★―1「シン・兜子を読む」3 仲寒蟬
4. こゝろ虚(むな)し蜩ニもの思ふこともなし
蜩は『万葉集』のむかしから和歌に詠まれてきた。
巻第十、「夏相聞」に「蟬に寄す」の前書で詠み人知らずとして
ひぐらしは時と鳴けども恋ふるにしたわやめ我は時わかず哭く
これは片思いの歌らしい。
また巻第十七に大目秦忌寸八千島の作として
ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
これも男女の思いを裏に感じさせる。
大好きな『新古今和歌集』からは式子内親王の歌
夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声
伝統的に蜩には「日暮らし」という意味を掛けて使われてきた。『徒然草』序段の「日ぐらし硯に向かひて」の「日ぐらし」も、もちろん一日中ということではあるが、その背景に蜩の声が聞こえる気がする。
そのような蜩の声を聴けば普通であれば何か物思いをするのであろうが今の俺には思うことすらないというのがこの句の心である。何故物を思わないかと言えば上五に「こころ虚し」とある通り心の中が虚ろ、何もないからである。何もないところには物思いすら出現しない。
では何故この時の兜子の心は虚ろであったのか。恋ではあるまい。恋ならばむしろそのことで心は一杯のはず。恐らくまだ敗戦のショック、『蛇』のあとがきにある「日本の崩壊、偶像の瓦解、物心両面の廃墟のなかで、主体的な精神のよりどころを喪失した」ということではなかったか。
5. かまつかの紅(あけ)濃し恋ふる影と繋(つなが)る
こちらの句は恋の句であろう。
かまつか=雁来紅は葉鶏頭のことで秋の季語。雁が来る頃に葉の色が赤や黄色に色づくのでこう呼ばれる。鶏頭も葉鶏頭も同じヒユ科だそうだ。ただ色は鶏頭に似ていても花は小さくて目立たない。葉鶏頭の学名はAmaranthus tricolorという。
「かまつか」というのは何に由来する名であろうか。初出は『枕草子』六四段「草の花は」に
又、わざととりたてて人めかすべくもあらぬさまなれど、かまつかの花、らうたげ也。名もうたてあなる。雁の来る花とぞ文字には書きたる。
とある。江戸時代の歳時記には雁来紅を「かまつか」と振り仮名してあるので「かまつか」=雁来紅との認識は出来上がっていたのだろう。
その鮮やかで美しい雁来紅の紅色を愛で、「恋ふる影」つまり恋しい人の面影に繋がるのだと詠んでいる。この恋しい人が誰であるのかは知る由もない。
6. 枝豆の醜(しこ)嗜(す)く姉の嫁がざる
これはちょっとひどい句だ。まず枝豆を「醜」、つまり醜いもの、不快なものと決めつけている。さらにその枝豆を好む姉を「嫁がざる」と紹介している。これではまるで枝豆なんぞ好きだから嫁に行けないのだ、と言わんばかりではないか。
それにしても、と思う。作者自身は枝豆が好きなのだろうか。また兜子の俳句に父と母以外の肉親が出てくることは少ないのだが、この姉のことを本当はどう思っているのだろうか。この姉のその後がどうなったのかも気になる。
★―2橋閒石の句 3 眞矢ひろみ
蜥蜴青く睦むも涸れし泉の底 「無刻」昭和32年
ある一点が青く生涯橋わたる 「風景」同38年
逆流や心の襞の草青み 「荒栲」同46年
わがいのち風花に乗りすべて青し 「卯」 同53年
一月の山青し困った男かな 「和栲」同58年
閒石が句に用いた語彙としては、雪、芹、蝶、白など故郷・金沢や母親に繋がるものが多いが、昭和20年代から50年代にかけては青もよく使われる。挙句はその一部だが、多義的であるため、各々の青の受け止め方は読み手に委ねられる。五句だけでは判別しにくいが、「荒栲」「卯」を境に句風は徐々に大きく変化し、これに伴い青の句は減少する。自我意識の強さによって滲んだ青が薄らぎ、大人としての遊びの中で、雪の白さだけが残るといった風情かもしれない。
