【俳句新空間参加の皆様への告知】

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2025年1月24日金曜日

第240号

         次回更新 2/14



澤田和弥句文集特集

はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む
第3編 澤田和弥論 津久井紀代 ①》読む ②》読む ③》読む
第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ①》読む ②》読む ③》読む ④》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/17)辻村麻乃・堀本吟
第十(1/24)小沢麻結・林雅樹

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/17)鷲津誠次・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
第九(1/24)辻村麻乃・堀本吟・望月士郎

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【新連載】現代評論研究:第1回・戦後俳句史を読む【総合座談会】 》読む

【連載】現代評論研究:第1回・私の戦後感銘句3句(1)藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり22 橋本喜夫『潛伏期』 》読む

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【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(54) ふけとしこ 》読む

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英国Haiku便り[in Japan](51) 小野裕三 》読む

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【連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

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1月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

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寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子


筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【連載】現代評論研究:第1回・戦後俳句史を読む【総合座談会】  北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)

 ●―3,7,10:戦後俳句史を読む/北村虻曳・堀本吟・筑紫磐井(司会)


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢         兜子

汝が胸の谷間の汗や巴里祭         憲吉

ゆびさして寒星一つづつ生かす       五千石

古里 石も眠い              圭之介

妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ    新子

歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に       きくの

肉体を水洗ひして芹になる         寿美子

空蝉の脚のつめたきこのさみしさ      千空

おのおのの紅つらならず曼珠沙華      玄

山茶花やいくさに敗れたる国の       草城

ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒  葦男

日にいちど入る日は沈み信天翁       敏雄

 

筑紫磐井:いよいよ、「戦後俳句を読む」が始まったが、第1回目の1句鑑賞を読み終わったところ(今回は山田真砂年は原稿未到着)で、いささか気が早いが「戦後俳句とは何なのか」を語ってもらいたい。

北村虻曳:俳句について人と話し始めた頃、自分の句を披露したところ、「これはどういう意味か。もし貴男自身が句の主体だったりしたら最悪だ」と言われた。私はその最悪を意図していたのだが。これで自身を直接的に出すことは、ある種の俳人のタブーに近いことを悟った。俳句は、基本的に事物を詠み、場合によってはそれに自己が投影されるという方式である

 一方近年出席している歌会では、とくに断らないかぎり主体はほぼ作者とみなすと言う意見をよく耳にする。作者の登場は普通のことなのである。作者でないとしてもほぼ人は登場する。すると表される事柄に時代性の差や個性はあっても、多くの人の腑に落ちるのである。川柳はそういう意味では短歌よりも徹底している。人の行動原理を確認したり、発見したりすることが主流である。これに飽き足らなくて抵抗する柳人も存在するが

 そこで選ばれた句を作者との距離ということで、直裁に自己を投影しているものから、象徴性の高くして、自己を離れた抽象に至っているものといった感じで並べて見た。


憲吉・新子・きくの・寿美子・五千石

千空・玄・草城

圭之介・敏雄・兜子・葦男


とでもなろうか。

 しからば、これらの句の「戦後性」はどうであろうか。普通に考えると前に並べたものが時代を越えた普遍性があるということになろうが。案外、新子や寿美子のような句は戦前には詠まれにくかったという気がする。女性は時代には正直というべきか。一方後に並べた句は前衛的なのであるが、戦前のダダイスト詩人などとの親近性を感じる。抽象的な一種の前衛性は必ずしも新しさと比例するものではないのだ

 でも題材から見ると、兜子・葦男の句は、映像や音楽の時代を感じさせる点で、戦後の社会のものであると感じる。兜子の「音楽」から私が聞くのはジャズのジミー・スミスである。また葦男の詠んだものは、堺谷が実際に作者から聞いたように、御堂筋であってもよいし、工場、あるいは通勤の群衆の風景でもよい。戦後の工業社会の風景を想起させる

この二人と巴里祭という時代の言葉が入っている憲吉の句をのぞけば、題材は「世は変われど人性は変わらず」と言った姿を描いている。それぞれ表現の仕方に新しい発見と独自性があるから皆さんが取り上げられたのであろう

堀本吟:今回の鑑賞でうかがえる戦後俳句の特徴のひとつは《開放感》である。風俗、ジェンダー、文化の全てに浸透する変化に応じている。混沌、流動の時代の「実感」「写生」「日常」「想像力」とは何か、と考えさせる。戦時の抑圧からの解放は自国の敗北という痛みをともなう。そういう伝統への反省としての「前衛俳句」の登場があろう。またそれぞれ方法を自由に模索できる時代になって、創作の姿勢がのびのびしている

 次は《男女、性にかかわる表現の自由》だが、西東三鬼と楠本憲吉は。風俗や日常に潜む欲望への果敢な俳句化が興味深い。自由律と川柳については後で述べたい

 三番目が《抒情表現、「星」にシンボリックな希望を託するありかた》に注目した。特に青春は、今を詠うことが未来への指標だ。戦後出発の時期に重なり、五千石の句にその典型的表現をみいだす

 最後に《多様な方法の模索、だが全く「新しい」言語風景はない》という感じだ。かろうじて兜子の内部意識世界の幻景が独創的なぐらいだ。しかし、一句一句は面白かった。作られた時代には気がつかなかった視点からの発見があり、それによって句が甦っている、という爽やかな快感にとらわれた

筑紫:「戦後俳句を読む」を企画した段階では、いささか軽い俳句鑑賞的読み物になるのではないかと思ったが、メンバーは十分事前研究もし、本格的な戦後作家論を執筆するという態度で望まれているので驚いた。戦後俳句史研究会が発足したと見ても良いかもしれない。しかし、ひとつ言っておけば膨大な資料が全てではないような気もする。私の書いたもので恐縮だが、楠本憲吉の「巴里祭」の句には憲吉の自句自解があり、これによれば銀座のキャバレーのホステス(ご丁寧に店の名前、女の名前まで入れている)の胸の汗だととくとくとして書いているのだが、こんなものは不要である。触発のメカニズムは分かっても、「読む」ではないからだ。時代文脈を読み取ることができるかどうかが大切だろう。お二人の指摘もそういった点にあると思う

 さて、おそらく今回の「戦後俳句を読む」の最も大きな特徴のひとつは、少ないながらも、川柳、自由律俳句作家を含めて戦後俳句をまとめて読もうとしたことだと思う。圭之介、新子という顔ぶれは、詩歌梁山泊の詩人、歌人以上に、俳人にとって衝撃的なのではないか。(種田スガル、清水かおりの参加した)『超新撰21』で狙ったところを「戦後俳句を読む」でいっそう明確にしたということになろう。今回は戦後俳句史論の初回なので特にこの点に絞って論じてもらいたい。まず、時実新子からお願いする

北村:私は最初新子の掲出句を「自分の中の妻を押し殺して俺のところにやってこい」と詠んでいた。しかし彼女はやはり吉澤氏の読みを期待しているのだろう。新子は誰かに成り代わって詠むことは得意ではなく、まっすぐ詠むだろうから。ところで吉澤氏の指摘するように、新子の作中人物はフェイク新子なのである。新子の自由の象徴である。この仮構の主体は新子以上に新子であり、純化された姿であるという逆説も成立する。川柳人が意識的に「実際の自分に近い仮構の作中主体を作り上げた」(吉澤)ことは画期的であったのではないだろうか

堀本(新子川柳の虚構性)

「〈心の真実〉ではなく作中主体の仮構性にこそ、この句の現代的な価値があるのではないか。そのような読み方をすることによって、この句は一個人の〈心の真実〉という呪縛からもっと広い読みの世界に向かって解放されると私は思う。」(吉澤久良)

 時実新子は、ジェンダーの面から理解や誤解がなされる作家であるが、吉澤がそれを技法的に読み解いたのはすぐれている

 しかし、新子が、べたな私生活暴露ではないフェイク新子を創造した言葉の天才であるとしても、いくつか問題点がでてくる

 時実新子の川柳も、プラスマイナスいずれも時代の価値観の枠内であるから、内容は殆ど自己追求、自分をまるごと作品世界にいれこむいわば私小説空間である、近代以後の文芸全般、自身の内面をうちだし虚構化する、その方法を採っていたから。そのことが創作倫理の根幹にあった。だから、新子は、全く新しいことをしたわけではない、自身も読者もその全てが自己告白だとは思っていなかったはずだ

 なぜ、『有夫恋』は大衆にうけたかである。これがベストセラーになったのは、当時の女性観の中で、不倫の恋も辞さない悪女ぶりが、女性の秘める欲望を表したもの。新子の心の中の「自由の象徴」(虻曳)に私小説に近い大衆小説風だからこそ安心して感情移入できた

北村:私の考えでは、大衆は私小説を事実の告白と受け止めていたのではないか。また「大衆の憧れ」と言っても複雑だ。反感に裏打ちされた憧れだから。女性の人気者の人気とはそういうことが多いのだ。私の内に大衆が住んでいるから分かるのだけれど

堀本:読者は、時実新子を悪女に見立てることで遊んでいた、とは言えないか。半分ぐらいはほんとかな、とかおもって。一見川柳の中では新しくみえる新子の自己像の古さ(それが悪いというわけではない)が見えてくるのではないだろうか

 それから、自己像(=アイデンティティ。私性もその一部)は、完全に描きうるものではない。だから、表現の仮構(虚構化)がもとめられる。「ゆらりゆらりと妻を殺して」は、夫である男に、関係の解体をせまっているのであるけれど、「妻」である自分と自分の「夫」との関係も両方こわれる。これは、自分も含めた女性一般の抱く「愛」の理想像(?)ともいえる。新子の面白さは、古い恋愛観の中で、一番悪女の面を強調した自己像を創造し、こういう自己解体まで表現してしまった、と言うことだと思う

筑紫:世の常、「俳句」と「川柳」があるように言われているが、たしかにそうかもしれないがそれ以前に「俳句の読み」と「川柳の読み」があり、それを踏まえて「俳句として詠まれた作品」「川柳として詠まれた作品」、その結果としての「俳句」と「川柳」が存在していると見ることができるということだ。吉澤(今回不参加)の鑑賞は時実の読みを既製の読みから開放しようとしているようである。説得力があると共に、既製のジャンルからは危険視される試みになるかもしれない。とはいえそれは、五七五形式に「俳句の読み」があると思っていたものが実はそれが極めてローカルなものに過ぎず、パラレルワールドとしての「短歌の読み」「詩の読み」もあることを失念していたことに気づかせてくれる意味で貴重な提言かもしれない。いずれにしても、こうした契機は時実だからこそ生まれるのであろう。時実については俳句の側こそ学ぶことが多そうだ。いい連載を期待している

 次は近木圭之介についてであるが、川柳以上に自由律俳句についてはよく知らなかったことに我ながら愕然としている。たぶん、論者のお二人についても同様だと思うが。思うに、時実新子の場合と違って、圭之介については埋もれた作家を再発見するやり方で鑑賞が進むのだろう。

北村:具体的な作品に早速入りたい。「古里 石も眠い」を見ると、いつか私の不確かな記憶に染み込んでいるトリスタン・ツァラ?の詩の一節「村の根元で石垣が倦怠を編んでいた」を思い出す。このような発想は昔へさかのぼれるだろう。圭之介は実際にも明治生れであるが。独自性はやはり含蓄に賭けた型式にあるのだろうか。

堀本:圭之介「古里」の句は草城句の世界とおなじ自然にいるはずだが、「石も眠い」という表現は「眠い」のに緊張感を与える喩(メタファー)である。永遠のハイマート、かつちいさな存在の悠々たる自由など存在全体(古里)の「喩」だ。

 詩形の特徴については、藤田踏青の解説が丁寧で啓発された。短律の世界では、極小字数をあまる大きな意味世界のイメージは、「喩」のふくらみに預ける面が強い。でも、これに成功すると「自由律俳句」の一見律にならない律がふわっと立ち上がってくれる。自由律俳句のこの繊細かつ悠々たるタッチは戦前戦後をつうじて変わらない魅力だ。一句一律という考え方は定型俳句にはない。思考と律を媒介する要素として「喩」との関係を考えると、ここから学ぶところが大きい。

筑紫:この第1回目の感想は?

