著者は『We』共同編集発行人、「豈」「連衆」同人、熊本県現代俳句協会会長等で、これは三冊目の句集である。
句集題の『たかざれき』とは、石牟礼道子の『苦海浄土』の「高漂浪(たかざれき)」に因んだもの。それは魂が身からさまよい出て諸霊と交わって戻らないさまを言い、巫女的存在の石牟礼自身の事を示唆している。句集に収録された評論〈「高漂浪」する常少女性――石牟礼道子の詩の原点へ〉において著者は「石牟礼は、巫としてことば以前の世界を直感し、自身の身体を借りて湧き上がってくることばを、その口で語り、手を動かして、可視化していった」と述べ、「かなしみに対する憧憬と敬虔な思い」が水俣病に対する告発の姿へと神降りていったと指摘している。
因みに取上げられていた石牟礼の短歌と俳句の一部を紹介する。
われはもよ 不知火をとめ この浜に いのち火焚きて消えつまた燃へつ
加藤はこの歌について「いのちの火は焚かれては消え、消えては焚かれて。〈悲しみ〉は美である。これこそがまさに、彼女の詩への衝動。」と読み解いている。それはまた、不知火とは「領(し)らぬ霊(ひ)」の謂いでもあることから、先の諸霊とも重なってくるのが解る。
祈るべき天とおもえど天の病む
繋がぬ沖の捨小舟生死の苦海果てもなし
加藤は、前句の「〈天を病む〉は、人間の絶望的な愛が肉体化した形か、或いは人間の無力感、孤独感、深い悲しみをにじませた措辞か」と捉え、後句の「〈捨小舟〉とは〈うつろ舟〉であるかもしれない。」としてヒルコのマレビトと水俣病患者とを重ねて見つめている。
そして最終章に「天を仰ぐ時、祈りの中心に自分がいて、母郷でもあり水でもある天と繋がっている事は間違いない。」と述べ、石牟礼と同じ心境・視点に立っている作者の姿をそこに見る事が出来る。
さて、本題の句を垣間見てみよう。
音楽じかけのあなたを燃やす菜種梅雨
口中の闇ざらついて台風来
鯖雲や体毛あるとこないところ
三句共に句中に反意というか断絶を包含しているのだが、体感化された対象が肉感にまで昇華され、その認識に妥当性を付与している。日常に非日常を見つめ、見えないものを見つめ、抽象化された具象への展開が説得力を持つ。
稲光るたび人妻は魚となり
ひえびえと乳房の方へ向く流砂
初夢の縄文式の女体かな
女性独特のエロスを醸し出している作品であるが、そこにはギリシャ的な、透徹した、縄文的な明るい健康的なエロスが見出せる。そしてそれぞれに流線的な描写があることも。
朝顔の朝を交換する電池
鶏頭の枯れうるわしき愚連隊
神口や椿咲く海咲かぬ海
朝顔も鶏頭も椿も、人間との関係性において、その存在が人間そのものに憑依してゆくような作品である。特に「椿」は「海石榴」とも表示され、それによって「咲かぬ海」の連想へと導かれてゆく。
憂国の道化師すでに全裸なる
三島由紀夫を暗示した作品であろう。三島は「〈武〉とは花と散ることであり、〈文〉とは不朽の花を育てることだ。そして不朽の花とはすなわち造化である。」と述べていた。つまり造化とは虚構であり、自らの肉体改造は虚であることを認識していた訳で、その行動を世間が道化とみなすことも解っていた。そして掲句の全裸とは全身全霊という日本的な一回性美学の謂では無いか。今年が三島没後五十年にあたり、この句集の発行日が十一月二十五日(憂国忌)であることも奇縁である。
すかあとのなかは呪文を書く良夜
汝は陰(ほと)を神器としたり寒椿
共に意味深長な句である。すかあとのなかは闇であるが、呪文は本能に寄り添うものであり、それは良夜へと素早く転換することが出来る、とも。そして寒椿は古への道を問うものであるから、奥深い陰を神器とみなすも可能であろう。
晴れにけり館を出でけりしぐれけり
海に降る風花ならば抱きしめる
「知覧特攻平和記念館」の前書きのある句である。前句は遺書・遺品などを見た後の心象風景であり、後句は幼い特攻兵らへの母情でもあろうか。先年、私も鹿屋・万世・知覧の特攻基地跡を訪れ、枕崎の岬から南の海を眺めていた。
女郎蜘蛛湿る障子をそそのかす
女郎ぐも腹のふくらみ止まず沖
生殖に対する雌の湿感と胆の太さには、牡はとうてい及びがつかぬようである。女郎蜘蛛に託された女の挑発とも読める。
夜行列車きれいに蛇の穴渡る
蟻よりもせつせつ肢体なだれけり
蛇の穴を抜け出たら何が現われるのだろう。攝津幸彦の「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな」の句を彷彿とさせる作品である。また、蟻の黒タイツの動きは何故か蠱惑的でもあり、肢体の傾れが鮮明に浮かび上がってくる。。
青竹に曳かれ狂女か遊行女婦(うかれめ)か
鳥帰る少女じゅうろくひとばしら
花ふぶく沖の宮へと虚ろ舟
「高漂浪」の章にある句であるから、狂女やひとばしらは水銀中毒による被害者であり、それらへの思いが重なる中で、虚ろ舟とはヒルコを乗せて流した舟を示しているのであろう。各句ともに重苦しい内容であるが、「青竹」「鳥帰る」「花ふぶく」にマレビトとしての救いが込められていると想う。
言及できなかったが、とても気になった句を掲出する。
植木鉢抱いて肋骨(あばら)を信じてる
少年と少女がバッタになっちゃった
銅鏡の縁の日永を倭人伝
夜をみがくわたしだけの百合の部屋
満月に杭たてられる青胸乳
露けきを奏でて杉の切株や
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