閒石の句風変化はこれが初めてではない。小学生の授業で俳句に興味を持って以来、師も持たず結社等に加わることもなく、読書からの我流で作句を続けていたが、昭和24年、連句のほだしから逃れる形で「白燕」を創刊し、連句、エッセイと並び俳句実作にも本格的に向き合うこととなる。齢は既に五十路に入ろうとしていた。京大三高俳句会が「続いていれば、播水、誓子、草城、静塔らの人々と早くから関りができていた」(*1)と悔やんでも詮なきこと。まず流派を問わず広く交わることに努め「係累の無い気楽さから自由に振る舞う」ことで耕衣、兜子、六林男、重信等と懇意となる。折しも社会性俳句、前衛俳句の興隆期を迎えており、これを支えた俳人たちとの交流の影響は「無刻」「風景」の句となって表出し、句風は激変する。当時の実験的な手法を取り入れ、無季や下六の句が多くなり、郷愁俳人の面影は消えて、思念的で不条理な世界に浸かる。自我意識の強さが土台にあるとの指摘もあるが、「風景」には自己の名でもある橋という語彙をメタファーとした句も多く、その証左かもしれない。旧派の系譜を引く俳諧宗匠と前衛俳句の取合せとなるが、閒石自身は後日「現代西欧の文学芸術に強い関心を寄せていたので、意外な事象など何ひとつなかった」(*2)とし、「そこから得た見聞と刺激とは、私の内部発展にどれほど多くの寄与をしたか」と回想している。
しかし一方、この時期の句への評価は極めて低い。「メタファーの自壊とイメージの雑駁さが目立つ」(恩田侑布子)、「気迫で迫るでもなく、修辞で唸らせるケレンもない」(高山れおな)、「修辞の屈折が多出していて、おおかたは不成功(略)それがまた微笑ましい」(金子兜太)といった具合である。ただし次の句を除く。
柩出るとき風景に橋かかる 「風景」
閒石の代表句の一つ。酷評渦巻く句群の中に佇立する姿も異様だが、風景が句集の名となり、橋も用いていることから、閒石自身にもそれなりの思いがあったに違いない。柩を橋に見立てるのか、現実の橋か、現世から来世への夢幻の橋か、橋は作者のメタファーか、能の橋懸りに繋がるのか等々、想像を膨らませることができる。悪い例えかもしれないが、連句であれば、多くの可能性の中で自分なりの読みを確定させて、付けを楽しむことができそうである。
色々な読みが可能となる要因は、「出るとき」で結ぶ平明な文体や、風景という抽象性の高い語彙の選択にある。手元の資料だけの検索だが、昭和30年代までに風景を句に入れた例は極めて少ない。元来、漢語であることに違いないが、明治に入り西洋landscapeの翻訳語として用いられ定着した。西欧文学上の風景の発見は、閒石の専門である18~19世紀のロマン派に依るところ大である。風景は単なる背景ではなく、感情や内面を映し出す鏡のような存在となる。我が国の詩歌は自然の風物に人の思いを託す手法を古来有するが、この場面でも異文化の潮流は交錯する。無論、ここでの風景とは、個別具体的な風物を集合的、抽象的に指しているのだが、句の中に風景という語彙そのものを取り込めば、客観的な対象というより、ロマン主義的な主観・自意識の反映という色合いも俄然帯びてくる(*3)。この世から見ているのか、あの世から見ているのか、具象か非具象か、二極的なアングルが混然となって読み手に迫る。
一方、この句は約二十年後の「和栲」に見られる、悠然として諧謔味たっぷりな句風の端緒と見る向きもあり、句の性格上そういう読みも可能だろう。閒石は亡くなる直前のエッセイで「どれほど学識才能を備えていようとも、それなるがゆえに却ってその灰汁が抜けなくてはこの種の文芸の境地は望めない。(略)囚われない心が要なのである。」(*4)とある。この種の文芸とは、エッセイのほか俳句連句等の俳諧文学全般を含めると見てよい。この句には灰汁がまだ残っているようにも感じるのだが、どうであろう。
