【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2024年10月25日金曜日

第235号

                   次回更新 11/15



現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 3 筑紫磐井 》読む

澤田和弥句文集特集
はじめに 澤田和弥句文集について 津久井紀代 》読む
はじめに 凡例 筑紫磐井 》読む
第1編① 現在という二十世紀 》読む
第1編② 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】 》読む
第1編③ 無題 》読む

■令和俳句帖(毎金曜日更新) 》読む

令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃
第二(10/18)神谷波・瀬戸優理子・岸本尚毅・鷲津誠二・坂間恒子
第三(10/25)ふけとしこ・仲寒蟬・豊里友行

令和六年秋興帖
第一(10/25)曾根毅・大井恒行・仙田洋子

令和六年春興帖
第一(6/21)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(6/28)小野裕三・水岩瞳・中西夕紀・神谷波・坂間恒子・山本敏倖・加藤知子
第三(7/12)岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀・杉山久子・松下カロ・木村オサム
第四(7/19)小林かんな・ふけとしこ・眞矢ひろみ・望月士郎・鷲津誠次・曾根毅
第五(7/26)花尻万博・早瀬恵子・大井恒行・竹岡一郎
第六(8/23)高橋比呂子・なつはづき
第七(9/13)青木百舌鳥・小沢麻結・渡邉美保・前北かおる
第八(9/27)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・筑紫磐井・佐藤りえ

■ 俳句評論講座  》目次を読む

■ 第49回皐月句会(5月)[速報] 》読む

■大井恒行の日々彼是 随時更新中!※URL変更 》読む

俳句新空間第19号 発行※NEW!

■連載

【抜粋】〈俳句四季9月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む

筑紫磐井 》読む

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】② 『情死一擲』の幻視的リアリズム  櫻井天上火 》読む

【連載通信】ほたる通信 Ⅲ(51) ふけとしこ 》読む

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり17 矢野玲奈『薔薇園を出て』 》読む

英国Haiku便り[in Japan](49) 小野裕三 》読む

【豊里友行句集『地球のリレー』を読みたい】 3 現代川柳に通じる三句 佐藤文香 》読む

【連載】大井恒行『水月伝』評(2) 田中信克 》読む

【新連載】伝統の風景――林翔を通してみる戦後伝統俳句

 7.梅若忌 筑紫磐井 》読む

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】③ 豊里友行句集『母よ』より 小松風写 選句 》読む

句集歌集逍遙 筑紫磐井『戦後俳句史nouveau1945-2023——三協会統合論』/佐藤りえ 》読む

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将 》読む

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑯ 生き物への眼差し 笠原小百合 》読む
インデックス

北川美美俳句全集32 》読む

澤田和弥論集成(第16回) 》読む

およそ日刊俳句新空間 》読む

10月の執筆者(渡邉美保)…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …

■Recent entries

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麒麟第2句集『鴨』を読みたい インデックス

麻乃第二句集『るん』を読みたい インデックス

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井 インデックス

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉜ のどか 》読む

俳句新空間を読む 》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子




筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

『澤田和弥句文集』特集(0-1)はじめに 澤田和弥句文集について  津久井紀代

澤田和弥を後世に伝えようと先頭を切ったのが筑紫磐井であった。

このプロジェクトに参加させていただいたことを光栄に思う。


この度渡部有紀子を中心に『澤田和弥句文集』が東京四季出版より出版された。

「澤田和弥」として一冊に纏められたもので、後世に残る一書となっていることを喜びたい。この一書は、澤田とほぼ同年代の人が同年代の目線で編まれていることがこの句集のありかたとして優れている点である。

句文集は第一句集『革命前夜』のすべてを掲載している。私は澤田の仕事は『革命前夜』で完結していると捉えている。その点においてこの「句文集の」の冒頭に置かれていることに意義を感じている。句集あとがきに澤田は「僕のすべてです」「これが澤田和弥です」と自らも書き記している。

有馬朗人の序によると「時の日や寿司屋一代限りとす」を挙げ、「家業を継がぬことへのコンプレックスがある」と指摘している。さらに「祖父板前父板前僕鎌鼬」を挙げ、「祖父・父よりの家業を継がないというか、継ぐ力の無いことに対する自虐心が屈折して表されている」と指摘している。最後に「あまりにも繊細な気持ちの持つ若者」と指摘している。有馬はあときがに「澤田和弥がこの『革命前夜』をひっさげて俳句のそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こてくれることを心から期待し、かつ祈る」と締めくくっている。澤田和弥には届かぬまま自ら幕を閉じた。

「羽蟻潰すかたち失ひても潰す」「咲かぬといふ手もあっただろうに遅桜」「卒業や壁は画鋲の跡ばかり」「手袋に手の入りしまま落ちてゐる」挙げればきりがない。恐ろしいと思う。どうして澤田はここまで自分を責めつけねばならなかったのであろうか。そのことを師である有馬朗人が答えを出している。「自虐心の屈折」である。理由は「あまりにも繊細な気持ち」である。

この「句文集」を通して、あまたのことに気づきがあった。そう、もう一度この世に生きた澤田和弥」を思い起こしてくれ機会をあたえてくれた貴重な一書である。

一方この句文集にすこし物足りなさを感じていることは否めない。

発起人である筑紫は自らのプログに「十三回に渡って澤田和弥論を展開した。さらに、「澤田和弥は復活する」として、「俳壇時評」十二年六月号「松本てふこと澤田和弥」、「俳句四季」六月号」、「天晴」二〇二一年六月号、にそれぞれ展開している。

さらに、「俳句時評」に「遅ればせながら澤田和弥追悼」仲寒蝉、平成二十五年の「句集評」に澤田和弥第一句集「革命前夜」読後感「言葉のダンデズム」を遠藤和若狭男の論も見逃せない。

これらの資料は澤田を語る上に非常に貴重な資料である。

このらの「論」があってこそ「澤田和弥」は「澤田和弥」たらしめているのではないかと考える。

『澤田和弥句文集』特集(0-2)はじめに 凡例 筑紫磐井

 『澤田和弥句文集』(20241017日東京四季出版刊)が刊行されたところから、若干ご縁のある「俳句新空間」で特集を組みたいと思い、津久井紀代さんにご協力をいただきたいとお願いをし、ご快諾をいただいた。津久井さんは、「(澤田和弥一周忌に寄せて) こころが折れた日 澤川和弥を悼む」(天為285月号)で澤田和弥再発見の第1の契機を作った恩人となる人であるから是非ご意見を伺いたかったのである。本特集でも巻頭の言葉を寄せていただいた。

特集の内容についてもご意見をいただいた。今回刊行された『澤田和弥句文集』は澤田和弥を知るために欠かすことのできない資料集となったと思うが、澤田和弥の活躍は多端にわたり、かつ一部の人しか知られない作品も多い(特に文章において)。今回の特集ではとりあえず「豈」「俳句新空間」等の掲載記事を中心に編集した。以下目次を掲げることとする。

「第1編 豈・俳句新空間編」には同誌に掲載した記事を中心に収録した。

「現在という20世紀」は「豈」57号(2015424日発行)に依頼して執筆してもらった原稿であり、同世代作家をながめながらも、それらの中で特に園田源二郎と石原ユキオに注目した理由を述べる。

「肯うこと ―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―」はBLOG「俳句新空間」で【西村麒麟『鶉』を読む5】の1編として掲載したものである(2014221日号)。

「無題」(葉書通信45号)は世の常の葉書通信と異なり、たった1通、澤田自身さえ手控えのない葉書通信である。ここに掲げたのは筑紫あてである。多くの人が受け取っているはずであるが、手元に残している人は少ないに違いない。机の中を探して確認してほしい。

「第2編 「美酒讃歌」(1~9)」はBLOG「俳句新空間」202271日から129日まで掲載したエッセイである。「美酒讃歌」は編者がとりあえずつけた題名である。

「第3編 澤田和弥論」は、BLOG「俳句新空間」に掲載した澤田和弥論を集成したものである。これからも多くの澤田和弥論が登場すると思うが、現時点までの澤田和弥を知っておくことは必要であると考えた。

 本来であれば、師系に当たる、有馬朗人氏、遠藤若狭男氏が相応しいのだが、お二人ともなくなっており、残った者たちが参加することとなった。

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澤田和弥句文集』特集目次

はじめに

澤田和弥句文集について 津久井紀代

凡例 筑紫磐井

 

1編 豈・俳句新空間編

➀「現在という20世紀」(豈57号)

➁「肯うこと 西村麒麟第一句集『鶉』読後評」 【西村麒麟『鶉』を読む52014221

➂「無題」(葉書通信45号)

 

2編 美酒讃歌(1~9)

