【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2020年1月24日金曜日

第129号

※次回更新 2/7

特集『切字と切れ』
【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日
【緊急発言】切れ論補足
※1/24追加 (6)4 》読む

【単発鑑賞】猪も神もまぐわう歓喜の熊野  『星糞』(谷口智行) 豊里友行

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和2年歳旦帖
第一(1/10)辻村麻乃
第二(1/17)曾根 毅・池田澄子
第三(1/24)坂間恒子・大井恒行・仙田洋子・山本敏倖・堀本 吟

令和元年冬興帖
第一(12/27)曾根 毅・小沢麻結・渕上信子・松下カロ・山本敏倖
第二(1/10)小林かんな・池田澄子・辻村麻乃・内村恭子・中村猛虎・夏木久
第三(1/17)網野月を・大井恒行・神谷 波・花尻万博・近江文代・なつはづき・林雅樹
第四(1/24)岸本尚毅・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・竹岡一郎・妹尾健太郎


令和元年秋興帖
第一(11/8)大井恒行
第二(11/15)曾根 毅・辻村麻乃・仙田洋子
第三(11/22)小野裕三・仲寒蟬・山本敏倖
第四(11/29)浅沼 璞・林雅樹・北川美美・ふけとしこ
第五(12/6)神谷波・杉山久子・木村オサム・坂間恒子
第六(12/27)青木百舌鳥・岸本尚毅・田中葉月・堀本吟・飯田冬眞・花尻万博・望月士郎・中西夕紀
第七(1/10)渡邉美保・真矢ひろみ・竹岡一郎・前北かおる・小沢麻結・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・仙田洋子・渕上信子・水岩瞳
第八(1/17)小林かんな・加藤知子・網野月を・早瀬恵子・中村猛虎・のどか・近江文代・佐藤りえ・筑紫磐井

■連載

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測205
生誕百年を迎えた俳句作家――昭和・平成を生きた兜太と龍太
筑紫磐井 》読む

英国Haiku便り(3) 小野裕三  》読む

【新連載】ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
2 「眠たくない句集」/杉山久子  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉗ のどか  》読む

句集歌集逍遙 秦夕美・藤原月彦『夕月譜』/佐藤りえ   》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
16 「こころのかたち」/近澤有孝  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
1月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子





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豈62号 発売中!購入は邑書林まで


「兜太 TOTA」第3号

Amazon藤原書店などで好評発売中

筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【抜粋】〈俳句四季2月号〉俳壇観測205 生誕百年を迎えた俳句作家――昭和・平成を生きた兜太と龍太 筑紫磐井

兜太と龍太
 戦後俳壇を代表する金子兜太と飯田龍太はともに二月を命日としている。二人の命日は、わずか五日違い。生没年を比較すると、

[兜太]大正八年九月二三日~平成三〇年二月二〇日(九八歳)
[龍太]大正九年七月一〇日~平成一九年二月二五日(八六歳)

となる。一年違いで誕生――一年違いと言っても実は七月から九月の間は同齢であるから同世代であるのだ。このため、昨年九月秩父の皆野町で兜太百年祭が執り行われ、入れ替わって本年は龍太百年祭と言うことになるのだろう。
 兜太の出身は秩父の皆野町、龍太は甲斐の境川村という鄙びた地であり、父親は、それぞれ金子伊昔紅(元春・医師)、飯田蛇笏(武治・地主)という地域の名士たちであった。東京のインテリたちとは少し違う経歴であることもふたり共通している。戦後二人は戦後派世代の代表と目された。もちろん、兜太が社会性俳句・前衛俳句と戦後俳句を牽引したのに対し、龍太は伝統派の総帥の立場に身を置いた。しかし、それぞれ単独で考えるよりは、いろいろな偶然によって二人を対にして考えた方が興味深いと思う。
 そのようなこともあり、俳人協会の俳句文学館で「よみがえる俳人たち――忌日特集」の展示が毎月俳人の顔触れを替えて行われているのだが、二月は私が企画担当をすることになったので兜太と龍太を取り上げることにした。俳人協会の俳句文学館で、協会員でない兜太と龍太を取り上げることはなかなかよいことだと思う。二月にかかわる戦後俳人はいろいろいるが対となる二人としてはこの顔触れ以外にはぴったりとした俳人はいないだろうと思うからだ。俳句文学館に足を向けられる人は二月の一ヶ月間は展示が続くから見ていただきたい。
 さらに、藤原書店から出されている「兜太 TOTA」の第四号(三月刊行予定)では「兜太と龍太」をテーマに編集を進めている。単独ではともかく、兜太・龍太合同特集で関係者の発言や回想が同時に行われることはあまり例がないことではないかと思う。

