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【ピックアップ】

2022年12月23日金曜日

髙鸞石の鏡像を探る試み   竹岡 一郎

 1 予知


 髙鸞石の連作「時空糞」に、非常に特異な句がある。

(この論における引用句は全て、髙鸞石・作)

コンビニで殴られ奈良の狙撃を懐かしむ   「時空糞五」              

 自分はコンビニで殴られ、そして過去に在った奈良の狙撃を追憶している。「懐かしむ」とあるから、その事件を妙な親しみを込めて思っている。社会的な大事件と、自らの個人的には重要な事件が同時期に起こった場合、こういう懐かしさが往々にして生じるものだ。コンビニとは、作者にとっては或る種の悪を孕んだ処だと、以前、

コンビニの世紀コンビニで母殺され     「灰燼乃地」

において論じた事がある。母なる者、母を思わせる細々とした手作り全てを葬り去るコンビニ、日常の物は全て揃う、便利な、お手軽な、量産の利く場所、現代の均一な生活を象徴するような場所、という意味で解釈したと思う。

 そのコンビニで殴られるという事は、作者自体はコンビニにとって異質な者、コンビニに相応しくない者、更には「コンビニの枠外の世界から来た者」という自覚さえあるのではないか。その殴打という屈辱に際して、懐かしく思い起こされる記憶が、「奈良の狙撃」であるというのだ。

 地名が冠せられる狙撃は、ダラスにおけるケネディ狙撃などを思い起こすまでもなく、重要な事件だ。一国を揺るがすような事件かもしれない。その重大な事件が、作者のような一市民が殴打された事と等質に語られるという不思議さ。

 いや、作者の人生における殴打事件の割合と、国の歴史における一狙撃事件の割合を比較するなら、等価ということになるのかもしれない。国にとっての一狙撃事件くらい、作者の人生にとって一殴打事件が影響を落としたという事か。その比較の仕方が、何とも鳥瞰的だと思う。

 だが、地名が動くのではないか。ここは京でも滋賀でも良い気がする。例えば新選組がらみの数々の血腥い事件等を思い起こせば、京の方が狙撃事件には相応しいのではないか。

 奈良は水原秋桜子の好きだった土地だ。白っぽい土の、少し寂びれた感があり、名刹や文化遺産が今も林立する、のんびりと奥ゆかしい観光地といったイメージで、狙撃という、世を震撼させる事件には凡そ相応しくない。

 地名は季語と同じくらい大事なもので、地名を入れるなら季語は不要という説があったと記憶している。だから「地名が動く」とは、「季語が動く」と同じで、句にとっては未だ練れていないに等しい。そういう理由で、句としては中々面白いが、取り上げるほどではないか、と看過していた。

 以上、掲句が、髙鸞石のブログ「悪霊研究」に発表された令和四年三月二十一日以後、おおかた四月くらいの感想だ。

 ところが、事態は一変する。安倍元首相が七月八日、奈良市の近鉄大和西大寺駅前で狙撃され、死亡した。「奈良の狙撃」である。ここに至り、この地名は動かざるものと化す。しかも「懐かしむ」。この句においては、作者は七月八日以降の何処かの時点にコンビニで殴られ、懐かしんでいる。そして、どんなに遅くとも、三月二十一日の時点で、安倍氏狙撃及びその後のコンビニ殴打事件を見ている事になる。

 「狙撃」そして「奈良」、この二つが句中にある事は、予知と言っても良い。俳句でこういう例は、寡聞にして他に知らない。これが七月八日以降に発表された句なら、時事句に良くある「後出しジャンケン」の句だ。

 だが、この句は、いわば「先出しジャンケン」で、しかもジャンケンに勝ってしまった句だ。三月二十一日の段階で、安倍氏の遊説日程が決まっていた筈はない。

 この句は一種の「有(う)の通力」の具現なのだろうか。昔風に言えば「妹の力」、今風に言えば「シャーマン」か。作者の作句傾向から見れば、こういう異能も、霊的なものが当たり前に肯定されるような世界も、作者自身は否定したいかも知れない。だが、現実に書いてしまった。そのことを、自らの深みからの「教示」と受け取る事も出来るのではないか。

