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2020年3月27日金曜日

【句集歌集逍遙】樋口由紀子『金曜日の川柳』 佐藤りえ

「金曜日の川柳」はウェブマガジン『週刊俳句』の別館『ウラハイ』に連載されている(2020年3月現在も継続中)。気鋭の川柳作家が作品評を書き下ろし、それをほぼ毎週読めるというなんとも贅沢なコンテンツだ。こうして一冊の本に纏まるのを、筆者は楽しみに待っていた。

筆者は川柳に疎い。川柳について何かを書こうと思うと、冷たい汗が背中をつたう。韻文に関してのさして多くもない経験を持ちだして、どうにかこうにかその場をしのいでみるものの、それが「間に合った」のか、深いところまで手が届いているのか、心許なく、足元がおぼつかない。かように川柳の庭は広大で、迷子になること夥しい。

「金曜日の川柳」はそんな心許ない読者の手をひいて、ほどよい速度で導いてくれる。著者の樋口由紀子さんは『容顔』『めるくまーる』などの句集で現代川柳の一角を(なかなかの強度で)掌打する第一人者である(集中にご自身の句も一句ひかれているが、ほかに「ラムネ壜牛乳壜と割っていく『容顔』」「半身は肉買うために立っている『容顔』」「どう向きを変えても高遠に当たる『めるくまーる』」「わたくしをひっくりかえしてみてください『めるくまーる』」などの作品がある)。
収録作は現代の作家による作品を中心にしたとあるが、明治の作家から平成後期の句集まで、多岐多彩な作品が揃っている。
解説文は文字通り解説であることもあれば、樋口さん自身のつぶやきめいていることもある。1ページの下半分ほどにまとめられたごく短い文章には、作品を読み解く楽しさと川柳史のエッセンスが一体となって詰まっている。

 こんな手をしてると猫が見せにくる  筒井祥文
 徘徊と言うな宇宙を散歩中  野沢省悟
 人間を取ればおしゃれな地球なり  白石維想楼

穿ち・軽み・おかしみをさりげなく差し出している三句をひいた。猫の所作を人間側のいいように解釈してみせて、猫愛がだだもれの一句目、「徘徊」のスケールをさっと差し替えて壮大な行動としてみせた二句目、地球にごみごみとくっついた、食物連鎖の頂点、などと嘯く生物を取り去ったら「おしゃれ」じゃないか、という三句目。価値観や通念を覆し、あっけらかんとしている、これも川柳の特徴の一に数えられよう。

 犬小屋の中に入ってゆく鎖  徳永政二  
 五十歳でしたつづいて天気予報  杉野草兵

鎖でつながれた飼い犬が犬小屋に入っていく瞬間、たしかに鎖も犬につられていく。シュルレアリスム絵画のように犬の姿がことばの上で省略された描写の一句。次の句はテレビのニュース番組の進みようをそのまま書き起こしたかのような筆致である。訃報なのか犯罪のニュースなのか、人の年齢を告げたその口が即座に天気の話題に変わる。
この世の姿をありのままにうつしとる、と考えれば、このようなかたちの「写生」も可能なはずである。

 すっぽりと包めば怖いことはない  但見石花菜
 つぶ餡のままで消えようかと思う  谷口義
 世界からサランラップが剥がせない  川合大祐

現代川柳において筆者が最も突出している傾向にあるとおもう句群をひいた。これらの句が俳句の会に提出されたなら、具体性に欠けるだの、わけがわからないだのと言われてしまうかもしれない。表現なのだから「何」を伝えるか、それを明確にせよ、とせまられ、あれを消して季語を入れろ、だの、これをはしょってモノを示せ、だのとバッドサジェストを受ける情景が目に浮かぶ。
しかしこうした句に「説明」を求めるのはとても愚かなことだ。俳句の範疇では表現するのが(自律的に)憚られている「ある感じ」、それを平易な語によってあらわしている、このような句に目を見張らされる。

 開脚の踵にあたるお母さま  なかはられいこ

川柳のもうひとつ大きな特徴として、接頭辞の使用が挙げられる。筆者個人にとってはとても気になる関心事だ(集中にはほかにも「美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている/中西軒わ」「革命を考えているおばあさん/鈴木節子」「赤紙が来るかも知れぬお味噌汁/須田尚美」などの句が見える)。「お母さま」と接頭辞をもたらされた表現により、母は抽象化した存在となり、踵を押さえたりぶつかったりする現実の肉体は後退し、概念的な固まりとして「あたる」モノになっている。このような接頭辞の用法は川柳と俳句の守備範囲―表現指向を大きく分ける指標といえるのではないか。

もう少し、川柳と俳句の対比としていくつかの句を見ていきたい。掲出句の俳句のほう(1字下げ・赤色文字)は本書に掲載されていない、筆者がこの稿のために引いたものである。

 なんぼでもあるぞと滝の水は落ち  前田伍健
  滝の上に水現れて落ちにけり  後藤夜半

どちらも滝を詠んだ句であるが、滝自身が自らの水量を誇るように詠んだ前田と、水を「流れる」ものでなく「現れる」ものだ、と主観的な物理として詠んだ後藤の違いは、ジャンルの違いというだけでなくおもしろい。

 恋人の膝は檸檬のまるさかな  橘高薫風
  恋ふたつレモンはうまく切れません  松本恭子

こちらでは恋人の膝のまるさをいとおしく描写した橘高に対して、松本の句のほうが恋情を間接的に言うかたちとなっている。檸檬の「まるさ」も、「うまく切れない」ことも、ある程度幅のある表現であるにもかかわらず、松本の句は季語として機能する「レモン」によって爽やかさを読後に残し、橘高の句は視覚的なやわからさのみを残す。

 夜桜を見てきて誰も寄せつけず  渡辺康子
  花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ  杉田久女

夜桜を見てきた高揚をうたった渡辺の句と、花見から帰った倦怠をあらわした杉田の句。いずれも人を厭う感じをもたらすが、「寄せつけず」の動的な結句と、「まつはる」のアンニュイな感覚が、真逆の方向性を感じさせる。

この一冊からひしひしと伝わるのは、川柳というジャンルが歴史だの伝統だのというものの上に胡座をかくことなく、作家じしんが自分の居場所を明確にせんとタコ(土固めの道具)をどすんどすんしている姿だ。
川柳の多様性は今日もあたらしい句を生み続けている。わけのわからぬ飴糸のようなものをどんどん巻き込みながら、常識だの見識だのに流されることなく、そのアメーバはことばによってのみ存在しうる。どうです、この無統制な感じ、わくわくするじゃないですか。
本書は章立てが花鳥風月、春夏秋冬といった分け方をされていない。ゆるやかな傾向や共通性により句が少しずつまとめられている。月曜日に「月曜日」の項目を読むのもよいし、目次をひらいて目に止まった章(小章のタイトルもとてもいい)を見るのもいいと思う。
かたくるしいことでなく、しかししっかりと川柳のふところをのぞかせてくれる――そんな好著がこちらである。
(「金曜日の川柳」左右社・2020年3月)


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