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2020年2月28日金曜日

【俳句評論講座】テクストと鑑賞③ 平野テクスト

【テクスト本文】
  小論「きれいすぎるひと」
             平野山斗士 「田」所属 


 丸谷才一が森澄雄と談じて、水原秋櫻子はきれいすぎる、と発言したことがある。
丸谷 秋櫻子は大変に日本画的な句というものを求めたけれども、ぼくは率直に言って秋櫻子の句はきれいすぎて好きじゃない。それを楸邨さんは捨てたでしょう。ところが森さんで秋櫻子的と言っていいかもしれない日本画的大和絵の美がよみがえってきた。それでいて秋櫻子とは違う、もっと景色に奥行があって、もっとデッサンが確かな感じになった、と思うんです。つまり楸邨を媒介として秋櫻子を学んだという感じ……そのせいで非常によかったんじゃないかなあ、と思うんです。[※註1]
小林一茶はあけっぴろげすぎる、相生垣瓜人はおもしろすぎる、中村苑子はあやしすぎる、そうした程度の大雑把な通念で云って良いものなら、水原秋櫻子は《きれいすぎる》。なるほど、さしたる異論はない。たとえば雑誌『國文學』昭和56年2月号の特集「俳句に何を求めるか」にて、福永耕二が秋櫻子を論じているがその標題は「あくなき美の探求者」となっている[※註2]。丸谷才一説では、秋櫻子的なるものを放棄したのが楸邨俳句であり彫琢したのが澄雄俳句であるという、それも一つの論点たり得るが今は、《きれいすぎる》にだけ着目する。

  来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 秋櫻子『葛飾』
  風雲の秩父の柿は皆尖る       〃  『新樹』
  壺にして深山の朴の花ひらく     〃  『秋苑』
  遅日光御手たをやかにうけたまふ   〃  『岩礁』
  瑠璃沼に瀧落ちきたり瑠璃となる   〃  『蘆刈』
  苔あをし更に影置く若楓       〃  『古鏡』
  鮎の瀬のかがやき落ちて峡を出づ   〃  『磐梯』
  あめつちのうららや赤絵窯をいづ   〃  『重陽』
  福寿草墨架に墨を匂はしむ      〃  『梅下抄』
  伊豆の海や紅梅の上に波ながれ    〃  『霜林』
  麦秋の中なるが悲し聖廃墟      〃  『残鐘』
  瀧落ちて群青世界とどろけり     〃  『帰心』
  菓子買ひに妻をいざなふ地虫の夜   〃  『玄魚』
  好晴の九品浄土も菊に満つ      〃  『蓬壺』
  樟若葉鳴門つづきに潮蒼し      〃  『旅愁』
  山肌の代馬足掻く雪解風       〃  『晩華』
  酔芙蓉白雨たばしる中に酔ふ     〃  『殉教』
  牧閉ぢて紫こぼす山葡萄       〃  『緑雲』
  羽子板や子はまぼろしのすみだ川   〃  『餘生』
  塩鮭の塩きびしきを好みけり     〃  『蘆雁』
  紫陽花や水辺の夕餉早きかな     〃  『うたげ』(『蘆雁』以後)


