『火の貌』の序盤の故郷を題材にした句群に、ただならぬ土の香や失われつつある日本の地方への感慨や寂しさを覚えつつも、五感で追体験するには私の経験が不足していることを痛感していた。例えば次のような句である。
白蚊帳に森の匂ひの夜の来たる
子を叱るあの瓢箪に吸はるるぞ
開墾の民の血を引く鶏頭花
「蚊帳」「瓢箪」「開墾」という言葉に大きな歴史のイメージを被せている。このイメージは私が人生で通ってこなかったものである。瓢箪の句の説話的な趣は、この場面に出会ったことがないのに懐かしい。
繰り返し読んでいくと、読み手としての私の芯に近い部分と筆者の間にも通い合うところがあるというところがわかってきた。
屈むたび軋むジーパン水引草
やはらかき服を選びぬ野分後
寝不足の口渇きをり花梨の実
かはほりや鎖骨に闇の落ちてくる
篠崎央子俳句のテーマの一つとしての身体性はおそらくすでに多くの評者に指摘されていることであろう。特に鎖骨の句は、かはほりという季語が過ぎるように置かれることで闇がシャープになった。ジーパンの軋みや口中の質感といったリアルさ(と、それらを支えるための季語との出会いや共振)を自身の身体に領域を限定せず(だから服の質感も身体を通して伝わる)、アンテナを拡張することで次のような句が生まれたのではないだろうか。
ぜんまいの開く背骨を鳴らしつつ
水吸うて布が布巾となる朧
ぜんまいの背骨という見立てにより、主体とぜんまいの同化を錯覚させる手法はオリジナルではないだろうが、注目すべきは「開く」「つつ」といった、現在を感じさせる進行形の表現である。ぜんまいの開く瞬間を実際に見たかどうかは重要ではない。布巾は濡れることによってこそ布巾としての能力を発揮する。朧から連想される水という要素を布という緩衝材が一句における均衡を保たせるのだが、この湿潤さは主体の体内の水とどこか繋がってはいないだろうか。
夏至の夜の半熟の闇吸ひ眠る
中盤に出てくるこの句、眼目は長い日照時間を経た夏の闇を「半熟」と把握した感覚であるのは一目瞭然だが、もう少し考え続けてみたい。夜という空間を完成されきっていないと捉えることができたのは、拡張された身体がその感度を高めたからではないかと思わざるを得ない。「鬼の子よ汝が啼けば夜のどつと来る」という、蓑虫という矮小な存在の背後に控える生半可でない夜の句もあったが、夜に対して知覚鋭敏かつ詠み込む角度が多様である。
こういったエネルギーを蓄えた句があるので、
血族の村しづかなり花胡瓜
蓮見船子を眠らせて戻りけり
といった静寂をテーマにした句も、ただのゼロ状態というよりは、一句の奥に鼓動を感じる。
猿の檻人間の檻夏終はる
の「檻」も、語の持つ閉鎖性にとどまらず嘆きもにじみ出る。
桜より淡し魚のソーセージ
ポタージュの重さ確かむ桜の夜
雪国の空落剝のつづきをり
牛のこゑ吸ひ山茶花の白く散る
一句における色彩が際立った四句。桜二句は、作者がグラデーションもコントラストも貪欲に描くことの現れである。雪国の句は土着の民なのかエトランゼかで読みは多少変わるかもしれない。「剝落」より「落剝」の方が主体の息遣いが荒くなり、モノトーンの空の印象を強める。牛の句は先述の夏至の句と同じく「吸ひ」が異質であり、「白」が濃い。
ヒステリーは母譲りなり木瓜の花
ステーキを端より攻めて梅雨に入る
黒葡萄ぶつかりながら生きてをり
一人称の句において、自己の性質の開示に躊躇がない。怒りをあらわにする、肉を積極的に平らげる、コミュニケーションの難しさを葡萄に仮託する……俳句にするという行為の中に登場する人物の性格を俯瞰するという営みが含まれているはずなのだが、客観的にとらえているよりは率直さや不安定さが際立ち、季語との危うい調和が炙り出される。
貪欲さという点では、
花見てふ浮世の風呂に加はりぬ
きのこみな宙から降つてきたやうな
といった、見立てにユーモアの塗された句よりも、
握手してどくだみの香を移したる
洗面器の底に西瓜の種一つ
秋の蠅ヘアスプレーに酔ひたるか
猪が来てゐる音楽の時間
露草は足元の草踏まぬ草
といった驚きが生(なま)の状態で俳句形式という皿に盛り付けられている句に強く惹きつけられた。
自信モテ生キヨ蚯蚓の太りたる
大旦ギターの穴に日の差しぬ
大花火湖国の空をつかみたる
鶏頭や嫁を太らす女系村
とんび舞ふ秋天といふ大き穴
栗虫を太らせ借家暮らしかな
軒氷柱太らせ父の大鼾
大仏の尻より年の暮れにけり
太股も胡瓜も太る介護かな
鶏頭花無言の臓器太りたる
雲はいま天馬になりぬ大旦
取り沙汰されている「血」というモチーフ以外には、「大」「太」といった語が使われた句が目立った。(このほかに「大根」句も数句ある)。どちらも、物体の状態およびその変化でポエジーを発生させる手法と考えられる。「大」の多用には、些事に拘泥しない姿勢がわかりやすく見て取れる。「大花火」は「大」に対し「つかみたる」という比喩的把握が直線的かつ直截で細工がない。花火が水面で空を摑むのは一瞬である。「とんび」の句は秋という季節の物悲しさが「大き」によって無理なく増幅する。「大仏」の句は「尻」が俗なようで「暮れ」という落ち着きがあり、しみじみとした思いに最終的に着地する。一方、「太」の句は膨張という事象が起こす形状の歪みや不思議さに関心が強そうである。栗虫の句は、一読した時は皮肉、自嘲の句なのかと思ったが、「太らせ」の豪快さに、栗はたくさんあるぞ、借家がなんぼのもんじゃという開き直りを感じる。「鶏頭花」の句は鶏頭を臓器に喩えたと解釈したが、「無言」は異様である。介護の句もあるが、作者にとっての「太」という概念は生のエネルギーを蓄えた結果であり、「太」ることへの感動が言葉という経路を介して読み手に伝わる速さを感じさせてビビッドである。
破魔弓や我に向かひて波来たる
火の貌のにはとりの鳴く淑気かな
新年の二句。このようなしっかりと腰を落ち着けた句の心持ちで2020年という苦難の年を締め、来年へ向けて前を向いて生きたい。
黒岩徳将(くろいわとくまさ)
一九九〇年神戸市生まれ。「いつき組」所属、「街」同人。
第五・六回石田波郷新人賞奨励賞。第九回北斗賞佳作。
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