【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】
3.「ぬばたま伝説」はなかった
初期能村登四郎作品について、いわゆる「ぬばたま伝説」を能村登四郎、石田波郷、藤田湘子、山本健吉がどのように形成したかを2回にわたり述べて来た。これを序説として、以下では「ぬばたま伝説」が一種の都市伝説であり、実際の能村登四郎の作風の変遷はこれと全く違ったものであったことを検証してみたいと思う。8月の評論教室では時間の関係もありごく簡単に述べただけであったが、こうした伝説を否定するためには多くの資料を使ってかなりきめ細かく検討する必要がある。
このため、能村登四郎のまだ無名時代である、23年1月から、脚光を浴びてゆく24年4月までの全作品を巻末にリストアップし、これら一々をその位置に置いて眺め、登四郎が何を考え何を感じたのかをたどりながら作風の変遷を確認してみたい(これは8月の評論教室で配布済み)。
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
この句は23年3月号の馬酔木集で巻頭句として掲げられた。
実はこの直前、永らく馬酔木に投稿していた登四郎は行き詰まっていた。当時編集をしていた木津柳芽に句稿を見せたところ、柳芽は「こりゃあひどい、並々ならぬまずさだ。」と酷評されたという。柳芽は口の悪さで定評があったらしいが、そうした性格を割り引いても登四郎は落ち込まざるを得なかった。そんな登四郎を励ましたのは宮城二郎だった。宮城は、波郷の馬酔木復帰の橋渡しをし、その波郷の馬酔木復帰後日を経ずして不帰の客となった伝説の俳人である。高尾の俳句大会で宮城と語り合うと、宮城は「あなたはもう一歩というところにいるんだ。秋櫻子先生もそれを認めていらっしゃる。今やめては今までの努力が水の泡になる。一度先生とあった方がいい」と勧められる。実はそれまで句会には出ても、秋櫻子と話を躱したことがなかったのだ。やがて勇をふるって秋櫻子の勤める宮内省病院を訪れると、秋櫻子は登四郎を温かく迎え、「馬酔木には若い人を育てるために新人会というものを興して篠田(悌二郎)君に指導してもらっている。そこに入る人はみな僕が指名した人を入れるようにしている。君もそこに入って勉強したまえ。」と激励された。
新人会は、毎月丸ビルの一室で開かれ、指導は篠田悌二郎、メンバーにはすでに何度も巻頭を取っていた藤田湘子や若手の秋野弘、五十嵐更三等がいて、22年の12月から登四郎も参加した。翌月句会場は涵徳亭に移され、この句会に投じたのが「ぬばたま」の句であった。この句は、篠田悌二郎の特選に入り、句会でも好評であったという。こうして得た句を登四郎は馬酔木の新樹集に投稿し、初めての巻頭を得たのであった。
しかし、この句が登四郎の出世作になったのは間違いないが、この句で登四郎の句が「ぬばたま」風の雅な俳句になったかと言えばそれは疑問である。巻末に1年間の登四郎の馬酔木掲載全作品を掲げたが、「ぬばたま」風の雅な句はほとんどない。唯一、23年8月号で第3席を得た
老残のことつたはらず業平忌
ぐらいしかない。登四郎の毎月の作品にはこうした雅な句の影響はほとんど現れてはいないのである。
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これは「ぬばたま」伝説に現れるもう一つの句、
長靴に腰埋め野分の老教師
についてもいえる。この句は26年4月の、馬酔木30周年記念コンクール受賞で発表されたものだが、この句を端緒に教師俳句がおびただしくつくられるのだが、逆にこの句以前にはほとんど教師俳句を見る事が出来ない。「ぬばたま」の句と「長靴」の句の3年の間にはこれをつなぐ必然的な句が存在しないのである。それではこれらの句の間に存在したのはどんな句であったのか、それらこそが登四郎俳句生成の秘密になるのではなかろうか。以下この失われた作品群を探求してみることとしたい。
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ここで再び触れる機会がないので「ぬばたま」の句についてひとこと言及しておきたい。上の経緯からもわかるように、「ぬばたま」の句は、先ず篠田悌二郎によって発見されたのだ。当時(つまり波郷が馬酔木に復帰する前)秋櫻子の最も厚い信頼を受けていたのは篠田悌二郎であり、だからこそ新人会の指導も任せていた。併し波郷の復帰に伴い馬酔木における波郷の影響力は強くなり、悌二郎は次第に後退し始める。こんな端境期に現れたのが「ぬばたま」の句であったのだ。結社政治のもたらした不運が「ぬばたま」の句であったと言えなくもない。実際、悌二郎派に属していた湘子・登四郎が波郷派となってゆく印象は否めない。
こんな話は邪推とも思えなくもないが、登四郎自身、米沢吾亦紅が俳人協会関西支部長に就任したのをきっかけに山口草堂が馬酔木に距離を持ち始めたと私に語っていたのを聞いたことがあるから、見当違いではないだろう。
資料 能村登四郎初期作品データ。
(制作年月の次の〇数字は新樹集の席次。*は下位作品)
刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)
高槻のそのたかさよりしぐれくる
茶の咲くをうながす晴とちらす雨
咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)
かがみゐし人のしごとの野火となる
潮くみてあす初漁の船きよむ
ななくさの蓬のみ萌え葛飾野
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)
雪といふほどもなきもの松過ぎに
雪天の西うす青し雪はれむ
佗助やおどろきもなく明けくるゝ
雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)
匆々ときさらぎゆくや風の中
蓋ものに春寒の香のさくら餅
松の間に初花となり咲きにけり
弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)
人いゆく柴山かげや春まつり
さく花に忙しききのふ無為のけふ
さくら鯛秤りさだまるまでのいろ
うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)
春靄に見つめてをりし灯を消さる
摘むものにことば欠かねど蕗生ひし
畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ
部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)
たよりあふ目をみなもちて梅雨の家
梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき
藺の花の水にも空のくもりあり
老残のことつたはらず業平忌(23・8③)
黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ
白麻の着くづれてゐて人したし
白靴のしろさをたもち得てもどる
露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)
かぼちや咲き貧しさがかく睦まする・
かぼちやかく豊かになりて我貧し
病める子に蚊ばしらくづす風いでよ。
長男急逝
逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)
供華の中に汝がはぐくみしあさがほも
汝と父母と秋雲よりもへだつもの
かつて次男も失ひければ
秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり
白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)
白露や子を抱き幸のすべてなる
秋草やすがり得ざりし人の情
日とよぶにはかなきひかり萩にあり
露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)
鶏頭やきはまるものに世の爛れ
朝寒や一事が俄破と起きさする
林翔に
貧しさも倖も秋の灯も似たる。
咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)
わが胸のいつふくらむや寒雀
枯芭蕉どんづまりより始めんと
炭は火となるにいつまで迷ひゐる
霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)
手袋やこの手でなせし幾不善
またけふの暮色に染まる風邪の床
かけ上る眼に冬樫の枝岐る
殿村兎糸子氏を新人会に迎えて
朱を刷きて寒最中なる返り花
凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)
遠凧となりてあやふき影すわる
水洟を感じてよりの言弱る
冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる
老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)
新雪の今日を画して為す事あり
卒業生言なくをりて息ゆたか
風邪熱を押して言葉にかざりなき
●戦前作品
芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)
枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)
蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)
盆のものなべてはしろくただよへり
寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)
四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)
いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)
朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)
ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)
●戦後作品(受験子・教師俳句)
受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)
しづかにも受験待つ子の咀嚼音
あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)
氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)
長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)
教師やめしそのあと知らず芙蓉の実