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2023年1月20日金曜日

【句集歌集逍遙】二冊の歌集をめぐる思索/佐藤りえ

 2022年に刊行された歌集について、年末年始、よかったなあとふりかえる瞬間があった。尾崎まゆみ『ゴダールの悪夢』、小林久美子『小さな径の画』というヴェテランによる二冊がそれである。

『ゴダールの悪夢』は尾崎まゆみの第七歌集。タイトルにもあるように、イメージの色濃い固有名詞が数多く詠み込まれているが、筆者が着目した点は、一首の中にレイヤーを感じさせる、奥行きのあるうたいぶりだった。

七曜のときのめぐりのなかほどの水曜日みづの羽音が痛い

樹はやはく言葉としての木洩れ日を砂利道にしらしらとこぼして

一首目は週の真ん中に位置する水曜日を、「水」からイマージュを拡げて水鳥の羽音に結び、週半ばの鬱屈を「羽音が痛い」と表しているものと読んだ。

二首目は樹間の木洩れ日が「言葉として」もさしている、と言っている。光の動きを見ながら、これは「木洩れ日だな」と確認する、かそけさを言葉で掬いとっている様子だろうか。

なよたけのとをよる姫のゐるならむ竹の林を電車はすぎて

やさしさはここに来てゐる人といふ象形文字の下の空白

一首目、電車の窓外に竹林を見ている。そのとをよる(しなやかにたわむ)竹に、竹取物語のかぐや姫がいるだろう、とふと夢想する。「なよたけのとをよる」は万葉集の巻二、柿本人麻呂の「秋山のしたへる妹なよ竹のとをよる子らは」を引いている。案外身近な、ささやかな竹林にこそ、かぐや姫がひそんでいるのかもしれない。

二首目、「ここに来ている人」をあらわす象形文字の構成の一部、位置でいうなら下側に空白部分があり、そこを「やさしさ」と感受している。該当する象形文字は未見ながら、一文字か、いくつかの文字の組み合わせかによってあらわされた〈意味〉とは別に、「やさしさ」もそこにあるのだという。絵文字より具体的に、モノへの還元を目的とされた象形文字に、意味以外をじんわりと見出す、そんな書かれ方になっている。

これらの歌に共通するのは、眼前の日常・事象に、言葉への思索が混じり合い、言葉の世界と現実が境界なく表されている点である。日々を過ごしながら、詩歌のフレーズが浮かび、触れたものと言葉の端緒がつながる。そういう瞬間は、よくよく身に覚えのあることだ。現実の世界に、言葉のレイヤーともいうべきものが重ね合わされ、それらを区切りなく表すと、このようになるのではないか。

つま先をたてて歩けば黄泉路への路銀こぼれる音の響いて

微熱もつ水のゆらぎの輪郭をとぢやうとしてグラスに注ぐ

現実世界を空想的に切り取る、といった考え方より、常に言葉への関心が心中に自然とあり、細胞膜から内容物が浸潤するように、言葉が現実に入り交じっている、と思って読んだ方が、作品への接し方として自然なのではないか。

そんなことを思いながら読んだ歌群だった。

『小さな径の画』は小林久美子の第4歌集。20の章を持つ、全篇多行書きの短歌集である。

地名や言語についての単語もいくつか詠み込まれているが、具体的な場所は特定されていない、しかし欧州の寒村を思わせる描写があり、全篇をしずかな村の雰囲気が包んでいる。時事を直接詠み込んだものはないが、現在の北欧とロシアの緊張関係をふまえた上で、喪失の予感、傷みの堆積が下地となっていると考えて差し支えのない、静かに張り詰めた歌群が並んでいる。

計由(キエフ)
その名を口にする
だけでもう貴女が居なく
なりそうになる


予期しないことを迎えて
享け入れる
謐かにひらき閉じる
扉は

多行書きの短歌にもさまざまな傾向があり、素直に五句を句ごとに折るものとするもの、さらにそこに、疑いなく意味のくびれをもつもの、などがどちらかといえば多数派なのではないかと思う。小林のこの歌集はそういった傾向より、自由詩の改行に近い試行がなされているように見える。

多行で書く意味、などという問いかけは、書かれているものに対して大上段に構えた物言いに違いないが、直前にひいた二首にその意味は明らかに見てとれる。

私見によれば、改行には意味がある。まず、改行は一拍子あるいはそれ以上の休止を意味する。次に改行のたびに音はリズムもアリテラシオン(頭韻)もアソナンス(母音の響き合い)も質を変えてよい。意味も跳躍を許される。すなわち、改行は詩に転調、変調、飛躍、回帰を許す。そして、改行は朗読を、ゆるやかにであるが、指示する。特に、長い一行は早く、短い一行はゆっくりという読み方を促す。(「翻訳詩1 散文詩九篇--『カイエ』より〔含 解説〕」中井久夫『現代詩手帖』10/2005)

これらは詩の改行にかんする言葉ではあるが、小林の多行短歌が自由詩の改行をまったく勘案せずにいるとは考えられない。改行によって生ずる間合い、単語・文節との意味のずれ、一首のなかで進むスピードについての思慮が充分に読み取れるからだ。

試みに(とても無粋な試みではあるが)一首目を1行の表記にしてみよう。

計由(キエフ)その名を口にするだけでもう貴女が居なくなりそうになる

「貴女」を失う予感が、性急なモノローグへと変貌を遂げる。特に多行での二連から三連に渡る、二連の末尾が終止形でなくなることで生じる驚きのニュアンスが失われてしまう。

改行は次行へうつる時間の推移も担うものであるから、戸惑い、思考の長さ、といったところもなくなってしまう。

二首目の結句が、音数からいえば途中で(下七の三音目)区切られているところなど、五七五七七の音数を経て、さらに屈折があるわけだ。


雪が覆ってくれるのを
待ちながら
死骸の禽は土を動かず


窓の下 扉(ドア)脇
やはり窓の方
西洋箪笥(チェスト)を人に
搬ばせる午后


こちらの二首も時間の経過を思わせる効果が感じられる。一首目、やや破調にはじまり、真ん中の行にぽつんと置かれた「待ちながら」が、前後の行に挟まれ、ぽつねんとしているように見える。最終行の「しがいのきんはつちをうごかず」は漢字の造形も、イ音とウ音の掛け合わせも、寒々とした効果を挙げていると思う。

二首目、家具を家内でうろうろと移動する、字アキを含む一連と二連に、そのさまよう感じが表れている。視覚的な効果はブックデザインにもあり、マガジン紙のようなニュアンスと色味のある本文紙が、つるっとした書籍用紙より、詩句のもつ陰影をよく支えている。


人を画(か)くあいだ
淋しく包まれる感じを
悦(よろこ)びと呼んでみる


また、この歌集には絵を描く場面が多数えがかれ、その主題が多く「絵を描くということ」であることにも注目した。「描く」というのも、あらためて思えば不思議な行為である。描く人と描かれる人、モノ。「描く」ことを中心に据えて考えると、そこに哲学的なものを見出さずにはいられない。

短歌について、一行書きを常とすれば、表記やルビ、記号といった表象が工夫の対象となる。多行によってもたらされる〈時間〉〈視覚〉を含むこうした試行は、あらためて言葉の吟味、速度、意味と韻律のかけあいなどについて、考えを深めるものがあった。

なにより、この静かな世界を、喧噪に満ちた年末年始に読めた喜びは深かった。