➀麦酒讃歌

➁続・麦酒讃歌

➂焼酎讃歌

④熱燗讃歌

⑤続・熱燗讃歌

⑥冷酒讃歌

⑦新酒讃歌

⑧続・新酒讃歌

⑨地酒讃歌

 

3編 澤田和弥論

●津久井紀代

(澤田和弥一周忌に寄せて〉 こころが折れた日 澤川和弥を悼む [天為285月号]

澤田和弥は復活した  

澤田和弥のこと     

 

●筑紫磐井

澤田和弥の最後とはじまり      

澤田和弥は復活する 

澤田和弥の過去と未来(BLOG「俳句新空間」2015724日)

困窮のこと(俳句界・2020年8月号)  

 

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『澤田和弥句文集』(2024年10月 東京四季出版刊 3,520円)

 

 澤田は早稲田大学に入学し、早大俳句研究会で高橋悦男、遠藤若狭男の指導を受け、その後有馬朗人主宰の「天為」により活躍した。句集は唯一の『革命前夜』を刊行したのち、201559日に亡くなった。享年35であった。

 

『澤田和弥句文集』主な内容>

【俳句作品】

第1句集『革命前夜』

「早大俳研」・「天為」・「週刊俳句」・「第4回芝不器男俳句新人賞」・「のいず」・「若狭」掲載作品

 

【随筆評論】

寺山修司における俳句の位置について(「早大俳研」)

或る男・序詞(「天為」)

鉛筆(「天為」)

有馬朗人第一句集『母国』書誌学的小論(「天為」)

結論は俳句です(「のいず」)

俳句実験室(「若狭」)

寺山修司「五月の鷹」(「週刊俳句」)

 

『澤田和弥句文集』特集(1-1)第1編➀ 現在という二十世紀  澤田和弥

 さて「二十一世紀の若い世代の作品を眺めて」ということだが、これは「澤」平成二十六年七月号特集「五十歳以下の俳人」で主要部分はほぼ語り尽くされているように思う。集中の上田信治(文中敬称略)編「五十歳以下の俳人二百二十人」、押野裕「五十歳以下の俳人百二人」で充分であろう。もちろんそのなかに園田源二郎の名がないことは、明らかな見落としと思っている。

 園田源二郎は第三回芝不器男俳句新人賞特別賞を受賞している。昭和五十五年、滋賀県生。


  御佛の腋下に宿る星数多

  祖母語る脈絡の無き地獄かな(以上「週刊俳句」第二〇五号)


 新人賞最終選考会では大賞に御中虫が選ばれて驚いたが、それ以上に園田作品に流れる温かく確かな血に舌を巻いた。


  鉄の蟲大空を端から喰らふ

  地球儀を舐りて戯るる座敷犬

  黒き雨と或る寓話となりにけり(以上「のいず」第一号)


 また「澤」同号の「五十歳以下の俳人一句鑑賞」に一句だけ出ていた石原ユキオも「若い世代の俳句」を考えるならば挙げねばならぬ一人であろう。少々以前の作品になってしまうが、「週刊俳句」第二十七号「落選展2007 Jに出展された「不合格通知」五十句から数句挙げたい。

  魔女たりし祖母の南瓜雑煮かな

  欠席の机に載せる彼岸花

  すっぴんの美輪明宏がいる炬燵

  水鳥は溺死できないぼくできる

 この二人を挙げたのは、前述の特集に名がなかったということもあるが、私にとっては数少ない「同じ時代を生きている」と感じさせてくれた俳句作家だからである。

 私は二十一世紀という時代はいまだ来ていないと思っている。幼い頃にテレビや雑誌で見た二十一世紀は科学文明と人類の幸福が一体となった、それはそれは輝かしい時代である。今、そんな時代だろうか。東日本大震災という天災で多くの方々が亡くなり、東京電力福島第一原子力発電所事故という人災で多くの人々が今も苦しんでいる。9・‥‥‥‥に3・H。世界中ではテロや戦争が止むことなく起こり、難民が溢れている。人々は資本主義の格差の中で、富む者は肥え太り、貧者は死の行進をするしかない。二十世紀を「戦争の世紀」と呼ぶのならば、「戦争」は前世紀の遺物でなければならない。しかしどうか。二十一世紀など訪れていない。我々は二十世紀の延長を生きているだけだ。「ゼロ年代」という言葉にはとても違和感を持つし、「二十一世紀の」と言われるとえらく先の話のように思えてしまう。


 園田の作品は前述「澤」の「対談 新人輩出の時代」で上田が指摘するように「心象優位」の時代の一作品かもしれない。しかし私は彼の作品に土着的な手応えを感じる。それは初めて猪肉を食べたときの獣臭さや血の味のようなものである。この手応えは 「同じ時代を生きている」と同時に、「同じフィールドにいる」という感覚でもある。

 現在の若い世代には上手い俳句作家が山のようにいる。今さら名を挙げる必要もないだろうが、私たちの世代の俳句作家のトップランナーは終生、高柳克弘であろうし、第一句集『未踏』の完成度は筆舌に尽くしがたい。神野紗希は今後、ますます多方面に活躍していくだろうし、先日第二句集『君に目があり見開かれ』を上梓した佐藤文香の言葉はますます冴えていくだろう。高山れおなや関悦史、堀田季何が俳句評論や俳誌編集において大きな仕事をすることも想像に難くない。北大路翼も松本てふこも外山一機も山田露結も気になる。谷雄介はどんな悪巧みをするか。冨田さん、お元気ですか?私の所属する「天為」など数多くの場で、無数の若手作家が素晴らしい作品を発表している。昨今、外国語俳句も盛んにつくられている。しかしこれらの若い世代の俳句作家たちに、私はことごとくシンパシーを感じない。大きな溝を感じていて、その作品は鑑賞するものであって、ともに歩むものではない。私にとっては遠い世界の「ゲイジユツ」である。そのなかで園田作品は私にとってともに肩を組むことのできる、もしくはともに肩を組ませていただきたいものなのだ。

 一方、石原の作品には衝撃を受けた。面白い。とにかく面白い。この「不合格通知」五十句を読んだときの私はタモリに出会ったときの赤塚不二夫のような気分だろうか。同じことを面白いと思うことのできる俳句作家がいたという驚きである。私は昭和初期のエログロナンセンスを愛する。江戸川乱歩の「芋虫」を読んだときの感覚を忘れられない。そのような世界観、そして同時に「今」という現在性の持つ空虚さを石原の作品に見た。やはり石原も「同じフィールドにいる」というシンパシーを感じることができた。最近では「憑依系俳人」という肩書で活躍しているようだが、あまりシンパシーを感じなくなった。しかし今の若い世代の俳句作家を語るうえで、石原の特異な存在を欠くことはできないということは確かだろう。

 「若手」というと兎角「新しさ」が求められる。「リアルでホット」というと、やはり「新しさ」のことだろう。ワイドショー等で大きく取り上げられた小林凛はもうすでにマスコミに消費されてしまった感があるし、そういう意味での「リアルでホット」を求められた訳ではないだろう。そういえばあれだけマスコミに注目され、金子兜太等に絶賛された小林の名が前述の「澤」特集に出ていない。

 実のところ、私は「新しさ」には興味がない。それよりも「生きる言葉」「生きていることに揺さぶりをかけてくれる言葉」に関心がある。そういう意味で園田と石原を「リアルでホットな俳人」として挙げさせていただいた次第である。蛇足だが、そもそも若手俳人の句は「新しい」のだろうか。世界中の過去の文学、さらに絞って詩の中にいくらでも「類句」を見つけることができるように思うのだが。