*1 「わが来し方」 『俳句研究』10月号 昭和58年
なお、当時の閒石が接したであろう関西前衛の様子は「豈39-2 特別号関西篇 2004」に詳しい。
*2(参考)閒石は随筆等のなかで、ワーズワースの詩論が芭蕉前後の俳論と似通っていること、イェーツの「個性と非個性、具象と非具象とが手を握る次元における客体、そういった意味の「物」に行きつこうとする態度に」深く共鳴すること等に言及し、パウンドやローウェル等イマジストにおける俳諧の影響等について、詩を引用しながら具体的に分析している。金子兜太は昭和30年代半ばごろ、閒石から、己が俳句観を裏付けるために欧米の文献も読むよう諭されたことを述懐している(「橋閒石全句集」栞 平成15年)。
*3(参考)「風景の発見」『日本近代文学の起源』柄谷行人 昭和55年
*4 「俳諧余談」 白燕俳句会 平成21年
★ー5 清水径子を読む3 佐藤りえ
降る雪の中に薄給わたさるる
引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和29年3月号〈雪の中にて薄給を渡さるゝ〉。
詩語としてなじみ難そうな「薄給」の一語が、「降る雪」も相まっていよいよ悲しい。現金支給の給料袋を、はかなさのあまり受け取り損ねてしまいそうである。
この前年(昭和28年)、社会性俳句の話題が総合誌「俳句」などで取り沙汰される時期にあるが、この句はその枠組みには入らないように思われる。昭和27年、「氷海」発行所のあった大同社を辞した折には「耺はなれ春の浮雲小さけれ」「耺欲しや雪後の灯あしもとに」(句集未収録)と詠んだこともあった。「薄給」も「耺欲しや」ももちろん実感を表しているが、「降る雪」「春の浮雲」「雪後の灯」といった季感、それも詩的な状況のなかに置かれ、リアルな境涯詠とは一線を画している。ただし、自らの句境を詩的な世界へ抛り、幻想に浸ろうということでなく、作品として成立させる緊張感、美感によって統制されているものと感じる。
樹がなくて音がして降る工場の雪
前出句と同じ「氷海」昭和29年3月号の「工場」一連が初出の句。
庭木であれ、里山であれ、樹木に降る雪は音立てて降る、という感じはあまりしない。雪が降っているのに気づくのは、窓からにしろ、表へ出た折にしろ、それを目にした時である。
掲句はトタンか金属か、建造物に雪もしくは雪雫が当たり、見えないながら雪が降っていることを室内で感じている景と取れる。
同じ一連に「足袋継ぐも物書くも壁壁が向く」(句集未収録)がある。工場の室内、それも窓のない部屋で忙しく働くうち、普段感じない何かの音がしているのに気づく。あるいは、工場の作業音の止み間の出来事だったろうか。見えないけれど、外は雪だ。積もる樹もなく、雪は建物と雨樋を経て側溝へ排出される。
高度成長期に差し掛かろうとするこの時期、径子の住まう東京はインフラ整備、工業発展などにより環境汚染、公害が進み、人間は自然を置き去りにしつつあった。「あはれ」でも「みやび」でもなくとも、雪は降る。現在性を強く感じさせる一句。
『鶸』には雪の句が30句収録されている。第二句集『哀湖』以降に比べて格段に多い割合である。
降る雪の見えぬ部屋にて落付けず 「鏡」
雪を掻き舗道の新しき十字 〃
生きて朝ぬくきこの一面の雪 「火の色」
雪、寒さといった事象がこの時期通奏低音として径子の中に流れている。「氷海」昭和29年7月号の女流特集に「現在四十四才勤人、文京区西片町に自炊す。」と記した径子の戦後も、厳しい雪に降られながらの道程だった。