北村:川柳、自由律俳句は、独自の課題と魅力があるのに、とかく等閑視されてきたので、この二人の鑑賞者の起用は適切かつ画期的。俳句にとっては自己の詩形をみなおす絶好のチャンスである。カリスマ新子と自由律の戦後作家が登場して興味深い。

堀本:同感。

筑紫:ありがとう。一応今回はここで終わりたい

(「戦後俳句を読む」(第1回)了)※。

【連載】現代評論研究:第1回・私の戦後感銘句3句(1)  藤田踏青、土肥あき子、飯田冬眞、堺谷真人、岡村知昭、しなだしん、筑紫磐井、仲寒蟬、北川美美

はじめに

 2011年から数年間、BLOG「詩客」(「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」)の俳句部門で「戦後俳句を読む」の企画を実施してきた(その後、BLOG「俳句空間」、BLOG「俳句新空間」に継続)。既に10年以上が経ち改めてそれらを読み直したいという希望も出されたことから、俳句作品(当時は川柳作品も多くの参加者があった)を中心に復活しようとしたものである。方針を固めて連絡を取り、了解の取れた方を中心に掲載しようとするものである。出来ればその後新しく参加される方も募集したいと思っている。

 近年『●●●の百句』の企画が好評に進んでいるが、こうした企画に先駆けたものとしての連載であったと考えている。読者のご支援を期待したい。


[執筆者]

藤田踏青【近木圭之介】、土肥あき子【稲垣きくの】、北村虻曳【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、飯田冬眞【齋藤玄】、堺谷真人【堀葦男】、山田真砂年【富澤赤黄男】(今回欠稿)、堀本吟【戦後俳句史総論】(総合座談会に掲載)、岡村知昭【青玄系の作家】、しなだしん【上田五千石】、筑紫磐井【楠本憲吉】、仲寒蟬【赤尾兜子】、北川美美【三橋敏雄】


●―1:近木圭之介の句/藤田踏青


古里 石も眠い


 「ケイノスケ句抄」(昭和61年発行)の中の昭和55年の作品である。明治45年に生まれた圭之介(旧号:黎々火)は小学校1年生までの7年間、金沢の地で育った。そして1年生が終了した後、山口県長府市の伯父の許へ養子となり移り住んでいるので、この古里は金沢を指しているのではないか。叙情を抑え句材とする物「石」を冷静に描写する事によって「古里」への思いを円環的に形象化している。そして埋もれ去った時間の中で古里は眠りに居り、石もまた掴みどころ無く眠いのである。

 この句は4・3・3のリズムの十音であり、自由律俳句での所謂短律句である。荻原井泉水が主張した自由律俳句では、大正末から昭和初期にかけて短律の句が数多く作られ、その主宰する俳誌「層雲」では昭和4年に層雲第7句集が「短律時代」と称して刊行されているほどである。代表例としては次のような句がある。


 咳をしても一人(9音)  尾崎放哉  大正14年

 草も月夜   (6音)  青木此君楼 大正15年

 陽へ病む   (4音)  大橋裸木  昭和6年


 井泉水の主張では「俳句は一つの段落を持っている一行の詩である」(「新俳句入門」より)とあり、上掲の句なども構成的に二句一章の構造をもち、意味上の句切れと音調上の句切れを共に備えている。圭之介は昭和7年に「層雲」に入門しているので、当然そのような新しい短律の世界を見つめてはいるが、放哉や山頭火とは異なる詩性を尊重する短詩的傾向の作品開拓へと進んでいったのである。

 自由律俳句の短律については高柳重信が次の様に言及している。「大正時代にはロマンチックな人道主義と、ほとんど純粋無垢に近い社会主義と、繊細で厭世的な魂が縋りつくように求めるストイックな信仰と、それぞれに当時の社会状況を反映した俳人たちが、真剣に一途に精神の火花を散らした一時期であった。それ等の俳人たちにとって、この時代は、少なくとも主観的には、どうしても書かずにおれぬと信ずる何かがあまりにも多かったため、十七字の桎梏から解放された自由な短詩型は、まさに手頃な表現の具であったろう。・・・・中略・・・・自虐的なまでにストイックな信仰心を高めてしまった人たちは、おのずから寡黙をあいするようになり、十七字の俳句定型よりも更に言葉を惜しむ短律へと傾斜してゆくのであった」(「俳句形式における前衛と正統」より)。これは多分に放哉や山頭火を念頭に置いた論であろうが、短律という形式は戦後においても掲句のように脈々と生きづいており、戦後は信仰心というよりはより一層詩的な方向へと展開されていった。

 また、圭之介は昭和16年と昭和53年の2回「層雲賞」を受賞しているが、戦前戦後を通じて二度の受賞者は「層雲」では氏ただ一人である。その2回目の受賞の前年(昭和52年)の作品に次の様なのがある。


古里では黄昏が咽喉から溢れて来た


 これは前掲の作品とは異なり、二十一音の長律の作品である。自由律俳句の本義である「一句一律」の主張は当然、このように一人の作者の中で短律と長律の並存という可能性をも秘めているのである。

 尚、氏の没後(平成22年)に刊行された「日没とパンがあれば」では掲句はそれぞれ「古里 眠い石も」「能登で黄昏が喉まであふれてきた」となっているが、その詩画集的な趣きを考えると、俳句臭を取り去り、詩的に推敲した為かも知れない。


●―2:稲垣きくのの句/土肥あき子


歯でむすぶ指のはうたい鳥雲に


 きくのの句集は生前3句集、没後1句集、計4句集ある。このたび3回続く感銘句の鑑賞は、それぞれの句集から一句ずつ取り上げていきたい。

 掲句は1963年に刊行された第一句集『榧の実』に所収されている。「春燈」に投句を始めた1946年から1962年まで、40〜50代の作品が収められている。「春燈叢書第18輯」とある本句集は、扉の木版画に当時「春燈」の表紙も手がけていた川上澄生、題字は宮田重雄という瀟酒な装丁であり、句集というより、上質の和菓子の箱のようにも見える。とはいえ、そこに並ぶ俳句は甘い菓子を思わせるものは少ない。

 掲句から見えてくるのは一人の女である。他人の手を借りずに、女が一人でできるものは数あれど、指の包帯ほど厄介なものはない。片手で押さえながら、歯も動員し、最後に作る結び目にくっと力を入れるときの視線は、確かに宙を見上げるかたちになる。それもどちらかというとぶざまな姿であると自認しつつ。

 きくのは短い結婚生活を経て、20代を映画女優として自活の道を得た。役柄を見ると、女客などが多く、大きな役でも主役の姉あたりであることから、スターというほどではないが、それでも10年間に45本という出演本数は立派な女優として活躍していたことを意味するものである。また、これは一般の明治生まれの女性の典型からは外れた人生でもある。結婚、出産、子育てという周囲の常識から見ると、遥か遠くの銀幕の女性であり、きくの自身「一般とは違う女」であることをじゅうぶんに意識していただろう。そして、そろそろ30歳になるという頃、女優を辞め、俳句を始める。仕事を辞める直接のきっかけが何であれ、己の美や老いをもっともはっきり自覚する職業であることを思うと、30歳は潮時と考えたのかもしれない。

 きくのの作品には生活感がないと言われてきたというが、女優であった経験が自身の運命をごく客観的に見る術を身につけたのだと思われる。ストーリーがあり、背景があり、役者がいる。これらを実生活のなかでも、自然と感知していたのではないかと思われる。

 掲句に漂う空気は孤独であるが、対極に渡り鳥を自由の象徴としてはばたかせることによって、大きな空間が生まれた。雲に紛れる彼らの目指す先の安住の大地へ、思いを馳せる。包帯の白が実に映像的である。

 同句集に収められる〈夏帯やをんなの盛りいつか過ぎ〉〈似合はなくなりし薄いろ鳥雲に〉〈つひに子を生まざりし月仰ぐかな〉などからも、現実を静かに見つめ、嘆き悲しむ見苦しい姿は決して出さず、かといって目を閉ざすわけでもない妙齢の女が凛として佇っている。



●―4:齋藤玄の句/飯田冬眞


おのおのの紅つらならず曼珠沙華 昭和50年作 句集『雁道』所収


 曼珠沙華を見るとき、どのように見ているだろう。まずは畦一面を真紅に染めて咲く曼珠沙華の一群が視界に飛び込んでくる。その次に焦点を絞ってゆくと、ひとつひとつの曼珠沙華の姿と色に行き着く。曼珠沙華の花の色を言葉で表すならば「紅」としか言いようがない。しかし、一本一本の真紅の曼珠沙華の「紅」の色はどんなに群がり、蘂と蘂が錯綜するほどに咲き乱れても、決して、隣で咲く曼珠沙華と同じ「紅」の色ではないのだ。曼珠沙華の「紅」の色は隣の紅を乱さず犯さずに咲き盛っている。全体では真紅一色に見える曼珠沙華も一花一花の「紅」の色は微妙な異なりを身にまとっている

 言葉と実態のもつ微妙な差異を凝視することで曼珠沙華の実相を見つけ出し〈おのおのの紅つらならず〉と表現し得たところにこの句の独自性があるように思う。言われてみれば確かに曼珠沙華の姿は、そうとしか言いようがない。まさに写実の鋭い目によって、曼珠沙華の本来の姿を描いて見せた一句といえる

 齋藤玄は「凝視と独白の作家」であると前回紹介したのだが、この句は、彼の「凝視」の側面をよく表している句だと思う。曼珠沙華の人口に膾炙した句と比較するとそれがよくわかる。試みにいくつか挙げてみる。


つきぬけて天上の紺曼珠沙華   山口誓子

曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華    森澄雄

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太


 どれも秀抜な句であることはまちがいないのだが、曼珠沙華そのものが鮮烈であるゆえに〈天上の紺〉〈落暉も蘂をひろげ〉〈西国の畦〉〈腹出し秩父の子〉といった景物あるいは背景を引き合いに出すことでしか作品世界の均衡を保てなくなっている。つまり、私たちが名句だと思っているこれらの句は、読者が抱く曼珠沙華に対するあるイメージを引用することではじめて作品として成り立っている作り方なのだ。俳句とはそういうものであるのかもしれず、大方はそうした詠み方、作り方でよいのだが、齋藤玄は対象を見て視て観て見尽くして自滅するか、そこから対象本来の姿をつかみとることに成功するかのきわどい作り方をしている作家なのである。掲句はもちろん成功例なのだが、他の作品について言うと「凝視」することで対象と一体化した挙句に作者が透けて見えすぎる嫌いがある。たとえば同じ『雁道』の〈色として白梅の白なかりけり〉などは、〈白梅の白〉を凝視した結果〈色として〉〈なかりけり〉という理屈を詠むという自滅の道をたどってしまっている。いわゆる「理に落ちる」というやつだ。掲句は、他の背景、景物をいっさい用いずに曼珠沙華だけを見てその「紅」をとおして〈つらならず〉という曼珠沙華そのものの姿に肉薄した結果、命と命のありかたの実相、関係性の真理といったものの一面を言いとめているようにも読めるのだが、いかがだろうか?


●―5:堀葦男の句/堺谷真人


ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒


 第一句集『火づくり』(1962年)所収。最終章「火の章」、「潜在空間」と題する25句の劈頭に置かれた作品である。広く人口に膾炙した堀葦男の代表作であり、究極の抽象表現は昭和三十年代前衛俳句のひとつの到達点を示す。安西篤は『現代の俳人101』(2004年)の中でこの句について「原色のタッチの力感でひた押しする抽象画のバイタリティを感ずる。アクションペインティングのような力強さだ。当時の時代相の低暗部にあるマグマを感覚的に表現し得た句でもあった」と書いている。的確な鑑賞であろう

 葦男は、終生、俳句表現の形象性を重んじた。句座では「心のすがたを、物のかたちで書く」という言い回しを好んで用い、時に言語遊戯や観念性に流れる連衆をやんわりと誘掖した。その葦男がこの句では黒以外の色彩と形状とを悉く消去しているのだ。互いに相摩し、相撃ちながら押し寄せて来る夥しい黒の氾濫。怒濤のような運動エネルギーだけを、作者の側もいわば「力づくで」書き切ってみせたのである

 ところで、筆者は生前の葦男から、この句の誕生の契機となった体験について直接聞いたことがある。「夕方、御堂筋を歩いていた。ふと顔を上げると、淀屋橋方面から夕闇を背景にして猛然と走って来る自動車の群が目に入った。煌々たるヘッドライトの光以外は一様に黒い塊。それがあとからあとから際限もなく押し寄せて来るさまは圧倒的だった」と

 大阪市を南北に貫く6車線の御堂筋は、1970年の1月から南進のみの一方通行となった。同年4月に開幕した大阪万博による交通量の増大が予想されたため、渋滞緩和策として、市内の南北方向の幹線道路が一方通行化されたのだ。葦男が目にしたのは南北双方向に自動車が流れていた御堂筋である。職場は大阪市東区(現・中央区)備後町の綿業会館内にあった。綿業会館から西に300mほど行くと御堂筋にぶつかり、淀屋橋はそこから北に約800mという位置関係だ。葦男は御堂筋に沿う東側の歩道を北向きに歩いていたと思われる。帰宅中だったのであろう。いや、仕事関係の酒席があって北新地方面までゆく途中だったのかもしれない。いずれにせよ、前衛俳句の極北に屹立するこの記念碑的な一句は、近現代大阪の大動脈ともいうべき御堂筋の夕闇の中で胚胎したのである

 以下、余談。葦男の職場から御堂筋に出て、淀屋橋と正反対、南へ500mほど行くと、真宗大谷派難波別院(南御堂)がある。その近く、御堂筋の東側側道と中央4車線を隔てるグリーンゾーンに小さな石の柱が立つ。刻まれているのは「此附近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」の文字。芭蕉が客死した花屋仁左右衛門の旧宅跡だ。昭和初頭の御堂筋拡幅工事により、旧宅跡は路面にせり出す格好になってしまった。元禄七年の秋、一人の老俳諧師があまたの門人たちに囲まれて今生最後の幾日かを過ごした永訣の地を、3万台以上の自動車が今日もまた駆け抜けてゆく


●―6:富澤赤黄男の句/山田真砂年(今回は休載)


●―8:日野草城の句/岡村知昭


山茶花やいくさに敗れたる国の


 『青玄』という雑誌が日野草城の存在なくしては決して生まれなかったことを思うとき、これから「『青玄』の作家たち」の作品の数々を考えていくときに、まず取り上げるべき作家は草城こそがもっともふさわしいはずである。そしてこれから取り上げる1句こそ、草城の俳句への復帰を飾る第一歩であると同時に、草城を慕う若者たちにとっては『青玄』創刊への大いなる助走のはじまりとして、それぞれの立場がその後さまざま変わることはあっても決して忘れることのできない大切な存在、まさしく「感銘句」としてあり続けた。私にとっての「『青玄の作家たち』へのアプローチもまた、日野草城の「山茶花」の1句から始めることにしたい

 草城がこの一句を詠んだのは昭和20年11月11日、大阪は豊中の小寺正三の自宅で開かれた第1回「まるめろ俳句会」でのこと。草城がこの1句を詠むまでの様子は、この日の句会に参加していたひとりである楠本憲吉は翌年創刊した「まるめろ」の創刊号で次のように書いている


 本道をそれて道が下り坂にかかった時、左手の籔の茂みの中に山茶花の灌木がぽっかり浮き出たように咲いているのに目を引かれ、振り返りざまに眺めていると

「オヤ、山茶花が咲いていますね

 と穏やかに言われた。それはいかにも穏やかな先生の声だった

        (引用は『日野草城全句集』栞所収の「先師草城のことども」より)


