、「雪折」のように松の幹もしくは枝から木肌が露出した状態だろうか。ちなみに、私の生家あたりには防風林として松が多くあり、冬には日本海からの風に耐える松の姿を間近にして暮らしていた。厳しい海風に耐えた松も、風が収まった大雪の日に、雪の重みに耐えかねて、枝が折れるものもあり、中には落雷のあとのように、無残に幹が大きく割れたものもあった。その割れた幹の内部はやけに赤かったように記憶している。

     ◆

 掲出句。この句の季語は「雪催」であるから、まだ雪は降っていない。だが、降り出しそうだと感じられる曇天の下、足元からは底冷えもしているかもしれない。そんな中、晒されている木肌は艶めかしく、木の、命の温度を顕わにしているのだ。木肌は人のそれに似て、まさに「生傷」と捉えられるだろう。

 「松の生傷匂ふ」は現実の景のなかにも、どこかロマンを求める、そんな「男」の俳句と言っていいと思う。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊


●―10:楠本憲吉の句/筑紫磐井

テーマ:妻と女の間

解説:楠本憲吉の新シリーズのテーマは、「妻と女の間」とした。

 憲吉の独特の女性のとらえ方は、近代以後の俳句でもユニークなものである。近代俳句は、写生に基づく真実や境涯性、人間探究派の追求した生命や生活といった倫理観に束縛されていたが、これから解放されたのが戦後の現代俳句であった(それでも戦後の社会性俳句や前衛俳句は倫理的であったのだが)。

 女性を道具としてしか見ない、それが、妻の存在に至るとおそらく、妻は敵に近いという憲吉の独特な世界にまでになっているのではないか。なぜならこの熾烈なバトルが俳句で描かれたこと自身奇跡だと思うのである。おそらくこんな自己中心的な男は許し難いという読者が8割はいるのではないか。例えば前々回紹介した中西氏はその8割の人。そこで私はそれ以外の、こんな男でも許してくれそうな2割の読者のために鑑賞をしてみたいと思う。

 人は聖人君子ではないことはよく分かっているが、それにしても羽目を外しすぎたのが楠本憲吉であろう。既に18回の連載を行ったが、その殆どの回で私は憲吉批判を行ってきた。何のために「戦後俳句を読む」でこんな楠本憲吉を取り上げなければならないかと言えば、まさにこれが「戦後」であるからである。仮面をむしり取って、男の本性をさらけ出したような俳句、女流で言えば(鈴木真砂女でも稲垣きくのでもない、)娼婦俳人と呼ばれた鈴木しづ子と対になる、アプレゲール世代の懲りない俳句を愛するからである。

 『新撰21』で登場した北大路翼や、『超新撰21』で登場した種田スガル、惜しくもこれから外れた御中虫、松本てふこらもまだその性のあからさまさと奔放さで楠本憲吉にはかなわないのではないか。新世代が反面教師とするにはちょうど良い作家なのである。

 それにしてもこれだけ批判しながらも、憲吉の作品の何と軽快なことか。逆に俳句が忘れて久しいものがここにあるかも知れない。私としては、相馬遷子という生真面目な作者の次に取り上げたいと思った作家はこんな作家であった。

 楠本憲吉全句集は、「妻と女」の句を除くとおそらく半減してしまうであろう。「妻と女」は楠本憲吉の俳句のすべてといってもよいであろう。


本題

 光る靴踏むや瓦礫の我が華燭  26(22年)

 25歳で柴山節子と結婚した時の句。憲吉の妻俳句の全てがここから始まるので掲げておいた。まだ戦後の瓦礫が放置されている時代の結婚式である。自解によれば、式場は日本橋高島屋であり、八重洲口は当時瓦礫の山だったという。往時茫々の感がある。そして新婚の新居は鎌倉材木座の借家であった。

 あまり個人的な履歴については触れないようにするが最初だけは予備知識として書いておこう。結婚式を挙げたその高島屋に灘萬がテナントとして入り、そこで楠本夫妻は夫婦でアルバイトをする。憲吉の職歴としては、しばらく出身の灘高の講師、帰京して青山学院中学の講師をしていたが、生活が苦しいためふたたび帰阪して灘萬に入社する。必ずしも灘萬の御曹司の華やかな生活が始まったわけではなかったようだ。やがて、灘萬が東京店を開店するために再び東京へ。昭和31年には灘萬代表取締役となるのである。もともと憲吉は慶応大学法学部政治学科を卒業していたのだが、この間、同大文学部仏文学科に学士入学、国学院大学大学院日本文学科に入学したりしているし、また、武蔵野女子大講師、大谷女子大助教授、慶応大学文学部講師、田中千代学園短期大学教授、東横学園短期大学講師などを務めている。すべて女子大生の学校だから鶏小屋に狐を放った感じがしないでもないが、憲吉がアカデミックな研究と教育の場を往復していたことは記憶に残してよいことである。

 しかしこの夫婦はあっという間に倦怠に陥る。昭和28年、こんな句を詠んでいる。いささか倦怠が早すぎるようである。

 麦芽の青さ妻と睦みし日の遠さ  65

 妻とゐて風花の昼倦みゐたり  66

 結婚6年目、長男3歳、長女1歳のときである。


●―12:三橋敏雄の句/北川美美

テーマ:『眞神』を誤読する

解説

 遠山陽子さんの個人季刊誌『弦』が年賀便として届いた。敏雄辞世句「山に金太郎野に金次郎予は昼寝」が中扉を飾り、評伝「したたかなダンディズム 三橋敏雄」が完結(全35回)となり満9年の発行を一旦終刊させた。「敏雄の生誕から没年までの軌跡を辿ることが目的だったので、『弦』も一区切りとしたい。」ということをご本人から伺った。敏雄最期の句会参加となった2001年「面」忘年句会での高得点句作者4名へ後に辞世句となった揮亳された色紙が手渡された様子も掲載されている。