 もう一つ言えるのは、作者が普段から日本の国の有様に対して強い関心を抱いている事だ。関心が無ければ、この種の出来事に関して予知は出来ない。ブログで発表する連作に、毎回、「日本人が日本人を滅ぼす時代に、われわれは何を発信できるのか。」と記されている事からも、その関心は明らかだ。

 その関心が如何なる立場からのものなのか。唯物論、無神論の立場か、それとも霊的な世界を肯定する立場か。それによって、自ずから観る領域は変わってくる。

 注意すべきは、その予知の異能を期待するのではなく、その依って立つ処の、業そのものを見つめる事だ。私自身の体験から、また親しく見聞きしてきた例から言えば、この種の異能は殆どの場合、血脈によって相続される。そういう血脈には善きにつけ悪しきにつけ、往々にして(神に関わる)強いモノが深く沈んでいる。

 その強さ深さを嚙み締めつつ、血脈の全体を鳥瞰しようと試みる事、自らの魂という樹を、その根の深くに至るまで見通してゆく、絶えざる努力が必要となろう。本人が意識して観照を試みるより他ない。

 そこから新たな句が開拓されるかもしれぬ。空中の観測点と言っても良いか。その観測点から見る風景は、この世の地上に縛られて観る景とは、別の様相を呈するだろう。


2 蛇または臍帯または根


 髙鸞石の連作、「東京虞輪」から次に挙げる。

目瞑れば

へそのお

ににるあ

おいへび      

 「目瞑れば」で一旦切れるのは、瞑想の長い沈黙だとして、その後の三行の切れは何であるか。沈黙の空白の後、「○○(という空白)へ其の尾」とも読める。尾と言えば、「尾を引く」という言葉が浮かび、それならば「○○から其の尾」となる筈だが、「○○へ」と記されれば、尾に関わる方向が反転する。

 「に煮る吾」または「に似る吾」とも読めて、煮る事が似る事に、似る事が煮る事に繋がるのであれば、煮られまた似るのは吾だろう。吾を煮詰めて何に似るのか。根に似るのだ、或いは臍の緒に。「蒼い蛇」は、「吾」が無くなることにより、「老い蛇」とも読めて、蛇の時間が反転する。

 臍帯は血が滞れば死の色に青ざめる事を考え、死は肉体を分解する事を思うなら、「目瞑れば臍の緒に似る青い蛇」を平仮名に至るまで分解し、様々な断片を映す鏡の砕片にしようと試みている、とも取れる。この世の鏡像ならば左右が逆転するだけだが、上下、深度、時間もが逆転するならば、その鏡像は、一人の魂と世界との関係を映していると言えようか。

 この句に表わされる「世界」は当然、人間が普通に知覚するだけの世界ではない。地祇をも含めた世界だ。蛇は「ハバ」或いは「ハハ」であり、地祇であるからだ。

 まなうらに観える蒼い蛇を、自らと母体、或いは自らと地祇を繋ぐ臍の緒と、一旦は感得する。それはそれで一つの推察だが、その推察を構成する直感を、更に分解してゆこうとする試みが多行句となって、一旦は表わされる。

 当然、全ての試みは「一旦は」に過ぎない。臍の緒を探る試みは幾度となく繰り返される筈だ。自らの根を探る作業は、このように自らを断片の集合と見做し、再構成して、臍の緒の依って立つ処の臍の緒、幾代幾十代もの臍の緒、即ち根に肉薄してゆく推察となるだろう。


3 鏡と糞


 髙鸞石の句には糞が良く登場し、そんな彼の句を論ずることは糞を摑むに等しいかもしれぬが、「行者は糞をも摑め」という言もある。糞は地を肥やすものでもあり、糞から生まれた神も在す。私は自分の似姿を論ずる如く、先ずここで髙鸞石の鏡の句を挙げる。