 楠本憲吉はもちろんのこと、伊丹三樹彦、桂信子といった他の参加者たちが一挙手一頭足を食い入るように見つめ続けていた中で草城が発した「穏やか」な声、「穏やかに」語られた言葉。「穏やか」な一瞬から詠まれた草城の1句が参加者に強い印象を残したであろうことは想像に難くないし、いま彼ら彼女たちが立っているこの場のありようを「いくさにやぶれたる国」と広い視線で捉えるときのあまりの穏やかさも、参加者たちをまた驚かせるに十分だったはずである、まぎれもなくこの国は「いくさに破れ」たのだとの思いを「穏やか」な詠みぶりを通じて草城は突きつけてきたのだから。そんな参加者たちの驚きをよそに、草城はこの1句に対しての名乗りを「又しても如何にも穏やかに言われた」と憲吉は書き残している。名乗りは幾度も繰り返され、この日の句会の最高点となった

 8月15日周辺の句で「おもひきや戦をとざすみみことのり」「戦果つ残る暑さのきびしきに」と詠んだ草城にとって、「敗れたる国」と敗戦をはっきりとした言葉で表すことへの逡巡は多少はあったかもしれない。だが自らの目の前に立つ若者たちのまなざしの熱さを前にして、自らが再び俳句に拠って立つ意思がより確かなものとなったことを深く実感したところから、草城の「いくさに敗れたる国」での再出発が始まった。それはこの日出席した憲吉、三樹彦、信子にとってもまた同じだったのだろう。草城の「穏やか」さの中に秘められた熱さを受け止めるところから始まったそれぞれの戦後。だが草城と若者たちの想いがひとつの雑誌として形になるまでにはあと3年の月日を要したのだった


●―9:上田五千石の句/しなだしん【「星」の句からみる五千石の真実(1)】


 前のプロローグ(自己紹介)にて


ゆびさして寒星一つづつ生かす   五千石(昭31年作)


を第一句集『田園』から挙げ、私の愛誦句であることは書いた。

 この句の特筆すべきは、とても能動的であること。「ゆびさして」「生かす」のだ。見上げた夜空に星を一つ見つける。一つ見つけると目がどんどん闇に慣れてゆき、また一つ、また一つと星を見出すことができる。五千石はその行為を「生かす」と言いきった。それも、星の一つ一つを確認するように「ゆびさして」である。

        ◆

 このとき、五千石はきめらく星を「ゆびさして」「生か」したいほどの心持ちにあったのだろうと推察する。

 この句について五千石は、自註(*1)に次のように書いている。


俳句によって、自分という存在が、ハッキリしてきた。

そうなると自分を中心に宇宙の全てが、いきいきしはじめた。


 実は、五千石は一浪のあと入学した上智大学二年の春頃、いわゆる神経症に悩まされていたのだ。

 五千石は、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*2)の「俳句との出会い」のなかで、次のように記す。


大学二年の夏休みを、私は一か月も早くとらざるをえませんでした。

神経症が高じて、どうにもならなかったからです。(中略)

死は私に直面していました。


 そんな状況にあった五千石は、帰省後に母の導きにより、秋元不死男の俳句に出逢う。

 同書によれば、後日、五千石が参加した俳句会は「忘れもしない、昭和二十九年七月十七日のこと」で、「私を苦しめぬいた神経症は、その夜をもって完全に雲散霧消、神経症の患者ではなくなった」という驚くべき事象の日であり、「かくて秋元不死男は私のいのちの恩人」となったのだ。

 さらに続けて「ゆびさして」の句にふれ、


俳句によって、初めて私自身と巡り会うことができたのでした。

言葉をかえて言えば、”私の中の自然を大切にする”ことを知ったということです。 

今日の私の生き方と私の俳句観は、すべてそこから導かれてくるのです。


と述べている。

 ちなみに7月17日の俳句会というのは、秋元不死男が出席した吉原市(現富士市)での「氷海」吉原支部発足の会であった。この件についてはまた別途述べたいと思う。

        ◆

 「ゆびさして」の句が成ったのは、先の神経症の件が起こった昭和29年5月頃から数えておよそ1年8カ月後、ということになろうか。この句は、五千石の、俳句開眼の一句であり、自我開眼の一句、そして「いのちの一句」でもあったのだ。

 若き五千石の青春が迸っている作品である。


*1 『上田五千石句集』自註現代俳句シリーズⅠ期(15)」 俳人協会刊

*2 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』 角川学芸出版刊


●―10:憲吉の句/筑紫磐井


汝が胸の谷間の汗や巴里祭


 憲吉の極めつけといってよい句である。しばしば、この「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないではいないかと批判する人がいるが、そうした人に限って憲吉の「巴里祭」に匹敵する程の句を持っていたためしがない。この句に匹敵する名作はそう簡単には見つからないのである。もちろんわたしは以下の連載で、「巴里祭」の句以外憲吉には何も残っていないという迷信を打ち壊したいと思うのであるが、その意味でも1回目に取り上げるべき句だと思う。


 「巴里祭」とは、7月14日のフランス革命記念日のことであるが、もはや風俗としては何の痕跡も残っていないのではなかろうか。この句の詠まれた背景には、憲吉の若かりし時代、彼と同世代が背伸びをして見たであろうルネ・クレールの「巴里祭」(Quatorze Juillet 1933年フランス映画)を抜きにしては語れない。内容は巴里祭の前後の男女の他愛ないものがたりだが、灘万のボンボンとして生まれ、慶応大学を出て、やや前衛風のかっこいい俳句をつくる憲吉にはふさわしい映画だ。上演はたぶん憲吉12,3歳の頃である(遠藤周作が同級生だ)。だから、この映画を見なくなった現代では共感が乏しくなるのも致し方ない。


 映画巴里祭の流行った二・二六直前の騒然とした時代の、少しエロチックな、しかし明るい時代雰囲気は、戦後の同じような時代を生きている憲吉にピッタリする。「谷間の汗」で上気している若い女の生理までもがにおい立ってくるのは、この作家特有の観察眼である。この作者の句に登場する女たちはみな個性的で美しい。(作者による卑俗な自解があるが興ざめなのでここでは紹介しない。)


 出典は『楠本憲吉集』(昭和42年)、昭和28年の作品。


●―11:赤尾兜子の句/仲寒蝉


音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  『蛇』


 少し前までは兜子と言えばこの句しか知らなかった。意味が分っていたかと問われると自信はなく、好きかと問われるとさほど好きでもなかったが、何故か気になる句であった。いわく言い難い不思議な雰囲気をたたえ好悪の彼岸にあるような句であった。

 兜子の句を字余りという観点から見ると、初学の頃の『稚年記』はほぼ定型遵守、『蛇』の最後の章「坂」あたりから字余りの句が8割を越え、次の『虚像』では9割以上が字余り、それが『歳華集』の最後あたりで減少し、死後に編まれた最終句集『玄玄』ではまた定型が多くなる。仮名遣いも初期の『稚年記』は歴史仮名遣い、『蛇』『虚像』『歳華集』など全盛期の句集は新仮名遣い、最後の『玄玄』はまた歴史仮名遣いに戻るのでこのことと字余りとが明らかに連動している。その意味では掲出句は7-7-5と字余りながら同じ『蛇』に収められた「ゆうべ真つ白い玉巻キヤベツ抱いて思うことないぞ」「場末の木椅子にちぢれ毛絡ませ記者ら酔う」「ナイフが掠める檻の汚れた空で蒸す夜景」などと比べれば随分と大人しい印象である。

 兜子の句は言葉を尽くして細部を描写しているように見えても同じ時代の所謂「写生」を目指した句とは全く印象が異なっている。詳しく描かれることと分りやすいこととは別次元の問題だということを思い知らせてくれる。先に挙げた3句を例に取っても「ゆうべ…」は白い玉巻キャベツというはっきりしたイメージを抱かせるものの何を「思うことない」のか判然としないし、「場末の…」はかなりの細部描写であるのに木椅子の置かれた場所が屋内なのか屋外なのか不明なので記者達は宇宙空間のどこかにでもいるような無重力感がある、「ナイフ…」に至っては一つ一つの単語の意味は追えても総体としてのイメージは非常に漠然としており何故この語とこの語が結び付くのか謎のまま放り出されている。

 そのような句に混じって掲出句があるということを知った上で読み解いてみよう。名詞4つと動詞2つから成り字数の割には意味が凝縮された感がある。これだけ言えば充分だろうと思えるほど言葉は尽くされている。でありながら頭の中で容易に像が結べない。読者はゴツンゴツンと言葉にぶち当たりながら自分の位置を考えつつ進んで行かなくてはならない。幾つかの謎が読者の前に立ちはだかりなかなかスムーズに前へ進めないのだ。

 音楽とはどのような?ベートーヴェンの交響曲みたいに重々しいものか、それともこれの書かれた昭和30年代前半に流行った春日八郎の『お富さん』や石原裕次郎の『俺は待ってるぜ』のような流行歌なのか。岸は川岸か湖岸か、或いは海の岸か。「侵しゆく」の主体は蛇なのか飢なのか。勿論それは読者に委ねられているのだから鑑賞は自由なのだが、書かれているのが尋常の光景でないだけに夢でも見るかのような印象がある。むしろその曖昧模糊を狙っているとも言える句なのである。

 赤尾兜子の句の造りは見た物、経験した事をなるべく素直に「単純なる叙述(虚子)」によって表現する行き方からは対極にある。掲出句をもしも作者が実際に目にした出来事と仮定すれば、例えば川岸を獲物を探して蛇がくねりながら進んで行く、その向こうに公園があってゆったりしたムード音楽が聞こえて来る、といった情景を思い浮かべればよい。これを俳句に仕立てるのに音楽や飢といった言葉は不要である。ただ川岸とそこを進む蛇を簡潔に表現すればよい。ところが兜子は背景に音楽を漂わせ、蛇を飢えていると看破し、あえて「侵しゆく」という措辞を選んだ。そのことにより句はどうなったか?良くなったか否かは読者の考え方次第。しかし少なくとも川辺を進む蛇を詠んだ凡百の俳句とは全く異なる世界観を持った句に変身したことだけは確か。あたかも音楽に合わせて湾曲する川岸をパックマンのように蛇が齧ってゆく、その飢は留まる所を知らず蛇は岸の続く限り地の果てまでも進んでゆく…と言ったところだろうか。


●―12:三橋敏雄の句/北川美美


日にいちど入る日は沈み信天翁


 人は一生を通じて、「こころ」という不思議な作用に左右される。時代、環境に翻弄されながら「こころ」を持つ「人」として成長していく。経過する時の中で肉体、脳が老いていく。記憶の中にとどめたくない事象に遭遇し、年齢とともに「こころ」が磨り減っていく。それでも日(陽)は昇り、日(陽)は沈み、一日が展開する。生きる者に、朝が来て、昼が来て、夜がくる。そして、春が来て、夏が来て、秋が来て冬になり一年が終わる。人も動物も植物も営みを繰り返えす

 掲句は、三橋敏雄 句集『眞神』(ま(・)かみ ※注)31句目に収められている。昭和44年、敏雄49歳の時の作である

 『眞神』には全体を通し不思議な時間軸が流れる。浮遊した時の中で、身体的といえる言葉を通しタイムスリップしたような世界に引き込まれていく。現代詩とも、絵画とも、映像とも共通する、それまでになかった17文字の世界が展開し、次の句へと連鎖するような錯覚をし、不思議な迷宮を体験する。『眞神』は生生流転の人間世界、自然界を背景にしている

 上五中七のたった十二音節「日にいちど入る日は沈み」において、地球の自転を潜ませ日没から日昇までの時間経過を暗示している。繰り返しながら、日々失っていく何か。「日」という陽に対し、「沈む」という陰。全滅の危機に瀕する「信天翁」(あほうどり)の、「天」を「信」ずる「翁」という表記。使徒のような鳥が重く沈む日(陽)をみている。視点は鳥である。読者が鳥になったような錯覚を起こす。読者は、自分の人生や時代を思いつつ、ただこの句を前に自分を投げ入れるのではないだろうか

 アメリカの「失われた世代」(ロスト・ジェネレーション)とは、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家に代表されるような20代に第一次世界大戦中に遭遇し、従来の価値観に懐疑的になった世代をいう。『日はまた昇る』(原題:The Sun Also Rises)は、ヘミングウェイの出世作として有名だ。その序文に記された言葉を引く

 傳道之書(アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』谷口陸男訳


 「世は去さり世は来きたる地は永久とこしなへに長存たもつなり 日は出いで日は入いりまたその出いでし處に喘あえぎゆくなり(略)」


 上記の言葉は、旧約聖書 第一章であるが、これには省略されている冒頭箇所がある。「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

 これを掲句に結びつけると、神の使徒「信天翁」は、いっさいの空にいる自由な阿呆(あほう)。崇高でありユニーク。『眞神』には所々にシャーマン的な存在が登場するが、注意しなければならないのは、『眞神』は物語ではない。俳句集である。読者が慣れ親しんできた言葉を使用しながら、俳句形式の中で読者を別の世界へ連れて行く三橋の冷静で巧みな術がある

 戦争という体験は、三橋に多くを語らせず、しずかに、海から陸をみるという視点をもたせた。大人は泣き叫ばず日常を淡々と生活できる。大人は考えることができる。大人は時間を操作できる。掲句は、大人であること、人生の時間について改めて想いをめぐらす一句である


※注)『眞神』の読み方は、様々あるようだが、筆者は「ま(・)かみ」と読む。


【補足】北川美美は2021年1月14日になくなった(享年57)が、BLOG俳句新空間の創始者・管理人であり、「戦後俳句を読む」においても三橋敏雄作品を鑑賞し、これをもとに『「眞神」考』刊行(2021年ウエップ刊)にまとめた。この連載研究の趣旨をもっともよく体した論者であった。

 この連載で友人たちと切磋琢磨しながらまとめた論考が単行本として完成したものであり、この連載研究がどのように発展したのかは北川美美を比較対照して眺めることによりよく理解できると考え、物故者ではあるがこの連載復活に当たり掲載させていただくこととした。ただし、この連載の後、北川は三橋論を「ウエップ俳句通信」で再連載し、更に『「眞神」考』原稿の段階でまとめなおしたので、北川の最終見解とは少し異なるところがあるので注意されたい。

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】④ 破局有情――加藤知子句集『情死一擲』について 関悦史