二人の時代
(中略)
①昭和二八年以後(その青春)
 一点に絞って考えてみる。昭和二八年は戦後俳壇の分岐点に当たる年だ。発足したばかりの現代俳句協会が、初めて戦後生まれを受け入れた年なのだ、この時入会した兜太三四歳、龍太三三歳と脂が乗りきっていた時期だ。
 この直後、二九年龍太『百戸の谿』、三〇年兜太『少年』と第一句集を刊行している。そしてできた早々の現代俳句協会賞を、三一年に兜太が第五回を、三二年に龍太が第六回を受賞している。
 三七年は現代俳句協会が分裂し、俳人協会が発足した戦後俳壇の第二の分岐点となる年だが、この年、兜太は同人誌「海程」を創刊、龍太は蛇笏の「雲母」を承継するのだ。

②平成時代(その晩年)
 平成二年から俳壇は「結社の時代」という卑俗化の時代に突入する。それは実に熾烈な文化大革命であった。
 その最中、龍太は、俳句界の態様の変貌に自ら責任を感じて蛇笏以来七七年続いた「雲母」を平成四年に終刊するに至る。これは衝撃をもって俳壇で迎えられた。その後僅か二年で「結社の時代」は終焉するからだ。
 一方、兜太は昭和六三年から「俳句研究」誌上で龍太・澄雄・兜太の長期連載座談会、平成二年から「俳句」で岡井隆と前衛の時代をめぐる長期連載対談を行う。誰も兜太に「結社の時代」の旗頭となることを期待していなかったから、実に軽やかに「結社の時代」を遊泳したことになる。その後、平成後半は「兜太の時代」が出現したのだ。これも見事な二人の晩年の行き方であった。
 もちろんこれは私の一面的な見方に過ぎないが、しかしそうした時代感を生み出す魅力を二人は持っていたのである。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  兜太
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
おおかみに螢が一つ付いていた
大寒の一戸もかくれなき故郷   龍太
どの子にも涼しく風の吹く日かな
一月の川一月の谷の中


【参考文献】
①筑紫著『飯田龍太の彼方へ』(平成六年/深夜叢書社刊)
②筑紫著『戦後俳句の探求ー兜太・龍太・狩行の彼方へー』(平成二七年/ウエップ刊)

※詳しくは「俳句四季」2月号をお読み下さい。

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉗ のどか

第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む
〈序〉
 シベリア抑留を体験された方たちが、武装解除を受けシベリアへ連れていかれる途中、地元民やソ連兵や八路軍等の強奪や強姦に会いながら逃げ惑う、満州開拓団の婦人と子ども達や高齢者に会いながらも、守ることが出来なかったことについて、無念の思いに耐えないと話されたことが心に残っている。
 このことからシベリア抑留についてだけを書くことは、片手落ちであり、「満洲からの引揚げ」についても取り上げなければならないと思った。
 そこで、第1章Ⅱシベリア抑留への歴史の中で、「満州建国」及び「満州開拓政策」について触れたところであるが、「満州開拓」と「大陸の花嫁」について、2019(令和元)年9月2日に、長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」で確認したことも踏まえ、お伝えするこことする。
 1931(昭和6)年の世界恐慌とあいまって、繭価の暴落や凶作により、当時の日本の農村は疲弊していた。
 「五族協和」「王道楽土」の満州国建設をうたい、家督や財産を継ぐことのできない農村の若者を対象に、“20町歩の地主になれる”を宣伝文句の国策として、1932~1933(昭和7~8)年、第1次武装移民団が満州に入植した後、移民を定住させるため花嫁を送りこむ「大陸の花嫁」が政策化された。
 このことについて、『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)』 杉山春著 新潮社P28に、以下のように書かれている。
 