●―10 現代の句集(清水径子余論)/筑紫磐井
佐藤りえの「清水径子の一句」の掲載に当たり、清水の第1句集『鶸』(牧羊社昭和48年刊行)について質問を受けた。「処女句集シリーズ」と銘打っている理由である。牧羊社の処女句集シリーズには若干情報が錯綜しているところがある。いくつか回答したのだが、それらをまとめてそもそも牧羊社という俳句出版社の概要について述べておいた方がいいのではないかと思われた。角川書店の俳句界における貢献や迷惑はよく知られているが、特に昭和期後半の牧羊社の位置づけを知らないと、現代俳句のありさまが見えてこないからである。一言で言えば、昭和40年代以降のシリーズ方式で名句集を噴出させたのが牧羊社であったのである。
簡単に言えば、牧羊社という新興俳句出版社は目覚ましい出版活動を果たし、戦後派作家のアンソロジーを出した。特に、40年代後半の【現代俳句15人集】というシリーズで、高柳を除くほとんどの戦後俳人を網羅した感があり、このシリーズにより戦後俳句派は脚光を浴びることとなったと言ってよい。
【現代俳句15人集】
➀『忘音』飯田龍太[雲母]【読売文学賞受賞】
➁『竹取』石川桂郎[風土・鶴]
➂『操守』石原八束[秋]
④『冬濤以後』稲垣きくの[浜]
⑤『真名井』加倉井秋を[冬草・若葉]
⑥『神々の宴』角川源義[河]
⑦『暗緑地誌』金子兜太[海程・寒雷]
⑧『素志』 香西照雄[万緑]
⑨『沖縄吟遊集沢木欣一[風・天狼]
⑩『夏帯』鈴木真砂女[春燈]
⑪『二人称』津田清子[天狼]
⑫『鳳蝶』野澤節子[(蘭)・浜]【読売文学賞受賞】
⑬『枯野の沖』能村登四郎[沖・馬酔木]
⑭『白面』藤田湘子[鷹]
⑮『花眼 』森澄雄[(杉)・寒雷]
大事なことは、読売文学賞はそれまでほとんど歌人ばかりがとっていたことで、ごくまれに松本たかしや石田波郷も受賞したが、水原秋櫻子も中村草田男も受賞できなかった。【現代俳句15人集】で初めて読売文学賞が受賞できたことである。このメンバーの中で、後年森澄雄や鈴木真砂女も受賞しているからこの顔ぶれが強力であったことはまちがいない。始めて俳句が短歌に追いついた事件だった。
【現代俳句15人集】は引き続く中堅の処女句集シリーズに影響を与えている。【現代俳句15人集】の結社構成に準じて第1句集を出していない作家から中堅の「処女句集シリーズ」が編まれ、この中に清水の第1句集『鶸』があるのである。
ちなみに牧羊社の「処女句集シリーズ」は2種類あり、昭和40年代末のシリーズは中堅俳人対象のもの、昭和60年度初頭は新人対象のものである。【処女句集シリーズ(中堅)】のラインアップを見てみよう。
【処女句集シリーズ(中堅)】
➀『白繭』櫛原希伊子[浜]
➁『愛鷹』中拓夫[寒雷・杉]
➂『海上』桜井博道[寒雷・杉]
④『月見草』嶋田摩耶子[ホトトギス]
⑤『鶸』清水径子[氷海]
⑥『海の記憶』鈴木詮子[秋]
⑦『海の石』須並一衛[雲母]
⑧『生国』竹本健司[海程・國]
⑨『風色』成瀬桜桃子[春燈]
⑩『石階』橋本美代子[天狼]
⑪『完流』平井さち子[万緑]
⑫『鳥語』福永耕二[馬酔木・沖]
⑬『傷痕』細川加賀[鶴]
⑭『雪浪』本多静江[雪解]
⑮『猿田彦』松本旭[河]
⑯『避暑散歩』森田峠[かつらぎ]
私の知らない作家は誰一人おらず、また中堅というよりは大物も混じっている。この中で印象に残るのは、沖にいた福永耕二で私もいろいろ教わっている、これも名句集である。
面白いのは、これほどの中堅・大物がいい年をして初めて処女句集を出していることで、その後のくちばしの青い新人たちがわれもわれもと句集を出しているのと対照的である。句集の考え方がわずか10年ぐらいの間に大きく変わったのである。清水径子もここに上がっている。
