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2024年10月25日金曜日

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり17 矢野玲奈句集『薔薇園を出て』(2024年8月刊、テイ・エム・ケイ出版部)豊里友行

 矢野玲奈さんは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』のひとり。その新撰21のメンバーの中でも正統派の俳人として注目を集めていたのを思い出す。


三越を過ぎて日銀花の雨


 三越 (みつこし)は、 三越伊勢丹ホールディングスの傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店 を起源とする日本の老舗・百貨店。日本銀行(日銀)は、1882年に日本銀行条例に基づいて設立された、日本の中央銀行のこと。これは、個人や企業などを対象とした銀行ではなく、金融機関を対象とした銀行で、また1万円札や5千円札、千円札といった紙幣(日本銀行券)は、銀行等の金融機関を通して、日本銀行から供給されている。この俳句で詠まれている日銀は、勝手ながら私は、日本銀行本店本館のことかな~と想像しながらその周辺の地図を読む。花の雨(はなのあめ)は、 晩春の季語。花の種類は、どんな花でもいいと思う。花壇とか。花瓶とか。都会の森で目に留まる花に雨粒を見出せる感性が欲しい。三越を過ぎて日銀へと続く雨が、しとしとと落ちて花に雨粒が雫を落としたりするなら風情がある。作者の心情は、此処では描かれていないのだが、俳句鑑賞者それぞれの花の雨を楽しんでもいい。俳句の骨法もさることながら大都市・東京をさりげなく活写するように鮮やかに盛り込みつつ季語がきらりと光る。この俳人の特筆すべき才能であることを見逃せない。


 この句集で主軸になるのはもちろん矢野玲奈俳句の母の視座であることは、云うまでもない。そこから家族や子への眼差しが俳句を愛おしい日々として紡がれている。


こんなにも床にちらばるおもちや春

復職といへど席なく青葉騒

思ひどほりに蚕豆の茹で上がり

待春や子の腰掛けとなる私

三人家族に十匹の秋刀魚かな

行春や表紙の違ふ母子手帳

重陽や胎の子と湯をあふれしむ

分娩台上の昼食みかん付き


 矢野玲奈俳句は、明るい。子育ての大変さも床の玩具のこんなにも散らばる春と感受する。「復職」への不安を覗かせる俳句もある。妻であり母として毎日の料理の中で蚕豆(そらまめ)の茹で上がりに微笑んだり、自分自身が子どものを定位置に座らせる腰掛けになっていたりするユーモラスさも。3人家族に10匹の秋刀魚という数字で云うなら家族での秋刀魚の配分にもユーモラスさも感じる。

 そして第2子を身籠る母の視座は、表紙の違う母子手帳に俳句日記のように俳句にとどめる。その胎児と湯を溢れさせるのも。いよいよ誕生の分娩台で昼食みかん付きであることには、たくましさやしなやかさ、あっぱれささえ感じられて脱帽である。これらの俳句たちの季語の輝かせ方も『新撰21』から第1句集『森を離れて』、それ以後の今句集に通底している矢野玲奈俳句の明るさにあるようだ。

 彼女の俳句にある「空欄に入る言葉を探し春」など、まるで生命の息吹を宿す春を感じさせる明るさがある。

 女性として仕事を持つことの大変さは、あると思う。だがこの句集で描かれている家族における妻として母として日常を俳句に詠む女性には、薔薇園の棘もあるであろう艶やかな世界をまるで蝶のように舞う感性で俳句にされていているようだ。春夏秋冬をめくるように毎日の日常で詠まれた俳句たちは、確かな矢野玲奈俳句をたわわな果実のように実らせている。

 この句集の主軸を成している母の視座の眼差しを俳句鑑賞してみたい。


一通り遊具を揺らす夏ゆふべ

秋潮や水平線は肩の上

保育園へは鈴虫に会ひに行く

着ぶくれの肩を叩きて別れけり

本棚をはみ出す絵本クリスマス

春の日の屈めば背(せな)に乗りくる子

子に教ふ葡萄の種の出し方も

秋暑し額を縫ふといふ知らせ

指差せばきらきらと散る目高かな

ときどきは子の入りくる蒲団かな

柚子湯とは宿題終へて入るもの

クリスマス過ぎても聖歌うたふ子よ

子は二つ夫は一つの粥柱

寒月や三度乳欲る夜泣きの子

みつ豆を好きになりたる齢かな

節分の面つけしまま子の帰宅

眠る子に近づいてくる金魚かな


一通り遊具が揺れるのを見つめるのも。

子の背丈の位置を水平線に記しているようにも。

保育園の鈴虫に会いに行くのも。

着膨れの肩を叩いて別れるのも。

本棚をはみ出す絵本も。

屈(かが)めば背中に飛び乗る子の重さも。

葡萄の種の出し方を子に教しえるのも。

額(ひたい)を縫うという知らせも。

指差せば、きらきらと散る目高(めだか)たちも。

ときどきは子の入りくる蒲団にも。

柚子湯とは宿題終へて入るものという決め事も。

子は二つ夫は一つの粥柱を俳句にするのも。

三度も授乳を欲して夜泣きする子も。

みつ豆を好きになる子の成長も。

節分の面をつけたまま子の帰宅するのも。

眠る子に近づいてくる金魚という詩情も。


 沖縄の歌に「てぃんさぐぬ花」がある。この歌にある“てぃんさぐの花”は、鳳仙花のこと。

 鳳仙花の花を爪先に染めるように親の子を思う心を子もまた心に染めなさい。天の星のように親の子を思う心は計り知れないものだ。そんな感じの歌だったと思うが、あるがまま等身大に詠まれた矢野玲奈俳句の母の視座にも通じるものがある。

 第1句集『森を離れて』から第2句集『薔薇園を出て』における人間としての成長過程もあるのだろう。

 これらの矢野玲奈さんにとってかけがえのない俳句日記のような愛おしい俳句たちが、575の俳句に込めたオンリーワンな母の視座へと昇華されて俳句の世界の裾野をもっともっと拡げてほしい。

 共鳴句の数々も下記にいただきます。


寒晴やまだ文字のなき大看板

重なり合へる紫陽花のまるき影

ぽつかりと待合室に金魚玉

待春や絵の具混じらず重なりぬ

祭笛にはかに亀の動き出す

歳晩の一音となるオルゴール

卒園式先生がまづ泣いてをり

春愁の耳にマスクのゴムかける

緑の絵本閉づればけふ終はる

匙よりも大きく掬ふ水羊羹

冬の海へと繋がつてゐる駅舎

芍薬の芯見せぬまま枯れにけり

梅雨空を蹴るや赤子の足の裏

天高し組体操の笛短か

さみしくはないのここにも落椿

とんぼうのゆらりと吾を過ぎゆくよ

ままごとのみんなママなりねこじやらし