 昭和11年、2・26事件が起きると、政府内の軍部を押さえ込む力は一掃され、その後生まれた広田弘毅内閣は、満州移民を七大国策の一つとした。(略)5月11日、20カ年百万戸満州移民計画が関東軍により策定され、これに基づき、拓務省の予算案が議会を通過する。(略)          
 昭和12年これを受けて、第六次移民、5000人が満州へ送られた。
 移民には、未婚の男性が多く、以後、移民の花嫁の送り出しが全国規模で始まってゆく。
 その中心となったのが、満州移住協会である。昭和12年頃から、大日本連合女子青年団、大日本連合母の会、愛国婦人会などの婦人団体や、女教員会などに向けて、満州移民への積極的な関わりと「花嫁養成」への協力を求めていく。
 それに応える形で各地で花嫁訓練所が作られ、花嫁講習も開かれるようになっていた。(『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)杉山春著 新潮社1996.5.30』
 昭和12年これを受けて、第六次移民、5000人が満州へ送られた。 移民には、未婚の男性が多く、以後、移民の花嫁の送り出しが全国規模で始まってゆく。 その中心となったのが、満州移住協会である。昭和12年頃から、大日本連合女子青年団、大日本連合母の会、愛国婦人会などの婦人団体や、女教員会などに向けて、満州移民への積極的な関わりと「花嫁養成」への協力を求めていく。 それに応える形で各地で花嫁訓練所が作られ、花嫁講習も開かれるようになっていた。(『満州女塾(まんしゅうじょじゅく)杉山春著 新潮社1996.5.30』

 このような社会の流れの中で、国策に応じ多くの女性たちが「大陸の花嫁」として満州に渡ったという。

Ⅶ 井筒紀久枝さんの『大陸の花嫁』を読む(1)

 井筒紀久枝さんもこの国策に運命を託した一人である。
 井筒さんは、越前和紙の里に生まれたが、不運な出生と幼少期から少女時代のつらい境遇から逃れるために福井県から「大陸の花嫁」に志願し満州へ渡ったという。
 そして、引揚げ後にその思い出を俳句にまとめ、「大陸の花嫁」としての苦難の生活を『望郷』『生かされて生き万緑の中に老ゆ』『大陸の花嫁』として発表し、ご自分の戦争体験を語り継ぐ活動をされ、2015(平成27)年享年94歳で永眠された。
 このたびは、井筒紀久枝さんの俳句の伝承をしておられる、ご遺族の新谷亜紀(陽子)さまの許可を平成31年2月に頂けたので、「第4章 満州開拓と引揚げの俳句を読む」において、井筒紀久枝著『大陸の花嫁』(岩波現代文庫)の満州引揚げの俳句を紹介して行きたい。
 *の箇所は、主に、(『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)などを参考にした筆者文。

【開拓地10句から】
 昭和18年4月12日、井筒さんは満州に渡った。

解氷期野原動くや豚生まる 
*冬には氷や雪に閉ざされる北満の地も解氷期となり、暖かな光に野原も川も息づき開拓地の集落は、子豚の生まれた声が聞こえてくる。豚の妊娠期間は、3月3週3日と覚えるのだそうだが、厳冬期に妊娠した豚は、雪解けのころに出産したのだろう。1回に10頭ほどを出産するそうであるから、子ブタのキーキー鳴く声が開拓村のあちこちから聞こえてくるのである。
 満蒙開拓団の入植先の多くが、ソ連国境に近い黒竜江に沿った、小興安嶺、大興安嶺の裾野に広がる辺境の地に、関東軍兵士の補給庫の目的で配置されたのである。
 井筒さんが所属した福井県出身の第9次興亜開拓団と第1次興亜義勇隊開拓団の本部は、チチハルから200キロ奥地大興安嶺を西北に見る平原にあった。(『生かされて生き万緑の中に老ゆ』満州開拓団から参照)

放牧や桔梗芍薬いっせいに 
*広大な野原に放牧され、草を食む家畜たち、あたりは桔梗や芍薬の花が咲き乱れ、命がいっせいに輝きだす。暖かな日差しの中で色とりどりの花野に身も心も解放される至福の時がやってきた。

麦熟れて東西南北地平線

*いかにも雄大で神々しい。東西南北に広がる地平線まで続く麦畑は、黄金色に北満の大地を彩り、夕日の落ちる瞬間には、畑も山も全てが茜さす金色に輝くのである。
 現実の暮らしについては、自然の美しさとは別に厳しいものであったようである。井筒紀久枝著『大陸の花嫁』P.27には、次のような記述がある。