 「したたかなダンディズム」のタイトル命名に最期まで師を見守り続けた遠山氏の女心を感じていたが、敏雄の作品の上での「したたかさ」は『眞神』つづく『鷓鴣』に顕著に現れているのではないかと思っている。

 『眞神』により敏雄はコアファンを獲得し、芭蕉、子規が時代の中で俳句を確立していった作品群と対等に置かれ、まさに敏雄自身の俳句様式の確立でもあった。現在も多くのファンの経典になっている。敏雄は『疊の上』にて蛇笏賞を受賞するが、やはり『眞神』がいい。モルトウィスキー、熟成された日本酒の香りが沁み入る洒脱さある。

 ただ、『眞神』は至極難しい。アミ二ズム、シャーマニズム、父、母、胎児、さまざまな謎の主題が登場し輪廻転生の曼荼羅を巡っているような旅に読者を連れていく。「同行二人」遍路道を歩んでいるような不思議な世界がある。経典でありながら未だ読みこなせないのが『眞神』である。美酒であるが故に妙に男を意識させるのである。逆にそれは俳句が男の世界であることをも示唆しているようで女人禁制の山に感じることも確かである。

 敏雄の句は直球の句意を持ちながらマニアックな読み方もできる句、時が経過し別の読みを発見できる楽しみがある。人生のさまざまな事象に遭遇した時、句が燦然と輝き、突然と解る時がある。それが運命的に短い俳句ならではの力ともいえる。

 『眞神』が何故洒脱なのか、何故魅力的なのか。これから書き進めるものは『眞神』の「誤読」のひとつであることをはじめから白状しておこう。


本題

① 昭和衰へ馬の音する夕かな

 無季句である。逆に有季とは何か。別れを示唆するメールに「いろいろ有ったけど」と凝縮された9文字の箇所があった。送信者は何故「有」と漢字を当てたのか。それは有季すなわち四季の移ろい、人の移ろいのことなのか、と思いを巡らせた。四季様々の天候があり、いろいろな事象が起こり、人はさまざまなことを感じ、地球の自転とともに歳をとる。それが有季の原点。敏雄の無季句にはその有季と同等の人の感覚に訴えるもの、読者との共通認識を詠み込ませる錬金術が潜んでいる。

 「昭和衰へ」と突然時代への嘆きと思える上五で始まる冒頭句。時代を表現する「昭和」という時と「夕」という具体的な日没の時を告げる景の狭間に「馬の音」が聴こえる。『眞神』の時間軸の提起である。二つの時が織りなすものは、読者の立ち位置を「時空」へいざなう四次元的感覚を覚える。歴代元号として最長(64年、実質62年と14日)の「昭和」に何を感じるのかは読者により様々である。平成もすでに24年となった。「降る雪や明治は遠くなりにけり」の草田男と対極に、衰えながら今も「昭和」が息づいているように読めるのである。

 自作ノート(『現代俳句全集四』1977)に因れば、「万葉集・巻十一」の「馬の音のとどともすれば松陰に出でてそ見つるけだし君かと」を遠望しているとある。そして敏雄の敬愛する渡辺白泉に「あゝ夜の松かと見れば馬の影」「遠い馬僕みてないた僕も泣いた」がある。朔太郎の『青猫』には死を象徴する「蒼ざめた馬」が登場し「私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!」と叫んでいる。過去と現在を行き来させる使者として馬の音。時代に取り残された望郷へと読者を誘う。『眞神』プロローグにふさわしい「馬の音」である。

 昭和が衰えた頃の馬の音について、全く角度を変えイメージを膨らませてみる。「秀和(しゅうわ)レジデンス」という1964年東京オリンピックの頃の高度成長期に分譲開始されたマンションが今も港区・目黒区周辺に点在する。「昭和(しょうわ)」を彷彿するビンテージ・マンションとして現在人気がある。そこに血の色のムスタング(Ford Mustang 1964アメリカ車。ムスタング=「野生馬」)がアイドリングをしながら夕日を浴びて停まっている。そのエンジン音をアイアン・バルコニー越しに聴きながら化粧を急ぐ女…。これも昭和に対する風俗的オマージュの風景でもある。

 昭和暦で数え今年は昭和87年。五感を張り巡らせ『眞神』の旅をはじめたい。


② 鬼赤く戦争はまだつづくなり

 16-1 “テーマ「色」”では、上掲句の「赤」について書いた。

 俳句は最短の詩歌だが掲句の句意は重くのしかかる。

 『眞神』が連句の手法をとっていることは生前のインタビュー(『恒信風』聞き手:村井康司)で明かされている。敏雄はその詳細に触れていないが、無季句を積極的に『眞神』に配置していることも大いに古典俳諧と関連があるだろう。「新興俳句は壊滅した」と言い切る敏雄の無季句模索から30年以上が経過していた。冒頭句「昭和衰へ馬の音する夕かな」を発句とするならば掲句は脇となり、発句にある余情・余韻をもって付けられるものということになる。連句を考えなくとも自然と冒頭句につづく第二句は、関連をもって見えてくるものではあるが。言わずと「昭和」と「戦争」、「馬」と「鬼」が対になっていよう。忘却されそうになる戦争を鬼という妖怪を登場させ風化させまいとしているように感じる。

 日本の「鬼」は「悪」から「神」までの多様な現れ方をしておりある特定のイメージが摑みにくい。ここでは、戦争がまだつづく要因になる鬼、すなわち地獄の景が想像できよう。戦争を知るものだけが味わった地獄。戦中派といわれた敏雄世代の苦悩がいつまでも続いているということにもうなずける。「赤鬼」ではない。元は何色だったかわからない鬼が赤くなっている。血を流している、あるいは、怒っていると想像できる。