  加藤知子句集『情死一擲』について私が書こうとすることの骨子は、あらかた既に、今年惜しくも亡くなった竹岡一郎の跋文に描き出されてしまっている気もする。また加藤知子自身のあとがきにも、神風連の変や西南の役を情死と見る視座、およびそれら軍事的敗死者へのみずからの共鳴を「浪花節」と云いとめる自覚が示されているところから、この句集に収められた作品群のよって来たるところ、方法的土台についてはことさらあらためて語り直す必要もなさそうなのだが、それにしても個々の句がその方法の受肉の結果として得た身体はさまざまに荒れ、破れ、綻び、濁ったものだ。題材を俳句に落しこむ手際の上手い下手や、そのレトリックの適不適を云々することがおよそ意味を持たない句集がわれわれの前に姿を見せることになったといえる。

 粘土で塑像をつくるとき、または木材や石材で彫像をつくるとき、さらには投棄された廃材の類を組み合わせてジャンクアートを組み上げるとき、作り手の手は粘土、木、石、廃棄物といった質料の抵抗を受け、明晰に言語化することができないやり取りをそれらと交わしつつ、作業を進めていることになる。その闘争的とも弁証法的とも云えるやり取りを経て立ち上がった作品は、制作者の意志やメッセージを示す記号ではなく、物自体としての不可知性をその身に残す。

 加藤知子の句の場合、題材を作品化していく過程で、作者の意見やメッセージといったものは、そもそも明確なものとしては介在してはいないことが多い。むしろ激発と呼ぶ方がふさわしい反応によって、その題材は句として受肉する。

  街の通りの汚れた壁の百の耳朶

  甲虫に雨ぞうぞうと銀の匙

 こういった句は、喩のあり方が、作者の言説や欲望を担った寓喩と、題材たる質料からの抵抗のせめぎ合いの渦中でそのまま放り出されたようである。佳句であるかどうかといった評価基準があまり意味をなさないものだが、あえていえば〈街の通りの~〉はかつての前衛俳句風の、気分的な不協和のみを担う暗喩性に終始してしまっていると見え、〈甲虫に~〉は寓意にいたる寸前で手を放されてしまったかのような「甲虫」と「銀の匙」の取り合わせならぬ取り合わせが、異物感を愉快に立ち上がらせたトルソーのようでもある。鋭い緊張が自我のなかではなく、自己と題材とのはざまに得体の知れないイメージを立ち上がらせるというのが、加藤知子の句が或る達成に至る際のすじ道であるとひとまず取れる。メッセージを伝える《看板》と、単なる《廃棄物》とのはざまの領域に組み上げられ(かけ)ては、その都度遺物として放置されるイメージの相克の百態。ここに加藤知子の俳句的な沃野がある。

 「情死」を表現行為として見たとき、加藤知子におけるそれは、既に何らかの――戦争等の――痛ましい事態の発生により熱狂や惑乱のうちに命を落としてしまった他者たちに対する、遅ればせの追い腹のような行為としてある。それは第三者には何も説明することがない、破綻をも共にする切羽詰まった追認である。

  波打って光る渇望とは青葉

  火だるまでころがるどんぐりの快楽

  名はさくら大量無差別殺人罪

 そうした意味では、過不足ない象徴性ゆえに読者に迎え入れられやすいであろうこの三句などは、句集『情死一擲』から撰してみせるにはかえってふさわしくないのだろう。

  雷に打たるる鬱も水の音

  虹彩交歓始まる虹の境界線

 この二句などは「雷」や「虹」など気象に関する題材にまで作者が共鳴して、というより情死的にその身を迫らせていくことにより、「鬱」や「交歓」といった気分的なものを、心のうちと同時に、世界に物として放置しているさまが作者の特長を示していると取れる。

 気象と気分を連続的・象徴的に捉える作者はいくらでもいようが、「水の音」や「虹の境界線」という自然自身の身体性を不意に叩き出して着地させる方法は独自のものと云えるのではないか。

 以下、私の身心が反応した、何らかの突発感を帯びた句を幾つか拾う。


  滝壺に蛇を投げれば花群るる

  角曲がり肉屋がないと叫ぶ男

  帰り来てトランペットは夏へ無垢

  婆なれば万引きマントに神宿る


 「正直の頭」ならぬ「万引きマント」に神宿るアイロニーによって殺伐たる「婆」の「万引き」が花と化す妙手は他の時事的・社会的俳句にも見られる。

 カフカの「橋」を異常気象に拉致しさった〈ゲリラ豪雨橋はよろこび裏返る〉や、食物なき不毛がそのままカーニバル性を成す〈人が皿喰い皿が人喰う豊の秋〉、可憐にして無垢なものから戦争の悲惨を逆照射する当たり前の句に見えて奇妙な道化性を帯びる〈雪兎戦車の砲の中にあり〉、角の生々しさが寓意性を突き破った物自体をもたらす〈人類に一角生えていく前夜〉等々がそれにあたる。

 穏やかな博愛や、俯瞰による歴史の抽象化や、円満具足の相からはほど遠い、押しかけ情死ともいうべきものへと向かう疾駆からこぼれ落ちた奇果としての句の数々は、破局と瓦礫ばかりの過去を見ながら吹き飛ばされていくヴァルター・ベンヤミンの歴史の天使に、それと知らぬまま見守られているのかもしれない。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり22 句集『潛伏期』(橋本喜夫、2020年5月刊、書肆アルス、「第35回北海道新聞俳句賞(2020年)」)

  句集『潛伏期』(橋本喜夫、2020年5月刊、書肆アルス、「第35回北海道新聞俳句賞作(2020年)」)を再読する。

 中原道夫氏による帯文を先ずは、記して置く。

まだ融けぬ二人使(ふたりづかひ)の唇の雪

橋本喜夫の句に頻出する「死」の数は尋常でない。それは奥方の死もさることながら、それ以前からのことであり、医師として日常隣合わせにある状態が「死」を受容する体質にしてしまった結果かと思う。内容は厭世的(ヘシミスティック)かというと必ずしもそうでなく、形骸化された「死」を詩的に彫琢することで自分を鼓舞しているフシがある。全篇、死体安置所(モルグ)の死臭、かすかなエーテルのにおいのような通奏低音で、我々を麻痺させようと目論んでいようとも善しとしよう。北に住み、更に俳句の極北を目指す一匹の「狼(ヌクテー)」には強(したた)かな知恵と情熱(エネルギー)、それが橋本には憎らしい(・・・・・)ことに具っている。


 二人使(ふたりづかひ)とは、何だろう。

 広辞苑(第六版)によると「死亡の通知にゆく人。二人が一組になって行く。」とある。

 私は、この言葉から共に生きている二人の唇を、連想して誤読していた。

 二人の掛け合いは、この唇から生まれる。

 その会話の言葉の一語一語は、シャボン玉みたいにキラキラと儚くも美しく宇宙(そら)を輝かす。

 だがこの俳句の上五には、「まだ融けぬ」があり、そして最後の「唇の雪」で、ふっと現実に引き戻される。

 唇に焦点を当てたクローズアップ手法。

 この句の世界は、死を告げるための二人の使者の唇の雪が、まだ融けずに刻々と未来の死へと歩んでいく。


やや寒し橋本喜夫妻由美子


 二人の会話(掛け合い)は、いうなれば花。

 花やかに風と戯れ、月や太陽の光を一身に浴びている人生の惜別の二人の使者がひたひたと忍び寄るようだ。

 降り注ぐ雪は、まばゆく真っ白な未知の白いページへ誘う。

 宮沢賢治の妹への惜別の詩「永訣の朝」が、静寂に二人の会話を永遠にとどめたのを思い出す。

 体からしだいに熱と光を奪うはずの雪は、静かにめぐりめぐる日々の回想の翼が描き出す読み手の白いページに佇ませる。


問診は相聞に似て百千鳥


 愛するってなんだろうっ。

 万葉集の相聞。

 相聞とは、互いに安否を問って消息を通じ合うという意味の言葉。

雑歌・挽歌とともに『万葉集』の三大部立を構成する要素の1つ。

 橋本喜夫さんの医師としての気遣い。

 俳句にもその真摯な姿勢が、終始、垣間見れる。


 共鳴句の中にも日々の日記のように綴られている。

 観察眼が詩的表現の言葉に磨きをかけて光る。


天眼をとり落としたる雪達磨

さみしくて死ぬことのあり白兎

寒蜆かすかに動きたる銀河

青蜥蜴緑(アク)柱石(アマリン)の中に死す

美しき日本でありしころの羽子

ふらここの月夜に弦を垂らしけり

新聞に巻かれ新巻鮭しづか

放置自転車春光を放つなり

寒昴燈さねば家なきごとし


 雪達磨の天眼があるのだろう。それを取り落とすことで人間の所作らしさが滲み出る。

 さみしくて死ぬことがある白兎のこととか。

 寒蜆は、かすかに動くのを銀河の胎動と見る。

 蜥蜴が緑柱石(アクアマリン)の中で凍るように死んでいるという。そこに永遠性さえ感じる。

 羽子板の羽子が舞うさまに美しい日本を見出す。では今の日本はどのように見えるだろう。

 「ふらここ」はブランコとも。その月夜に弦を垂らしたように見出す詩的な世界観も素敵だ。

 新聞に巻いた新巻鮭は、生け捕られた時の荒々しさが、静かな銀河のように漂う。

 放置自転車は、春光を吸い込んで放射しているようにも見える。

 寒昴でも燈さないと家は無いようにもひっそりと存在を消している。

 これらの俳句には、静かにポエジーを孕んで胎動している。詩的生命の芽吹きがある。


 あとがきで橋本喜夫の言葉があふれんばかりの感謝を綴る。 

「今回第二句集を纏めるにあたり、自分の句を俯瞰的に読むと、なんでこんなに暗くて深刻な俳句が多いのだろうとすこし呆れてしまいます。ただ、この期間になんとか正常な精神状態で仕事をこなし、生きて来られたのも、俳句が生身の私の身代わりになって、慟哭してくれたお陰かもしれないと思うようになりました。そういう意味では俳句という文芸、そして俳句を通じて知り合った友人たちには、感謝しても感謝しきれません。」

 句集『潛伏期』の妻への橋本喜夫俳句は、まだ心の中でも融けずに二人の唇の雪があるのかもしれない。


春暁や運河のやうに眠るひと

海明や妻の口歌(くつうた)みな挽歌

着ぶくれて喪主はあたふたするものか

去年今年燃費の悪いひととゐる

病む妻に泪拭かるる明易し

食べられぬ妻に新米すすめたる

葱を切る女をけふの神とする


 春の暁(あかつき)に運河ののように眠るひと。それは、雄大な詩にもなる。そして愛しき人でもある。

 海明(かいめい)とは、北海道のオホーツク海沿岸地方で、春になって流氷が沿岸から離れ、出漁が可能になること。妻の口ずさむ歌が、みんな挽歌のように聞こえ出す。

 着ぶくれて喪主は、あたふたするものか。その心情や。

 去年今年は、燃費の悪い人といる。どう咀嚼すればいいのだろう。様々な葛藤を抱く人間は、人間味があっていいのだが、その時の心情を吐露し続ける。

 病む妻に涙を拭かれて夜が明けていくことも。

 食べられぬ妻に新米すすめる。陽気に気丈にだけれども人間のあーだこーだ悩みながらもあるのに。

 葱を切る女は、妻なのだろうけど今日の神とする心情よ。


 新型コロナウイルスの感染拡大防止の時期の私も冬籠りをするようにステイ・ホームの日々を過ごしてみて日々を丁寧に生きたいと感じていた。

 句集『潛伏期』(橋本喜夫)の愛に触れて、この橋本喜夫俳句に忍び寄る死は、誰もが抱えている心の奥底に潜む二人の使者なのかもしれない。

 俳句というか。人生の先輩は、真摯に人生に向き合い、愛に向き合い、死に向き合う。

 それは、生きることに本気で向き合っているからこそなのだ。

 私には、二人使の句を誤読してしまうくらいに愛や死は、漠然としたものだった。

 誕生も死も私たちの出会う人間交差点で大切な人生の財産になる道程なのだ。

 人生は、いつも何かの潛伏期なのだろう。

 それが死というものへの発芽だとしても人類は、愛という果実を成しながらめぐりめぐる人生の道程を歩み続ける。

 この句集に流れている死への不安を乗り越えていくための俳句模様は、やはり橋本喜夫俳句という生きざまだ。

 喜びも悲しみも共に生きてきた橋本喜夫さんと妻・由美子さんの愛は、出逢うならば惜別までも俳句の果実と成す。

 橋本喜夫俳句に出会えて良かった。

 花のある俳句だけでなく落花の余韻まできちんと詠める愛は、輝ける日々が宿し、悩み苦しみ、そして喜びを噛み締めて成長してきた人間にしか見えない世界なのかもしれない。

 コロナ禍の時期と重なり、自己の死と向き合い、そして生きることに向き合った句集『潛伏期』が、いつの日か。生きる喜びの果実の収穫期をめぐりめぐってまた季節の移ろいのように迎えてほしい。そこには、新たな橋本喜夫俳句が実り多きことを願いたい。

 共鳴句をいただきます。


薔薇匂ふいつも何かの潛伏期

母泣かすことのたやすき花御堂

彗星の尾にゐるごとく涼むなり

菜虫とりNASAの研究費をけずる

かまいたち綺麗に縫って泣かれけり

春暁やいつか遺品となる眼鏡

告知して下さいますか春の月

父の日や代はりに犬が叱られる

春の夜の折鶴胸に置き飛ばず

こころとは顔のなきもの心太

藤椅子やどこへも行かぬことも旅

湯冷めして何やらレトルトの気分

口を出て毬歌われのものならず

リラ匂ふなかを黒衣の列すすむ

わが死後を廻りつづける扇風機

嫌われてしまへば無敵なるカンナ

螢烏賊ほどの肉欲ありにけり

手花火のこんな近くにゐてはるか

深雪晴こんなしづかに列車混む

人間に生き腐れある春炬燵

白酒やひとりの声を肴とす


【初出  -BLOG俳句新空間- 2020年6月12日金曜日 】

「輝ける日々の橋本喜夫俳句」(句集『潛伏期』より) 豊里友行

https://sengohaiku.blogspot.com/2020/06/138-003.html


※この句集鑑賞では、言葉の意味や読みを広辞苑(第六版)、デジタル大辞泉などを参考にしたり、引用しています。

第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ➀

 澤田和弥の過去と未来  /筑紫磐井(BLOG「俳句新空間」2015年7月24日


 未見の人であったが気になっていたのは澤田和弥氏であった。『超新撰21』の時から候補にはあがっていたが、結果的に見送ってしまっていた人である。特にその後、句集『革命前夜』を上梓され、いい意味でもそうでない意味でも、『新撰21』の影響があった人ではないかと思っている。