 髙田獄舎名義から現在の髙鸞石名義に至るまで、発表された句は全て保管しているから調べてみたが、「鏡」の語は、「痴霊記」以前には全く出てこない。獄舎名義の句群に「眼鏡」や「双眼鏡」は出てくるが、それらは鏡ではない。

菊枯れて鏡に白馬と菊と鏡         「痴霊記四」

盾持つ少女ら毛虫は鏡の上に震え      「痴霊記六」

 一句目、戦前、「枯菊」の季語を使ったことにより弾圧された俳人がいた事を思い出す。ここに菊の枯れを契機として、鏡と鏡が合わせ鏡となり、無限の迷宮の中に、鏡と菊と白馬、そして作者自身がいる。日本人である作者には答の出ない問いが、迷宮中に形作られている。

 二句目は作者の思春期の鬱屈を想像させる。「季語は作者自身」であるなら、毛虫は、少女らに盾もて激しく疎外される自身を象徴しているとも読める。

 鏡が何を映すためかと言えば、何よりもまず自分を映す。作者自身を映すのだ。外界の景や他者が映るとしても、それらの中心にあって外界を解釈するのは、作者自身ではないか。

解剖図の真中鏡を置き忘れ         「痴霊記六」

夏至の事務所に狂わず鏡の螺子を外し    「東京虞輪」

 この二句、そして次の句も作者の鏡に対する行動を詠う。解剖図(これは作者自身の心の解剖を期しているか)の真中に置き忘れ、一年で最も日の光続く夏至の日の、恐らくは職場に、社会に最も長く晒され続ける日に、自らを狂わずと認めて、鏡の螺子を外し(鏡自体を外し)、次の句においては自らを映す鏡を売る。

蕃椒(とうがらし)銜(くわ)え夜四枚の鏡を売る        「時空糞三」

 四枚の鏡は四方に配置される鏡だろう。天と地以外は全て自分しか映らない。だから、その世界の味は蕃椒の如くだ。蕃椒が作者自体の肉の味だ。そして夜であるから、四枚の鏡の映す基調は闇だ。

 川を見る時、天人には甘露と見え、人間には川と見え、餓鬼には炎の流れと映る。鏡は世界を映すが、その映っている世界が全て自分の似姿であるなら、世界に怒る時には自分に怒っている。

 髙田獄舎時代から作者は蜿蜒と糞の句を書き続けてきた。それらを一々挙げる労は省く。どれも佳句とはとても思えないからだ。私は自分が佳いと思った句しか取り上げない。糞の句の内実は、自虐の裏返しである憎悪であり、作者に激しく拒絶されているのは、作者の鏡像、自らの地獄の夢ではないかと思うばかりだ。しかし試しに幾つか挙げてみようか。

都市は糞吸い引用・削除が人の方法     「平成ギ史」

窓打つ霙糞流しつつ自由語れ        「毒存在紀」

庭園残暑そこに大便という問い       「灰燼乃地」

雨降る浜の橇裏返す脱糞せず        「痴霊記三」

乾いた糞踏みジンの壜割る日暮の階段    「痴霊記三」

糞塊の詩を書き鯨のようなくちびる     「痴霊記四」

湿地に糞白く錆びたポストの開かぬ口    「時空糞一」

銀のランナーの大便中の脳を診るな     「時空糞四」

虫ども複眼でとらえているか糞と教会(church)       「毒存在紀」

 私がかつて唯一評したのが「複眼」の句であり、あとは評を控えた。「複眼」の句をなぜ評したかと言えば、地獄と天国、露悪と偽善、唯物論と唯心論を同時に見ている処に惹かれたからだ。だが、この複眼は、教会の蔵している霊そのものを直接観てはいない事も、此処で指摘すべきだろう。