 簡潔に言えば俳句史も含め、歴史とは究極のところ、特定個人の主観が生み出したストーリーであり、繰り返しに過ぎない。

 「過去は一切の比喩に過ぎない」。

『澤田和弥句文集』特集(1-2) 第1編➁ 肯うこと―西村麒麟第一句集『鶉』読後評―【西村麒麟『鶉』を読む5】/澤田和弥

 まずは西村麒麟氏の第一句集『鶉』ご上梓にお祝いを申し上げたい。


鶉は小さい鳥である。幼い頃、その卵がとても気になっていた。

鶏卵はよく目にするし、口にもする。

駝鳥の卵を初めて見たときも、さほど衝撃はなかった。

しかしスーパーに10個1パックで並ぶ

鶉の卵が気になって、仕方がなかった。

わが家では鶉の卵は購入しない。

あの小さな可憐な卵が欲しくて欲しくて仕方なかった。

或る日、外食の折にとろろに鶉の卵が乗っていた。

それはあまりもかわいらしく、ずっと愛でていたいような黄身だった。

私は鶉の卵がさらに欲しくなった。

後日、母のお伴でよく行くスーパーに、

焼鳥屋の屋台が出ていた。

なんと、そこには鶉が売られていた。

あのかわいらしい鳥が無残にも半分に裂かれ、

香ばしく焼き上げられていた。

強い衝撃だった。

我々は生命を喰らって生き延びているということを、

幼いながら改めて認識した瞬間だった。


句集『鶉』が焼鳥になって、売られることはない。

しかし、この句集には幼いときに私がいだいていた

「鶉」への思いを甦らせるものがあった。

この句集を読むことは、

そのまま嬉しいという感情につながる。

気持ちがよいのである。

それはなぜか。

西村氏の俳句は、存在する事物事象を

あるがままに前向きに受け入れ、

全てを肯定するからである。

これは簡単にできることではない。

私は西村氏の半生を知っている訳ではないが、

かなりつらいことを乗り越えてきたのだろうと想像する。

何の経験もなく、全てを肯定する者は単なる馬鹿である。

否定的局面をいくつも乗り越えたうえでの全肯定は聖性を有す。

私は『鶉』に聖性を見るのである。

この句集を前にすると、

自分はなんてちっぽけなことで悩み、

ささいなことで人と争っているのかと、

赤面してしまう。

俳句というこの小さな詩型を前に、

これほどまでに怯えている自分に気付く。

誰もが受け入れてもらいたい。

肯定してもらいたい。

否定されたくない。

一人の個人として、人間として、受容してもらいたい。

西村氏の俳句はその根源的願望を叶えてくれる。

『鶉』は広く、明るく、素直である。


父なる太陽、母なる月光とまでは言わない。

それにしては「鶉」はあまりにも小さく、ひ弱である。

一句一句については、まだ充分にのびしろがあると思う。

もう少しことばと格闘してほしいと思う句も散見した。

しかし、だからどうした?という話である。

この句集は西村麒麟氏という稀有なる光から生まれた、

なんともかわいらしく、そして底抜けに明るい、

神々の祝福のもとにある一冊である。

素晴らしい句集であることを私は心から祝福したい。

肯うことの力強さと幸福感を改めて感じさせていただいた次第である。

『澤田和弥句文集』特集(1-3)第1編➂ 無題 澤田和弥

 これは澤田和弥の実験的個人誌です。手書きによる一枚のみです。私の手元にも写しを残しませんので、此岸彼岸ともにこの一枚限りです。第45号をあなたにお送りします。バックナンバーは別の方に送りました。次号以降はまた別の方に送らせていただきます。ちなみにタイトルはございません。固有名詞化しないためです。では始めさせていただきたく存じます。


 恋人募集中 高価買取します。澤田和弥


(承前)だけです。しかし、前時代的であれ面白そうだと思いました。偶然性を復権させたくなったのです。このバックナンバーを読むことはおそらくあなたには不可能です。そしてこれはあなたを特定して書いているものではありません。書き終わった後に住所録を繙き、目に入った方にお送りしていますので、この第45号があなたのもとに届いたのは本当に偶然でしかありません。そしてあなたが破り捨てることなく、これを読んでくださっているのも偶然でしかございません。しかし宇宙が生まれたのも偶然でしかありません。必然ではない、我々も又、偶然の産物です。世の中は偶然でできています。しかし職場にいても、どこにいても必然を求められます。たしかに私も必然を求めます。コンビニで煙草を頼んで、肉まんを出されてもドキドキしてしまいます。新聞やニュースには真実という必然が求められます。私も求めます。誤報は山脈のようにありますが。必然が要求される社会において、たとえイカサマの狂気沙汰でも偶然性を試みたい。それが私の考えです。突然ですが、その実験としてちょっとした文章を書いてみたいと思います。なにとぞお付き合いください。(次号へ)

無題という文章

 これは或る男が10年近く前にSNSサイト「mixi」の日記に書いた汚物、いや文章を抜粋したものである。筆者には許可を取っているので著作権上、問題はない。著作権者は私である。いやいや。もとい。或る男である。この男は10年ほど前に東京23区内の或るアパートの一室でこんなことを書いていた。

〇不合格通知が速達で届いた。何を急いだ。

〇書留郵便が不在のため、渡せないと通知があった。真面目な配達員である。これを口実に捨てたのかもしれない。急いで連絡とる。送り主は先日応募した会社である。合格か!受取時間を指定して、他の予定をキャンセルして、わくわくと部屋で待っていた。なかなか来ない。もうじらしちゃって。そういえば前戯は必ず一時間以上するという大学の痴人、いや知人がいた。それはどうでもいい。郵便である。来た。何だ。不合格通知である。なぜ勿体ぶった。普通郵便でよろしい。これならばいっそ捨ててもらった方が、精神衛生上よかった。(26.8.24)

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】2 『情死一擲』の幻視的リアリズム  櫻井天上火

 ある賽のひと振りの幸運によってご縁を頂戴し、加藤知子氏よりご高著『情死一擲』をご恵贈いただいた。若輩の自分がこの著作を読み切れているなどとは到底思わないが、エロスとタナトスの裏に物質的な恐怖を見え隠れさせる作品群のなかから、いくつか句をピックアップしてその恐るべき引力について紹介できればと思う。

 本書のなかでは幻視やシュルレアリスムに属するような句が多く出てくる。たとえば以下のような句。


  ニッポンが股間にあるも昼寝覚

  太腿に金の雨降る野のあそび

  春の馬超えて女に脚六本

  水銀の行方まるまるみどりの夜

  無防備にまなこを写す夕焼かな

  火柱を舐め合う夏野漆黒の


 特に〈火柱〉の句の倒置は妙技と言わざるをえない。倒置された〈漆黒の〉は単純に考えれば〈夏野〉にかかる語だろう。であればこの句を「火柱を舐め合う漆黒の夏野」としてもよかったはずだ。しかしこう並べ替えてみると掲句がもっていた妙味は無くなっている。この句の面白さは〈火柱を舐め合う夏野〉と倒置された〈漆黒の〉にある。

 〈舐め合う〉と言っているのだから、少なくとも〈火柱〉の立つ〈夏野〉が複数あり、それらが絡み合っているというのがこの句の景だ。〈夏野〉と書かれると、広大な一つの野が想起されるが、〈舐め合う〉によってその唯一性は突き崩され広大な空間がもう一つ(以上)産まれてくる。一つの〈夏野〉であれば私たちはどこかに終わりがあるということを想像でき、その無限らしさを楽しむこともできよう。しかしそれが唯一ではないとすれば空間的な広がりが単純に倍、あるいはそれ以上になってしまう。立ち昇る〈火柱〉からくる生物の死滅させられているような印象も相まって、宇宙のなかにたった一人のような永遠の孤独、そんなものが想起される。

 そして倒置された〈漆黒の〉が与えてくる終わりのない恐怖。〈夏野〉という広大な空間がさらに広大さをもつものであったと明かされた後に、さらにその先の茫漠たる闇を示すかのような〈漆黒の〉の投げ出し方は、宇宙的な恐怖を惹起するにはもっとも適した形だろう。

 このように日常世界とは離れた、しかしその裏にベットリと張り付いた「黒いもの」が見えてくると、次の句にも異常ななにかを見ようとしてしまう。


  葡萄樹を囲む群青かつ完熟


 端的に〈群青〉とは空のことだろう。「葡萄の木を下から見上げ、そのなかに売れた果実を見出す」というのがまず読み取ることのできる景だ。しかし、先ほどの倒置と同様〈かつ〉がこの句にただならぬ読解を可能としている。

 はたしてこの〈完熟〉は果実のことを指しているのだろうか。そもそもこの句には果実など一切出てこない。それでも〈完熟〉を果実のことだと考えてしまうのは、最初の〈葡萄樹〉のせいだろう。この単純な読解に対して〈かつ〉は距離を導入する。つまり〈完熟〉しているのは〈群青〉、ひいては世界の方なのではないか、という思考を芽生えさせる。〈完熟〉し今にも落下して終わってしまいそうなほどの〈群青〉の世界、それははじめに読み取られた牧歌的景との落差によって黙示録的な恐怖の光景を私たちに提示してくる。根強い常識的読解から距離を取らせ、幻視的光景を口寄せるこの〈かつ〉という一語の配置は驚異的だ。

 こうして、著者はわたしたちの日常的で論理的な世界を「一擲un coup」によって突き崩し、エロスとタナトスが悠々と闊歩する世界へと変容させてしまう。


  春の野に出でて大地にゆるされず

  花つぶて乾きの底に黙示たり

  妣の国にてアオキのとむらいするだろう

  すいかずら諸手をあげて椅子を捨つ

  民族てふ小さき繭の重さかな

  ほと深きところに卍春は傷


 この世界は幻視的ではあっても、幻視そのものではない。幻視的なリアリズムとでもいうべき強度をもってこの世界は読者に迫ってくる。わたしがこの句群を読み、ユンガーのマジック・リアリズムやブルトン的な堅固なシュルレアリスムを想起したのも故ないことではないのだろう。