 敏雄の鬼は血を流し、怒り、反戦を訴える。『眞神』刊行の少し前、戦後派世代である北山修(精神科医・詩人)の『戦争を知らない子供たち』がヒットしたのは1970年のことだった。戦争を知らない子供だった自分が、今、戦争に向き合った敏雄と対峙している。戦争の影は決して消えることがない、消えさせてはいけないものだろう。

 敏雄は1955(昭和30)年、密林での激しい戦闘が繰り広げられた東ニューギニア(現:パプアニューギニア)およびソロモン群島等の戦没日本兵遺骨収集のための航海に従事している。陰陽五行の赤の方位は南であるという説があり、戦後の昭和を生きた敏雄の句は私的な面に於いて検証してもリアルに成り立つのである。

 2011年は、かの大惨事が起きた。戦争と原発事故は国策より破滅的な被害を出してしまったということに共通点がある。第二の敗戦として災後がつづいている。赤くなっているのは鬼の涙かもしれない。


 鐵を食ふ鐵バクテリア鐵の中

 五七五のそれぞれの先頭に「鉄」を配したリフレイン。『眞神』の冒頭三句は多くのファンの脳裏に焼き付いているようだ。


 鉄を食ふ

 鉄バクテリア

 鉄の中


 改行してみるとまさにマザーグースのような詩である。俳句は詩であると翻弄した新興俳句、のちの高柳重信が取り組んだ多行形式が重なり合う。敏雄は前衛とも古典とも区別のつかない境界を越えた唯一の俳句を求め『眞神』に集中させていったと思えてならない。

 人類にとって最も利用価値のある金属元素の「鉄」を浸食するバクテリアが鉄自身の中にあるという、まずは破滅的示唆と読める。鉄バクテリアとは土壌微生物の一種で用水路口などでドロドロとして褐色の粘液を作りだす。航空機などの損傷に鉄バクテリアが影響しているようだ。

 詩・短歌・俳句の三位一体が最晩年までつづいていた吉岡実の『マクロコスモス』に於ける65行目「粘菌性のマクロコスモス」から最終70行目「不条理な鉄の処女を感じる」にかけてのクライマックスが、上掲句と根っこがどうも似ているように読める。同じ戦中派の吉岡実と親交を深めたことも納得できる。*1)

 リズム感あるリフレインに隠れ、「バクテリア」という目にはみえない生物への想像がふくらみ、鉄がぐるぐると円を描きながら地核に潜り込むような神秘性をこの句に感じる。「鉄」は46億年前に地球を形成した元素でもある。生命・宇宙へと想像はひろがる。転換の三句目として、なるほどと思う。


*1)―「マクロコスモス 吉岡実」抜粋―

粘菌性のマクロコスモス

千紫万紅の高千穂の峯をふりかえり

鳥肌の世界を反省する

棒高跳選手

バーを越えるとき

不条理な鉄の処女を感じる


●―13:成田千空の句/深谷義紀

  掌(たなそこ)に拳一と打ち田起しへ

 第1句集「地霊」所収。

 千空作品で描かれた「男」と言えば、何と言っても北の地・青森で困難な環境のなか懸命に農作業に取り組む「農夫」達だろう。

 思いつくままに挙げれば、以下のような句である。

 火の秋刀魚農夫にいまも力飯   『天門』

 どろどろの農機と農夫聖五月   『天門』

 だみ声の男ら堰を浚ふなり    『白光』

 第1句の「力飯」、第2句の「どろどろの」、第3句の「だみ声」などの措辞が印象的である。いずれの作品も、汗と泥にまみれて農作業に取り組む北の男たちの姿が活写されており、これらの農作業の困難さや彼らの無骨なひたむきさまでが読者に伝わってくるようである。

 さて掲出句もこれらの作品と同様に、こうした農夫の姿を採り上げたものである。とりわけ、掲出句は農作業そのものを描いたものではなく、その予備動作とでも言うべき仕草を採り上げている。けれども、農作業自体を描いた句より、むしろ印象鮮烈である。まさに映画の1カットを見せられたような、鮮やかな読後感がある。バシッという、掌を打った力強い拳の音が耳に残る。

 そしてこの仕草は、これから男が始めようとする「田起し」という作業の重さを予感させるし、それに向かう男の決意が滲み出た行為と言えるだろう。さらに言えば、田起こしそのものが米作りの一連の作業の一番最初に位置付けられるため、これから一年を通じた米作り全体への決意と言えるかもしれない。

 こうした一連の作品がリアリティを持つのは、千空自身が終戦直後の一時期帰農生活を送り、苦労を重ねた経験があるからだとも思える。そうした農作業の辛さをよく知り、農夫たちに惜しみない共感を有する千空だからこそ、作りえた作品だったとも言えよう。もしかしたら、千空作品に描かれた農夫たちは、若かりし頃の千空自身の姿だったのではないか。そんな気がしてならない。


●―14:中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】53.54.55.56.57.58/吉村鞠子

2014年10月31日金曜日

53 遠き母より灰神楽立ち木魂発つ

 「吉村さんは妖怪とか興味ありますか?」と聞かれ、苑子と水木しげるの話をした事がある。私は、少女の頃好きであった〝ゲゲゲの鬼太郎〟の話くらいしかできなくて、残念でありまた申し訳なかった。苑子は、話を展開したいようでいろいろ聞いてきたが、私は知識がとぼしくて話相手になれなかったのだ。倉阪鬼一郎の『怖い俳句』が苑子存命中に刊行されていたなら、さぞかし喜こんだであろう。(登場する女流俳人の中で最も多くの作品が取りあげられている。)