 改めて列挙すると、「糞」という語が、作者の怒りと絶望感を、端的に刺激臭として醸していることは認めざるを得ない。私にはこれらの「糞」が、社会批判を試みているようで、実は、社会の中に身を置く作者の意識を自己批判しているとしか見えないのだ。

 これら、一般には不快としか映らないだろう句を、作者が密かに感じている「原罪」の歪んだ表明と思う位には、私という怨霊は、己を鏡に映し観る事が出来るようになったのか。

(自殺が基督教で「地獄落ちの罪」とされるのは、原罪から道半ばにして遁走するからではなかろうか、と若い頃、よく考えた。自殺する程の気力も体力も、日々の終わりには残っていなかった頃だ。)

 ここに今のところ唯一、糞の佳句がある。悪罵の物質化であるような糞を、網膜を裏返すかの如く、己が深淵に転じれば、次に挙げる句、死の前の静けさとなるのではないか。

霧雨の四方(よも)の熊より糞香り        「時空糞四」

 熊の姿は、四方の景と同じく、霧雨に輪郭を溶かされている。糞の匂いとして感知されるばかりだ。熊は、作者の血が認識する恐怖の地祇だろう。その糞は「香る」、少なくとも芳しい。死の如く芳しい、と誤認される。

 先の四枚の鏡の句を思うなら、この熊達から作者が遁れる術はない。自分の血の深みから遁れることは出来ないからだ。香る糞は気配であるから、深読みすれば未来である。未来が、糞として香るのだ。もし作者が熊に食われた場合、作者は糞として排泄される。

 四方を囲まれて、天上か地下にしか遁れる処は無い。天は高過ぎ、地は硬過ぎ、顧みれば傲慢なる天も硬く拒む地も、自らの似姿であった。拒絶と不信に醸された脂がどんなに美味いか、熊達は良く知っている。

 これが佳句である理由は、作者が己の内なる傾向と、それが招き寄せる自らの未来を凝視しているからだ。熊の糞としての自身である。或いは糞の香に酔うのだろうか、拒絶の果ての自己破壊に酔うが如くに。

脇差を抜く四方の菊閉じてゆく        「時空糞一」

 先に挙げた菊と白馬と鏡の句を思うなら、この菊の示すものは明らかだが、まだ菊からは、戦う仕草によって遁れる事が出来よう。国の中枢にある菊は、菊を囲む砦の冷酷さに反比例して優しいからだ。熊は優しくない。きっちりと落とし前をつけに来る。正確には、熊の姿を写した別のモノだ。

 熊が全国にいるように、地祇もまた全国に在す。作者の根のある場所に(北海道とは限らない)、恐怖としての熊はいる。この「熊」を出してきた時点で、作者は自らの業と向き合う必然性を、意識下においては了承している。

土地なき我に蔓が尊く剥がれた鏡       「時空糞一」

 剝がれているのは蔓か、鏡の銀色の反射部分か。蔓が剥がれているなら、鏡は復活の途上にある。鏡の銀が剥がれているなら、鏡はもはや鏡ではない。

 「土地なき我」とは、言い換えれば、「地祇なき我」だ。地祇に追放された後の我、とも読める。その我に対する鏡は、今後どうなるのか。「尊く」の一語が、蔓に掛かるか鏡に掛かるかによって、希望があるか否かは変わる。

 鏡が、神道においては神の依代であり、同時に対面する自らを省みるものである事を思う。作者に一分の勝機があるとすれば、作者が調和していないのに調和する振りはしない事だろう。糞を糞と憚りなく言い放ち得る事が、逆説的に作者を救う可能性はある。

 なぜ自分が熊の糞と化すのか、その因縁果応報を解けるなら。熊の糞の中枢にある正体、魂の最奥にあって運命を形作る「絶対的に公平な意識」を自ら解析しようと志すなら。

 作者はもちろん、文学を志しているだろう。では、ここで尋ねるが、所謂「文学」が、魂の地獄との妥協を図る夢幻、ではない確証はあるか。「文学」の掲げる理想も批判も、実は血の深みに在る地獄の副産物であり夢であり、自らの業を覆い隠す幻の錦の御旗であると言われた時。