 『新撰21』等に入らなかったことについて西村麒麟氏から、『新撰21』がこれだけたくさんの新人(42人。小論執筆者まで入れれば80人。さらに『俳コレ』まで登場した)を発掘してしまうと、このシリーズに入らなかったことそれ自身が逆の差別をされてしまったような気になる、と企画者の一人に対する注文とも不満ともつかぬ発言をしたことがある。これは澤田氏にとっても同じ思いであったかもしれない。

 逆に言えば、入らなかった御中虫、西村麒麟、最近の例でいえば堀下翔などは、すでに『新撰21』(例えば神野紗希、佐藤文香)を超越してしまった世代といえるのではないかと勝手に思っている。『新撰21』といえども企画者3人の独断と偏見に満ちた選考で上がった名前であるから、これら3人の枠組みの中でしつらえられている。御中虫、西村麒麟、堀下翔はこうした企画者に反発して自分たちの枠組みで自分たちの登場の場を確保したのだ。

 以前、俳句甲子園に苦言を呈したのは、もちろん若い高校生たちが俳句に関心を持ってゆくのはありがたいが、彼らは、俳句甲子園企画者のルールに従い、枠組みの中で競っているのであって、自分たち独自のルールを作り上げたわけではない。以前の高校生は――つまり寺山修司などは、自分たちで同人雑誌を創刊し、全国の高校生を結集し、中村草田男などと交渉して俳句大会を開催していった。そうした活動と俳句甲子園とはずいぶん違うのだということである。もちろんどちらがいい悪いとは言わない、より多くの高校生俳人を結集させるには俳句甲子園方式はかなりいい手法かもしれないが、寺山流ではないのは間違いない。

 『新撰21』から外れた動きを眺めるために、今回【アーカイブコーナー】で、御中虫、西村麒麟の活動を掲げてみた。これは明らかに「上から目線」を完全には排除できなかった(他の俳人たちに比べれば余程努力したつもりだったのだが、完全には排除出来ないのだ)『新撰21』に対する、反『新撰21』の活動であったと思っている。いや、ほどほどに妥協し、揶揄しながら自分たちの主張を断固として貫徹している。『新撰21』が存在しなくても自分たちの存在は明らかになっていると思っている人達であろう。

              *

 澤田は『新撰21』の影響を受けつつ、やはり独自の世界を模索し続けたようである。実に様々な媒体に挑戦している。私の関係するところでは、「豈」「俳句新空間」に登場しているし、その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ。

 澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したが、しかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられなかった。むしろ早稲田大学を通して、寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない。彼のライフワークになると思われたのは(悲しいことにわずか4回で中断してしまったが)、遠藤若狭男の主宰する「若狭」に連載し続けた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)だ。これが完成していたら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えたかもしれない。

 本人が存命している時の句集『革命前夜』と、亡くなってしまったあと読む句集『革命前夜』は少し趣が違っている。前者が今まで書かれた句集評の大半なのだが、後者を「俳句四季」10月号の座談会で取り上げ試みる予定であるが(齋藤愼爾、堀本祐樹、角谷昌子と座談)、妙に物悲しいものに思える(既に『革命前夜』は版元で売り切れ絶版となっている由)。有馬朗人氏の、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」るという、わずか2年前の序文がどうしようもない違和感を醸し出す。なぜなら今日のこの状況を誰も知らないからだ。私は当初、こんな句を選んだがそれは未来のある人の句としての鑑賞だ。


    佐保姫は二軒隣の眼鏡の子

    黄落や千変万化して故郷

    冬の夜の玉座のごとき女医の椅子


 実は死の予告のような句を選んでしまった。詳細は「俳句四季」10月号を見て頂きたい。だからここでは、『革命前夜』後の作品を掲げて締めくくりたい。澤田和弥の未来がどうあったか(亡くなっても作者としてはまだ未来があるのだ。後世の読者がどう評価するかは我々の思惑を越えているのだから)、考えてみたい。御冥福をお祈りする。


    人間に涙のかたち日記買ふ   「若狭」より

    菜の花のひかりは雨となりにけり

    春夕焼文藝上の死は早し   「週刊俳句」角川俳句賞落選句より

    復職はしますが春の夢ですが

    女見る目なしさくらは咲けばよし


(2021年11月26日金曜日)

第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ➁

 困窮のこと  (「俳句界」2020年8月号)

                           筑紫磐井


 澤田和弥は生前直接逢ったことのない作家である。彼の第一句集は『革命前夜』。寺山修司に強い感化を受けていたが、その師有馬朗人がいうように、寺山のような力強さや野性には欠いていた。感受性を持ちながら、その言葉とは裏腹に、革命を起こす力は持っていなかったのだ。

 アンダー40の世代を取り上げるために私は『新撰21』という選集を企画した。その後続編も続いたのだが、結局澤田はそこに登場できなかった。この企画から漏れた西村麒麟から後日、『新撰21』は選ばれた人は選ばれて当然だと思っていたようだが、それから漏れた人には強い屈折を与えた、と言われたことがある。西村はそれをばねに俳壇の賞を軒並み取ったのだが、澤田はこれによって折れてしまった。平成27年5月に35歳で自死している。

 友人たちが澤田の追悼記事を書いたというが私はまだ読む機会がない。ただ私が発行する「俳句新空間」で澤田和弥追善を募集し、21人が作品を手向けた。しかし、あれから5年、澤田はすでに忘れられかけているといってよいであろう。つい最近、澤田を囲んだやや年配の人たちから彼の事を再び聞いた。せめてもう一度取り上げてみたいと思った次第である。

 理由のひとつは、実は若い俳人のかなりが、澤田のような微妙なバランスの上に立っていると思われてならないからである。今回のコロナ禍の中で、そうしたバランスを崩し、自死はないにしても、俳壇から行方不明になってゆくかもしれない。そういうナイーブさを持つからこそ文学者であるのだ。澤田もまぎれもない文学者であったと思うのである。


コロナのやうな

              筑紫磐井

「革命の五月が来た」と書き始む

弾丸尽き糧絶え市街しづかなり

寺山忌詐欺師のやうな雨が降る

自死・憤死 さまざまな死の万華鏡

「令和」といふ暗き時代が今をおほふ

いつの世もコロナのやうなことありし

革命は後からそれと分かるもの

こんな時期に猫の死を待つ紫陽花忌


(2021年7月23日金曜日)

第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ➂

澤田和弥は復活する    (「天晴」2号(夏号)2021年6月より転載) 筑紫磐井


 最新刊の『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 津久井紀代』(二〇二一年三月ふらんす堂刊)に次のような自句自解を見つけた。

 ゆりの木で逢ふ約束を修司の忌

 新宿御苑に大きなゆりの木がある。有馬先生、上井正司さんたちと吟行したときに出来た。ちょうど五月であった。若い時は誰もが一度は寺山修司に憧れる。三十五歳で命を絶った澤田和弥も修司に憧れ、多くの修司忌の俳句を残した。もがきながらついに修司に追いつくことが出来ず死という道を選んだのである。惜しい若者を失ってしまった。一周忌に澤田和弥論を発表した。

 これを読んで改めて澤田和弥は自死してしまったのだなと思い返した。


『革命前夜』

 澤田和弥は昭和五十五年生まれ、平成二十七年の五月に三十五歳で亡くなっている。

 早稲田大学俳句研究会を経て、平成十八年に「天為」に入会し、二十五年に「天為」新人賞も取っているが、澤田が俳壇で知られるようになったのは同年の七月に第一句集『革命前夜』を上梓してからだろうと思う。序文を書いた有馬朗人は、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」ると言っているが、こんなにも早く愛弟子がなくなるとは考えてもいなかったに違いない。公私ともに面倒を見ていただけに哀惜の思いは強い。「私は和弥君が寺山修司のような力強さや野性、そして徹底した前衛的な強い精神力を持って活躍してくれることを切に願っている」は果たされないままに終わったのである。

 翻って、『革命前夜』は若々しい澤田を遺憾なく表している。章構成は「青龍」「修司忌」「朱雀」「白虎」「玄武」となっているが、四季の象徴に修司忌を加えたことが澤田の思いをよく表している。寺山忌は四季そのものであるのだ。「修司忌」の章は句集として圧巻であろうが、思い入れが過ぎて現在の伝統俳句の世界では余り受け入れられなかった。


革命が死語となりゆく修司の忌

外つ国のガラスの目玉修司の忌

廃屋に王様の椅子修司の忌


 むしろ『革命前夜』は、澤田が亡くなった後で再評価が始まる。その最初のものは、冒頭で言及する津久井紀代が一周忌に発表した澤田和弥論「こころが折れた日――澤田和弥を悼む」(「天為」二十八年五月号)である。ここで津久井は、「『革命前夜』を書いた時、既に和弥は「こころが折れる日」を予感していた」「三十五年間という人生の挨拶を『革命前夜』の日にすでに行っている」と述べる。こうした一節を読むと、澤田がキリストだとすれば、津久井はイエス復活の証人であるマグダラのマリアのようだと思う。今にしてみれば生前に取り上げられた句よりは、こうして没後回想される句の方が『革命前夜』の代表句となる。


若葉風死もまた文学でありぬ

東京に見捨てられたる日のバナナ

蝉たちのこなごなといふ終はり方

秋めくやいつもきれいな霊柩車

外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

マフラーは明るく生きるために巻く


 津久井紀代は、「彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。」と述べている。その根拠に次のような句が挙げられている。


プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

或る人に嫌はれてゐる聖五月


 澤田自身にも次のような回想があるというからこれは間違っていない。

 

「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」
 

「(修司の)最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。


 寺山への畏敬は、「天為」と別に、平成二十七年一月に遠藤若狭男が創刊した「若狭」に参加していることにも現われている。遠藤は早稲田俳句研究会の指導を行い、澤田と同じように寺山を素材とした作品を膨大に発表している讃美者だ。澤田は、最晩年の僅かな期間であるが「若狭」に「俳句実験室 寺山修司」の連載を行っている。澤田のライフワークということが出来た。


『革命前夜』以後

 『革命前夜』が上梓されたのち交流の始まった澤田から、私に生前句稿が送られて来ている。『革命前夜』(二十五年刊)収録の後、角川俳句賞等に応募して落選した次のような句群である。『革命前夜』は二十二年までの作品を収録しているというから、その後の四年間のこれらの作品は未完の『革命前夜・その後』に収録されるべき作品であった。

 もちろん「天為」「若狭」に発表された句もあるが、澤田らしさを発揮するのは特別作品だからこれで十分であろう。


①「還る」五〇句(二十三年)

➁「草原の映写機」五〇句(二十五年)

③「ふらんど」五〇句(二十六年)

④第四回芝不器男俳句新人賞に無題の百句(二十六年)


 『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜなら新しい「これ」以後を澤田和弥がもう作ることはないからだ。「これ」及び新しい「これ」以外に澤田和弥はないのである。澤田の全てがここで語られる。

 これらの中で、自叙伝風な句がしばしば見えるようになる。これらの主語は、私(澤田)と読みたくなる。


亀出でて無能無能とわれに鳴く

春夕焼骨壺のごと眠りたし

春夕焼文藝上の死は早し

精神病んで杖つき歩く花ざかり

復職はしますが春の夢ですが

花満ちて故郷は呪ふべき処

女見る目なしさくらは咲けばよし

下萌や小野妹子はひきこもる


 こうした中で、かつて「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んでいた革命に寄せていた期待は潰えてゆく。


多喜二忌や革命の灯は遠き国

革命を捨てし祖国よ花菜雨


 そうした一方で、二十五~六年にかけて死の句が極端に多くなる。『革命前夜』の予告は、着実に実現してゆくのである。


梅が香よすでに故人となる未来

雪割や死にたき人がここにもゐる

春昼は春の昼なり嗚呼死にたし

生ききるはずもなきわたしが蟻の中

こほろぎ鳴け鳴け此岸はつまらなかつた

寒の夜の翼たたみて自死の人

生くる子が首吊る子へとなりし冬


 これらは本当の死の直前の句である。死の後はどのようになってゆくのであろうか。それを的確に語っている最後の句がある。死によって、澤田は自由になることができた。


毛布一枚わたしは自由である


(2021年8月13日金曜日)

第3編 澤田和弥論 筑紫磐井 ④

 澤田和弥の最後とはじまり(2021年6月25日金曜日)

                    筑紫磐井

 「狩」の同人遠藤若狭男が27年(2015年)1月に俳句月刊雑誌「若狭」を創刊している。遠藤は、若狭、つまり福井県の出身の人で、早稲田大学を出て学校の教師をしていたが、若くから詩や小説など多角的な活動をしていた。同じ早稲田の先輩である寺山修司の心酔者でもあった。

 ところでこの「若狭」に澤田和弥は創刊同人として参加しているのである。遠藤が、早稲田の先輩であり澤田が大学院在学中に所属した早大俳研の指導顧問であり、寺山への共感者ということが澤田参加の大きな動機となったのであろう。「若狭」へは、遠藤との個人的つながりだけで入会したのではないかと思う。従って入会の経緯はこの二人しか知らない。しかも、入会の年に澤田はなくなっているから、俳句の発表も僅かである。1~4月号と6~7月号であり、7月号で逝去が告知されている。