 一句一句だけではロゴスある世界は破られない。しかしこれだけの量と切れ味あるナイフでそのような世界を突き刺せば、たちどころに世界は姿を変え、その裏にあった押し込まれていた恐怖らが湧き出してくる。そして心ある読者は、この恐怖が避けるべきものなどではなく、神話-詩的なものの泉であると知っているはずだ。一人でも多くのそのような読者のもとに本書が届くことを、一読者として願ってやまない。


ほたる通信 Ⅲ (51)  ふけとしこ

   散つてゆく

朝影よ露おく芝のやさしさよ

鶏頭の種を銜へに蟻が行く

柚子青し淡路瓦へ通り雨

小鳥くる紫陽花の色抜け切れば

百合の実を振るや昔の散つてゆく

・・・

 草の穂が美しい。

 薄は言うに及ばず、大きなものならパンパスグラス。小さなものならミチシバ(道芝)まで。大方はイネ科の草の穂である。

 目下、私の仲間に大人気なのがミューレンビルギア・カプラリスという穂草。最近では植物園や公園などにも取り入れるところが増えてきて目にすることも多くなった。特徴は何といってもその穂のピンク色と繊細さ。小高くなった所や少し起伏のある所に植えられると、平面的に見るよりいっそう美しい。案内すると皆が声を上げる。私が知ってから4、5年が経つだろうか。

 吹田市の万博記念公園に花の丘という一角があり、四季を通じて花が楽しめるように作られている。

 今はコスモスやコキアが中心だが、アカソバ(赤蕎麦)などに並んで、このミューレンベルギア・カピラリスも植えられるようになった。草丈は60~80センチ程だろうか。その花というか穂は薄紅色をしていて、霧のような、或いは煙のような、とても幻想的な景色を作り出している。

 和名は無いのだろうか……と探していたら、ネズミムギ(鼠麦)の仲間だということが分かった。が、桃色鼠麦などと呼んでみても、あまりしっくりこない。長くても覚えにくくてもこの片仮名の方がいいようだ。鼠麦なら、どこにでも普通に生えているけれど。

 片仮名と言えば、コキアは何故コキアになってしまったのだろうか。昔ながらの箒草や帚木では野暮ったいということなのだろうか。

 ミューレンベルギアには白い穂を上げるものもあって、そちらはリンドハイメリとかいうらしいが、珍しさ、華やかさ、細やかさでカピラシスにはかなわないだろう。

 カゼクサ(風草)やヌカキビ(糠黍)を知った時にもその繊細な穂の美しさに感嘆したものだったが、ミューレンベルギア・カピラリスにはそれ以上のインパクトがある。

 俳句に詠めるか? どう詠むか?


しろがねの穂の戦げるを冬といふ としこ

 

 これはパンパスグラスを見ていて出来た1句だったが……。因みにパンパスグラスの和名はシロガネヨシ(銀葭)というそうだ。

(2024・10)

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 3 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


3.「ぬばたま伝説」はなかった

 初期能村登四郎作品について、いわゆる「ぬばたま伝説」を能村登四郎、石田波郷、藤田湘子、山本健吉がどのように形成したかを2回にわたり述べて来た。これを序説として、以下では「ぬばたま伝説」が一種の都市伝説であり、実際の能村登四郎の作風の変遷はこれと全く違ったものであったことを検証してみたいと思う。8月の評論教室では時間の関係もありごく簡単に述べただけであったが、こうした伝説を否定するためには多くの資料を使ってかなりきめ細かく検討する必要がある。

 このため、能村登四郎のまだ無名時代である、23年1月から、脚光を浴びてゆく24年4月までの全作品を巻末にリストアップし、これら一々をその位置に置いて眺め、登四郎が何を考え何を感じたのかをたどりながら作風の変遷を確認してみたい(これは8月の評論教室で配布済み)。


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌


 この句は23年3月号の馬酔木集で巻頭句として掲げられた。

 実はこの直前、永らく馬酔木に投稿していた登四郎は行き詰まっていた。当時編集をしていた木津柳芽に句稿を見せたところ、柳芽は「こりゃあひどい、並々ならぬまずさだ。」と酷評されたという。柳芽は口の悪さで定評があったらしいが、そうした性格を割り引いても登四郎は落ち込まざるを得なかった。そんな登四郎を励ましたのは宮城二郎だった。宮城は、波郷の馬酔木復帰の橋渡しをし、その波郷の馬酔木復帰後日を経ずして不帰の客となった伝説の俳人である。高尾の俳句大会で宮城と語り合うと、宮城は「あなたはもう一歩というところにいるんだ。秋櫻子先生もそれを認めていらっしゃる。今やめては今までの努力が水の泡になる。一度先生とあった方がいい」と勧められる。実はそれまで句会には出ても、秋櫻子と話を躱したことがなかったのだ。やがて勇をふるって秋櫻子の勤める宮内省病院を訪れると、秋櫻子は登四郎を温かく迎え、「馬酔木には若い人を育てるために新人会というものを興して篠田(悌二郎)君に指導してもらっている。そこに入る人はみな僕が指名した人を入れるようにしている。君もそこに入って勉強したまえ。」と激励された。

 新人会は、毎月丸ビルの一室で開かれ、指導は篠田悌二郎、メンバーにはすでに何度も巻頭を取っていた藤田湘子や若手の秋野弘、五十嵐更三等がいて、22年の12月から登四郎も参加した。翌月句会場は涵徳亭に移され、この句会に投じたのが「ぬばたま」の句であった。この句は、篠田悌二郎の特選に入り、句会でも好評であったという。こうして得た句を登四郎は馬酔木の新樹集に投稿し、初めての巻頭を得たのであった。

 しかし、この句が登四郎の出世作になったのは間違いないが、この句で登四郎の句が「ぬばたま」風の雅な俳句になったかと言えばそれは疑問である。巻末に1年間の登四郎の馬酔木掲載全作品を掲げたが、「ぬばたま」風の雅な句はほとんどない。唯一、23年8月号で第3席を得た


老残のことつたはらず業平忌


ぐらいしかない。登四郎の毎月の作品にはこうした雅な句の影響はほとんど現れてはいないのである。

     *

 これは「ぬばたま」伝説に現れるもう一つの句、


長靴に腰埋め野分の老教師


についてもいえる。この句は26年4月の、馬酔木30周年記念コンクール受賞で発表されたものだが、この句を端緒に教師俳句がおびただしくつくられるのだが、逆にこの句以前にはほとんど教師俳句を見る事が出来ない。「ぬばたま」の句と「長靴」の句の3年の間にはこれをつなぐ必然的な句が存在しないのである。それではこれらの句の間に存在したのはどんな句であったのか、それらこそが登四郎俳句生成の秘密になるのではなかろうか。以下この失われた作品群を探求してみることとしたい。

    *

 ここで再び触れる機会がないので「ぬばたま」の句についてひとこと言及しておきたい。上の経緯からもわかるように、「ぬばたま」の句は、先ず篠田悌二郎によって発見されたのだ。当時(つまり波郷が馬酔木に復帰する前)秋櫻子の最も厚い信頼を受けていたのは篠田悌二郎であり、だからこそ新人会の指導も任せていた。併し波郷の復帰に伴い馬酔木における波郷の影響力は強くなり、悌二郎は次第に後退し始める。こんな端境期に現れたのが「ぬばたま」の句であったのだ。結社政治のもたらした不運が「ぬばたま」の句であったと言えなくもない。実際、悌二郎派に属していた湘子・登四郎が波郷派となってゆく印象は否めない。

 こんな話は邪推とも思えなくもないが、登四郎自身、米沢吾亦紅が俳人協会関西支部長に就任したのをきっかけに山口草堂が馬酔木に距離を持ち始めたと私に語っていたのを聞いたことがあるから、見当違いではないだろう。


資料 能村登四郎初期作品データ。

(制作年月の次の〇数字は新樹集の席次。*は下位作品)


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

かがみゐし人のしごとの野火となる

潮くみてあす初漁の船きよむ

ななくさの蓬のみ萌え葛飾野


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)

雪といふほどもなきもの松過ぎに

雪天の西うす青し雪はれむ

佗助やおどろきもなく明けくるゝ


雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)

匆々ときさらぎゆくや風の中

蓋ものに春寒の香のさくら餅

松の間に初花となり咲きにけり


弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)

人いゆく柴山かげや春まつり

さく花に忙しききのふ無為のけふ

さくら鯛秤りさだまるまでのいろ


うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

摘むものにことば欠かねど蕗生ひし

畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ


部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家

梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき

藺の花の水にも空のくもりあり


老残のことつたはらず業平忌(23・8③)

黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ

白麻の着くづれてゐて人したし

白靴のしろさをたもち得てもどる


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする・

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ。


長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり


白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり


露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)

鶏頭やきはまるものに世の爛れ

朝寒や一事が俄破と起きさする

林翔に

貧しさも倖も秋の灯も似たる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

わが胸のいつふくらむや寒雀

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる


霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

またけふの暮色に染まる風邪の床

かけ上る眼に冬樫の枝岐る

  殿村兎糸子氏を新人会に迎えて

朱を刷きて寒最中なる返り花


凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

遠凧となりてあやふき影すわる

水洟を感じてよりの言弱る

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる


老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)

新雪の今日を画して為す事あり

卒業生言なくをりて息ゆたか

風邪熱を押して言葉にかざりなき


●戦前作品

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)

枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)

盆のものなべてはしろくただよへり

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


●戦後作品(受験子・教師俳句)

受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)

しづかにも受験待つ子の咀嚼音

あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)

氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)

長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)

教師やめしそのあと知らず芙蓉の実


【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり17 矢野玲奈句集『薔薇園を出て』(2024年8月刊、テイ・エム・ケイ出版部)豊里友行

 矢野玲奈さんは、2009年に大変な話題となった新人発掘のアンソロジー『新撰21』のひとり。その新撰21のメンバーの中でも正統派の俳人として注目を集めていたのを思い出す。


三越を過ぎて日銀花の雨


 三越 (みつこし)は、 三越伊勢丹ホールディングスの傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店 を起源とする日本の老舗・百貨店。日本銀行(日銀)は、1882年に日本銀行条例に基づいて設立された、日本の中央銀行のこと。これは、個人や企業などを対象とした銀行ではなく、金融機関を対象とした銀行で、また1万円札や5千円札、千円札といった紙幣(日本銀行券)は、銀行等の金融機関を通して、日本銀行から供給されている。この俳句で詠まれている日銀は、勝手ながら私は、日本銀行本店本館のことかな~と想像しながらその周辺の地図を読む。花の雨(はなのあめ)は、 晩春の季語。花の種類は、どんな花でもいいと思う。花壇とか。花瓶とか。都会の森で目に留まる花に雨粒を見出せる感性が欲しい。三越を過ぎて日銀へと続く雨が、しとしとと落ちて花に雨粒が雫を落としたりするなら風情がある。作者の心情は、此処では描かれていないのだが、俳句鑑賞者それぞれの花の雨を楽しんでもいい。俳句の骨法もさることながら大都市・東京をさりげなく活写するように鮮やかに盛り込みつつ季語がきらりと光る。この俳人の特筆すべき才能であることを見逃せない。


 この句集で主軸になるのはもちろん矢野玲奈俳句の母の視座であることは、云うまでもない。そこから家族や子への眼差しが俳句を愛おしい日々として紡がれている。


こんなにも床にちらばるおもちや春

復職といへど席なく青葉騒

思ひどほりに蚕豆の茹で上がり

待春や子の腰掛けとなる私

三人家族に十匹の秋刀魚かな

行春や表紙の違ふ母子手帳

重陽や胎の子と湯をあふれしむ

分娩台上の昼食みかん付き


 矢野玲奈俳句は、明るい。子育ての大変さも床の玩具のこんなにも散らばる春と感受する。「復職」への不安を覗かせる俳句もある。妻であり母として毎日の料理の中で蚕豆(そらまめ)の茹で上がりに微笑んだり、自分自身が子どものを定位置に座らせる腰掛けになっていたりするユーモラスさも。3人家族に10匹の秋刀魚という数字で云うなら家族での秋刀魚の配分にもユーモラスさも感じる。

 そして第2子を身籠る母の視座は、表紙の違う母子手帳に俳句日記のように俳句にとどめる。その胎児と湯を溢れさせるのも。いよいよ誕生の分娩台で昼食みかん付きであることには、たくましさやしなやかさ、あっぱれささえ感じられて脱帽である。これらの俳句たちの季語の輝かせ方も『新撰21』から第1句集『森を離れて』、それ以後の今句集に通底している矢野玲奈俳句の明るさにあるようだ。

 彼女の俳句にある「空欄に入る言葉を探し春」など、まるで生命の息吹を宿す春を感じさせる明るさがある。

 女性として仕事を持つことの大変さは、あると思う。だがこの句集で描かれている家族における妻として母として日常を俳句に詠む女性には、薔薇園の棘もあるであろう艶やかな世界をまるで蝶のように舞う感性で俳句にされていているようだ。春夏秋冬をめくるように毎日の日常で詠まれた俳句たちは、確かな矢野玲奈俳句をたわわな果実のように実らせている。

 この句集の主軸を成している母の視座の眼差しを俳句鑑賞してみたい。


一通り遊具を揺らす夏ゆふべ

秋潮や水平線は肩の上

保育園へは鈴虫に会ひに行く

着ぶくれの肩を叩きて別れけり

本棚をはみ出す絵本クリスマス

春の日の屈めば背(せな)に乗りくる子

子に教ふ葡萄の種の出し方も

秋暑し額を縫ふといふ知らせ

指差せばきらきらと散る目高かな

ときどきは子の入りくる蒲団かな

柚子湯とは宿題終へて入るもの

クリスマス過ぎても聖歌うたふ子よ

子は二つ夫は一つの粥柱

寒月や三度乳欲る夜泣きの子

みつ豆を好きになりたる齢かな

節分の面つけしまま子の帰宅

眠る子に近づいてくる金魚かな


一通り遊具が揺れるのを見つめるのも。

子の背丈の位置を水平線に記しているようにも。

保育園の鈴虫に会いに行くのも。

着膨れの肩を叩いて別れるのも。

本棚をはみ出す絵本も。

屈(かが)めば背中に飛び乗る子の重さも。

葡萄の種の出し方を子に教しえるのも。

額(ひたい)を縫うという知らせも。

指差せば、きらきらと散る目高(めだか)たちも。

ときどきは子の入りくる蒲団にも。

柚子湯とは宿題終へて入るものという決め事も。

子は二つ夫は一つの粥柱を俳句にするのも。

三度も授乳を欲して夜泣きする子も。

みつ豆を好きになる子の成長も。

節分の面をつけたまま子の帰宅するのも。

眠る子に近づいてくる金魚という詩情も。


 沖縄の歌に「てぃんさぐぬ花」がある。この歌にある“てぃんさぐの花”は、鳳仙花のこと。

 鳳仙花の花を爪先に染めるように親の子を思う心を子もまた心に染めなさい。天の星のように親の子を思う心は計り知れないものだ。そんな感じの歌だったと思うが、あるがまま等身大に詠まれた矢野玲奈俳句の母の視座にも通じるものがある。

 第1句集『森を離れて』から第2句集『薔薇園を出て』における人間としての成長過程もあるのだろう。

 これらの矢野玲奈さんにとってかけがえのない俳句日記のような愛おしい俳句たちが、575の俳句に込めたオンリーワンな母の視座へと昇華されて俳句の世界の裾野をもっともっと拡げてほしい。

 共鳴句の数々も下記にいただきます。


寒晴やまだ文字のなき大看板

重なり合へる紫陽花のまるき影

ぽつかりと待合室に金魚玉

待春や絵の具混じらず重なりぬ

祭笛にはかに亀の動き出す

歳晩の一音となるオルゴール

卒園式先生がまづ泣いてをり

春愁の耳にマスクのゴムかける

緑の絵本閉づればけふ終はる

匙よりも大きく掬ふ水羊羹

冬の海へと繋がつてゐる駅舎

芍薬の芯見せぬまま枯れにけり

梅雨空を蹴るや赤子の足の裏

天高し組体操の笛短か

さみしくはないのここにも落椿

とんぼうのゆらりと吾を過ぎゆくよ

ままごとのみんなママなりねこじやらし


2024年10月11日金曜日

第234号

                  次回更新 10/25



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令和六年夏興帖
第一(10/11)小野裕三・曾根毅・大井恒行・仙田洋子・辻村麻乃

令和六年春興帖
第一(6/21)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(6/28)小野裕三・水岩瞳・中西夕紀・神谷波・坂間恒子・山本敏倖・加藤知子
第三(7/12)岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀・杉山久子・松下カロ・木村オサム
第四(7/19)小林かんな・ふけとしこ・眞矢ひろみ・望月士郎・鷲津誠次・曾根毅
第五(7/26)花尻万博・早瀬恵子・大井恒行・竹岡一郎
第六(8/23)高橋比呂子・なつはづき
第七(9/13)青木百舌鳥・小沢麻結・渡邉美保・前北かおる
第八(9/27)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・筑紫磐井・佐藤りえ