 地獄は外界にあるのではなく、己が血の深みに沈んでいて、思考と言葉を三毒で満たす。惨たらしい世界は、実は網膜の背後にある。「鏡」とは網膜の事だ。所謂「文学」として掲げられる理想も、己の魂が己の網膜に投影している地獄の夢だ、という現実を、如何にして噛み締めるか。

 では、なぜ髙鸞石の地獄の夢について、私は過去、幾つもの論を書いてきたのか。怨霊である私の、鏡像の一つとして、彼の地獄に憑依したのか。もっと単純な理由がある。髙鸞石が積み上げて来た句群は、後世に、独自の昏い鉄塊となって、読む者の胸にのしかかるだろう。その重さが、切れない鉄線のように語り継がれるだろう。その確信が、私にはある。

われらによく似た魚の臓燃え鼠自傷の戦車の内部   「時空糞一」

 極めて大幅な字余りだが、リズムの良さが救いとなる。本当は「魚の臓燃え鼠自傷の戦車の内部」だけで一句となる筈だ。だが、「われらによく似た」という一文あって、掲句は初めて、何とも言えぬ哀愁を醸し出す。「われら」の前に「あはれ」という語が隠されている、と私は観てしまう。そして佳句だと思う。その理由は、先に挙げた熊の糞の句と同じだ。

 戦車は攻撃する一方で、どんな悪路をも進んでゆく。その為の装甲であり、キャタピラである。鼠は戦車に棲んでいるのか。攻撃されない密室空間の中で自傷している。

 魚の臓物は戦車の内部で燃えるのか、外部で燃えるのか、判然としない。外で燃えると見た方が、戦車の密室性は保持されるだろう。もし戦車内部で燃えるなら、鼠は自傷するどころではない。この「魚の臓」の匂いを、作者の育ったふるさと、と読んでしまうのは深読みし過ぎだろうか。だが、この穿ち過ぎを強引に押し進めて読むなら、生臭く燃えるのは故郷であり、戦車の外部にあって戦車の侵攻を阻むものだ。

 この句は社会批判のように見えるが、批判する対象が表わされていない。敢えて言えば戦車があるが、戦争批判というよりは、何かの状況を喩えているように見える。これが戦争であるならば、一個人の戦い、一個人を取り巻く外界に対する戦いだろう。

 魚の臓の燃える音、自傷の音が、太宰治の言う「トカトントン」と響く磔刑の釘の音を表わしているかと問われれば、まだそこまでには至っていない。だが、その音を目指している途上ではあろう。

 「平和ではなく、剣を投ずるために来た」(マタイ10:34)は有名な言葉だが、意訳としてはむしろ「予期せぬ結果として、平和ではなく、剣を投ずることになってしまった」だろう。この戦車も「予期せぬ結果として侵攻する事になってしまった」と読む。そこに業のあわれさがある。

 「われらによく似た」という鏡像を示唆する如き形容に、全ての鍵があるように思われるが、この一文は何を修飾しているのだろう。「魚の臓」か、それとも「魚の臓燃え鼠自傷の戦車の内部」という状況全部か。

 どうも後者のように読む方が良い気がする。「われらによく似た」という形容は何にでもつくからだ。「魚の臓燃えわれらによく似た鼠自傷の戦車の内部」でも「魚の臓燃え鼠自傷のわれらによく似た戦車の内部」でも良い。「魚の臓」にも「鼠」にも「戦車」にも「われらによく似た」という形容は取り敢えず付く以上、この形容は状況全体に付くと読む。

では、なぜ〈われ〉ではなく、〈われら〉と、複数であるのか。連帯を信じているのか。

 「連帯を求めて孤立を恐れず。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽さずして挫けることを拒否する。」

