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2023年12月8日金曜日

【連載】大関博美『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を読む⑥ 一人の俳句の書き手・読み手として 黒岩徳将

 大関博美『極限状況を刻む 俳句 ソ連抑留者・満州引揚者の証言に学ぶ』(以下『極限状況を刻む俳句』)はシベリア抑留の過酷な体験を生き延びた父がいたという個人的な背景を起点として執筆された。大関は「僭越なことだが、抑留者の父を持った子どもの使命として、父を含めた抑留者たちの語り得ぬ言葉を掘り起こし、少しでもソ連(シベリア)抑留者たちの実相とその思いを後世に伝えていきたい」と希望し、現代日本社会全体の問題として提起している。大関の父は「これといった表現手段を持たな」かったとある。積極的に語ろうとしなかった父の体験を間接的にでも理解しようとする目的も含めて、平和記念資料館にて父の足跡を資料から知り、抑留体験者の話を聞き、資料収集によりシベリア抑留・満州引き上げという歴史的事件の詳細を掘り下げて理解しようとしている。大関は「みな違う抑留体験があり、戦後の生き方も様々」であることを理解しつつ、抑留体験を伝える作品のうち、俳句を中心にとりあげて「ソ連(シベリア)体験や満州引き上げを体験した方々の、過酷な境遇を生き延びた思いを刻んだ俳句を読むことにより、作者たちの内面世界を理解し」ようと作品解釈・鑑賞している。第三章「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、大関自身が俳句経験者であるという特性が活かされ、抑留者の俳句の読解と作品の背景を掛け合わせて記した文章が、読者の一句の理解を促進する効果を成し得ていると考えた。


占守に戦車死闘すとのみ濃霧濃霧 小田保(『続シベリア俘虜記』)

 たとえば小田のこの句について、『シベリア俘虜記』に小田が記した随筆が抜粋して追加されている(戦記についての出典は定かではないと大関註あり)。占守島に上陸開始したソ連軍の止まない進撃に苦戦し、濃霧のために主力部隊の来援が遅れる事態があったことが付記されることで「濃霧濃霧」の繰り返しの切迫感の意義が強調されるように思われる。


死にし友の虱がわれを責むるかな 黒谷星音

 大関評に「抑留一年目の冬、作業大隊五〇〇名のうちの半数が亡くなり二〇〇名余となり、残った者は絶望の日々を送った」とある。労働苦を背負った死者から、寄生していた虱が離れる映像的おぞましさが「責むる」の壮絶さを強調する。


 俳人が句会にて選をするとき、一句だけを読むことで読者に景・状況・作者の感情などの情報がわかりやすく伝達されるかどうかを評価軸の尺度におくことは一般に多いだろう。作者の名が付され、シベリア抑留者であることを前提にして上記の句に向き合う時の読み解きとは、読者側のスタンスを句会と変えなくてはならないのではという問いが頭にちらつく。また、違う観点から捉えると、俳人が一句を読むときに、景・状況・作者の状況を「読めない」と感じることにより付帯する情報を取得し、時代や事件の背景をより深く知ろうとすることができるということを多くの句から感じられた。それほどに戦争を生の体験として持つ先輩世代と筆者との距離は遠い。遠いからこそ、本書序章にて記されている、旧満州で生まれ、句文集を出版した『遠きふるさと』の著者天川悦子氏が大関氏に「世代の違う貴方が、私たちの体験した戦争をどのように思うのか、楽しみ。思い切りやってみなさい」と言ったエピソードは、本書の戦争非「体験」読者にとっても他人事ではないということを痛感する。体験し得ないからこそ情報を得にいくことの重みを大関氏に教えていただいた。

 終盤の「全章のまとめとして」には、俳句や句座が当時、そしてその後の俳句作者の人生にどのように影響したか、その「働き」について大関が仮説立てし、シベリア抑留・満州引き上げの検証を、現代社会問題である阪神淡路大震災・東日本大震災・ウクライナ侵攻に敷衍している。「働き」といっても合理主義に基づいたものではなく、抑留者の中には命や尊厳を繋いでいくために俳句が手綱になった人がいたことを噛み締め、俳人生活と社会生活を捉え直したい。また、本書にも紹介されている抑留者が選択した他ジャンルの表現形式と比較して「なぜ俳句なのか」「俳句だからこそできることは何か」を問い続けることも一俳句作者としては必要なことのように思う。