 遺句集も数え入れれば秋櫻子には第二十一句集まで、ある。概ねよく知られていると思われる句を、おのおのから一句だけ、抽いた。このような句に、どこか不満を感ずるとすればそれは、いったい何を期待してのことか。秋櫻子俳句は美しい。このような美しさを獲得するために、何かが犠牲になっているのだろうか。
 作家個人の、特色とか体質とか呼ばれるものを海老か海鼠か何かみたいに俎に乗せて捌くことは、気が進まない。個人は唯一無二だから。いま強引に人間を関数 f(x) に見立てるとして、客観的に知ることができるのは、その入力ならびに出力だけである。内部にいかなるアルゴリズムが動作しているのか知らない。よしんば知り得たところで、その知識を他の個人へ応用するのは、無意味であるに留まらずいっそ非礼である。たとえば同じ一冊の書物を読んでもどの箇所が栄養になりどの箇所が毒になるか判ったものではない、と考えれば、入力さえもが個人の奥床しい神秘に属する。出力だけを、作品なり言動なりを、検討するほかないらしい。早い話が、人間の言語は、命ある人間を捉えることができない。人間は未来予知の能力を持たないから。すると、屍骸だけが正当に論ずるに値する。観念遊戯なら幾らでもできると云い、せいぜい歴史の後知恵をやるしかないと云う。情報化とは切断である。命を切ったらその部分は死ぬ。藝術作品とは洟水のようである。生体からぽんと飛び出し切り離されて初めて、それは研究対象として成立する。こんな人だからこんな作品を創った――そういう論法は、酒の肴にはなり得ても、対象への認識を練る目的のためには邪魔になりがちである。逆さにして、こんな作品を創った人だからこんな人だ――そのほうがまだしも、人の印象というあの朦朧としたものが醸成される実情に、即した云い方ではあるけれども、それだと、作品論のはずがいつの間にか浮世の噂話になっている。藝術への興味と、人格への興味とを、混同してはいけない。そう考えておいてから、酒肴みたいなものに終るかもしれないが無味乾燥よりはまだしも、と思い定めて、秋櫻子を眺めてみることにする。「こんな人だから論法」を以て、つまり人格面において。
 秋櫻子当人の述作に就く。この作家が、好悪の感情を示したと見られる箇所を拾おう。先ず『高浜虚子 並びに周囲の作者達』より。
「どうも俺は雑詠句評をあのままにしておいてはいけないと思うね」「どうしてさ」「あれでは考えていることが何も言えないじゃあないか。もっと自由にものの言えるようにすることが第一、それからメンバーも厳選して、やたらな人を入れては駄目だ」「なるほど君の嫌いそうな人物はいるよ。しかし君が大を成すためには清濁併せ呑まなくてはね」「いや、濁を呑むくらいなら、僕は大を成す必要はない」 素十は突然大声で笑い出した。私はあっけにとられたが、どういう意味かわからなかった。「そう来るだろうと思っていたところへ、そう来たから可笑しかったんだ。実はこのあいだね、親仁さんとその話をした。すると親仁さんが、秋櫻子君は人を好ききらいしすぎる。もっと清濁併せ呑むようにならないと大を成せませんよ、と言うんだ。俺はそういったよ。秋櫻子にその通りいえば、濁を呑んでまで大を成す必要はないと怒るに極まっているってね」 私も笑い出さずにはいられなかった。そうして編集改革論はその時はそのままになった。[※註3]
この『高浜虚子』は小説ということに建前としては、なっていると聞く。遠い過去のはずの会話を臨場的に叙している点からも、そう見るべきだろう。実名小説というものは扱いに難渋してしまう。それは著者の誠実を疑うのとは別の話である。司馬遼太郎の小説を、歴史そのままと信じ込んで、よいだろうか。よくないのだがしかし、歴史学者の論文を信じるのと、物語を信じるのと、心理的に違いがないのである。ただ、この際に信じていいのは、秋櫻子がこの会話を書き綴ったというそのこと自体である。秋櫻子は、清濁併せ呑みはしない人物として自身を定位している。「もっと自由にものの言えるように」「やたらな人を入れては駄目」という。忖度合戦だの情実人事だのに引き摺られてはいかんし、藝術の場である以上は唐変木はお断りだ。そういった底意が感じ取れる。そのような非゠政治的な態度を称して、メリトクラシーと呼べるが、そうなるとまさに、そんなんじゃあ大を成せねえぞとの指摘は肯綮に中っている。定義上、卓越者とは少数者のことなのだから。そうしてすぐに思い当る、おかしいな、秋櫻子は「馬酔木」という結社をこれ以上ないほど大きく築き上げたんだよな。虚子の通俗的な訓戒が誤っていたと見るのでもなく、じつは秋櫻子が清濁こっそり併せ呑んでいたと見るのでもなく、ここは軽薄に、人界の七不思議とでも考えておいて差支えないだろう。べつに、結社運営の成功の秘訣を秋櫻子から引出したいわけではない。秋櫻子俳句の、秘密の一端でも摑めれば満足すべく、人格の面から撫で廻そうとしている。メリトクラシー、実力本位、精鋭主義――という風にパラフレーズしてゆけば、《きれいすぎる》の消息に幾らか触れるような思いがする。
 次に『俳句今昔談』より。清濁併せ呑むの一件よりもさらに遡る。
 私がはじめて手ほどきを受けたのは、友達のやっていた小人数の句会で、それが「渋柿」系統のものであったため、一年半ほどのあいだ「渋柿」末流中の末流の作者として暮らしました。この「渋柿」派にはなかなか名作者が多かったもので、稽古もすこぶるきびしかった。それはよろしいのですが、どうも「俳禅一致」というような考えを主宰の東洋城先生が持っておられましてね、それに私は随いて行けない感じなのでした。  壁の中の隣の国や秋の声 誰の句か忘れましたし、或いは少し間違っているかとも思いますが、とにかくこの六十年ちかくも前の句を憶えているのですから、困惑が骨身にしみているのでしょう。これが範とすべき句と教えられても、素直に感心するわけにはいかないのです。無論意味はわかりますよ。[※註4]
  ここでも好悪は、はっきりしている。頭ごなしが厭なのである。徒弟制度のような状況を嫌う、権力関係を忌避する。こうしてみると秋櫻子は、あの近代的自我と呼ばれるものの持主である。「渋柿」「ホトトギス」を前゠近代的なギルドとすれば、いっぽうの「馬酔木」は個人参加のクラブといったところか。若い才能を集め得たのも尤もである。高野素十は、虚子のことを「親仁さん」と呼んでいた。ほとんどヤクザの口振りである。古き良き任侠映画の世界か、はたまた永田町界隈の呼吸か。そうは云っても、その後の「ホトトギス」とて川端茅舎、芝不器男、皆吉爽雨、野見山朱鳥など次世代の俊英を輩出して行ったわけだから、一概に、頭ごなしは近代人を潰す、とは云えたものでない。畢竟これは、個個の素質の如何によるのだろう、と常識的すぎる話に帰着する。そも教育とは、果して人類に可能なことなのだろうか、本当に? この世に現に生じている事態とは、天性備えたものが花開いたり開かなかったりするだけのことではないのか。鳶が鷹を産む。人間形成において、教育に比べたら、天気とか食事とか暇な時間とかのほうが遙かに重大な要因である、と見て然るべきだとは云えないか。どんなに良質らしい教育を授けるにしても、それ以前に、良質な蛋白源が与えられなければ脳そのものが発達しない。人を育てるとは、選択肢を用意することだ、身体的・心理的安全を担保しつつ。それ以上でも以下でもないのだろう、と仮に考えておく。東洋城門において、次いで虚子門において、秋櫻子は学び且つ反発した。いわば、ひとりでに育った。孤立してという意味ではむろんない。そうして、もしも秋櫻子なかりせば、「馬酔木」も生れず新興俳句運動も興らず俳壇即ホトトギス状態のまま時代遅れになって、ついに俳句まるごと没落することに、なったのか。存外そうとも思われない。単に、別の時代様相を呈しただろうというまでである。それは、秋櫻子のおかげで現状がある、と述べるのと同じ意味になる。ここにおいて、秋櫻子という偉人がいてくれて良かったと云う、その、良さとは何のことか、何のために。俳句というこの世界に比類なき文化のために、という類の返事では答えとして弱い。俳句など滅びても一向構わんと考える文化人は存在し得る。少なくとも、戦争に敗れたらその主張は実際に大真面目に現れた。
