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2022年2月11日金曜日

【抜粋】 〈俳句四季2月号〉俳壇観測229 コロナ解除——有馬先生を偲ぶ会・各賞表彰式  筑紫磐井

  コロナ状況の中でもうすぐ二年が経つ。何度も感染の波が押し寄せ、特に強烈な第五波は多くの人々を萎縮させた。人の集まる活動はことごとく中止され、俳壇もご多分に漏れなかった。しかし十月から理由は不明であるが急激に感染者は減少し、様々な制約が解除された。これから通常の生活に戻れるかも知れないと思っている最中、海外はまだ収束の様相を見せず、更にオミクロン株という強烈な新型種が登場し、外国人の渡航が全面禁止になった。現在はアクセルとブレーキを踏んでいるような気持ちで、自粛と復活がこもごも進んでいる。俳壇関係でどのように自粛と復活が進んでいるかを眺めてみよう。


有馬朗人先生を偲ぶ会(十一月二九日)

 有馬朗人氏が亡くなったのは令和二年十二月六日であった。有馬氏の活動は広範であったから、例えば研究者たちの偲ぶ会は東大や理研が中心となって行われたようだが、俳人の会は一年にわたって自粛されていた。そろそろ一周忌を迎えようとする十一月二九日に「有馬朗人先生を偲ぶ会」がオークラ東京で開かれた。三〇〇名近くの来賓会員を迎え、会食が付いての着席の式は、この二年間で記憶にないほど盛大な規模の会であった。殆どコロナ下での制限を感じさせないものであった。この会の責任者である西村我尼吾氏と話をした。西村氏は私が俳句を始めたばかりの時から面識があるので、いろいろな話を腹蔵なくできた(西村氏は当時東大法学部の学生であった)。彼によれば、正に奇跡的な会合だったと言っていた。恐らく一か月前でも後でもずれていたら開けていたかどうか分らない。西村氏自身国際機関の重職にあり、赴任地からの帰国を促され、十二月からはまたインドネシアに戻らねばならないと言っていたから個人的にも綱渡りのスケジュールであった。

 偲ぶ会前日には同人総会が開かれ今後の運営体制が決まったと披露された。有馬ひろこ夫人が副主宰、西村我尼吾(代表同人)対馬康子(最高顧問)、大屋達治(編集顧問)、福永法弘(同人会長)、日原傳(編集顧問)で、西村氏が課題句選者、対馬・大屋・福永・日原氏が毎月交替の天為集選者というこの1年間の体制を引続き継続することとなったそうだ。著名な俳人がなくなりいくつかの結社に分裂している例が最近は多いが、部外者にはとまどうことも多い。はっきり継承されているのは分りやすいことだ。中心人物たちが有馬氏の遺志を明確に認識し、共有できているからできることだろうと思う。

 偲ぶ会自身は献花の後、俳人協会の大串会長、現代俳句協会の宮坂特別顧問、玉藻の星野名誉主宰の悼辞が行われた後、西村・対馬・大屋・福永・日原氏らの幹部による開会の辞、献杯、追悼の辞・閉会の辞が執り行われた。天為一家・有馬一家らしい盛大な偲ぶ会であった。残念ながらひろこ副主宰は出席されなかった。

 偲ぶ会と併せて、天為十二月号は「有馬朗人一周忌特別号」が特集され、稲畑汀子・宇多喜代子・高橋睦郎氏らの一周忌に寄せる言葉と、堀切実・川本皓嗣・西村我尼吾の鼎談「俳句とは何か」が掲載された。有馬氏生前から面識のある人々であり、このテーマも有馬氏が暖め続けたテーマであり、三〇頁にわたる対話は読み応えがある。一年間にわたっての渾身の活動と言うべきであろう。


現代俳句協会表彰式(一〇月三〇日)

(中略)


俳人協会表彰式(六月二六日)

(中略)


 このように、おずおずと従来の生活に戻りつつあるようだが、令和四年になったからと言ってすぐに画期的に状況が改善出来るわけでもなさそうだ。しかし、句会や大会などを切望する声は強い。私も、現代俳句講演会(一一月二〇日)に参加したが、五〇人近い会場に聴衆の集まっている姿を見ると、昔なら何の不思議もないこの光景に、ついつい感動してしまった。令和四年がよい年であることを祈りたい。

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい

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