 江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕(水木しげるは、石燕を継承している作風でもある。)の妖怪画集『画図百鬼夜行』の中に「木魅(こだま)」と題した、木々の傍らに老いた男女が描かれた画がある。今回から始める第3章の「父母の景」を書くにあたり、私はその画を苑子と苑子の木に宿る神霊の如き「父母の景」に捧げたいと思う。

 掲句の木魂も字は異なるが、木に宿る神、木の精霊であり、それは母なのではないだろうか。第1章「遠景」の終句に引き戻される。


22 行きて睡らず今は母郷に樹と立つ骨

 この句の「母郷」が、掲句の「遠き母より」にあたるのであろう。遠く過ぎ去ってしまった時間、それは何時でも呼び戻せる、また呼び戻される母と苑子だけの時空である。


白髪となりて一樹を歎きあふ           『花狩』 

降霊の一本杉とわがいくさ                    〃 

言霊も花も絶えたる木を愛す                〃 

よるべなき木霊の憩ふ青木立           『花隠れ』  


 苑子は、木には霊が宿ることを終生疑わずにいたようである。樹木そのものに限らず、木の国・流木・木戸・止り木等、木の材質そのものも愛し、木という語にも魅了されている。木は、近代日本に生まれた世代にすれば、家であり、欠かせない生活用品でもあり、遊び場であった。高屋窓秋の木の句には木霊の声が聴こえてくるようである。


木の家のさて木枯を聞きませう         高屋窓秋『石の門』 

風もなく木は囁きてピカソの死                〃       『ひかりの地』 

遥かより木がさらさらと枯音す                〃       『緑星』


 戦時中の満州生活からの帰還後、日本の風土が木がより繊細に研ぎ澄まされて詠われている。

 しかし、苑子の愛する樹木の句は、『水妖詞館』(処女句集、昭和50年刊行)、『花狩』(第2句集、昭和51年刊行)が多くを占めており、それ以降の句集には、1、2句しか収録されていない。苑子を(近世までの日本を)育くんできた木が失なわれていくことは、苑子にとっても腑甲斐無いことであった。散文集『俳句自在』(平成6年発行 角川書店)の「真夏の夜の夢」では、憤りにも似た文章を載せている。


(前略)植物も生物なのだから、何がしかの感情はあるというもの。「成木責め」などが本当に効果があるのも、植物に感情のある証拠だと信じている。(中略)太陽は遮ぎられ、わずかに生き残った蔓科の植物たちは全部、食物となった。もはや、人間との交感どころか、人間への復讐にもえて死物狂いの攻撃をはじめ、人間を絶滅せんと怨念の蔓を窓硝子に這わせて隙あらばと狙っている。(中略)と、サボテン変じて夏の夜の夢と化した。


  文中の「成木(なりき)責(ぜ)め」とは木(き)呪(まじない)とも言われ、刃物を持って木に向かって、「成るか成らぬか」と問い、木の陰で「成ります成ります」と木に代って答える小正月の行事である。苑子らの時代は馴染みのある風習だったのかも知れない。


成木責しつつ故郷は持たざりき        加藤楸邨 

成木責兄は大猿われ小蟹                   加藤知世子


 また、今回の句の「灰神楽」も、戦後火鉢の衰退とともにあまり使用されなくなった季語であろう。灰の中に湯、水がこぼれて灰が舞い上がることを神楽と呼んだのは、神事の湯立神楽(湯を用いて五穀豊穣・無病息災を祈願した)が、水を入れた釜の下から木を燃やして火を起こした後、灰ができることに関係がありそうだが――。木・火・土・金・水の陰陽五行思想の法則を備えているらしい。

 いずれにしても「灰神楽」が、半世紀前頃までは日常語であったとしても、その語の呪詛的神秘性を持つ古代の響きが、苑子の詩をかたち造るのに適っている。遠い記憶の中の母が、天照大神を天の岩戸から誘い出した天細女命の如く、灰に包まれて妖しく踊る姿さえも想像することができる。その妖しくも昏い灰の踊りに、木の神、精霊が呼ばれてしまったのだという物語も成り立つ。しかし、苑子の話や随筆などを読む限りでは、子女養成の塾を開いていた厳格な明治女の母である。苑子が「灰神楽」の懐古の灰の中に母の憂いや寂寥を見れば、母の宿る木から母という精霊が母郷へ旅発ってしまったこととなる、母郷の母と常に木に棲んでいる母の二重構造という解釈に至った。

 私と同じ世代の俳人、神山姫余の句集『未生怨/死児の森』(平成15年現代俳句協会発行)は、家・母・女のテーマが絡まりながら句々が連鎖している。

 その句集評で私は、次のように述べた。(『未定』85号・平成17年)


(前略)「家」というものの屹立は、継承や血脈のみの続行では無い。埋没し再生する女という一筋の遺恨が誇示と追従を重ね合わせながら支えてきたものではないか。(後略)


 だが、女の血脈の濃さは、男の広漠な血気にも薄められないものなのである。姫余が句集の後記にて述べていることは、誠に興味深い。

 この世には、母から娘にしか受け継がれない遺伝子が存在するという。息子しかいない場合、母親のその遺伝子はそこで途絶えてしまうという。母から娘へ、遺伝子は何を語り伝えているのだろうか。素晴らしいことなのか、怖いことなのか、このことを何と表現すればいいのだろうか。母親が体験したことや感情が、少なからず、密かに生まれくる娘にすり込まれているとしたら…。

 苑子は娘を産まなかったので、祖母や母から受け継がれたものは消滅してしまったことになる。「灰神楽」へ発ち去った「木魂」は、〈22 行きて睡らず今も母郷に樹と立つ骨〉となって永遠にその樹に宿ったままなのである。今では、母とともに苑子も宿るその樹は、俳句の娘たちの成木責めを秘かに待っているのかも知れない。