少し中休みのようになるが、実はこの「処女句集シリーズ」(【処女句集シリーズ(中堅)】)に引き続き、牧羊社は「精鋭句集シリーズ」という企画も刊行している。
【精鋭句集シリーズ】
➀『火のいろに』大木あまり[河]
➁『氷室』大庭紫逢[鷹]
③『絢鸞』大屋達治[豈]
④『鵬程』島谷征良[風土]
⑤『花間一壷』田中裕明[青]
⑥『メトロポリティック』夏石番矢[未定]
⑦『窓』西村和子[若葉]
⑧『海神』能村研三[沖]
⑨『古志』長谷川櫂[槇]
⑩『銅の時代』林桂[未定]
⑪『芽山椒』保坂敏子[雲母]
⑫『午餐』和田耕三郎[蘭]
(これらは必ずしも第一句集ではない)
【現代俳句15人集】【処女句集シリーズ(中堅)】につぐ世代として、牧羊社が売り出したい新人だったことは予想がつく。このラインアップもほとんど現在でも知られている俳人であり、前2つのシリーズの編集方針を継いでいることは間違いない。
しかし、ここから牧羊社の経営方針が大きく変わる。【処女句集シリーズ(新人)】が出るのだが、その物量から言ってもこの「処女句集シリーズ」が驚異的であったことは否めない。【精鋭句集シリーズ】が戦後俳句世代(飯田龍太や金子兜太ら)やそれに次ぐ準世代の後継を発掘育成しようとしていたのに対し、「処女句集シリーズ」は「結社の時代」を予見するかのようにあらゆる結社の内部にくさびを打ち込み若手を無秩序に発掘しようとしていたのだ。その意味では、かつて「特集・俳句の未来予測」で、私は「巨人の時代は終わった」と述べたのだが、巨人の時代から、巨人のいない時代に向かっての潮流を作ったということが出来るかもしれない。
経済的に恵まれない若い世代に句集を出版させるため、魁に当たる【処女句集シリーズ(新人)Ⅰ】を59年から出版開始した(全56巻)。総ページ70頁、収録句数200句程度、安価なペーパーバックスで定価1000円と【精鋭句集シリーズ】に比べてかなり簡易である。当時このシリーズで第一句集を刊行した作家は現在の60~70代作家のかなりを占めていると言ってよいだろう。句集名と作家名をあげてみる。ただここに掲げた作家たちは、その後の著名俳人もいるが、多くが行方がよくわからない。様々な流転の人生をたどっているわけで、【現代俳句15人集】【処女句集シリーズ(中堅)】【精鋭句集シリーズ】と違う俳句人生を歩んでいるらしいのである。従って所属結社[]はここでは上げない。
【処女句集シリーズ(新人)Ⅰ】
➀『明日』赤松湘子
➁『仁王』新井康村
➂『藍』荒巻日出子
④『早婚』石毛喜裕
⑤『花折々』五十嵐貞子
⑥『風の扉』稲田眸子
⑦『北限』今井聖
⑧『坐』岩月通子
⑨『走者』遠藤真砂明
⑩『自分史』大槻一郎
⑪『山径』岡本欣也
⑫『満月の蟹』金子青銅
⑬『全身』金田咲子
⑭『雨の歌』片山由美子
⑮『潤』鎌倉佐弓
⑯『華』加茂志津子
⑰『藤房』唐沢富貴子
⑱『海月の海』久鬼あきゑ
⑲『水路』窪田久美
⑳『構図』黒部祐子
㉑『みむらさき』斉藤芳子
㉒『海図』佐野典子
㉓『花に燃え』塩田恭子
㉔『紐育にて』柴原美紀子
㉕『太山抄』白井真貫
㉖『風花』杉浦東雲
㉗『月明の樫』鈴木貞雄
㉘『深雪』関久江
㉙『冬椿』谷中隆子
㉚『環状陸橋』田村千代子
㉛『水晶』千葉孝子
㉜『桃』辻桃子
㉝『雪舞』外川 玲子
㉞『父子』富田正吉
㉟『喇叭音』永野史代
㊱『風の的』中村尭子
㊲『赤鉛筆』中村姫路
㊳『花摺』西坂三穂子
㊴『風の調べ』二塚元子
㊵『海星』長谷川登美
㊶『シャガ-ル展』羽鳥美奈子
㊷『湖神』福沢宏子
㊸『清世志苑』福嶋延子
㊹『破魔矢』星野高士
㊺『青垣』前川菁道
㊻『目礼』松田小恵子
㊼『妙光』松田貞男
㊽『平均台』松永浮堂