令和六年歳旦帖
第一(5/25)辻村麻乃・豊里友行・川崎果連・仲寒蟬・仙田洋子
第二(5/31)小野裕三・水岩瞳・神谷波
第三(6/8)山本敏倖・岸本尚毅・浜脇不如帰・冨岡和秀
第四(6/14)杉山久子・木村オサム・小林かんな・ふけとしこ
第五(6/21)眞矢ひろみ・望月士郎・曾根毅
第六(6/28)花尻万博・早瀬恵子・大井恒行
第七(7/12)竹岡一郎
補遺(8/23)青木百舌鳥・小沢麻結・渡邉美保・前北かおる
補遺(9/13)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子
補遺(9/27)筑紫磐井・佐藤りえ

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筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊/2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

■連載【抜粋】〈俳句四季8月号〉俳壇観測260 鷹羽狩行の晩年——『十九路』『二十山』を読む 筑紫磐井

 鷹羽狩行の29年以降

 鷹羽狩行が5月27日逝去した。享年93であった。この2~3年表舞台に姿を現さなかったから、正に不意打ちのような報せであった。念のために鷹羽狩行の略歴を掲げておく。


【略歴】昭和5年10月5日 、山形県出身。本名・髙橋行雄。山口誓子と秋元不死男に師事。第1句集「誕生」で俳人協会賞、その後芸術選奨文部大臣新人賞、毎日芸術賞、蛇笏賞、詩歌文学館賞、日本藝術院賞等を受賞。毎日俳壇選者、日本芸術院会員。平成14年年、俳人協会の会長に就任、29年に俳人協会名誉会長に。30年には「狩」を終刊し、31年に「香雨」の名誉主宰に就任した。


 正に眩いばかりの俳歴だ。恐らく総合誌が今後一斉に追悼特集を組むであろうが、このコラムでは晩年の鷹羽狩行について語ってみたい。

 鷹羽狩行が40年続けた「狩」を終刊する決意を決めたのは平成29年のことである。29年3月俳人協会会長を退任し、名誉会長に就任する。29年12月号で、「狩」の終刊を告げ、後継雑誌に片山由美子の「香雨」が創刊され、狩行はその名誉主宰となる旨を述べる。

 以後、終刊に向けての準備は着々と進む。明けて30年1月には歌会始の召人として出席、俳人協会総会で功労賞を受賞。第18句集である『十八公』も刊行した。後継者の片山由美子は30年4月に毎日俳壇の選者に就任する。しかし、狩行が毎日俳壇の選者を辞退した訳ではない。師弟が同時に同一新聞俳壇の選者を勤めるのは、朝日俳壇の加藤楸邨、金子兜太以来の珍しいことだ。そして9月「狩」40周年大会を生地山形県で開催。そして30年12月、「狩」を終刊させ、別冊『狩の歩み40年』を刊行。この間、新しい俳句シリーズ「十九路」を発表し続ける。

 31年1月に片山由美子主宰雑誌「香雨」が創刊され、鷹羽は名誉主宰に就任する。「香雨」の選や運営は当然片山由美子が行うが、鷹羽は「香雨」に席を置いてかなり自由な活動を始める。

 「香雨」の創刊時の鷹羽狩行の活動は次の通り予告されていた。

①「二十山」の連載開始

②「甘露集・白雨集・清雨集抄」(香雨同人作品)の抽出

③地方句会の指導

   (中略)

 しかし令和2年となるとコロナの感染が拡大し、地方句会の指導のみならず「香雨」の句会さえ開けない状態が続く。狩行の活動が定かに見えなくなり、「香雨」10月号で「鷹羽狩行名誉主宰の90歳を祝して」と言う特集で、片山・橋本美代子・有馬朗人・高橋睦郎の祝辞が掲載されているくらいである。そして、12月には四十年務めてきた毎日俳壇選者を辞退することとなった。

 令和3年1月から、「二十山」の作品は新作でなく、「俳句」令和2年12月発表作品を分載することとなり、それも8月号から休載することとなった。「甘露集・白雨集・清雨集抄」も12月号で連載を休止することとなった。4年1月号で片山由美子は「名誉主宰による「甘露集・白雨集・清雨集抄」は、先生のご負担が大きいため終了といたしました」と結んでいる。「休載」ではなくて「終了」と言うところに少しくらい雰囲気が漂う。

 6年1月号で鷹羽狩行名誉主宰が参加する本部句会そのものを(コロナ以来休止となっていたが)廃止することとなった。

 こんな中で6年5月を迎えることになった。死因が老衰と聞いて、これほど狩行に相応しくない病名はないように思った。いつまで経っても狩行は永遠の青年の明るさで生きているように思ったからだ。

   

鷹羽狩行最終句集

 ここで、鷹羽狩行の最晩年の作品を紹介しておこう。狩行は『誕生』『遠岸』『平遠』『月歩抄』以後の句集の題名に『五行』のように数字をいれたナンバリング句集として刊行しており、『十六夜』までを『鷹羽狩行俳句集成』(29年6月ふらんす堂刊)に収録して刊行した。『俳句集成』刊行以後も『十七恩』『十八公』を刊行している。従って、「狩」に掲載したままとなっている、『十九路』『二十山』となるべき残余作品は未だ刊行されていない。ここでは他誌に先がけて幻の「十九路」「二十山」を紹介しておこう(△は「俳句」令和2年12月発表作品を転載)。


「十九路」

散りやすく固まりやすき初雀(28.1)

ものの芽やもの書きはもの書いてこそ(28.4)

この世の香かの世の香とも黴の花(28.7)

麦秋へ降下はじまるわが機影(28.9)

鶏闘のすたれたる世に戦なほ(29.3)

富士といふ大三角や茶摘唄(29.4)

「かなかなの声も入れて」とカメラマン(29.8)

世に別れ蚊帳の別れもその一つ(29.10)

はじめ終りをあいまいに春の風邪(30.1)

滴りとしたたりの間のかくしづか(30.6)

走馬灯止まるとみせてより止まる(30.7)

縁談のととのふけはひ青すだれ(30.8)

もういちど開く扇をたたむため(30.9)

賀状書き終へかるくなる住所録(30.12)

「二十山」

数にわれ入れ忘れたる笹粽(令和元.5)

夕立のいさぎよさこそわれに欲し(元.7)

太陽が遠足の列待つてゐた(2.5)

流灯の数一千として詠みぬ(2.8)

冬耕の二人と見しは一人なり(2.11)

十二月八日の未明かく閑か(2.12)

椿落ちはじめたちまち数しれず(3.2△)

ともし灯をひとつふやして年守る(3.7△)


英国Haiku便り[in Japan](49)  小野裕三

「先生、俳句で比喩を使ってもいいんですか?」


 先日、英国俳句協会で開催されたあるオンラインイベントに参加した。英国各地や英国外の英語圏からも参加者が集まるZoomを使ってのイベントだ。その時の講師への質疑応答で出てきた参加者のある質問に、僕は不意を突かれた。

「俳句で暗喩を使ってもいいですか?」

 実はこの質問を聞いて、僕は「なるほど、やっぱりhaikuの世界ではそういう質問が出るんだ」と妙に納得した。というのも、例えばネットでざっと調べるだけでも、haikuでは比喩(暗喩だけでなく直喩も)は使うべきでない、といった説明は英語圏では容易く見つかる。

 一方、言うまでもなく、日本の俳句界で比喩を使うのはきわめて一般的だ。

 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく   兜太

 去年今年貫く棒の如きもの   虚子

 このように有名な直喩の句はいくつもあるし、暗喩の句も同様だろう。日本の俳句入門書には比喩の使い方が解説してあるし、俳句総合誌にもそのような特集記事はいくらもある。表題のような質問をする人が日本にいたら、諸先輩から一笑に付されるだろう。

 そもそも英語詩の世界では、直喩・暗喩だけでなく、詩のどの技法を創作で使うのかをかなり意識的に取り組むように見える。比喩以外にも頭韻・脚韻・強勢の置き方、など日本語の詩より駆使される技法もはるかに多様な印象がある。

 だが、さまざまのhaikuの入門解説を読むと、そのような英語詩に馴染みの諸技法とは違い、haikuとは一句内に二つの要素を並置するのが基本、とするものが多い。このイベントでの講師も、「haikuで暗喩を使ってもいいが、使い方には気をつけるべきだし、暗喩が効果的なのはより長い自由詩などだろう」との回答で、基本姿勢は似通っている。

 haikuにあるそのような姿勢は、歴史を遡ればより明快だ。以前の連載で(第24回)、英語圏初のhaikuと目されるエズラ・パウンドの詩を紹介したが、それもまさに要素の単純な並置からなる。

 The apparition of these faces in the crowd;

 Petals on a wet, black bough.  