晩菊や母を離れて母を見る                    大木あまり 

母と娘に生まれあはせし花野かな        正木ゆう子 

ははそはの母からははへ春の風            鎌倉佐弓 

野苺や母に母あることを忘れ                あざ蓉子 

花冷えや母に母いてひとりに触る        後藤貴子


54 母が憑く午前十時の風土記かな

母の書を離れず紙魚の生きゐたり        橋本美代子


 「母の書」は、橋本多佳子の色紙か短冊であろう。「離れず」と「生きゐたり」が、多佳子の情念の迸る句を生々しく蘇らせ、娘である美代子は改めて母の存在感に驚愕し、未だに色褪せぬその句を懐しむのである。

 苑子の句は、「風土記」である。「風土記」は生まれ育った伊豆地方の風土や産物、文化などが記載された書物である。それは、羽衣伝説や、富士山の雪は6月15日になくなり、子の刻以降に新しい雪が降るという逸話のある駿河国風土記、また伊豆国の海底噴火や狩猟の話など富士山を中心とした山々と海、島々のことと興味の尽きないものである。が、「午前十時」が何を意味するかである。朝と昼の中間に当たるその時刻は、かつて休憩を入れる時であった。最近では、午後3時のみが一般的であるが、早朝から働く農作業や大工などの職人仕事にはその習慣が残っているところもあるかと思う。

 ある「午前十時」、苑子は母と過ごした時代の伊豆の時間をふと思い出していると、その時空へ引き戻されていく。「母が憑く」によって、母の家や郷里に対する深淵と業が浮彫りになる。午前十時になると、燦々と陽の遍く伊豆の豊かな自然と、自他共に厳しい母の守る家への執着とが、甘味な拷問のように苑子を呪縛する。母を思う時、伊豆を思い、伊豆を思うと母が「憑く」。伊豆に憑いた母が、苑子へも憑依する。

母我をわれ子を思ふ石蕗の花            中村汀女

 この汀女の句に、竹下しづの女を偲ぶ。(明治20年生・昭和26年没65歳)しづの女は、夫亡きあと(昭和8年、47歳)、5人の子を持つ彼女を支えた母が病没した後、病身を押して看病したが、力尽きて半年後に亡くなった。そのしづの女には母を詠った句が残されていないようである。

 しづの女は、福岡県に生まれ、大正8年吉岡禅寺洞を知り俳句を始め、昭和3年「ホトトギス」同人。夫が急逝した後、福岡市立図書館の司書として勤務し、学生俳句連盟を結成し、機関誌「成層圏」(早逝した長男が編集している)の発行指導もしている。


短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)        しづの女『颯』昭和16年 

乳ふくます事にのみ我が春ぞ行く             〃            〃 

夏痩せの肩に喰ひ込む負児(おいご)紐(ひも)                     〃            〃 

寒月の児や月に泣き長尿(いば)り                        〃            〃 

子を負うて肩のかろさや天の川                 〃            〃 


 しづの女の代名詞とも言える1句目を含む子育ての苦悩や喜びを詠んだ句が今も語り継がれるのは、女性が仕事を持つことが当り前の社会である現在こそ、母としての存在を時代を越えて知らしめているからであろう。


日を追はぬ大向日葵となりにけり  しづの女『颯』 

大いなる月こそ落つれ草ひばり                 〃            〃 

緑陰や矢を獲ては鳴る白き的                     〃            〃


 しづの女は、前述の〈須可捨焉乎〉や〈汗臭き鈍の男の群に伍す〉などの豪放な句ばかり取り上げられるけれども、ここに掲げた自然を直視する奔放な明朗さに彼女の生き方の骨太の向日性が認められる。

 先に私は、病身を押して看病した母の句がないと述べたが、父の句はある。


夫遠し父遠し天の川遠し       『颯』補遺 大正9~昭和14年


 父親がいつ亡くなったのかは解らないが、「天の川」を眺めながら、夫と並べて「遠し」と畳み掛けているのだから父生前の句ではないだろう。母の半年後、病身のため亡くならなければ、母の句も作句していたのではないだろうか。

 苑子も父母の句を残したのは『水妖詞館』からで、両親の死後詠まれていることになる。(『現代女流俳句全集』第4巻所収「初期句篇」、『花狩』初期抄、「春燈」時代も含む『花隠れ』初期句篇には見当らない。)特に『水妖詞館』には「父母の景」と章立てて22句掲載されていて、母の句だけでも10句ある。

 苑子の「風土記」は、伊豆の「風土記」というよりも、父亡き後、母と過ごした伊豆の地での時間と風習なのかも知れない。(苑子は母の実家、伊豆で生まれているが、父が亡くなる11才までは東京で育っている。)

 汀女の句、「母我をわれ子を思ふ」との思いを噛みしめながら子育てと仕事に追われていたしづの女の母の句を読めないことは残念でならない。しづの女の「風土記」にも必ずや母が記されていたはずである。


母老いて鳥のぬくみを持ち寝るか                  北原志満子 

母の日も母の素足の汚れ居り                          原コウ子 

母の行李底に団扇とおぶひひも                      熊谷愛子 

吾が性(さが)に肖(に)し子を疎み冬籠               竹下しづの女 


55 亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに

 この章「父母の景」には、10句の母の句があるが、私は今回の句に最も母恋を感じる。『水妖詞館』は、25年間の句業をまとめた処女句集であるから、この句がいつ書かれたのかは解らないが、「亡き母」とあるので若い頃の作品ではないだろう。しかし、「亡き母」が「顕つ」と、苑子は胎児に戻るのである。そして、胎中にいた頃のように「逆しまに」なると――。