 最も困難を極めたのは、水汲みである。柳の枝で編んだ籠のようなものが、車井戸にぶら下げてあった。覗いても水面がみえないほどの深い井戸から、両手で重たい車を回して汲み上げる。手元へ汲み上げたころには水はこぼれてしまって、半分ほどになっていた。それを何回も汲み上げて、天秤棒で運ぶのである。故郷では、山から流れる水を何も考えずに使っていたが、ここでは一滴たりとも貴重な“水”であった。   (『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波現代文庫 2004 1.16)

 さて、現代の私たちの暮らしは、水道の蛇口をひねれば水ばかりかお湯まで苦労せずに使うことが出来る。トイレでは温水が尻を洗ってくれるのだ。一滴の水も貴重だという体験は、今の世にはなかなか実感出来ないことである。
(つづく)
参考文献
『大陸の花嫁』井筒紀久枝著 岩波書店 2004.1.16
『生かされて生き万緑の中に老ゆ』井筒紀久枝著 生涯学習研究社 1993年
『満州女塾』杉山春著 新潮社 1996.5.30
『満蒙開拓平和祈念館』満蒙開拓平和祈念館作成資料


【緊急発言】切れ論補足(6)動態的切字論4――現代俳句の文体――切字の彼方へ 筑紫磐井

※1月24日追加

●明治・大正・昭和初期の切字論
 浅野信は、芭蕉直前までの切字の歴史を緻密に掲げ、その上で一応芭蕉を以て新しい切字の歴史が生まれたことを以てその特色を示し、切字の歴史をここで閉じている。従って、芭蕉以後の切字の歴史を浅野の本からすべて探ることはできない(一部は分かるが)。
 本論では、すでに『俳諧歳時記栞草』の切字の項目を、芭蕉以降の切字の歴史の一例として示した。全く無価値ではないと考えられたからである。
 特に問題は明治以降になり、連句というジャンルが存在しなくなってから、切字は一体どのように変化して行くかの基礎資料は存在していないことになる。連句存在時代の(つまり俳諧時代の)切字と、連句消滅時代の(俳句時代の)切字が異なるかどうかを調べるすべがないのである。芭蕉の切字論を以て、近代の切字論に替えることは必ずしもできないと考えられる。
 そこで明治以降の切字の資料を列記してみることとする。浅野信が登場する以前の切字論でよいと考えた。従って、明治初年から昭和10年頃(改造社の本格的俳句講座が刊行されるまで。因みに、浅野の初論文は昭和7年(1932年))までで、ある程度の切字に関するまとまった記述のある文献である。かなりの見落としはあるかも知れないが、近代の切字論の鳥瞰的な見通しはできるだろうと思う。なお、俳句作法書はしばしば書名や出版社を替えて重版されている(高浜虚子の著書ですらそうだ)のでそうしたものは初版だけに留め、類似のものは極力排除した。