 秋櫻子的なるもの、《きれいすぎる》的なるものは、歴史上どう見えるか。当人でない人物の述べるところも傾聴しよう。神田秀夫に訊ねる。
 碧梧桐が自然主義に足をとられて到り得なかった印象派の段階にはじめて達したものは秋櫻子である。自然主義になやまされない時代に出て来た彼は、やがて、その表現世界をソリッドなものにしようとして、反って遡ってパルナッシヤンとなって行った唯美主義の作者である。性生活の結果ばかりを持ちこまれる産婦人科の水原豊博士は、本業から来る反作用で、風景と古藝術を愛する俳人となったものと思う。[※註5]
「本業から来る反作用」か。いくぶんゴシップ的、週刊誌的な気配のする見方だが、そのような視座を指摘されてみれば、さもあらん。頷けるものはある。「自然主義になやまされない」「ソリッドなものにしようとして」も読み逃せない。ここでの自然主義とは、田山花袋の蒲団的なる、島崎藤村の新生的なるものの謂だろう。人間の恥部を殊更に曝く作品こそ正しい藝術とされた時代があった。まこと、時代風潮とは侮り難い。時代によって、妻を殴ってもよかったり、道に煙草の殻を投げ棄ててもよかったり、タートルネック姿で記者発表に臨んでもよかったり、インスタグラムで幼児の顔を晒してもよかったり、年賀状を送らなくてもよかったり、公文書を改竄してもよかったり、するからである。進歩史観も下降史観もどちらも胡乱であって、だから、当世における主流だの傍流だのを気に病むには及ばん。と、そのくらい口先で云うだけは云えるが、しかし、自然主義に悩まされなくて済んだとしても、客観写生に悩まされることがあり得る。秋櫻子が、幸いにも相応しい時代に生れ落ちたのではない。時代に相応しい形で発展した個人の一人が、秋櫻子という固有名をたまたま持っていた。ソリッドとは、神田秀夫としてはどのような機微を込めての表現なのだか曖昧だが察するに、方法の錬成、美意識の陶冶、能う限りは完璧を目指す構え。そうした類のことだろう。ならばソリッドに非ざる俳句とはどんなものかと思ってみると、それは、出るに任せてどしどし多作してゆく型の俳句。なるほど秋櫻子には、無造作に投げっぱなしたような味の句は僅少と見える。元来が、推敲に推敲を重ねてようやく一句を定めるという意識は、秋櫻子・誓子・草田男あたりの世代にして初めて根付いたものではなかったか。ときに秋櫻子は、題詠ということに否定的である。
 近頃の俳句では、題詠の影が非常にうすれて来た。題詠はおおむね空想作を産むが、その空想作が迫力にとぼしく、今日の作者には満足しがたいということになったのである。これは大きな進歩の一つであるが、それでも俳壇の一部にはまだまだ題詠が行われている。[※註6]
こういった面がまた、ソリッドなわけだろう。西暦二〇二〇年代には何気なく受取れることも、当時において、どうだったか。題詠は駄目などとは何とまあ狭い了見だ、くらいに「ホトトギス」派のほうでは反応したかもしれない。それに、『葛飾』に収められた例のご自慢の連作「筑波山縁起」、あれこそ紛うことなき空想作じゃないかと、半畳を入れる余地は、ある。そうしたらパルナシアン秋櫻子は、まさにそのような論難を問題にしているのだ、それこそが客観写生なる呪文に縛られた思い込みから生じることなのだ、と駁するのかしらん。
 ゴシップ的なる素材を、序でのことにもう一つ挙げる。世にあまり知られない、そこそこ珍らかな資料のように管見では思える。これは、内容自体は佐野まもる論なのだが、秋櫻子についての証言が含まれていて次の通り。「馬酔木」一〇〇〇号記念号に掲載されているものである。筆者は石原義輝。
 以後、まもるは「馬酔木」に章は「天の川」へと傾斜してゆくが、これを決定づけたのは、例の、秋櫻子からまもるに宛てた一通の書簡であった。この書簡は、戦火を搔い潜ってまもるが死ぬまで桐の箱に仕舞っていた。桑原志朗に見せると「彼は、必ず持って帰るので見せない」と笑っていた。毛筆で巻紙に認められていた。コピーにして保存しておきたい気持は一杯であったが言い出せなかった。まもる亡き後、まもるを理解しない相続人が、この貴重な資料を一夜にして灰塵にしてしまったのが残念である。秋櫻子が寄せた手紙の内容というのは――私の記憶で心許無いが、
 「ホトトギスの中心に醜い事件が持ち上がっていて、到底浄化の見込はないと思うし、又、そんな下等な連中と一緒にいるより、気持の合った若い人と共に事をする方が愉快だと思って雑詠にも投句せぬし、一切の会にも出ぬことにしました」「この事件は東京では知られていますが、やがて地方へも知れてしまうでしょう。正義の道を歩むは愉快、どんなことがあってもあの汚いホトトギスへ二度と引き返すものかと決心しています」
 という甚だ興味深いものであった。生涯を通したまもるの秋櫻子一辺倒は、この手紙の、とりわけ「気持の合った若い人と共に事をするのが愉快」という一語に尽きると思う。[※註7]
記憶のみで述べるとあって話の形式としては頼りないが、話の内容としては烈しい。証拠物件は灰塵に帰したと云われては仕方ない、事の真相の如何は措くとして、秋櫻子の面目躍如たるを失わない一挿話である。なお、あの小説『高浜虚子』のうちには、本件に関わりあるらしい記述は見当らない。
 以上にて、話はどこへ逢着するか。
 水原秋櫻子は《きれいすぎる》人格なり。そう認識し得るか、どうか、である。《きれいすぎる》の《すぎる》を肯うか否か。これは秋櫻子俳句そのものの把握とは、ひとまず別の、小論である。藝術作品と人格とを、安易に結び付けたくはない、と再び申し添える。ここで急に、そもそも俳句は藝術ではないという立場への理解を示そうとすれば、いっぺんに話はすっ飛んで、石田波郷の片言や平畑静塔の説がちらちらする。
    *
引用一覧
註1 森澄雄/『俳句と遊行』/富士見書房/226頁
註2 福永耕二/「水原秋櫻子 あくなき美の探求者」/『國文學 解釈と教材の研究』昭和56年2月号「現代俳句の作家、その句と論と」/學燈社/96頁
註3 水原秋櫻子/「高浜虚子 並びに周囲の作者達」/『水原秋櫻子全集』第19巻/講談社/138頁
註4 水原秋櫻子/「俳句今昔談」/『水原秋櫻子全集』第19巻/講談社/359頁
註5 神田秀夫/「現代俳句小史」/『現代日本文学全集・現代俳句集』/筑摩書房/433頁
註6 水原秋櫻子/「生活俳句の作り方」抄 序/『水原秋櫻子全集』第15巻/119頁
註7 石原義輝/「佐野まもる覚え書」/『馬酔木』平成19年6月号・1000号記念号/馬酔木発行所/146頁