1 喪をかかげいま生み落とす龍のおとし子

 私は1の句を鑑賞した際に〝生は死への始まりであり、生み落とした『水妖詞館』の作品全体の妖しき予兆の第1句目である。〟と述べた。生み落とされようとする前にすでに胎内で創成されていた喪失感が、1の句と今回の句との共通項となっていることは興味深い。苑子は、母が自分を産んだ時と同じように、苑子自身の分身とも呼べる処女句集『水妖詞館』を「喪をかかげ」て生み落としたのである。

 胎内記憶があったかのように「逆しま」であったと言うのは、逆子という意味も成り立つが、誕生する者よりも、死へ向かう者としての暗示を持つ。自分は「喪をかかげ」ながら生み落とされたと認識しているようである。

 散文集『俳句自在』にも自分は〝死〟を負って生まれたのだと思わせる文章がある。


(前略)詩人の吉野弘氏によれば、「苑」の中に「花」と「死」を感じます。苑に咲き乱れている「花」を見ていますとその地下に累積された「死」が見えます。その「死」を超えようとして地上に出現してきたのが、「花」なのです。

と、いうことになる。どうやら、私は誕生と同じに「死」の烙印も押される運命だったようである。(後略)


 大学入学後すぐに結核病を患い、入院し療養生活をしている。何よりも医者から死に至る病名を告知されこの『水妖詞館』を編むことに至った時、苑子という名前を授かったこと然り、自分が死を迎えることは胎内に在った頃からの宿命であったと納得していたのだろう。また、告知された病気は、祖母や母が亡くなった時の病名であったと同散文集に書かれている。

 母の胎内で生まれ落ちることを拒むかのように「逆しまに」なっている胎児。その頃の母親が如何なる精神状態であったのか、胎教がどのように影響したのかは、母親と子にしか解らない、2人だけの閉鎖された世界である。「亡き母」が顕われると、苑子は胎内にいた頃の羊水に包まれたような感覚になる。羊水とは、温かく柔かく胎児を包むものであると言われているが、苑子はそれだけではない何ものかを胎内で感受した。その羊水に浸っている感覚は、自身の死を最も実感する時なのである。死が羊水を透かして己れの躰にひたひたと沁みてくると、彼岸へと続く水へ泳ぎ出しそうになるその恐怖が、この句に詠われているのである。

 仄暗い胎内で母と死を共有する苑子の母恋の詩である。

 道元の『正法眼蔵』の「山水経」に〈青山運歩常、石女夜生兒〉がある。難解なのだがある件がこの稿に残響するので引いておきたい。

石女夜生兒は、石女の生兒するときを夜といふ。おおよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理するべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成すると参学するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なり参学するべし。完徹すべし。


曼珠沙華抱くほどとれど母恋し              中村汀女 

母に戻す火の玉小僧半夏生                      文挾夫佐恵 

桔梗やこのごろ母のおそろしき              山尾玉藻 

泣きながら責めたる母の荒野かな          津沢マサ子


56 母の忌や母來て白い葱を裂く


葱白く洗いたてたる寒さかな                  松尾芭蕉 

葱洗ふ浪人の娘痩せにけり                      正岡子規 

葱きざむ還りて夢は継ぎがたし              森澄雄 

夢の世に葱を作りて寂しさよ                  永田耕衣


 葱が冬の季語であるためか、料理の脇役である故か、明るい向日性を表現した句は少ないようである。森澄雄や永田耕衣の〝夢〟も、葱の持つ寂寥の滲み出る中に一句の味わいが深まる。


寒風に葱ぬく我に弦歌やめ                      杉田久女 

幸不幸葱をみじんにして忘る                  殿村兎絲子 

下仁田の土をこぼして葱届く                  鈴木真砂女 

白葱のひかりの棒をいま刻む                  黒田杏子


 女性にとって葱は、毎日刻むと言って良いほど日常生活に馴染みが深い。〈葱提げて芸者が昼の顔で行く・石さと志〉と川柳に詠われるように、葱とは、女の普段着のようなものである。

 黒田杏子の句、「ひかりの棒」と葱を言い留めた卓抜な着想も、主婦の矜持と見ることもできる。また、殿村兎絲子の句は、普遍的に女性の共感を呼ぶであろうし、杉田久女の句においては、当時の主婦の生活にやり切れない久女の感慨が表出されている。

 余談だが、真砂女の句で思い出したことがある。

 平成10年12月の成城句会の袋まわしにて「嫁の座」の題に、苑子は〈嫁の座や深谷の葱に涙して〉と詠み、高得点を取っている。その時に、下仁田葱や深谷葱などの話で盛り上がり、苑子は葱が好きであったと記憶している。平成9年、俳句と惜別をした生前葬「花隠れの会」以降も(平成12年秋に入院する迄)忘年句会・袋まわしと新年句会には出句をしていた。因みに平成11年12月の袋まわし(最後の忘年句会)では、「マダム・ローズ」という題に〈マダム・ローズ楽屋ですする晦日そば〉で笑いの渦の中、最高点を獲得している。あどけない笑顔であった。


父母未生前青葱の夢の色              『花狩』昭和51年 

裏階段下れば青き葱畑                   『吟遊』 平成5年


 苑子の作品世界は、非日常を彷徨する句が多くを占めており、食材の句が他の女流俳人よりも極めて少ないが、葱の句は幾つか作句している。先に掲げた永田耕衣の葱の、〈夢の世に葱を作りて寂しさよ〉の悟りのように、「葱」とは、苑子にとって卑近でありながら他に余儀の無い深遠さを宿しているようである。


亡母去る葱の白根に土かぶせ           三橋鷹女


 苑子は母が葱を裂いているところを見ている。鷹女もまた母が葱の根に土をかぶせ、去って行く経緯を見ている。母に直結される葱を媒体として、母がそれぞれの場所に彼の世から飛来してくる。