【俳句切字文献一覧】
『俳諧切字鑑』小山清六編[他] (彫雲堂, 1883)
『意匠自在発句独案内』楠蔭波鴎(中西善助)編 (米田ヒナ, 1892)明治25年
『俳諧秘伝抄 : 附・俳諧の栞』芭蕉口訣[他] (尾関則光, 1892)
『発句作法指』南田辺機一編 (頴才新誌社, 1892)
『発句独稽古』一事庵史栞編[他] (弘文堂, 1892)
『俳諧独案内 (寸珍百種 ; 第12編) 』/ 田中犢二郎著(博文館, 1892)
『俳諧発句早学 : 季寄部類』 中巻秋月亭寛逸 (沢田寛一) 編[他](弘業館, 1892)
『俳諧秘書 : 正風蕉門』幽明一場人編 (頴才新誌社, 1893)
『物識天狗』 僧正坊閲[他](藍外堂, 1893)
『絵入俳諧季寄手引草』一事庵史琴編[他] (弘文館, 1893)【手書き】
『俳諧秘事大全 : 鼇頭插画図書』松井鶴羨(紋之丞)著 (其中堂, 1893)
『俳諧発句初まなび』柳庵一青 (吉本重七)編 (三叢館, 1894)
『蕉翁俳談秘録』虚幻堂主人編 (頴才新誌社, 1894)
『俳諧独学全書』柳庵一青 (吉本重七)編 (鍾美館, 1894)
『発句学の近道』大館金城 (泊槎庵)編 (忠雅堂, 1895)
『俳諧独学(日用百科全書 ; 第11編) 』大橋又太郎編 (博文館, 1896)
『発句の栞』楓陰散士 (秋の舎)著(鹿田書店, 1896)明治29年
『発句作法案内 : 俳諧詞寄(日本諸芸大全 ; 第2編) 』梧窓庵主人著 (積善館, 1896)
『俳諧道しるべ 』無適庵編 (東京図書出版合資会社, 1897)
『発句俳諧作法自在』津田房之助編 (東崖堂, 1897)
『俳句入門』高浜虚子著(少年園, 1898)
『俳句初歩』河東碧梧洞 1902年
『俳諧百話』吉木文(青蓮庵)著(金桜堂, 1902)
『水の音 : 俳家須知』南条淇水(昌輔)著(石川景蔵, 1903)
『俳諧手提燈 : 頭書明治五百題集』伊藤新策編(求古堂, 1903)
『俳諧提要』五乳人鈎雪編[他](博文館, 1903)
『初学自修俳句案内(俳句入門叢書 ; 第8編)』寒川鼠骨編 (大学館, 1905)
『俳句作法指南(文芸叢書) 』小林鶯里(豊次郎)著(盛林堂, 1906)
『俳偕名句選』錦花園玄生編(松陽堂, 1908)
『発句手ほどき : 季寄註解』故山亭寒英編[他](岡村書店, 1908)
『少年少女俳句作法』河崎酔雨著 (建文館, 1908)
『俳諧独学(新撰百科全書 ; 第81編) 』 高橋毅堂著 (修学堂, 1909)
『俳諧新派と旧派』武田桜桃著(公文書院, 1909)
『簡辞篇』蒔田桂眉著(久須美祐利, 1909)
『俳句作法(通俗作文全書 ; 第23編) 』内藤鳴雪著(博文館, 1909)
『俳句の作り方』沼波瓊音著(文成社, 1909)
『俳諧辞典』武田桜桃編(公文書院, 1909)
『俳句の作り方』沼波瓊音著(文成社, 1909)
『和歌俳句小品文少年作法』蘆谷蘆村(重常)著(以文館[ほか], 1911)
『俳句初歩(通俗ポケット叢書 ; 第16編)』峯島和夫著(岡村盛花堂, 1913)
『俳句とはどんなものか』高浜虚子著 (実業之日本社, 1914)
『俳句自由自在』武田鶯塘, 田沢騎士共著 (いろは書房, 1916)
『俳句の作り方』越生夏川著 (東洋書院, 1916)
『俳句は如何して作るか』小林鶯里著(富田文陽堂, 1917)
『俳句十講』飯田秋羅著(久保田書店, 1918)
『俳句の作りやう』永井湘南著(芳文堂書店, 1918)
『俳句とその作り方』長谷川零余子著(春水社, 1919)
『四季類題俳句の作り方』木村萩村著(名倉昭文館, 1921)
『誰れでも作れる俳句』田北功著(日本青年通信社, 1922)
『俳句と連句の作り方』小泉迂外著(八千代堂書店, 1926)
『短歌と俳句の作り方』西村渚山, 山中静也合著 (大興社, 1926)
『俳句の考へ方と作り方』伊東月草著(考へ方研究社, 1927)
『俳句の手ほどき : 味ひ方作り方』武田鶯塘著(創文館, 1927)
『俳諧読本』青蓮庵主人 述[他](布袋屋書店, 1927)
『日本詩歌形式論』渡辺吉治著(神保書店, 1928)
『小学校に於ける俳句の作らせ方味はせ方』馬淵冷佑, 矢田枯柏著(郁文書院, 1930)
『俳句入門の枝折 (浦垣叢書 ; 第1編) 』横山蜃楼著(浦垣発行所, 1930)
『最新研究俳句の作り方講義』伊東月草著(山海堂出版部, 1931)
『音韻上より見たる俳諧文法論』浅野信著[他](中文館書店, 1932)
『俳句講座 第3卷(切字論 松下大三郎)』改造社編(改造社, 1933)
『俳句文法』服部畊石著(宝文館, 1933)
『俳句初学』松永青坡著(砧社, 1933)
『俳句入門 : 上達自在』下坂乾堂著(洛東書院, 1934)
『野梅俳談』加納野梅著(素人社書屋, 1934)
『俳句作法講座 第2巻(伊東月草)』(改造社, 1935)