 特筆すべきは1~4月号まで澤田は「俳句実験室 寺山修司」(1頁)を連載していることである。むしろこの文章を執筆するために「若狭」に入会したと言ってもよいかも知れない。継続した澤田の文章としての最後のものと言うべきであった。やはり澤田の最後の思いは寺山にあったというべきであろう。

 この間の事情を知りたいと思ったが、何と言うべきであろう、遠藤若狭男自身は30年(2018年)12月に亡くなり、「若狭」も廃刊されてしまったから、伺う手がかりもない。ほとんど時期を一緒にして亡くなった師弟は寺山つながりだけで我々のもとに「若狭」という資料が残っているのだ。

 「俳句実験室 寺山修司」は寺山の一句鑑賞であるが、


豚と詩人おのれさみしき笑ひ初め 寺山修司(29年)

目つむりて雪崩聞きおり告白以後(30年)

十五歳抱かれて花粉吹き散らす(50年)

父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し(48年)


など僅かこの4句を鑑賞し、「俳句実験室 寺山修司 第四幕」は終了している。翌五月号では編集後記で遠藤は「好評を博している「俳句実験室 寺山修司」の著者である澤田和弥氏が体調を崩されてやむなく休載となりました。一日も早い回復を願っています。」と告知している。俳句も五月に欠詠し、六月に復詠している。文書を書く気力は蘇らなかったようである。7月に最後の俳句作品(七句)が載せられている。


冴返るほどに逢ひたくなりにけり  澤田和弥

菜の花のひかりは雨となりにけり

白梅を抱き締めている瞼かな


 「若狭」三月号では寺山の「十五歳抱かれて」の句を取り上げて鑑賞している。高校時代の作品として掲げられる『花粉航海』が実は四〇歳を過ぎてからの作品(つまり「新作」)を多く載せていることが巷間知られているが、それでも澤田はこの句を寺山の「未刊行」の句ではないかと推測する。それは十五歳という年齢が寺山の創作活動のスタートに当たるからだ。真実は寺山本人しか知らないが、そのように読み解く澤田の心理は分からなくはない。

 そしてこの鑑賞を読むと、澤田の「白梅」の句と構造が似ていることに気付く。澤田のこの最後の句を寺山に重ね合わせると、澤田の俳句人生のスタートとも見えてくるのだ。

 澤田の『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う。それはしかし寺山にも似てはいなくはない。革命よりは革命ごっこの方が一般大衆には分かり易いのだ。革命前の露西亜のプーシキンは、革命と革命ごっこを行きつ戻りつした。革命史『プガチョーフ反乱史』と革命期の恋愛小説『大尉の娘』を同時並行して執筆した。『プガチョーフ反乱史』(この書名はロシア皇帝ニコライ一世の命名になるという)は革命家にとっての教科書となった、しかし一般大衆に愛されたのは『大尉の娘』だった。

      *

 澤田から生前、句稿が送られてきている。『革命前夜』(2013年邑書林刊)収録の後、角川俳句賞に応募して落選した「還る」(2011年)「草原の映写機」(2013年)「ふらんど」(2014年)、第4回芝不器男俳句新人賞に応募した無題の100句である。『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」を我々は語ることが出来る。我々自身について、我々は語ることが出来ない。なぜなら我々が提示する、「これ」が全てではないからだ。しかし我々は今や安心して澤田和弥を語ることが出来る。「これ」以外に澤田和弥はないからだ。ようやく澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになっているのである。


『革命前夜』より(順不同)

冬夕焼燃え尽きぬまま消え去りぬ

言霊のわいわい騒ぐ賀状かな

マフラーは明るく生きるために巻く

生前のままの姿に蝿たかる

地より手のあまた生えたる大暑かな

黄落や千変万化して故郷

冬の夜の玉座のごとき女医の椅子

革命が死語となりゆく修司の忌

シスレーの点の一つも余寒かな

接吻しつつ春の雷聞きにけり

短夜のチェコの童話に斧ひとつ

幽霊とおぼしきものに麦茶出す

母も子も眠りの中の星祭

終戦を残暑の蝉が急かすなり

香水を変へて教師の休暇明

金秋や蝶の過ぎゆく膝頭

狐火は泉鏡花も吐きしとか

恋猫の声に負けざる声を出す

空缶に空きたる分の春愁

卒業や壁は画鋲の跡ばかり

伽羅蕗や豊胸手術でもするか

外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

椿拾ふ死を想ふこと多き夜は

若葉風死もまた文学でありぬ

半島に銃声響き冴返る

拘置所の壁高々と雪の果

薄氷や飛天降り立つ塔の上

鳥雲に盤整然とチェスの駒

船長の遺品は義眼修司の忌

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(54) ふけとしこ

   霜の夜

湯豆腐や門前町に落ち合うて

京も北時雨湿りの草を踏み

重さうな鞄が置かれ虎落笛

霜の夜を鷗外の頬こけゆくも

白足袋のすつと離れしだけのこと

       ・・・

 『虫こぶ入門』という本がある(薄葉 重著 八坂書房)。入門とあるが、かなり専門的。1995年発行で翌年に第2刷が出ている。いつ買ったものか憶えていないのだが、付箋を貼ったり鉛筆書きが残ったりしているから、一応読んだらしい。

 最近繙いたのはヒョンノミ(瓢の実)を調べたかったからだったが。

 虫瘤は虫癭(ちゅうえい)が正式名称。この頃では英語のゴール(goll)で呼ばれることの方が多いらしい。残念ながら私の身近にはそんな話をしてくれる人はいないのだが。

 虫瘤とは小さな虫(コバチ・タマバチ・アブラムシ・ゾウムシ等の仲間)が草木の葉や茎に卵を産み付け、その卵が孵り、育ってゆく過程で、植物組織が変化をきたして瘤状になった物の総称である。

 昔から草木の茎や葉に妙な物ができるのは知っていた。メカニズムが解る由もなかったが、茎が異常に膨れたり、色が変わったりしているのはよく見かけていた。

 丸くて愛らしい物や色の綺麗な物、赤黒く縮れて気味の悪い物まで様々である。子供の頃は「葉っぱの病気」とか「病気の葉っぱ」などと言っていたような気もする。

 俳句仲間で一番有名な虫瘤は先述の「ひょんの実」「ひょんの笛」ではないかと思う。秋の季語にもなっている。

 次いでフシ(五倍子)だろうか。五倍子はヌルデ(白膠木)の葉に生じる虫瘤で、秋に紅葉する時には同様に赤くなり、茶色になりやがて落ちるが、採り集めて乾燥させ輸出までしていたそうだ。これも秋の季語の筈だが、最近の歳時記には載っていないこともある。

山の日は五倍子の蓆に慌し 阿波野青畝

などは歳時記で覚えたのに……。

 載せていない歳時記があるということに、驚いたり、同情したりしたものだから、ちょっと丁寧に読んでみた。五倍子はタンニンを多く含み、昔の女性の鉄漿(おはぐろ)とか、インクや染料にも使われたという。そういえば時代劇で歯の黒い女性を見たことは何度もある。子供の頃は黒い歯で笑う顔が大写しなったりすると恐ろしかった。

 嫁入りが決まると知り合いや親戚にお歯黒を分けて貰うといった話があったり、お歯黒どぶと呼ばれる長屋が出てくる小説もあった。既婚女性はこれを塗ることになっていたというから、今なら問題になることだろう。江戸時代を扱ったドラマなどでも見かけることが無くなって久しい。

 食用にされる虫瘤といえば、一番有名なのはマコモダケ(真菰竹)だろう。真菰の茎にできる細長い物でデパートやスーパーの食品売り場に並ぶこともある。私も買って食べてみたことがあるが、それほど美味しいとも思えなかった。料理が下手だっただけかも知れないが。

 今見たいと思っているのはササウオ(笹魚)という虫瘤。名前の通り、笹類の枝にできる魚状の物で、江戸中期の文献に「水に落ちるとイワナ(岩魚)になる」と書かれているものがあるという。   

(2025・1)

2025年1月10日金曜日

第239号

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定住越境の人 大橋愛由等さんを偲ぶ  堺谷真人 》読む

現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7 筑紫磐井 》読む

澤田和弥句文集特集
はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む
第2編 美酒讃歌 ①麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ②続・麦酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ③焼酎讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ④熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑤続・熱燗讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑥冷酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑦新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑧続・新酒讃歌 》読む
第2編 美酒讃歌 ⑨地酒讃歌 》読む
第3編 澤田和弥論 津久井紀代 ①》読む ②》読む ③》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行
第四(11/1)木村オサム・中西夕紀

第五(12/13)山本敏倖・冨岡和秀・花尻万博・望月士郎・青木百舌鳥・加藤知子
第六(12/20)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・川崎果連・前北かおる
第七(12/27)中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな
第八(1/10)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子
第二(11/1)辻村麻乃・神谷波・瀬戸優理子
第三(11/15)岸本尚毅・坂間恒子・ふけとしこ・仲寒蟬

第四(12/13)豊里友行・木村オサム・中西夕紀
第五(12/20)山本敏倖・青木百舌鳥・冨岡和秀・花尻万博
第六(12/27)眞矢ひろみ・渡邉美保・村山恭子・松下カロ
第七(1/10)川崎果連・前北かおる・中嶋憲武・早瀬恵子・小林かんな

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

定住越境の人 大橋愛由等さんを偲ぶ  堺谷真人

 2023年12月21日、「豈」同人の大橋愛由等(あゆひと)さんが神戸の自宅で急逝された。享年68。

 大橋さんは、先考・彦左衛門氏が創業された神戸・三宮の老舗スペイン料理店「カルメン」の二代目オーナー。店内ではいつも白シャツに黒のボウタイ。一見、律儀でダンディーな紳士なのだが、何故か口髭の下から発せられる声は上擦り、往々引きつった笑いを含んでいた。そのためであろうか、話題が生真面目な文学論だったりするのにもかかわらず、大橋さんにはどこか無国籍キャバレーの支配人然たる胡散臭さが漂っていたのである。

 新聞記者を経て出版社に勤務し、後には自ら図書出版まろうど社を立ち上げて、あまたの詩集や句集、評論集などを世に送った。スペインつながりでフラメンコに関わり、ロルカ詩祭を主催するかと思えば、コミュニティーFMのDJを務め、やがて奄美の歴史と風土に魅せられてその研究にものめりこんだ。詩誌「Mélange」に所属し、亡くなる直前まで、毎月、「カルメン」で詩の読書会や発表会を開いていた。齢、古稀になんなんとしてその活動の過剰と熱量とは刮目に値した。

 一言で評すれば、大橋さんは「定住越境の人」であった。神戸という土地に根を下ろし定住しながら、絶えずジャンルの垣根を飛び越えていった。但し、その所作は1980年代のニュー・アカデミズムが称揚した「スキゾ・キッズ」のように身軽ではない。増える一方の荷物を持ったまま力任せに垣根を飛び越え続けるのである。その意味では、まことに奇妙なことだが、スキゾ型とパラノ型のキメラといってもよい稀有な越境者であった。

 俳句との出会いは同志社大学在学中。友人を介して、「京大俳句」の人たちと知り合ったが、実作には至らなかった。その後、編集者として担当した俳人諸氏の作品に刺激を受け、30歳頃から俳句を作り始める。大阪・梅田で句会を開き、俳誌「ト・ヘン」を主宰・発行。2000年3月には句集『群赤(ぐんしゃく)の街』を上梓している。

  大地震よタナトス向こうは神なるか

  黒夜なり神戸は失せり冬の震

  イカヅチよ群赤のまち小雪舞う

  難民の妻の手握る毛布なか

  廃ビルは鳥礁となり燕来る

 掲句は1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災を詠んだもの。『群赤の街』の中で震災関連の作品は一部にしか過ぎないが、句集発行の強い内的動機を与えたのは震災の経験であったと大橋さん自身が「あとがき―俳句という仮構」で述懐している。

 ところで、大橋さんの住んでいた神戸市東灘区本山中町という街区は被害が甚大であった。特に自宅周辺の破壊は凄まじく、家屋倒壊率90%以上、死者も出たという。それだけに、震災に対する思いの深さはひとしおであった。そういえば、東日本大震災が発生した直後、大橋さんがこんなことを言っていた。

「地震発生は14時46分。この数字に神戸の人はびくっと反応するんですよ。ああ、阪神・淡路のときも(5時)46分だったなと」

 2025年1月、神戸は震災から30年を迎える。もし大橋さんが今もお元気であったならば、必ずや災害を語り、復興を語り、それらと文学・詩歌との関係を語り、更には東北や能登など被災地の人たちとも手を携えて、出版や対談、シンポジウム等の企画に奔走していたのではないだろうか。それらはすべていかにも「定住越境の人」にふさわしい仕事である。だが、その仕事を担うべき大橋さんはもはやいない。

 大橋さんの訃が伝わってしばらくして、偲ぶ会のようなことをやりたいという声が各方面から聞こえて来た。しかし、度重なるジャンル越境と深いコミットメントを事として来た大橋さんの人脈はあまりに広くかつ錯綜しており、大同団結的な会を催すことは到底困難であった。

 そこで、一周忌を前にした2024年11月、ひとまず「豈」の関西在住同人を中心にしてささやかな句会を開催し、もって大橋さんの人柄と在りし日の交流を偲ぶこととしたのである。兼題は大橋さんの名前にちなみ「愛」「由」「等」。各自、兼題一句とその他三句を出した。

  寒空を透きて流れる白きイカ    北村虻曳

  眠られぬ夜の島唄に連れだされ   堀本吟

  紙飛行機の後部座席で立ち上がる  小池正博

  離脱する此処から彼方へ不可視の路 冨岡和秀

  雑踏を逆のぼりたがる鮎がいた   野口裕

  表現の自由りんごをむく自由    岡村知昭

  奄美へとつゞく二等兵の笑顔    堺谷真人

 「カルメン」は大橋さんの姪御さんが跡を継いで三代目オーナーとなり、改装工事を経て夏に再オープンした。店内にはバーカウンターやワインセラーが設置され、お洒落なレストランに衣替えを果している。筆者と荊妻はここのパエリアやガスパッチョがことのほか好きで、何度か足を運んでいるが、大橋さん時代の料理人が引き続き厨房をあずかってくれているとのことで、往時と変わらぬ味を愉しめるのは嬉しいことである。