    群衆の中に現れるこれらの顔 / 濡れた黒い大枝の上に花びら

 そしてパウンドは、単純な並置のみで詩を生み出すこの手法を、西洋詩にはなかったまったく新しい手法と評価し、「重置法(super-position)」と名づけた。

 そしてこの点にこそ西洋詩から見て際立つ俳句の特異性があるとするなら、現在のhaikuもその視座を引き継いでいることは不思議ではないし、ひょっとすると、日本の俳句の古き良き本質を純粋な形で継承しようとしているのがhaikuである、とすらも言えなくもない。

※写真はKate Paulさん提供

(『海原』2023年11月号より転載)

【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり16 句集『光る雪』(斎藤信義、令和6年2月刊、文學の森) 豊里友行

  先ずは、斎藤信義第五句集の帯文を記載しておく。


最北の地にちりばめむ光る雪

 『氷塵』『雪晴風』に次ぐ『光る雪』は、著者が目指した『雪』三部作で、北辺の俳人たらむとする意欲溢れる句業の証である。


真つ白く真つ暗くなる雪風巻(しまき)

一切の音消す雪となりにけり

ふかふかの雪ふかふかの北狐

一握の雪もて面をぬぐふかな

雪の上に鷲が狩跡のこしけり


 雪風巻(ゆきしまき)は、雪が降っている時に吹く強い風のこと。「吹雪」とも言う。真っ白くて真っ暗くなる。その荘厳な雪の白と闇の黒のどちらでもある雪風巻の自然の脅威。

一切の音を消すのが雪と捉えるのも。ふかふかの雪と北狐のリズミカルな対比も。恐らく伝統行事に使われるだろう面を一握りの雪を溶かしながら拭く所作も。鷲の狩跡が雪の上に見出す慧眼も。最北の地に生きる俳人の誇りが、様々な雪への拘りを俳句に昇華させている。


林立の土筆の浄土さまよへり

合掌の形に芽ぐむものばかり

手の平に沙羅一輪の湿りかな


 この斎藤信義の仏への世界観が、この風土に向き合う感性を内包している。

 林立する土筆の浄土のようにも感じながら彷徨うことも。

 合掌の形で芽吹くものばかりの把握も。

 手の平の沙羅一輪の湿りにも、それぞれに生命の存在感と宗教的世界観の融合が豊かな斎藤信義俳句の世界観を育んでいるようだ。


獣の気配まで消し山ねむる

蠟涙のごとく凍りし飛沫かな

死はかくも身近や遡上鮭の群

夕川原ほつちやれ鮭の頭蓋骨

緑陰のやうなる水族館ありぬ

托卵といふ一芝居打つて鳴く

草毟り過ぎて猫背になりし母


 鳥獣の気配まで消してしまう。そんな感受性が「山ねむる」の冬の季語を輝かす。

 蠟涙とは、蝋燭 (ろうそく)から溶けて流れた蝋を涙に例えた語。蠟涙のようにそこに水の飛沫を凍らせている。その観察眼の表現力に脱帽だ。

 鮭が次の世に生命を繋ぐために遡上鮭の群が天を目指して逆流する滝のようにも昇天するようにも見えてくる。その漲る生命感なのに夕川原に放置されている鮭の頭蓋骨と同じくらい死が身近なのだ。

 緑陰のような水族館の比喩の的確さも。

 托卵の一芝居を打って鳴くという物語性を創造したり。

 草を毟り過ぎて猫背になった母と把握する哀切感も。

 最北の風土を詠む俳人のあるがままの俳句が、人間も含めた大自然の生命や風土を鮮やかに描き出している。


 下記の共鳴句もいただきます。


骨董となるかんじきと馬の鈴

をのこらは薄氷に乗り村離る

足の指ひらき伸びきる春の猫

永劫といふ死後ありや春の闇

ひとひらの詩か草叢の蝶の翅

鞦韆に胎盤乗せて漕がずゐる

赤鬼の泪なるかもさくらんぼ

錆釘のあたまに塩辛蜻蛉かな

銃眼に蓋あり合歓の葉の睡り

立上がりしは闘争の北きつね

運命のとびらが見えぬ蔦紅葉

握りゐる唖蟬の震へ身を廻る

姥百合の群れなす竪穴住居跡

初冬の気圧が脳をゆさぶれり


■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 2 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


――現代俳句協会評論教室のフォローアップについて(2)――


2.「ぬばたま」伝説の拡散(波郷・湘子・健吉)

 能村登四郎が「ぬばたま」伝説を語り始める前に、「ぬばたま」伝説を作った人がいる。石田波郷である前述の通り波郷は「ぬばたま」の句を批判したのだが、具体的な文章はあまり知られていない。


【伝説資料3】

「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない【注】。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわに良寛忌』の方がかへって法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだったらこれは問題であらう。」「仰臥日記」―「馬酔木」24年3月)


 じっさいは、能村登四郎が書いた水谷晴光氏の句評にふれながら、登四郎の「ぬばたま」の句を批判しているのである。いきさつはこのようであったが確かに「ぬばたま」の句は批判的に取り上げられている。

 そして「ぬばたま」の句が取り上げられる次の機会が、登四郎の第1句集『咀嚼音』の跋文であった。


【伝説資料4】

「私が清瀬村で療養の日を送ってゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかった私は能村氏の

  ぬば玉の黒飴さはに良寛忌

の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。

 「黒酳さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書する生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊麗な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかった。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかった。

 その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通ってきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの彫響(反作川であっても)をのこしてゐると思ふ。

 能村登四郎といふ人は、物の理解のはやく深い人である。私などに指摘されるまでもなく、そのことはすでに承知してゐたのである。すでに壮年に達した氏は、理解し、納得してからじっくりと仕事にかゝる人であった。

 「長靴に腰埋め」一連の句を、氏は馬酔木誌Lで募集した新樹賞コンクールに提出した。作句の為の素材を生活の場に関りなく探し求める態度を放擲して、勤務先の学校での生活、職員室の同僚や、教室での生徒との人間的接触、家庭妻子、家庭にまでもち込んでゐる教師の体臭、翳、それらをもはや素材としてゞなく、それらの中から生れ出るものとして、氏らしい目と手で描き出してくる。「艮靴に腰埋め」から突然さうなったのではないが、この時を境に顕著にさうなったといへるであらう。」(『咀嚼音』跋文)


 前回書いた登四郎の「ぬばたま」伝説——秋櫻子に賞賛され波郷に批判された「ぬばたま」の句から、波郷に賞賛された「野分の句」へ——という道筋は、この波郷の跋文の中で明確となっている。

 跋文を注意深く読めばわかるように、初版本『咀嚼音』では「ぬばたま」の句は収められていない。普通序文・跋文は句集に掲載された句を取り上げるのが常識だし礼儀であるが、ここではことさら句集に収められていない「ぬばたま」の句が言及されている。ここから以下に述べる「ぬばたま」伝説の重層化した伝説が生まれることになる。

      *

 さてこうしたいったん成立した登四郎の「ぬばたま」伝説が俳壇に拡散するのは、登四郎自らが語るだけでなく、それを受容する人々がいたことを知らねばならない。それを証拠づける文献資料はたくさんあるが、特に藤田湘子の文章は大きい影響力があった。全く同時期に登四郎が馬酔木で競い合ったライバルであったし、波郷を引き継いで馬酔木編集長を勤めた湘子は馬酔木の戦後俳句史を語るにはうってつけの人であったからである。誰もその言葉を疑わない。

 藤田湘子は「沖」55年10月の「『咀嚼音』私記」で語り始める。長い物語なので適宜抜粋しながら見て行こう。


【伝説資料5】

「私は昭和十八年八月号から「馬酔木」を購読し、投句を始めた。その時分、新樹集二句欄の地名市川のところに、能村登四郎、林翔の名がいつも並んでいたという記憶がある。いまでこそ「馬酔木」も選がゆるくなったけれど、当時は入選率六、七〇パーセント、つまり投句者の三割から四割が落選(没)の憂き目を見ていたし、入選しても二句以上となると寥々たるものであった。だから、二句欄に載る人の名はすぐ覚えたのである。私はと言えば、投句を始めて一年間は、没と一句を繰り返していたのだから、能村さんの名は眩しくてしようがなかった。私に言わせれば、能村さんが一句十年を称するのは言葉のアヤであって、これは、上位の巻頭近くに進出しなければ一句も二句も同じという、きっぱりした気持に発していると思うのだ。」


