ある賽のひと振りの幸運によってご縁を頂戴し、加藤知子氏よりご高著『情死一擲』をご恵贈いただいた。若輩の自分がこの著作を読み切れているなどとは到底思わないが、エロスとタナトスの裏に物質的な恐怖を見え隠れさせる作品群のなかから、いくつか句をピックアップしてその恐るべき引力について紹介できればと思う。
本書のなかでは幻視やシュルレアリスムに属するような句が多く出てくる。たとえば以下のような句。
ニッポンが股間にあるも昼寝覚
太腿に金の雨降る野のあそび
春の馬超えて女に脚六本
水銀の行方まるまるみどりの夜
無防備にまなこを写す夕焼かな
火柱を舐め合う夏野漆黒の
特に〈火柱〉の句の倒置は妙技と言わざるをえない。倒置された〈漆黒の〉は単純に考えれば〈夏野〉にかかる語だろう。であればこの句を「火柱を舐め合う漆黒の夏野」としてもよかったはずだ。しかしこう並べ替えてみると掲句がもっていた妙味は無くなっている。この句の面白さは〈火柱を舐め合う夏野〉と倒置された〈漆黒の〉にある。
〈舐め合う〉と言っているのだから、少なくとも〈火柱〉の立つ〈夏野〉が複数あり、それらが絡み合っているというのがこの句の景だ。〈夏野〉と書かれると、広大な一つの野が想起されるが、〈舐め合う〉によってその唯一性は突き崩され広大な空間がもう一つ(以上)産まれてくる。一つの〈夏野〉であれば私たちはどこかに終わりがあるということを想像でき、その無限らしさを楽しむこともできよう。しかしそれが唯一ではないとすれば空間的な広がりが単純に倍、あるいはそれ以上になってしまう。立ち昇る〈火柱〉からくる生物の死滅させられているような印象も相まって、宇宙のなかにたった一人のような永遠の孤独、そんなものが想起される。
そして倒置された〈漆黒の〉が与えてくる終わりのない恐怖。〈夏野〉という広大な空間がさらに広大さをもつものであったと明かされた後に、さらにその先の茫漠たる闇を示すかのような〈漆黒の〉の投げ出し方は、宇宙的な恐怖を惹起するにはもっとも適した形だろう。
このように日常世界とは離れた、しかしその裏にベットリと張り付いた「黒いもの」が見えてくると、次の句にも異常ななにかを見ようとしてしまう。
葡萄樹を囲む群青かつ完熟
端的に〈群青〉とは空のことだろう。「葡萄の木を下から見上げ、そのなかに売れた果実を見出す」というのがまず読み取ることのできる景だ。しかし、先ほどの倒置と同様〈かつ〉がこの句にただならぬ読解を可能としている。
はたしてこの〈完熟〉は果実のことを指しているのだろうか。そもそもこの句には果実など一切出てこない。それでも〈完熟〉を果実のことだと考えてしまうのは、最初の〈葡萄樹〉のせいだろう。この単純な読解に対して〈かつ〉は距離を導入する。つまり〈完熟〉しているのは〈群青〉、ひいては世界の方なのではないか、という思考を芽生えさせる。〈完熟〉し今にも落下して終わってしまいそうなほどの〈群青〉の世界、それははじめに読み取られた牧歌的景との落差によって黙示録的な恐怖の光景を私たちに提示してくる。根強い常識的読解から距離を取らせ、幻視的光景を口寄せるこの〈かつ〉という一語の配置は驚異的だ。
こうして、著者はわたしたちの日常的で論理的な世界を「一擲un coup」によって突き崩し、エロスとタナトスが悠々と闊歩する世界へと変容させてしまう。
春の野に出でて大地にゆるされず
花つぶて乾きの底に黙示たり
妣の国にてアオキのとむらいするだろう
すいかずら諸手をあげて椅子を捨つ
民族てふ小さき繭の重さかな
ほと深きところに卍春は傷
この世界は幻視的ではあっても、幻視そのものではない。幻視的なリアリズムとでもいうべき強度をもってこの世界は読者に迫ってくる。わたしがこの句群を読み、ユンガーのマジック・リアリズムやブルトン的な堅固なシュルレアリスムを想起したのも故ないことではないのだろう。
一句一句だけではロゴスある世界は破られない。しかしこれだけの量と切れ味あるナイフでそのような世界を突き刺せば、たちどころに世界は姿を変え、その裏にあった押し込まれていた恐怖らが湧き出してくる。そして心ある読者は、この恐怖が避けるべきものなどではなく、神話-詩的なものの泉であると知っているはずだ。一人でも多くのそのような読者のもとに本書が届くことを、一読者として願ってやまない。