 しかし、大橋さんが盤踞した巣穴、文学の魔窟のような妖しい雰囲気を醸し出していた往時の「カルメン」の面影をそこに見ることは難しい。それにつけても大橋さんの口癖が懐かしく想い出される。

「堺谷さん、どうですか。そろそろ、句集出しませんか。お安くしときますよ」

 大橋さん。神戸は今日も元気です。

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり21 『池田澄子句集』  豊里友行

 『池田澄子句集』(1995年刊、現代俳句文庫―29・ふらんす堂)を再読する。

帯文を先ずは引いておく。


産声の途方に暮れていたるなり


〇解説より

池田さんの言葉は池田さんの実際の生活から生まれている。フィクションな句もあるだろうが、それもまた生活の濃厚な肉感によって支えられている。(略)正直、デリケートに、またユーモアを秘めて時代と向き合っていると思う。(谷川俊太郎)


気負いなく丁寧に今を俳句に詠う。

その率直ぶりに私たちは、共感を覚えた。

私は、まだ御会いしたことがないです。ですが、facebook友だちしていただいている俳人の池田澄子さん。


「池田澄子先生。」

「先生でなくサン付けで。」


とても口語俳句の人気作家とは思えない気さくさに俳句らしさよりも池田澄子らしさ全快な感じが魅力的だ。

とくにfacebookにアップされる写真と言葉に丁寧に生きる姿勢があふれていて魅了される。

珊瑚礁のひと欠片を丁寧に写した池田さんの写真がアップされていて魅了された。

沖縄の人の多くは、沖縄戦で骨さえ帰れない戦没者が沢山いるのだが、池田澄子さん自身も父を戦争で亡くしていたと「俳句四季」の連載を読んで知った。

この俳人の感性は、写真にも瑞々しく投影されていたのだ。

私もその池田澄子俳句への魂の共振という同時代性から自分自身の俳句らしさに影響を与えられ、自分なりに創意工夫をしながら私自身の俳句へと乗り越えて行きたい。

何故に池田澄子俳句は、みんなを魅了するのだろうか。

池田澄子俳句に問うてみた。


ピーマン切って中を明るくしてあげた


まるでエドワード・ウェストンのもっとも有名な写真 「Pepper No.30」のピーマンを連想してしまう。

エドワード・ウェストンの自然物の造形美を追求した写真シリーズの再現性は、「Pepper No.30」のピーマンがピーマンの存在を越えていくほど写真にリアリティーを獲得させている。

池田澄子俳句のピーマンは、そのピーマンの存在感にピーマンの空洞にして光を与える所作を俳句に盛り付けている。

池田澄子俳句の魅力は、今を切り取る観察眼ではないか。

若い世代の俳人たちにも絶大な影響を与えてきた。

その観察眼に裏打ちされた五感をフル稼働して丁寧に池田澄子俳句の人生が紡ぎ出されている。


定位置に夫と茶筒と守宮かな

これ以上待つと昼顔になってしまう

空腹を彼に知らるな芹の花

冬の虹あなたを好きなひとが好き


あなたを見つめる池田澄子俳句の恋の果実も絶品だ。

定位置に夫と茶筒と守宮が居ることの瞬間性も俳句の中に永遠に生き続けている。

待たされる女は池田澄子さんなのだろうか。「昼顔になってしまう」の心情の吐露も恋の行方の連作としても読者を興味深々にさせてしまう。

空腹の腹の蟲が泣き出すのを彼に知られまいとする女心の芹の花も可憐に風に揺れている。

凛と立つ冬の虹は、あなた。「あなたの好きなひとが好き」とストレートに女性の本音を云えるのも池田澄子俳句の恋の果実の斬新さで強烈なスパイスになっている。


青い薔薇あげましょ絶望はご自由に

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

十五夜の耳かきがあァ見つからぬ

行く先はどこだってよくさくらさくら

大丈夫と言ってしまいし霙かな


池田澄子俳句を会話形式にしてみる。

「青い薔薇をあげましょう」「絶望はご自由に」。

なんて映画のワンシーンが永遠性を持って俳句化されてしまう。

口語俳句の魅力が存分に味わえるのも池田澄子俳句の醍醐味。

ジャンケンで負けたから「螢に生まれたの」なんて言ってしまう。

そこには、生き残った者の人生の折々で一瞬性のジャンケンの勝敗に囚われていく。

そんなに軽く言っちゃっていいのかな。

たぶん池田澄子俳句は、何度も繰り返し人生に課せられた戦争の時代を自問しながら生きてきたのだろう。

そのことが俳句にも影を潜めているようだ。

十五夜の耳かきが見つからないと「あァ」と歓喜の溜息を零す。

「行く先は何処だってよく」なんて言わせてしまう、あなたは、桜~さくら~に紛れぬように~見つめていたのかもよ。

「大丈夫っ?」って霙(みぞれ)に問いかけてしまいたくなる池田澄子さんのモノに心を通わせる俳句の柔らかさが池田澄子俳句にはある。

率直に軽快に豪快に人生の生活空間を俳句に丁寧に盛り込む。

池田澄子調ともいうべき瑞々しい感性は、魅力的である。

俳句作法は、自分らしさの匙加減で日常の口語俳句を百にも千にも多様な配合の池田澄子らしさで俳句の読み手を魅了し続けている。

俳句観賞をしたいのだが、もうそれ事態が野暮な気さえする。

さぁ~!らっしゃい!らっしゃい!池田澄子の俳句の果実は、いかが。この感じ。楽しんでね。

大切な人生をあなたも自分らしい俳句で書き綴ってみませんか。


最後に共鳴句をいただきます。

卯の花腐しハンガーに兄を掛けておく

主婦の夏指が氷にくっついて

脱ぎたてのストッキングは浮こうとする

紫陽花やいつもここらで息きれる

お祭りの赤子まるごと手渡さる

腐(いた)みつつ桃のかたりをしていたり

煮凝に御座(おわ)さぬ母を封じたり

着ると暑く脱ぐと寒くてつくしんぼ

芒原握り拳の内あたたか

かまきりの孵り孵りて居なくなりぬ

いつしか人に生まれていたわ アナタも?

砂糖醤油しみて鰈はさびしかろ

揺籠ごと長女を持ってきて見せる

この国で生まれて産んで苔もみじ

うつぶせに覚めている我が翅なき羽化

太陽は古くて立派鳥の恋

英国Haiku便り [in Japan] (51)  小野裕三


 ロンドンの美術展に寄せたエッセイ

 ロンドンで開催のhaikuをテーマとした美術展に、俳句作品で参加したことは前回にも触れた。その美術展にあたってのエッセイを英国のオンライン雑誌に寄稿したので、和文の要約を採録する。

          #

 英語俳句の世界では「写真を見てそれに呼応する俳句を作ってください」と言われることがよくある。しかし、日本の俳句では、提示された言葉から俳句を作る季題・兼題というやり方が一般的だ。

 この展覧会では、まず「俳句の精神」をテーマに現代アート作家たちが作品を作り、その作品に呼応して詩人・俳人が俳句を作る、という制作過程が採られ、僕には新鮮かつ難しい作業となった。俳句は何かの具体性を通常は出発点とする。だから、季題・兼題という具体的な言葉を使った方法が機能する。ただし、その具体性の中に結果として微かな抽象性をまとわせる。それが俳句の美学だ。

 今回の作業はそれとは違った。現代アートの作品の多くは抽象的だ。その作品に向き合って俳句を作るには、まず作品の持つ抽象性を的確に掴み、次にその抽象性を俳句という具体性に落とし込む順番となる。つまり僕にとっては、具体性と抽象性の順序が通常とは逆になった。なので、非常に作りにくかった半面、結果としてできた俳句は抽象性の純度が非常に高いものになったと感じる。

 本展ではそのような俳句とアートとの出会いを愉しむことができたが、アートと俳句の関係は複雑な側面を持つ。特に、西洋のアートとの関係はそうだ。

 俳句史上に有名な「第二芸術論」は、西洋の崇高で壮大な芸術に比べれば、俳句は芸術と呼ぶに値しないとの主張であった。あるいは俳句史上の重要な契機となった「写生」「前衛俳句」といった概念も西洋美術由来でもたらされた。

 その一方で興味深いのは、ときに西洋の偉大な芸術家が俳句への関心を示すことだ。米国の音楽家ジョン・ケージには「haiku」と題された楽曲やアート作品があり、著作の中でこんな言及もする。

「山を心地よく照らす火は、遠くは照らさない。同様に、美しい形式は短い瞬間を照らすだけで充分だ。(中略)そう考えれば、ブライスが著書『俳句』で書いた〈芸術家の最高の責任は美を隠すことだ〉という言葉が納得できるだろう」

 俳句とアートとの関係は複雑に錯綜する。ひとつ言えるのは、美が成立するのが具体性と抽象性との関係やバランスの中だとすれば、その三つの相関は西洋美術と俳句では何かが違う。それゆえ、崇高な西洋美術に比べて俳句は価値がないと非難した日本の学者もいる一方で、西洋美術にはない美の考え方を俳句に見出して着目した西洋の芸術家もいた。それは、同じコインの両面なのだと思う。

※本美術展「SPLASH ! The Haiku Show」はロンドンのWhite Conduit Projects ギャラリーにて2023年10〜11月に開催された。

原文掲載のウェブサイト https://www.soanywaymagazine.org/issue-sixteen

(『海原』2024年1-2月号より転載)

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 7  筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


6.初期身辺生活句(3)

 3カ月間の慟哭・悲傷の作品の後、登四郎の新しい作品が始まる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

卒業生言なくをりて息ゆたか(24・4⑤)


 初期身辺生活句(1)で述べた作品が復活してくるのである。以前のこれと類似する句を掲げてみよう。


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家


 対象を的確に描こうとするのではなく、自分の内心を見詰める俳句であるのだ。初期身辺生活句(1)と(3)こそが登四郎の俳句にとって貴重なものとなる。『咀嚼音』の大半を占める教師俳句、『合掌部落』の大半を占める社会性俳句ではなく、少し悲しみを帯びた具象性を欠いた心象風景句である。

        *       *

 しかしこのような俳句がなぜ生まれてきたのかを考える必要がある。それは登四郎の内面的な成長なのだろうか。性急な結論を出さず、十分に吟味する必要がある。それは、当時の馬酔木の作品を見ることによって分かってくると思うからだ。当時の若い作家の作品には、このような登四郎とよく似た雰囲気の作品が多く見られるからである。


日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも   竹中九十九樹 昭和23年

風荒れて春めくといふなにもなし  秋野弘    

春愁やむしろちまたの人むれに   岡野由次   

咳堪へて逢はねばならぬ人のまへ  大島民郎   

あてどなく急げる蝶に似たらずや  藤田湘子   昭和24年

諭されし身を片蔭に入れいそぐ   馬場移公子  

待つありて継ぐ息勁し麦は穂に   野川秋汀 

  

 (念のため言っておかなければならないのは、こうした作品と対照的な句も同時に詠まれていることである。個人個人の作風はそう単純ではない。それは戦前からの馬酔木の系譜を継ぐ、外光的な美しい句やリズミカルな句である。藤田湘子や林翔などはそうした傾向の句の方が多かったようである。


忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡    昭和22年

雪白き奥嶺があげし二日月      藤田湘子 

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎 昭和23年

さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光 

花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔   

茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子 

虹の輪を噴煙荒れてつらぬける    沢田緑生 

夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子 

逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎

さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔   

うぐひすや坂また坂に息みだれ    馬場移公子 昭和24年)


 話を心象的な俳句に戻して、こうした中で、馬酔木新人会をリードした一人の作家を見る事が出来る。それは秋野弘である。既に忘れ去られた作家であるが、当時、湘子や登四郎以上に独特の作風を形成し、新人会の中心となって、周囲の作家に影響を与えていたのである。


片蔭をいでてひとりの影生まる    昭和22年

光りつつ冬の笹原起伏あり      昭和23年

ひさびさに来れば銀座の時雨る日 

風荒れて春めくといふなにもなし 

蝶の息づきわれの息づき麦うるる 

青芝にわが子を愛すはばからず 

七月のかなかななけり雑司ヶ谷 

椎にほひ病むともなくてうすき胸   昭和24年

見えねども片蔭をゆくわれの翳 

夏ふかししづかな家を出でぬ日は

雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ  昭和25年


 秋野は早々に俳句の世界から消えてしまった。ところで、興味深いことに、一種の熱病のように流行したこうした作風の伝搬は、若手作家に止まらなかった。中堅作家の中にもこうした心象風景が広がっていたのである。


蠅ひとつをりてあたりに誰もゐず  相馬遷子 昭和22年

手を洗ひをえて思ひぬ春めくと        昭和23年

人なかにうしろより来るひとの咳       

うぐひすの去りて漸くこころ急き       


 相馬遷子は戦前から活躍し、戦後も馬酔木を支える柱となった作家であったが、こうした作家にも影響を与えている。いや、主宰者である秋櫻子もこうした心象風景は色濃く染まった作品を詠むようになった。これが終戦直後の馬酔木俳句の一つの風景であったのである。


鰯雲こころの末の波消えて  秋櫻子 昭和25年 

萩の風何か急かるる何ならむ     



資料 能村登四郎初期作品データ

(制作年月の次の〇数字は馬酔木集の席次。*は下位作品)


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

かがみゐし人のしごとの野火となる

潮くみてあす初漁の船きよむ

ななくさの蓬のみ萌え葛飾野


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)

雪といふほどもなきもの松過ぎに

雪天の西うす青し雪はれむ

佗助やおどろきもなく明けくるゝ


雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)

匆々ときさらぎゆくや風の中

蓋ものに春寒の香のさくら餅

松の間に初花となり咲きにけり


弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)