㊾『十一月』松本康男
㊿『銅鐸』三井量光
51『火事物語』皆吉司
52『雪の音』宮川みね子
53『魚と遊びし』山上カヨ子
54『山日』横岡たかを
55『深秋』吉田成子
56『手足』龍野龍
【処女句集シリーズ(新人)】は以後平成5年ごろまでⅡ~Ⅷと出され、収録作家だけで二百名近く、中にはⅠに劣らぬ多くの作家を輩出している。主な作家と句集を掲げて見よう。
Ⅱ⑤『砧』小澤實⑧『鶏頭』岸本尚毅
Ⅲ③『さくら』いさ桜子⑤『神話』遠藤若狭男⑩『髪』佐怒賀直美⑭『愛国』対馬康子
Ⅳ➀『海彦』赤塚五行⑥『岳』石島岳⑨『日差集』上田日差子⑯『海市』小林貴子㉖『浮巣』中岡毅雄㉗『蛍の木』名取里美㉚『檸檬の街で』松本恭子
Ⅴ➁『鶴の邑』藺草慶子⑧『気流』大竹多可志⑳『虎刈』寺沢一雄㉓『陽炎の家』高野ムツオ㊼『一葉』山本一歩㊾『雪意』若井新一
Ⅵ➀『祭酒』山口剛⑦『水を聴く』高浦銘子
さて、【処女句集シリーズ(新人)】は【精鋭句集シリーズ】のライバルに当たるわけだが、後発簡易版の【処女句集シリーズ(新人)】のメンバー、金田咲子、片山由美子、鎌倉佐弓、鈴木貞雄、星野高士、小澤實、岸本尚毅、小林貴子、高野ムツオらが、【精鋭句集シリーズ】らに劣るわけでもない。またその後、東京四季出版においても「新鋭句集シリーズ」(全30巻)を刊行しているし、単発で句集刊行した正木ゆう子、中原道夫もいた。出版社の企画そのものが意味があったわけではなく、それに呼応して生まれた時代の雰囲気が大きかったというべきであろうか。
●―15 中尾寿美子の句 1/横井理恵
2011年から始まった「戦後俳句を読む」のシリーズで横井理恵さんに「中尾寿美子の一句」の鑑賞を行っていただいたが、2025年からの【評論研究】での参加には、メールの不通でご返事がいただけなかった。しばらくしてから、佐藤りえさんが【清水径子の一句】を開始するに当たり、是非中尾寿美子も併せて読みたいという気持ちが強まった。これは佐藤さんも同感という事であった。なぜなら、二人は「氷海」、その終刊後「琴座」と双生児の様に歩んだ女流としてよく知られていたからだ。径子を知るためには寿美子を、寿美子を知るためには径子を研究する必要がある。今回遅れたが、横井さんから掲載の了解を得られたので【新評論研究】として掲載することとした。(筑紫磐井)
*
天為の横井理恵です。お仲間に加えていただきましてありがとうございます。
天為の二百号記念特別号の特集「検証・戦後俳句――もう一つの俳人の系譜」で中尾寿美子を担当するまで、寿美子についてはほとんど何も知りませんでした。俳句文学館に通って資料を集め、ひたすら作品と向き合ううちに、私が少女時代を過ごした天沼に住んでいたこと、やや土地勘のある新座が終の地であったことなどを知り、親しみを感じるようになっていきました。切り口について考えあぐねていた時に、天為の会で、ある方から「寿美子の句ってわかんない!」と言われ、この人に、「なるほど、わかった!」と言ってもらいたい、という思いを強くしました。寿美子の軌跡と俳句というモノの在り方とは、あたかも年代を追って並べられた絵画展を見るように、必然を感じさせるものとして展開していくのです。その妙味を広く知っていただくことができたら幸せです。
中尾寿美子:大正8年生まれ、平成元年没。その生涯は軽やかな転身と言えるでしょう。
*
中尾寿美子の句/横井理恵
霞草わたくしの忌は晴れてゐよ 中尾寿美子
「死」というテーマを与えられた時、最初に頭に浮かんだのは「時代の死」であった。
「戦没の友のみ若し霜柱(三橋敏雄)」
「前ニススメ前ニススミテ還ラザル(池田澄子)」