 本書記載の直接的な内容からは外れてしまうのだが、本書を読み、筆者は自身の師系の流れに位置付けられるシベリア抑留経験者の俳句について読み直すべきだと考えた。昭和32年に「寒雷」入会、昭和50年に「椎」を創刊している原田喬は昭和20年に応召、終戦と共にソ連捕虜となり、23年にシベリアより帰還。第一句集『落葉松』に次の句がある。


シベリアにて二句

凍死体運ぶ力もなくなりぬ

雀烏われらみな生き解氷期

 死体を運び続けてきたからこそその力の失せ具合にやるせなさでは済まされない苦々しさがある。


固く封じてレーニン全集曝書せず

 本は自宅にあるが開く対象にはできないことに並並ならぬ苦しさを感じる。


次の句は喬の「これからの私の俳句」というエッセイに収録されている。


生くるは飢うることあかあかとペチカ燃ゆ(昭二一)

 私はその頃シベリアに抑留されていた。それは満三年間だった。紙も鉛筆もなかった。私はただつぶやいては自分に言ってきかせた。私の抒情の甘さは今日に至るまで私の本質であることを変えていないが、この句はその原型であると思う。飢えて死ぬというきびしさをまともに追求せず、飢えている自分を傍観している放心状態を、ペチカという言葉が持つ異国情緒の中で歌っている。これは歌うは訴うという本来の力を持ってはいない。(「寒雷」1973.9)


 喬は、シベリア抑留体験が俳句になるときに作者が何を求めたか、そして俳句を結晶化させるときに作者として何を求めるのか、何に格闘しているのか上記文章からうかがえる。自句自解は句の持つ力を作者自身が信じられていないから行うのはよろしくないという意見があると思う。ただ、このエッセイは、散文で述懐するしか、自身の中でけりをつけることはできなかったのかもしれない喬の心中を思った。何より抑留体験を材にした自句を叩くというストイックさに、喬が体験を自己の俳句に昇華させるためにもがいていたことがわかる。「沖縄タイムス」(2023,9,5)の『極限状況を刻む俳句』書評では「俘虜死んで置いた眼鏡に故国(くに)凍る 小田保」「棒のごとき屍なりし凍土盛る 黒谷星音」を引用し、「死や凍結が文芸としての比喩ではなく、現実の風景だった」ことを指摘している。これは現代俳句でも重要な論点だと筆者は考える。2023,10,18に現代俳句協会事業部が公開しているYouTube動画「いまさら俳句第四回 「前衛俳句の手法は現代でも有効か?」」において、後藤章は川名大に現代と切り結ぶときの手段としての暗喩の可能性を問うている。川名は「喩えるものと喩えられるものが完全にイコールになってしまうと喩えられるものが広がっていかない」「一句全体でもってメタファーになっていないと効果が出ない」と断じ、金子兜太の句の好作として「我が湖あり日陰真暗な虎があり」を挙げ、心の中の思いとか性情を表している」「精神的な世界の中で虎が潜んでいる」と、比喩の対象を御し難い存在として捉えると広がりがある」述べている。川名の捉え方で考えると「死や凍結が文芸としての比喩ではなく、現実の風景だった」として作られた句は文芸的価値に乏しいとみるのだろうか。また、喬の言う「歌うは訴う」は川名が価値を置く暗喩の力と重なり合う部分があるのかどうかということも筆者は即時判断できない。

 「寒雷」1999.9の原田喬追悼特集にて九鬼あきゑが遺句五十句を抄出しており、次の句が最後に記されている。


流氷やわが音楽はその中より 喬(『長流』にもあり)


 大須賀花は同号にて「この流氷は厳寒のシベリア抑留時代のものと想像するが、先生の胸にはいつも流氷があり続けたのではないかと思う。」と鑑賞している。原田氏から直接話を聞いたことのない筆者としては、この「流氷」の一語をもって原田喬の句業をシベリア時代のイメージを被せて飲み込むことに躊躇いを覚える。「音楽」を創作表現の比喩として捉えるとき、ここに俳句作者の込めた思いと読者の解釈鑑賞に齟齬が生まれる可能性があり、その齟齬を齟齬のまま飲み込んだときに何が生まれるのかということに注意はしながら味読するべきかと思う。