 母の還る処は葱であり、そしてまた葱を介して働く日常の姿であることを母も娘も了解している。しかし、鷹女句の「土をかぶせ」る行為に比べ、苑子句の「裂く」という語彙の選択は、苑子の胸中にある母の姿がこの〈父母の景〉の母の句に通底する緊迫感が漂う。「切る」や「刻む」ではなく「裂く」のである。母が裂いているものは葱なのだが、違う何かの代わりに葱を裂いているのだとまで思考が及ぶ。鷹女句の寒風に曝された葱の白根は、温かい土をかぶり安寧する。苑子句の白い葱は、冷たく光る刃に切り裂かれていく。

 母の句では、酷烈な鷹女の詩型が態(なり)を秘そめる。鷹女自身が母として子を詠う場合もそうであるが、母子を描く時、鷹女は平易な慈愛に満ちた装いを呈する。鷹女は鷹女自身を追いつめながら自らの老いをテーマに身の内を刳りながら、詩が展かれていく。それに対して苑子は、母子もまた、自身の詩の世界の住人でありその中で像を成している。苑子の身の内から吐き出される母恋句は、妖しく仄白い光を放ちながら苑子自身へ憑依するのである。


母の魂梅に遊んで夜は還る                       桂信子 

庭に秋草畳に母の生えはじむ                   鳥居真里子 

霜の夜の母が肩までさはりに来る            金田咲子 

ふりむきざま青かげろうを吐く母よ          豊口陽子


57 鍵穴の向うは母のおろおろ鳥

 中国の古典のひとつ、明時代、洪自誠の随筆集『菜根譚』に次の一節がある。


冷(れい)眼(がん)にて人を観、冷(れい)耳(じ)にて語を聴く


 冷静な眼で落ち着いて相手の人間を観察し、沈着な態度で人の言おうとすることを聴く。ということだが、苑子の母とは、子女養成の塾を開いていたというからには、このような訓辞を子女達の前で述べるような女性だったのではないかと思う。しかし、今回の句には、「父母の景」のこれまでの4句とは違う母の姿が現われている。「おろおろ鳥」は、調べてみたが該当する鳥がないため、造語なのだろう。少女の頃、「鍵穴の向う」の母を垣間見てしまい、その日から別の母が創意されてしまった。多くの娘達は、ある日その局面に遭遇する時が来る。昨日までの温かく厳しく、分別のある大人の女性である母とは違う、悲劇の母、愚かな母、衰えゆく母を見てしまう。それは、母子にとって幸か不幸か解らないが、必然でなのだろう。そうして母子は女同志になるのである。


鍵穴を抜いて風葬身近にす                   林田紀音夫 

鍵穴に蜜ぬりながら息あらし               寺山修司


 この2句は趣が異なる句ではあるが、林田紀音夫の「鍵穴の向う」は、少なくとも「風葬」がもう少し遠い場所であったはずだし、寺山修司の「鍵穴の向う」は、甘美な世界を予告させる。男にとって、「鍵穴の向う」即ち部屋の内部は、外部よりも居心地の良い所としてある。女性にとってはどうだろうか。家を守り、取り仕切る責任ある城は、時には投げ出したくなる所でもあるが、近代までの女性にとって、逃避することはできない。

 「鍵穴の向う」の母を目撃してしまった娘は、母の不幸とも呼べる一面を見続けては、いつしか己にもその血が流れていることに震撼するのである。


母の日や母なし母と呼ぶ子なし           後藤綾子『綾』昭和46年 

母の忌や月下死なうとしましたね             〃          〃 

紅梅や和紙の手ざはり母に似て                 〃          〃

 

 苑子と同年の大阪生まれの後藤綾子の母の句である。(大正2年生まれ・平成6年没81歳)1句目は、仕事(歯科医師)と俳句に時間を費やし、未婚であったのか、既婚だったとしても子を持たぬまま働きづくめの歳月を重ねた女性の「母の日」を詠む姿は、当時よりも現代女性に共感を得られる哀切さがある。他にも〈石女の庭姫生まぬ月の竹〉〈雪こんこん子を取ろ子取ろ子が欲しや〉等がある。2句目は、苑子句の「おろおろ鳥」の母のように「月下死なうと」した母を見たその日、綾子ももうひとつの母親像を創意することとなったのである。3句目の「和紙の手ざはり」、それは丹念に手間を掛けて作られる日本古来からの歴史があり、大量生産される人工の紙の安易な感触とは違う、自然と日本人の綾なす凹凸の確かさがある。その和紙と、花と言えば桜ではなく梅であった頃の雅びさと母を重ね、キャリアウーマンの走りである自身から見た遠い母の時代を大切に吟じている。

 冒頭の『菜根譚』に、

成功勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかない時も決して自分から投げやりになってはならない。

の一節もある。明治の母達は誰に言われなくとも時代の波を我慢強く気丈に乗り超えてきたのである。苑子も綾子もそんな母の姿を見て育ったのだ。

 綾子は、昭和48年大橋櫻坡子主宰「雨月」、その後赤尾兜子に師事、野見山朱鳥主宰「菜殻火」を経て、「鷹」の藤田湘子に師事。のち同誌同人。当時は珍らしい職業婦人であり、生涯歯科医師として働いた。


薔薇腐ちわが道はわが選びしに                     綾子『綾』      昭和46年 

放下して白き牡丹の中にゐる                           〃    『青衣』昭和55年 

葦火とろとろ西行も遊(あそび)女も                     〃    『萱枕』昭和63年 

浮いて来い何が何でも浮いて来い                    〃          〃 

とくとくの真清水化けるまで生きな                  〃     『一痕』平成7年 

能勢路や窓開けて待つ狼を                               〃          〃


 「わが道はわが選びしに」と決意し、働き続けては「放下して」きた沢山の思いがあったであろう。「何が何でも浮いてこい」とは、己れに投げかけられた言葉だとすれば痛々しいまでの矜持である。5、6句目は、没年の翌年刊行の遺句集所収である。「化けるまで生きな」「窓開けて待つ狼を」の枯渇することのない生への漲溢には舌を巻く。俳諧性を混じえながら「白き牡丹」「葦火」「真清水」「能勢路」の母の時代から変わらぬ日本の風土を独自に詠いあげている。