 湘子は登四郎の「一句十年」の伝説も当時の状況では少し意味が違うことを指摘する。自身が感じていたことと周囲の人の見た眼は違うのである。

 さて、湘子がこの文章を書いたとき、初版の『咀嚼音』は改訂されて『定本咀嚼音』(49年5月)として世に広まったのである。そしてここで、「ぬばたま」の句は20年をへだてて復活しているのである。


「『定本・咀嚼音』が出たとき、私が興味を持ったことが一つある。それは、能村さんがどんな句を捨てどの句を再生させたかということである。定本の「後記」にはこう書いてある。

 「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬば玉の黒飴さはに良寛忌」のような私の思い出ふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」

 この部分を読んだとき、私には「ああ『ぬばたま」の句を入れたか」という強い感慨があった。この句を改めて加えたということで、能村さんの『定本・咀嚼音』を編集した姿勢や決意がわかるような気がした。初版から恰度二十年たった俳人能村登四郎の姿を、これほど端的に示すものはないと思った。」


 ここから藤田湘子の戦後馬酔木の懐かしい回想が始まる。我々にはうかがい知れない、その時その場にいた人にしかわからない雰囲気である。


「その頃の私たちの幸せは、なんといっても水原秋桜子、石田波郷という二つの巨星に、じかに接しられることであったろう。雑誌や句会での謂わば公式の場での批評、感想のほかに、酒席、雑談の席における両星の呟きや警句、そういったものをたっぷりと吸収できた。いま憶っても、贅沢で恵まれた作句環境と言うほかない。そのような環境下にあって処女句集を上梓できたことも忘れられないことであるが、当時相ついで出版された新人会メンバーの句集は、ほとんどが序文・水原秋桜子、跋文・石田波郷という豪華な二頭立てであった。余談になるが、亡くなった相馬遷子はこの二頭立ての姿を、碓氷峠の急坂を登る列車に譬えた。前部後部に強力な機関車を連結して、その力で高みへ押し上げてもらっている。」


 こうして当時の新人たちの句集(登四郎『咀嚼音』と湘子『途上』)の生成過程が語られ、或いは推測されるわけである。


 「『咀嚼音』も私の『途上』もそういう形をとった。そして、石田波郷の跋文は、『咀嚼音』と『途上』については、他の馬酔木作家の句集のそれより何故か厳しいように思われた。そのへんの詮索・解明は後日にゆずるとして、『咀嚼音』跋文の厳しさを感じさせる原因が、実はこの「ぬばたま」の句に対する批判に発しているのである。波郷は、清瀬病院に入院中の昭和二十四年にも、「馬酔木」に寄せた随筆「仰臥日記」の中で「ぬばたま」批判をやっている。その後『咀嚼音』発行の二十九年に、再び跋文の冒頭で、かなり強い調子で繰り返しているわけだから、この句がよほど気になっていたのだろう。波郷の言うところをここに詳しく紹介する余裕がないが、要するに、戦後の「馬酔木」の興隆を担うべき新人が、このような趣味的・非現代的な句をつくることは合点がゆかぬ、というものである。

 波郷が、五年前に書いた「ぬばたま」批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、

  長靴に腰埋め野分の老教師

という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当り障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賤な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に「ぬばたま」の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に「ぬばたま」があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけれど、私はあえて自分の推理をたのしむ。「ぬばたま」の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。

 もっとも、私かそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの「ぬばたま」対する愛着が、とりわけ深いということを感じとれるからだ。この句の初出は「馬酔木」二十三年三月号、すなわち能村さんが初巻頭を獲ったときのものであり、また、同年末「馬酔木賞」を受賞したときにも、この句が推薦作として入っているのである。自註シリーズの『能村登四郎集』に、「秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである」とあるのをまつまでもなく、こうした要の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。

 『咀嚼音』の草稿に、「ぬばたま」が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」


 以上「ぬばたま」伝説について、波郷、湘子の考えを述べた。最後に、もう一人重要な人物の見解を聞いておこう。山本健吉である。


【伝説資料6】

「つい先ごろ、私は登四郎氏が、自分は昔から波郷より楸邨に親しみを感じていたとの告白を聞き、やはりそうだったのかと思った。『合掌部落』が発表された時、私も取上げて讃めたことがあるが、言ってみればあれは当時の「社会性」俳句の時代色が濃厚に見られ、波郷より楸邨の句境に近づいていたと言えるのである。波郷と登四郎とは、「馬酔木」の内部でも、暗黙の中での牽引力と反視力とが重なって存在したと思う。それは『合掌部落』以前から、登四郎の出世作ともいうべき

  ぬばたま の黒飴さはに良寛忌

を、厳しく波郷が批判した時から、胚胎していた。その批判の正否は、今になっていろいろに言われているが、理窟以前の問題で、要するに波郷の胸中のムシの問題だったろう。もっと生きていたら、どう言ったか、ただ笑って過ぎたかも知れない。私はこの句を、変らずよい句と思っている。

 登四郎氏は波郷のみならず、師の秋椰子にも、一点自分との隔りを、拒み通す心を持っていた。それを獸邨に惹かれたとか、社会性を目指したとか言ってしまっては、少し間違うだろう。氏の美意識の根は、やはり獸邨より秋椰子や波郷と共通するものが多い。ただその反面に、その二人を拒もうとする潜在下の意識があって、それは相手にも暗黙に伝わるのである。秋椰子と波郷の間にあった黙契が、秋椰子と登四郎氏との間ではマイナスの諒解として作用したようだ。結社内の師弟関係とは、芭蕉と其角・嵐雪、あるいは去来、丈草、あるいは路通、杜国などの関係を見ても、単純に割切ることは出来ない。」(「沖」昭和60年10月「登四郎・翔そして耕二――沖に寄す」)


 湘子、健吉の文章は、「ぬばたま」伝説だけでなく、この句を踏まえた登四郎の本質にまでさかのぼる優れた批評であろう。

 しかしそれはそれとして、一句十年をへて、やっと秋櫻子の賞賛を得て巻頭を得た「ぬばたま」の句が、直ちに波郷の批判する所となり方向の変化を強いられた。その後、第1句集『咀嚼音』でも波郷に落とされ跋文でも批判された「ぬばたま」の句を、登四郎自身の判断で20年後の定本で復活させる。こんな壮大な伝説はなかなか見る事が出来るものでは無い。なるほど、美しい伝説ではある。しかし、本当にそれは正しい歴史なのであろうか。以下それを考察してみたい。


【注】波郷のこの批判を受けるに当たって登四郎が書いた言葉を眺めておこう。


【伝説資料7】

「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参篭と言ふアトモスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあったが今の苛烈な世相の中ではそれがうすれっつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。

 関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の溯は又一つのうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもっと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。

 俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。

  しらたまの飯に酢をうつ春祭

 私はこの句のもつ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思ってゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遙かに佳いものを期待してやまない。」(馬酔木24年1月「前進のために」)


 「前進のために」は秋櫻子が設けた若手のための相互批評欄であり、この回は、水谷晴光の特別作品「法隆寺」を登四郎が批評している。この時の特別作品には「松籟にこころかたむけ月を待つ」「十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ」「坊更けてはばかり歩む月の縁」等が含まれていて、いかにも古臭い作品であった。当時の馬酔木は誓子が創刊した「天狼」への恐怖心が大きく支配しており、「もっと現代色の濃い作品を」は頭で十分理解できるのであるが、しかし「しらたま」の句が美しくはあっても「今後の馬酔木の句はかくあるべきだ」とはとても思えない。波郷が反感を抱いてももっともなのである。

(続く)

澤田和弥句文集告知

 このたび、『澤田和弥句文集』(2024年10月 東京四季出版刊 3,520円)が刊行された。

 澤田は早稲田大学に入学し、早大俳句研究会で高橋悦男、遠藤若狭男の指導を受け、その後有馬朗人主宰の「天為」により活躍した。句集は唯一の『革命前夜』を刊行したのち、2015年5月9日に亡くなった。享年35であった。

 本句文集は澤田の知己たちが協力してまとめたものであり、忘れられないための記念記録だが、「豈」「俳句新空間」にもしばしば寄稿していただいた協力者であることから読者に広くお勧めしたいと思う。「俳句新空間」でも「豈」「俳句新空間」投稿記事を中心に『澤田和弥句文集』の補完文集を特集してみたいと思う。

<主な内容>

【俳句作品】

第1句集『革命前夜』

「早大俳研」・「天為」・「週刊俳句」・「第4回芝不器男俳句新人賞」・「のいず」・「若狭」掲載作品


【随筆評論】

寺山修司における俳句の位置について(「早大俳研」)

或る男・序詞(「天為」)

鉛筆(「天為」)

有馬朗人第一句集『母国』書誌学的小論(「天為」)

結論は俳句です(「のいず」)

俳句実験室(「若狭」)

寺山修司「五月の鷹」(「週刊俳句」)