《工作者宣言》を掲げた谷川雁の、この言葉を思い出す。そして連作「時空糞」以来、髙鸞石の発表する連作には「工作者・髙鸞石」と記されている。谷川雁の〈連帯〉は希み求められるのみで、決して約束されていない処が、特に美しい。

 だが、本当は〈連帯〉など、髙鸞石は信じていないだろう。信じたい振りをしているだけだ。信じたい振りをしている自身に気づかない振りをしているのか。もしも信じていれば、もっと既成の希望の言葉か、又は流行の断罪の言葉か、或いは陣営の主義主張に硬化した言葉を使う筈だ。鸞石句は、堅固ではあるが硬化してはいない。癒しや溜飲を下げる事に媚びてもいない。そこは物書きとして、とても良い。

 掲句は、己が魂の状況を、能う限り客観的に写生しようとしている、と読む。怨念は鼠を走らせる回し車だ。巡る円環に閉じ込める。巡る円環が、鼠の自傷を煽り立てる。怨念はその存続自体が目的だから、宥恕こそが禁忌だ。その禁忌を保持するために、己が鏡像を外界に、進む鉄塊の如く、或いは魚の臓物焼ける地獄の如く、緻密に投影しようと試みる。

 では、数多の怨念から構成されている私は、再び考えよう。なぜ「われら」と言うのか。この状況は作者の主観だとして、なぜ「われ」ではないのか。「われ」は鏡の部屋で無数に分裂するからではないのか。

 「燃えよドラゴン」はブルース・リーの遺作だ。最後の鏡の部屋の決闘シーンで、もしも滅ぼすべき悪役が幻なら、ブルース・リーは鏡を叩き割りながらも、鏡の砕片の数だけ増え続ける鏡像に向かって、力尽きるまで闘う事となる。ブルース・リーが倒れ、ぴくりとも動かなくなった後、無数の鏡が映すのは、心の暗黒であり深淵だろう。

 古い怨霊の集積体である私には、時代やその時々の立場によって変わる正義には興味が無い。不変の正義も普遍の正義も、そんな夢は存在したためしが無いから、正義を掲げる者が弱者であろうと強者であろうと、私は区別しない。所詮、此の世の流れにおける、うたかたの区別に過ぎないからだ。

 いずれ皆死ぬ。死んで、いわゆる「人権」は無くなり、生者の社会から切り離される。死んで各々孤立し、永い暗冥に赴く時、己が魂の地獄から目を背ける為の、如何なる正義も用を成さない。

 幼少時から私が絶えず見続けて、今なお興味を持つのは、生から切り離された以後の状況だ。各々の正義が破れ潰えた後に生じる怨念、肉体を持たないそれら怨霊の、相続や消滅の仕組みに興味がある。

 仏陀の言葉、「怨みを捨てよ。怨みを捨てぬ限り、怨みが止む事はない。」の可能性を、私は怨府の彼方でいつも考えている。私が髙鸞石に、仏陀のこの言を送るとすれば、その理由は彼の作品を惜しむからでも、彼の掲げる「文学」を惜しむからでもない。彼の魂を惜しむからだ。

 「文学」といい「詩歌」といい、それは何の為か。それ自体の為ならば、結局は博奕の高揚と変わらないのか。賭博中毒者の見果てぬ地獄の夢に等しいのか。

 では、何の為かと問われれば、私にとっては、怨霊である私自身の解体をめざすものだ。しかし、人の頭の数だけ「文学」の定義が可能な以上、この答もまた、私にとってのみ切実であるに過ぎない。


4 妙法へ


 ここまで書いて秋彼岸となった。先祖と共に極楽を思う日だ。この日、丁度、髙鸞石の新作「鹿縛り」が発表されたので、読んでみた。(次からの掲句、全て「鹿縛り」から。)

空の法へ帽子投げても癒えぬなにか 

 これは空(くう)の法と読んだ。神道の有(う)の通力に対する仏法の事だろう。そこへ帽子を投げるのは、一種の祝福である。「空」を「そら」と読むなら、上空へ帽子を投げるのは、やはり祝いとして自然だろう。