 綾子は、恩師を次々と亡くし、俳句の良き理解者であった中上健次にも先立たれてしまったと聴く。幾多のことを犠牲にして、社会に貢献してきた仕事同様、常に率直な言葉で古典と現代を融合させ、躍然する句群は、才智溢れる師達との出逢いで育くまれていったものである。

 苑子と同じように、大正生まれの綾子が現代女流俳句を新鮮な流転へ導いたことは明らかである。明治という母の時代の辛苦と気高さを認識し、不安定で不可思議な耽美的空間を大正時代の少女期に体感し、波乱の昭和を生き抜き、平成も覗いた歴史は、極めて濃厚な女性達を築きあげた。苑子も綾子も時代に選ばれた女流俳人である。苑子は「おろおろ鳥」には決してなるまいと思ったであろうし、綾子は「月下死なう」とはしなかったのだ。その母の血が流れていることを孤独に噛みしめた日々もあったであろうが…。


昼顔は誰にも入れぬ母の部屋                    鳥居真里子 

指ほぐす母は坊守 花明り                        松本恭子 

母の亡き夜がきて烏瓜の花                        大木あまり 

母郷ついに他郷や青き風を生み                沼尻巳津子


58 夢に見る夜見の胎児は母がりに

 掲句に55の句との関連性が見出される。55~58の4句(見開き2頁の4句)の両端の2句に「胎児」が据えられている。


55 亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに

 私は、55の句を最も母恋が感じられる句だと鑑賞したが、一対とも呼べる掲句もまた母恋句である。

 「夜見」は、日本神話のあった出雲の国の地名、夜見のことで黄泉の語源にもなっている。もともと夢のことを指していた説や、闇から黄泉が生じたとの説もある。掲句の「夜見」は黄泉であり、「胎児」は苑子自身である。「母がり」は、〝母の許に・母の所へ〟という意味なので、「逆しま」であった55の胎児は、もはや黄泉の存在になってしまった。55の句に私は、母が顕われると胎内記憶があったように、母の胎内に包まれる感覚になる、と述べたが、掲句は、逆に幽体離脱した苑子が母の棲む夜見の国へ逢いに出掛けて行くのである。いずれも胎児の苑子であるということは、やはり苑子にとって胎内で過ごした母との時間は、母へ最も癒着した重要な期間である。苑子に限らずどの母子も同様であると思うのだが、苑子ほどにこだわらないのは無意識の内に、母親の胎内での蜜月の交感を忘れ去ってしまっただけなのであろう。


母がりの屠蘇の美ましとうけ重ね             後藤夜半 

母がりの夢のをはりの蓮の花                     江戸人 

蝉殻脱げぬ蝉ゐて母がり                            男波弘志 

草の花もう母がりといふはなく                 河野邦子 

母がりの朝に夕べにほととぎす                 下里美恵子


 ここに掲げた「母がり」の句々は、後藤夜半の作品の他は、亡き母か存在している母の句なのか判然としない。江戸人の作品は、「夢のをはりの蓮の花」が黄泉の母との邂逅を夢に見たと読むことも可能である。男波弘志の句は「蝉殻脱げぬ蝉」が、自身とも母ともとれる。また、「蝉殻」が母で、「蝉」が自分という母恋とも思え、多種多様な解釈が展開される。 河野邦子は、現実の母と疎遠になってしまったのか、亡き母を恋しがっているのか。下里美恵子の句もどちらとも取れるが、亡き母であれば、「ほととぎす」と母が重なり、哀愁を呼ぶが――。

 ところで、この第3章「父母の景」には母の句が10句収められているが、第2句集『花狩』にも10句掲載されている。『水妖詞館』は苑子自身の選句による編集であるが(25年間の句の中から139句を厳選)、『花狩』は、洩れた作品が惜しいからと、翌年、高柳重信、吉岡実が編集出版した句集である。(苑子は、自身の選句や編集と異なることを主張しながらも、それを楽しんでいるように語っていた。)三橋鷹女の処女句集『向日葵』と第2句集『魚の鰭』のように姉妹句集であるため、作句の期間は出版の年には関わらず、2句集とも25年間に作られた作品である。『花狩』の10句の母の句には、穏やかな句も見受けられる。


母を夢みて七日通へば葛の花                 『花狩』


 そして、次のような句々がある。


火の中へ母を放ちて火をなす秋              『花狩』 

走る火に野仏を据ゑ母を据ゑ                        〃 

置きざりの母や火の蛾は火に盲ひ                〃


 この前にも3句置かれ、6句の母の句が並ぶが、この3句の「火」の母が、実に凄絶であり母への愛憎相半ばした状態である。この「火」の母の連作が、『水妖詞館』から振り落とされたのは、母への感情が作句当時から微妙に変化したものだと推察され、今回の句は、「火の中へ」「置き去り」にした母への懺悔の句なのではないかとまで想像を逞しくしてしまう。しかし、「母がり」が、母許ではなく母狩りであれば、最も怖い句になろうなどとあらぬ妄想をしてしまうのも苑子俳句であり、また『水妖詞館』なのである。そして、苑子はそんな解釈も面白がるであろう女流俳人であった。


母の声落葉の上に落葉積む                       津田清子 

水紋に触れては沈む母のくに                   増田まさみ 

前の世も母の手をとり春の野へ               福田葉子 

花いちご母より先の死を願ふ                   古賀まり子