【角谷昌子・鑑賞と批評】
 文章力が高くて引き込まれますが、著者の主観が強いので、そこで引いてしまう読者があるかもしれません。
 著者の考えていることが濃厚に表れているので、その存在が強く印象づけられるという良さがある反面、かえって論考の客観性の乏しさを見出される可能性もあるでしょうか。
 秋櫻子の「きれい寂び」との山本健吉のコメントは俳壇に広がりましたが、「きれい」をテーマとして人物評価と作品との関連性を論じるのは、評論ではなく、随筆になってしまいそうですね。
 筑紫さんが指摘されるように、当人の発言録や執筆した文章を参考とするとき、要注意です。当人の記憶違いや、虚偽の部分があり(思いこんでいたりも含めて)、なかなか真偽を見極めるのはたいへんです。

【筑紫磐井・鑑賞と批評】
 これもなかなか書きなれた論であると思いました。それが評論としていい内容であるかどうかは別として、筆者が言いたいことが文体によくあっていると思います。つまり心情はよく伝わると言うことで、文芸評論としては大事なことです。問題はテーマです。
 秋櫻子の綺麗すぎる俳句を、人格にさかのぼると言う論法を取っていますが、やや、評論として成り立つのか不安なところがありました。自身が言われているように酒の肴になりかねない不安があるからです。全体がまだ未完だと思いますのでこれからいろいろ追加されるでしょうが、気になったところを上げます。