 それでも「癒えぬなにか」、この何かは我執であり因業であろう。それが癒える為には修練を要する。滝行一つ取った処で、冬の百日は辛い。それを一年、二年、三年終えても、目立って人間が変わる訳ではない。十年一単位として、心が漸く薄皮を剝ぐように変わってゆくのが、修練というものだ。

破(やぶり)の音(ね)未来に黒い幕が垂れ

夢は無に飴の鴉は伸び続け

とうめいな自分 石の戦(いくさ)もなんとなく

 此処に見える静かな絶望感、無力感は、六十年代の幻想破れた後の余熱ある絶望感、無力感とは異なる。これまで経て来た時代の、巡る円環の、その終焉を見るかのようだ。

 大袈裟な言い方をすれば、今後の人間の少なくとも半分が抱くだろう絶望感、無力感に沿っているのではないか。無抵抗に崖から落とされる羊の絶望感、無力感だ。

 尤も、「破の音」や伸び続ける「飴の鴉」や「石の戦」に、まだ抗う術は残されているようにも読める。

素となる山に碗置けば白・白のこころ

 ここに漸く一つの変化を見る。上五は山の魂に触れたような気がしたのだろうか。そこに置く碗は山の気を盛って頂くためか。木偏の椀ではなく、石偏の碗だから、白磁碗である。神事を思わせる。山気は「白」と認識され、対する自分にも「白のこころ」を感じる。

 「・」によって山と己は向かい合う鏡と化すだろうか。白は空白であり、素でもある。先に示唆した巡る円環のような惨たらしさから抜け出る道が示されるとすれば、ここに有るかもしれぬ。怨念に染まっていない心、運命を啓き直せる心だ。「こころ」と平仮名で表記されるから、幼子の如き素の心である。そして山もまた「素」であるというのだ。

凍る手紙巌からはがす中に種

 誰から誰に宛てた手紙だろうか。読まれぬままに巌に貼りつき、巌と共に凍り付いた手紙の中に種がある。何の種だろう。ここで巖が何を暗示するかを考えるのも必要だろうか。先の「素となる山」の句からは、作者が自然とだけ付き合いたい、一体化したいと願う気持ちは伝わってくる。

 その先に、巌に自らの心を観る事もあろう。この巌は俺だ、手紙は読まれぬまま貼りついている、と観て、読む気が無ければ手紙を剥がしはしない。ただ朽ちるに任せるだろう。

 だが、剥がしてしまった。開けてみた。読んだか読まないかは、どうでも良い。手紙は内容ではないからだ。手紙が到着して手中に在る事、それだけが重要だ。中に種がある。その種こそが手紙の内容であるなら、種は、作者の手か、魂に、芽吹くために来たのだ。

シンバルの間の砂漠 手を植えよ

 手を幾つ植えるのかは書かれていない。これが沢山植え、沢山生えるのであれば、中川信夫の映画「地獄」を思わせる。暗冥の地平に亡者の手が沢山生えているシーンだ。では、掲句の砂漠は夜なのかと言えば、どうも昼の印象が強い。金色のシンバルの音は、砂漠に注ぐ容赦ない光を思わせる。

 砂漠に生える植物はサボテンで、「仙人掌」と書く。下五の「手」はサボテンの如く、握手を拒む如く、刺だらけで、しかし裡には豊かな水を含んでいるだろう。

 シンバルは巨大な掌のように打ち合わさることにより大音響を出すが、その間にあった筈の砂漠は、音の生じた時には消えている。音に伴い、砂漠が一瞬に閉じられ、後には虚空あるのみなら、手は何処に植えられるのか。

 下五の手とシンバルを重ねれば、手は幾つも植えるのではなく、唯一つであるようにも思われる。白隠禅師の考案、「隻手音声」を思うからだ。「両掌打って音声あり、隻手に何の声やある。」