死者が近しい人であれ見知らぬ大勢であれ、戦没者たちはある時代の象徴であり、それぞれの個を太い筆でべったりと塗りつぶされた存在に見える。時代に殺サレタ人々への思いは同じ色調を帯びるように思われるのだ。今回東日本を襲った地震と大津波による死者もそうだ。誰かの友であり誰かの家族であり、一人一人に紡いできた物語がありながら、あの黒い、あまりにも黒い海の水に巻き込まれ、全ての人が一色に塗り込められてしまった。「時代の死」は私たちに問いかける。「おまえに責任はないのか」「なすべきことは何か」と。答える術のない問いをつきつける――それが「時代の死」だと思う。
寿美子の句にはその意味での「死」は見られない。寿美子は敗戦引き上げを体験した世代であるが、俳句をはじめたのは戦後であり、日本の高度経済成長期である。最も「時代の死」から遠いところで寿美子は生き、作句していた。だから、今回のテーマでは書けないのではないかと最初は思った。しかし、よくよく考えてみると、「死」とはきわめて個人的なものである。むしろ「時代」によらない「死」こそがあるべき姿なのかもしれない。
時代背景を無視することはできないにしても、生者は時代に塗りつぶされることなく自らの物語を紡いでいく力を持つ。戦後を生きた女性としての寿美子は、きわめて純粋に個人的な「死」を見ていたと言えるだろう。そんな一個人における「死」をテーマに、寿美子の句を見てみよう。
人は生きていれば必ず誰かの死に出会い、やがては自らの死を迎える。寿美子の句において最初に出会った「死」は俳句開眼の師高木風駛の死であった。
冬ばら抱き男ざかりを棺に寝て 『天沼』
「高木風駛師急逝一句」という前書きのあるこの句の破調は、定型という器に納まらぬ溢れだす哀切の響きを持っている。人は死ぬときを選べない。生きてあることは親しい人の死に出会うことと切り離せない。俳句によって「今ここを生きる」道を歩み始めた寿美子は、そのことをかみしめていただろう。
第二句集『狩立』から第三句集『草の花』にかけて、寿美子の句には「老婆」が多く登場する。鷹羽狩行は、「寿美子には老婆の句が多い。それのみならず、自分を老婆と類客観視する。」と書いている。そして同時に「死」という文字を句の中に入れた句、「自らの死」をモチーフにした句を作り始める。
咳けばまさしく日本の老婆風の中 『狩立』
梅林の余白に婆の影法師
死なば樹にならんと思ふ朧の夜
婆の死後野の涯にさく白菫 『草の花』
桜冷ゆ瞑ればすぐ死ねさうに
死後の景すこし見えくる花八ッ手
冬耕のいつしか風になる老婆
「生老病死」の「老」と「死」を見据えながら生きる寿美子であるが、これらの句は受け手にとってちょっと重い。見る目が据わっているかのようだ。それが、軽やかで楽しげな視線に変わっていくのが次の第四句集『舞童台』である。
余生とは菜の花に手がとどくなり 『舞童台』
老人も鶯である朝な朝な
つばな笛黄泉明るむと思はずや
鶯やことりと吾れに老いの景
明るく光のさす句が並ぶ。そして、第五句集『老虎灘』を象徴するのは「白桃」である。
夢の世やとりあへず桃一個置く 『老虎灘』
白桃にならんならんと鏡の間
媼いま桃のひとつを遡る
天元に白桃ひとつ泛びゐる
みずみずしい「白桃」とその萎びかげんは、ユーモラスでまろやかな感覚に満ちている。自嘲的だった「婆」も今や雅びやかな「媼」となり、晴々と世界と交感しているのである。
そして、掲句。
霞草わたくしの忌は晴れてゐよ
やがて来る自らの「死」を、寿美子はこんなに晴々とうたっている。今をしっかりと生きていれば、死でさえもこんなに晴々と思い描くことができるのだ。寿美子の句はそのことを教えてくれる。私たちは「時代の死」に立ち会わなかったことを、死者に含まれなかったことを気に病む必要はないのだ。あくまでも「個人的な死」を意気揚々と迎えることこそ、真に生きることなのだから。