【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2021年2月12日金曜日

【中西夕紀第四句集『くれなゐ』を読みたい】11 五七五で描く西鶴の世界  加瀬みづき

 句集「くれなゐ」を読み返し、「くれなゐ」評の先行の方々が取り上げていない句と、夕紀の第一句集「都市」から「さねさし」、「朝涼」にもない句を探した。そうしたら、次の二句があった。

好色一代女と春のひと夜かな
西鶴の美女は胴長竹床几


 この西鶴を詠んだ二句で書こうと決めた。しかし、西鶴を読んだことがない。「好色一代女」(新潮社)、「好色一代男」(岩波文庫)、「好色一代男(吉行淳之介訳)」(中公文庫)をネットで取り寄せた。

好色一代女と春のひと夜かな

 一読したときは、恋多き女と春の一夜の儚き逢瀬を描いているのだと思った。
「好色一代女」を読む。一代女には名前がない。美貌で「官女」となり「十一歳の夏の初めより、わけもなく取り乱して」十三歳の時、「さる青侍」に通じ、「初通よりして、文章、
命取る程に、次第次第に書を越し」たのに焦がれて「身をまかせる」が、やがて、女は追放され、男は処刑される。
 現代からみると随分早熟だが、当時は、初潮を迎えるとすぐに女性の世界に入るのだろうか。
 まず、昔の恋が思いを文に託すことから始まることである。古代の相聞歌の時代から江戸の一代女まで。そういうやりとりをする女性は文才がなくてはならない。教養も重要である。句を作る者として、古典を深く読んでいない、近現代の俳人の作品も知らないことが多く、まだまだ勉強なんだと思った。
 話をもとに戻して、短くまとめると、一代女は若衆仕立ての舞子になり、以降遊里の太夫から下級の女郎まで身を落とし、その間にも様々な男性との関係があり、最後には夜発は色勤めの納めになり、六十五歳で尼になる。
 読んでいて、一代女の一生が、身にも心にもこたえた。女性の本性をえぐられるようだった。女性の深層を西鶴はよく描いたものだ。
 「都市」二〇二〇年十月号の「魚目の蝶の句」論で、夕紀は魚目の「エロス」の句を取り上げているが、この「好色一代女と春のひと夜かな」の句も、中西夕紀のエロスの句ではないかとおもう。
 そして、魚目の言葉として「ここに居る我々は詩に汚れているものだ」という一言がある。文字通り「好色一代女」の句は、西鶴の色欲に接して作品が一度汚れているような気がする。
 魚目が「女性を詠んできて、エロスに行きあたった」のが五十三歳から六歳の頃、夕紀が第四句集「くれなゐ」の作品を詠まれたのが、平成二十三年頃から令和元年の春までの、五十七歳から六十六歳まで、この間、夕紀も「魚目はエロスを夢幻として捉え、一つの恋を描ききり、完成させたのではなかったか」の世界に到達されたのだろうか。
 「好色一代女」を読み終わり、この「好色一代女と春のひと夜かな」の句は、女性の立場では、自分も好色一代女になり、自分語りをしている句ではないかと感じた。
 一代女は最後に、「これも懺悔に身の曇り晴れて、心の月清く、春の夜の慰みん、我、一代女なれば、何を隠して益なして、胸の蓬草開けて萎むまでの身の事、たとへ、流れて立てたればとて、心は濁りぬべきや」で終わる。二人の若者に一生を語り終え、心は平明に終わる。
 

西鶴の美女は胴長竹床几
 
 「西鶴の美女は胴長」の姿を求めて、何か江戸時代の女性の絵がないだろうかと、当時の浮世絵師、菱川師宣をネツトで調べると、井原西鶴の「好色一代男」の挿絵がちょうどのっていた。そこには、胴長の女性が描かれていた。
 「好色一代男」(岩波文庫)が届くと、本の表紙の絵が師宣の絵だった。本文を読むと、「人には見せぬところ」の段で、九歳の世之介は四阿屋(あづまや)に備えつけてある遠眼鏡を持ち出して屋根に登り、菖蒲湯を使っている中居(こまづかい)を盗み見している挿絵だった。
 西鶴の時代、美女の条件に「好色一代女」にも、「胴長常のより長く」とある。
 では、「竹床几」に腰掛けて美女と話ををするのは誰だろう。世之介のような色恋の酸いも甘いも噛分けた男性だろうか。恋の駆け引きか、しんみりした話か、たわいない世間話か、想像は幾重にも広がっていく。
 ちなみに、「好色一代男」の巻七「新町の夕暮嶋原の曙」に、吉行淳之介の現代語訳で、「昼は寝て、まず夜のうちのくたびれを取りのぞき、暮方から表に床几を据えさせて眺める九月十日の月、さすが都だけあって風情のすることだった」と、床几が出てくる風流な場面がある。

好色一代女と春のひと夜かな
西鶴の美女は胴長竹床几


 五七五の短い俳句の世界で、夕紀は西鶴の作品を表現した。後人に続く者として、果たしてこのような句が出来るようになるかわからない。
 最後に俳論を超えて文学論として西鶴を語っている、「好色一代女」(新潮社)の校注者村田穆氏の解説文を長いが引用させて頂く。「現実の貧も、その貧を巧みに利用して水脹れる狡猾な富も、西鶴の力でどう処理し得るものではない。西鶴のなし得ることは、その現実を徹底的に追及して、人の心に反省を求めることでしかない。ということは、文学の弱みではない。精神の面から人間を改変しようとするもの、人間を内部から改変することの意味深さを真に知るもの、しかも、自分の意見を読者という他者の自由な取捨にまかせるもの、その人を文学の士と呼ぶ。」
 これで私の「『くれなゐ』を読みたい。五七五で語る西鶴の世界」を終わります。

0 件のコメント:

コメントを投稿