 作者がここまで考えて書いたとは思わない。だが、少なくとも作者の無意識は、作者の表面意識が認識する領域より、遥かに広く深い。作者の直感を掘り下げてゆくのが、解釈というものだ。砂漠の隻手の発する音を、髙鸞石が己の如く凝視する事を、私は望む。

鹿縛る縄濡れながら消えてゆく

二(ふた)剣(つるぎ)川に投げれば川は湯に

 最後に挙げる此の二句が一番良い。作者が無意識に感じた神に言及している、と私は勝手に希望を持つ。神と言っても、他民族への復讐と制圧と鏖殺を無慈悲に命ずる神ではない。常に調和を模索する日本の天神地祇、豊かな多神教の神だ。

 一句目、「鹿縛る縄」で切れるのか、「鹿縛る」で一旦切れるのか。前者なら縛るのは他者であり、後者なら作者自身だが、誰が縛ろうと縄は濡れながら消え、鹿を縛る事は誰にも出来ない。神の使いを縛ることは出来ないからだ。縄は神の通力により、水となって消えてゆく。日本であれば、鹿は、春日大社の神使である。

 二句目、「川は湯に」という表現に、スッタニパータの或る話を思い出す。仏陀が詩を以て説いた教えに対して、バーラドヴァージャが乳粥を捧げる。詩を唱えて得たものを私は食うてはならない、と仏陀は乳粥を退ける。では、この乳粥を誰に上げようか、との問いに対して、その乳粥は全き人(如来)とその弟子以外には消化し得ないから、青草の少ない処か生物のいない水中に捨てよ、と仏陀は教える。

「さて、その乳粥は、水の中に投げ捨てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ捨てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。」

(岩波文庫「ブッダのことば 第一 蛇の章 四、田を耕すバーラドヴァージャ」中村元・訳)

 この一文は大悲神変の通力、即ち神通力の描写であり、一方、掲句では剣を投げる。不動明王の燃える剣は、一方では外界の難を斬り、一方では己の心を斬る。剣は二つに分かれる如く、己が内と外へと同時に振るわれるのであり、そうでなければ斬る意味が無い。作者は誰に言われて投げたのだろう。自ずと投げたのか、それとも仏典にある如く、大いなる者の言葉によったのか。いずれにせよ、投げた結果、川が湯と化したのなら、その神変は作者に教示する為か。

 神変とは、「測られざるを神と曰(い)い、常に異なるを変と曰う。」なぜ神変が必要かと言えば、教えによってのみ信じる者は少なく、教えによってのみ救われる者は更に少なく、教えによってのみ運命を変え得る者は末世にはいないからだ。

 作者がこういう句を提示したという事は、既に意識下では、怨念巡る円環、絶望と無力感と怒りと復讐の円環に対し、疑義が生じているのではないか。「時空糞」までにおいて、一旦、自らのレクイエムは奏でてしまったのではないか、と祈りを以て、そう思いたい。だからと言って、地獄の夢が終わるわけではないが。

 疑義が生じたのなら、止まって独り観るしかない。地獄の夢を破れるまで凝視し描写するのも一手だ。豊饒なる孤独こそが僥倖であり、連帯を支える欺瞞こそが陥穽であったと、いつか感得するだろうか。孤独に独自に独特に止まらぬ限り、自縛は解けない。

 「鹿縛り」という題にも拘わらず、先掲の句においては鹿が縛られ得ない、という矛盾を提示したのなら、作者はどこかで既に分かっている筈だ。「濡れながら消えてゆく」のは、自らの構えであり、斬る剣に映るのは先ず何よりも、自らの顔であるか。

 執着するな、と言っているのではない。「文学」に限らず、何にでも執着は必要だ。執着の無い人間など、残滓に過ぎぬ。問題は、執着の矢を、何処に向けるかという事だ。怒りと怨みが、その力は保持したまま、求道へと猛進すれば、どうなるか。古い怨霊である私は、その可能性を試み続けている。

※本稿はWe15号に転載予定