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2020年10月16日金曜日

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】 3 夢幻の虹の世界  藤田踏青

  作者は現在「俳句スクエア」「豈」同人。ネットサイト「俳句新空間」「俳句飄遊」などに参加し、ネット中心に表現活動を行っている。
  帯には、「言葉、イメージ、音などの素材を配して、景や文脈などを構成、造形する場であり、極私的なもの」とあり、「ユングの〈箱庭〉の枠内での自己表現に近い」とある。それは佐佐木幸綱の「空間的にいえば、ある断定をもって宇宙全体を表現し、・・・・時間的なことをいえば、現在というものを徹底的に表現することによって、それが永遠に逆転すること」の潔さ、という定型観にも相通じるものがある、と思う。つまり、空間とはイメージ、断定とは言葉、徹底した現在が極私と言えよう。
 コルトレーンの「至上の愛」を参考にしたとある章立てにそって鑑賞してみる。


第一章〈認知〉
   三日待て春泥に息吹きかけて
   牡丹雪ほのぼの耄けてみたいもの


 春泥も牡丹雪もうつろい易い存在。それゆえ作者の自意識が自他ともへと語りかけているのであろう。


   蜉蝣の十万億土をひろびろと
   山襞に鬼らしきもの秋闌ける


 蜉蝣も鬼もある意味で小さな存在である。そうしたものと大きな存在(十万億土、秋)との交錯が安寧をもたらしているかのようである。


   己が影を求めぬものに青鷹


 この句からは芭蕉の「鷹一つ見付けてうれしいらこ崎」の句が想起される。鷹の、しかも青鷹の孤高・孤独感が滲み出ている。


   しののめに凍星ひとつ紺絣


 飯田龍太の「紺絣春月重く出でしかな」の句と対照的な内容でありながら、何故か通底するものがあるようにも思われる作品。


第二章〈決意〉
   幾千代の腐乱の裔や白牡丹
 句作においては攝津幸彦に影響されたとあり、掲句は明らかに幸彦の「幾千代も散るは美し明日は三越」の句を意識していると思われる。腐乱=散る、であるが、掲句の手法は蕪村的であり、幸彦のは諧謔に傾いている。


   意味ならば草かげろうにお聞きなさい
   夕花野いのちの円周率測ろ


 口語調で軽妙な感覚があるが、むしろ無意味の意味を示唆しているのでは。


   首垂れればわが真中より冬の川
   極月の女衒にまぎれ押すものよ


 自己存在を見尽せば、自ずと心底から本質というものが浮かび上がってくるのではないであろうか。たとえそれが認めたくないものであっても。
 

第三章〈追求〉
   左舷より菊の御紋にわたくし風


 戦艦大和、豊後水道通過、の前書きがあり、作者の住む愛媛県がその地に面している。「左舷より」の措辞により、大和を望む位置関係が推し量られる。二年前、私も鹿児島・枕崎の大和慰霊碑から海の彼方を見つめていた。


   白靴の片割れ大正偽浪漫


 まるで土門拳のモノクロ写真の世界を覗くようで、「白靴」の印象の強さと「大正偽浪漫」のイロニーが絶妙。


   月天心アポトーシスの始まりぬ
   補助線を跨ぎこれより枯野人


 両句共に死の様式の一つ(プログラム細胞死)に関連したものであろう。時空間での追求には厳しいものがある。


   階段に魄の陰干し垂れてをり


 この句も幸彦の句「物干しに美しき知事垂れてをり」「階段を濡らして昼が来てゐたり」を意識したものであると思う。しかし掲句には「陰干し」というように、なぜか逆転の発想が込められているように思われる。


   大袈裟なことばかり箱庭の夜


 句集題ともなった「箱庭の夜」であるが、その極私的な様相が大袈裟な、と見事にイロニーに曝かれているようである。
 

第四章〈賛美〉
   夢に来て海馬に坐る春の鬼
   薄化粧の兄引きこもる修司の忌
   虫の闇病む子に火遊び教へませう


 自己の裏返しとしての春の鬼、引きこもりの兄、病む子、といった因縁世界への鋭い視点。いわゆる私小説とは異なった観念の世界の私小説のようである。


   端居して方形の世の恐ろしき
   道をしへ死んでゐることををしへられ


 生きているとは、死ぬこととは、への問いかけのような句である。特に前句の「方形の世」は「箱庭」に通じるものなのではないか。


   冬の虹水脈果つるあたりより
   水音の言葉となりぬ初寝覚


 見ること、聞くこと、感じること、すべては夢幻の如く・・・・。静謐な世界に浸る。

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