人いゆく柴山かげや春まつり

さく花に忙しききのふ無為のけふ

さくら鯛秤りさだまるまでのいろ


うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

摘むものにことば欠かねど蕗生ひし

畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ


部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家

梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき

藺の花の水にも空のくもりあり


老残のことつたはらず業平忌(23・8③)

黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ

白麻の着くづれてゐて人したし

白靴のしろさをたもち得てもどる


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ


長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり


白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり


露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)

鶏頭やきはまるものに世の爛れ

朝寒や一事が俄破と起きさする

林翔に

貧しさも倖も秋の灯も似たる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

わが胸のいつふくらむや寒雀

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる


霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

またけふの暮色に染まる風邪の床

かけ上る眼に冬樫の枝岐る

  殿村兎糸子氏を新人会に迎えて

朱を刷きて寒最中なる返り花


凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

遠凧となりてあやふき影すわる

水洟を感じてよりの言弱る

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる


老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)

新雪の今日を画して為す事あり

卒業生言なくをりて息ゆたか

風邪熱を押して言葉にかざりなき


●戦前作品

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)

枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)

盆のものなべてはしろくただよへり

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


●戦後作品(受験子・教師俳句)

受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)

しづかにも受験待つ子の咀嚼音

あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)

氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)

長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)

教師やめしそのあと知らず芙蓉の実


澤田和弥句文集特集(3-1➀)第3編 澤田和弥論 1 津久井紀代の部

 ➀(澤田和弥一周忌に寄せて〉こころが折れた日 澤川和弥を悼む 津久井紀代[天為28年5月号]


 澤田和弥のこころが折れた日は革命前夜だったのか。

 改めて第一句集『革命前夜』を読む。

 この『革命前夜』を書いた時、すでに和弥は「こころが折れる日」を予感していた。

 理由はいくつも掲げることが出来る。        

 句集名『革命前夜』の命の文字だけ大きく傾いて書かれている。著者名澤田和弥の文字の上にはなぜ血の跡が飛び散っているのか、疑問が残る。

 見開きから静かに目次に眼を移す。

 青竜、朱雀、白虎、玄武、とある。これは天の四方を司る四神である。つまり天の隅々の神様への挨拶と取れる。

 さらに句集あとがきに眼を移すと、そこには「ありがとう」「ありがとう」の文字が多いことが気になる。

 知人友人には「僕の人生は君たちのおかげで色彩を得ることができたよ」と。「こんな弱い僕をいつも、どんなときでも、あたたかく見守ってくれる両親、兄夫婦に心から、最大級の御礼を申し上げます。本当にありがとう。あなた方がいなければ、私はここまで生きてこられなかった。ありがとう。本当にありがとう。」と締めくくる。

 三十五年間という人生の挨拶を『革命前夜』の日にすでに行っていると取っても不思議はない。

 なぜ革命前夜に心が折れたのか。彼の言い知れぬ「やさしさ」ゆえであった。

 三十五年に凝縮された澤田和弥の俳句に傾ける情熱を紐解く。


 『革命前夜』の最初と最後の句を見る。


  故郷の桜の香なり母の文

  ストーブ消し母の一日終はりけり


である。

 これは三十五年問常に母の匂いを感じていたのである。言い換えれば母は常に和弥とともにいたのである。ストーブという日常をもってくることにより和弥もまた、母と共にあったのである。

 更に見ていくと晴よりも褻のものに目を留めているのである。


  壊れてゐたる少年の風車

  空缶に空きたる分の春愁

  このなかにちりめんじやこの孤児がをり

  風船を割る次を割る次を割る           

  蛇穴を出で馬鹿馬鹿しくなりけり           

  箸割つて箸の間を春の風

  卒業や壁は画鋲の跡ばかり


 「青竜」の項より挙げた。

 ここに見られる「虚無感」は「あきらめ」とも取れる。少年の「風車」は和弥にとって、「壊れてゐた」のだ。「空缶」と「春愁」とのあいだに生じる虚しさにはまだ救われる余地はあった。

 たくさんのちりめんじやこの中の一つは、世の中から取り残されたと感じる「われ」ととるべきものであろうか。

 なぜ風船を割らなければならなかったのか。その答えが「割る」を三つかさねたところにある。そんな自分が馬鹿川鹿しくなった時の虚無感は、箸を割った時の間から更に感じ取ることが出来る。晴れやかであるはずの「卒業」は硬質な「画鋲の跡」ばかりだったのか。 「革命」としての「詩」としてはあまりにもさみしい。                  

                             

  咲かぬといふ手もあつただらうに遅桜 

  春愁のメールに百度打つわが名

  陽春や路傍の石が全て笑ふ

  椿拾ふ死を想ふこと多き夜は

  おばあが来たり陽炎より来たり


 和弥に何かあったのか、などと詮索することは無意味だ。

 ここに経験したであろう「挫折感」は、さらに和弥の「革命」へとしての「詩」を深めたのか疑問が残る。和弥にとって「おばあ」は母親にはない「ともしび」であったのだ。シルエットが確としない「陽炎」の中の「おばあ」は和弥に取って最後の救いであった。


  革命が死語となりゆく修司の忌

  海色のインクで記す修司の忌

  修司忌や鉛筆書きのラブレター

  船長の遺品は義眼修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  折りたたむ白きパレット修司の忌

  修司忌へ修司の声を聞きにゆく


 「修司忌」より挙げた。

 『革命前夜』がここから始まったとすると「革命」は青春に満ちていたはず。「海色のインク」「鉛筆書きのラブレター」「王様の椅子」「白きパレット」、ここから青春の革命は始まるはずであった。しかし幾度の挫折が和弥のあまりの「やさしさ」ゆえにこころが「折れて」しまったのだ。


  若葉風死もまた文学でありぬ

  或る人に嫌はれてゐる聖五月

  とびおりてしまひたき夜のソーダ水

  東京に見捨てられたる日のバナナ

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  蟬たちのこなごなといふ終はり方


 「朱雀」の項より挙げた。

 ここにきて和弥のこころはすでに折れている。「死もまた文学」と突き放す。「或る人に嫌はれてゐる」という感覚は、すでに和弥のこころを離れて独り歩きを勝手にしている。

 「とびおりてしまひた」いという叫び、和弥を救えなかったのか。すでに「見捨てられた」と言い切る。傾倒した太宰を「ぴょんぴょんとホッピング」と書いた。ここにはすでに心が折れきっている。「嫌ひ」をこれほどはげしく重ねたことはすでに世の中をあきらめていると取れる。だから蟬の死を「こなごなといふ終はり方」と書いた。この時点で救える余地はなかったのかと考えるのは当然であろう。


  秋めくやいつもきれいな霊柩車


 「白虎」より挙げた。

 ここではすでに「霊柩車」を美化している。恐ろしいと思う。


  手袋に手の入りしまま落ちてゐる

  冬めくや母がきちんと老いてゆく

  外套よ何も言はずに逝くんじやねえ

  マフラーは明るく生きるために巻く


 「玄武」の項より挙げた。

 ここでは「母がきちんと老いて」いることを確かめている。

 「外套よ何も言はずに逝くんじやねえ」は自分をすでに他者として客観視している。

 和弥は「真の革命とは何か」を突き詰めた最後に、「死」という結論を自らに出した。一本のマフラーだけが彼の首を離れぽつねんと取り残された。


『革命前夜』より 澤田和弥自選十句


  薄氷や飛天降り立つ塔の上

  佐保姫は二件隣の眼鏡の子

  革命が死語となりゆく修司の忌

  廃屋に王様の椅子修司の忌

  太宰忌やぴょんぴょんとホッピング

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ

  秋めくやいつもきれいな霊柩車

  蜘蛛の囲に蜘蛛の屍水の秋

  寒晴や人体模型男前

  ストーブ消し母の一日終はりけり




澤田和弥句文集特集(3-1➁)第3編 澤田和弥論 1 津久井紀代の部

 ➁澤田和弥は復活した  津久井紀代


 一年前の『天晴』夏号で澤田和弥追悼特集を組んだところ大きな反響があった。これは五月修司忌に合わせたものである。修司の忌は即ち澤田和弥の忌日でもあった。『豈』代表筑紫磐井に稿を依頼したところ「澤田和弥は復活する」と題して澤田論を展開してくれた。それ以前から澤田和弥のただ一つの句集である『革命前夜』を評価していたことを知っていたからである。『天晴』夏号の発刊が六月十日。そのあと筑紫は「俳壇」六月号、「俳句四季」六月号とつぎつぎと澤田に触れ、この一年さまざまなところで澤田論を展開してきた。また自らのブログに「澤田和弥論集成」として、十三回にわたって澤田和弥論を展開した。直近では二〇二〇年一月十四日「連載 澤田和弥」(第六回―七)において『若狭』に連載された「俳句実験室 寺山修司」に触れ、「澤田の最後の思い出は寺山にあった」という論を展開。澤田の連載は四回で終わったこと、体調を崩し、文章を書く気力は蘇らなかったようだ、と結論づけている。『若狭』に掲載された最後の作品として、


 冴返るほどに逢ひたくなりにけり

 菜の花のひかりは雨となりにけり

 白梅を抱え諦めている瞼かな


があげられている。この作の数か月あと澤田は自決した。ここには人間としての自分を放棄し、諦めだけが記されている。

 特記すべきは革命前夜のあとがきである。「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」と言った言葉をもとに筑紫はつぎのように分析している。

 「これ」以後の澤田和弥 ― 新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜならば新しい「これ」以後もう作品を作ることがないからだ、と結論づける。つまり澤田和弥を伝説として語ることが出来るようになったのである。

 筑紫が『天晴』の紙面で、「澤田和弥は復活する」と宣言して一年。筑紫磐井は見事に伝説の人として澤田和弥を復活させたのである。

 澤田和弥が俳壇で知られるようになったのは第一句集『革命前夜』を上梓してからだ。師である有馬朗人は「新風を引きおこす」という言葉を使って期待は大であったがそれは見事に裏切られた。

 私は筑紫が「連載澤田和弥論集成」のなかでおもしろいことを言っていることに注目した。『革命前夜』は決して全共闘世代の革命とは違うようだ。どこか「革命ごっこ」が漂う、と言っていることだ。全く同感なのだ。

 澤田は中学生の頃、自宅のテレビから流れる寺山修司特集に大きく衝撃を受けた。修司の「とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩」に衝撃を受けたのである。澤田は「中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない」と述べている。澤田は「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んだ。澤田は修司に憧れ修司にならんと必死でもがいたが革命という言葉は澤田にとって死語になったのである。

 先に述べた筑紫の言葉に戻ろう。筑紫の言う「革命ごっこ」という言葉が身に沁みるのである。なぜならば澤田は「雪割や死にたき人がここにもゐる」と述べ、「春昼は春の昼なり嗚呼死にたし」といい、「生きるはずもなきわたしが蟻の中」「こほろぎ鳴け此岸はつまらなたった」と述べ、自らを「生くる子が首吊る子へとなりし冬」と記している。私は筑紫に「革命ごっこ」と言わしめたのは澤田の生き方が「甘え」に起因しているからだと考える。澤田は文学においても「死」という言葉は散見するが「生きる」という言葉は見当たらない。澤田にはいじめられても挫折しても常に帰る場所があったということでないだろうか澤田自身平成三年九月号『天為』において、家は良い意味でも悪い意味でも守られ場所であった」と言い、家の外は戦場あった」と述べている。澤田の死はいじめられっ子だったからではない、生きることへの「甘え」が澤田を死に至らしめた要因であると結論付けたい。


澤田和弥句文集特集(3-1➂)第3編 澤田和弥論 1津久井紀代の部

 ➂澤田和弥のこと         津久井紀代


 この度、『研究会の進め方』が発端となり、このまますでに忘れられていた和弥に光を当てていただいた。

 私は澤田との接点はなく、2-3度会う機会があったが、印象はうすく、確としない姿がぼんやりとあるのみである。

 よって、私は『天為』の中の澤田の文学に触れることが唯一の接点であった。

 しかし、澤田の句は何か気になる、何かを常に訴えているようであった。通常では「自分」は一句のうらがわにあるのが常であると思っていたが、澤田はその常識を破ったのである。「自分」をつねに文学として吐き続けたのが澤田和弥ではなかったのか。次の句を見れば明らかだ。


春愁や溢るるものはみな崩れ

魂漏らさぬように口閉づ花疲れ

生きてゐることに怯えて立夏かな

生も死もどつちょつかずの夏に入る


 『天為』平成24年作品コンクールの作品の中から挙げた。

 生きていることに怯えている様子が窺える。

 私は作品としての澤田がずーと気になっていたが、『天為』の中から澤田の作品に触れる人は現れなかった。

 このままで終わらせたくないと思い、一周忌の五月に(彼が自殺した日)に「こころが折れた日」と題して『革命前夜』の論を展開し、『天為』誌上に発表した。また、例会で「修司の忌即ち澤田和弥の忌」を発表した時、初めて有馬先生が「いい文章を書いてくれてありがとう。惜しい人を亡くした」とみんなの前で話されたのが唯一のすくいであった。


 生きていることに怯え、どっちつかずの生と死の間でもがき続けたのか、あらためて検証してみた。

 彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。和弥は次のように記している。

 「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」

 彼は文学として心のうちを吐き出さなければ生きていけなかった。必死にもがいた。筑紫氏の言うところの「「新撰21」の影響をうけつつ独自の道を模索しつづけたようである」の発言には少し疑問を禁じえないが、「様々な媒体に挑戦した」ことは事実で、すべてのことが中途半端に終わっていることが、「死」への道を加速したのであろう。筑紫氏の指摘の「その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ」には同感する。

 澤田の寺山への傾倒が見えて来たので記しておく。

 筑紫氏の「澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したがしかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられない、・・寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない」という発言に答えたものである。

 澤田は『天為』のコンクール随想の中に次のように書いている。

 「最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。

 とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩

 私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。

 両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっこ。寺山に救いを求めたが、「彼に憧れながら、私は彼になれない」と自ら結論を出している。

 生と死の隣り合わせの人生の中に寺山に一条のひかりをよすがに、文学の中に自らを吐き出すことに拠って、和弥はかろうじて35歳の命を全うした、といえる。