①回顧録を使うとき注意が必要なのは、本人が嘘をついていることです。それは悪意と善意であって、悪意は見え透いているから検証しやすいですが、善意の嘘が一番困るでしょう。自分の過去の事なのでそういうものだと思い込んでいることです。金子兜太などにはよくありました。秋櫻子の『高浜虚子』が事実でないことは本井英なども声高に叫んでいますし、筆者自身書かれているように「小説」に過ぎないでしょうが、そこから筆者の思想や真実を引き出すにはいろいろな技法が必要だと思います。そのプロセスが分かればよほど面白いと思います。

②論文では秋櫻子の俳句と彼の心情・思想を結びつけていますが、実は秋櫻子の俳句は時代そのものを作っている可能性があることです。それは反ホトトギスという判官びいきもあったかもしれませんが、ホトトギスから生みえなかった文学的雰囲気が生まれたことも考えに入れるべきでしょう。新興俳句の祖のように言われている高屋窓秋の話を聞く機会があり、窓秋が影響を受けた作家を問われたとき、窓秋が少し小首をかしげて「秋櫻子先生ですね」と言っていたのを聞いて感動しました。リアルタイムで、秋櫻子が何を成し遂げたかがうっすらと分かったような気がしたからです。
 何がいいたいかと言えば、神田秀夫や(角谷さんが講座の時に上げた)飯島晴子の秋櫻子批判が秋櫻子に直接向けたものか、秋櫻子が作り上げた時代に対するものかは考慮が必要だと思います。新しい俳句はそのほとんどが、子規の新俳句→碧梧洞の新傾向俳句→秋櫻子らの前期新興俳句→後期新興俳句→人間探求派→社会性俳句→前衛俳句のように親殺しの系譜が働くと言ってよいと思うからです。

 かなり私の独断的史観でご批判があるかもしれませんが、このテーマでの深堀りを進めて頂きたいと思います。

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