①短歌との関係

 短歌における切字の意味は俳諧の切字とは全く異なるはずであるが、この重宝な用語を利用しているものが多い。有賀長伯『和歌八重垣』の影響を受けているものと思われ、であるとすれば切字の用語は句切れのため(彼らは「切れ処」等と呼んでいる)に用いられると考えられ、よほど現代の「切れ」論の参考になるはずである。一部その参考資料を挙げておく。珍しいところでは、都都逸の切字論もある。

【短歌切字文献一覧】
『組立自在歌学作法新書』平野長興, 伊東洋二郎著(大成堂, 1894)
『歌まなび』大和田建樹編(博文館, 1901)
『和歌自由自在』歌学研究会編(松岡明文堂, 1913)
『作歌法講義』三浦直正編(不二之舎歌会, 1917)
『和歌の作り方』樋口紋太著(岡本増進堂, 1917)
『短歌は如何にして作るか』小林鶯里著(文芸社, 1922)
『東都都逸風流花圃』蜃気楼主人著(和田篤太郎, 1889)

②子規一門・日本派の切字論
 切字に拘泥したのは、旧派ばかりではなく、子規一門・日本派の俳人にも多い。本来彼らの著書から切字の近代的な意味が生まれたかも知れないので一応注意しておきたい。重複するが掲げておく。

【子規一門・日本派切字文献一覧】
『俳句入門』高浜虚子著 (少年園, 1898)
『俳句初歩』河東碧梧洞 1902年
『初学自修俳句案内(俳句入門叢書 ; 第8編)』/寒川鼠骨編 (大学館, 1905)
『俳句作法(通俗作文全書 ; 第23編)』内藤鳴雪著(博文館, 1909)
『俳句とはどんなものか』高浜虚子著(実業之日本社, 1914)
『俳句とその作り方』長谷川零余子著(春水社, 1919)

 ③明治期の切字論の標準構成
 江戸初期以来の切字論は、『誹諧大成新式』(1698)『をだまき綱目』(1703)等でほぼ完成した次のようなカリキュラムで構成される。すなわち、
(1)切字一覧=18種を中心とした切字の列挙(特に、や・かな・し・ぬ等は細かく分別する)、
(2)切字口伝=[浅野信は「準切字」という。むしろ「切字関連の口伝」と言うべきである。]切字に関連する俳句構造(切字を使うものも、使わぬものもある。二字切れ、三字切れ、二段切れ、三段切れ、大廻し、を廻し、玄妙切れ、切字なし等)
である。
 これに対し、明治時代の入門書における切字説は、①俳句に切字があるが大したものではないこと(これは明治になって連句というジャンルが消滅してしまったためであると思われる)、②四十八字皆切字と唱えた芭蕉説の紹介、③江戸初期以来の「切字一覧」と「切字口伝」、からおおむね構成されているようである。このうち、②と③は矛盾しているようであるが、特に旧派ではこの問題は止揚できなかったようである。
 ところで上にあげた子規一門・日本派の文献では、①を強く主張し(つまり伝承的な切字説より自分たちの解釈が優先する立場を取る)、②には言及がなく(子規一派は芭蕉を否定していたから)、③は筆者ごとに相違が見られるが、虚子は代表的切字(や・かな)の解釈のみ、碧梧桐は全切字・構造説の列挙、鼠骨・鳴雪・零余子はその中間型といったところである。特に切字を重視しているのは碧梧桐で、頁数の過半を切字論に割いているが理由は後述する。

●ユニークな近代切字論
 明治期の切字論の標準的内容を述べたので、ユニークな近代切字論を示している著書をいくつか紹介しよう。

①『意匠自在発句独案内』楠蔭波鴎(中西善助)編(米田ヒナ, 1892)
 江戸時代における国学の文法研究の成果(特に本居宣長の係結び研究の成果)が俳諧に適用されたのが橿之本北本『古学截断字論』である。さらにこれに先立ち、「切字」は不適当で「テニハ(助詞)」で考察すべきとしたのが、元木阿弥『俳諧饒舌禄』である。二人とも、芭蕉や蕉風に対して批判的であり(芭蕉に対する批判は何も明治の正岡子規に限られるものではない)、特に元木阿弥は『芭蕉七部集』の各句に添削さえ施している。
 こうした成果は明治になってから楠蔭波鴎(中西善助)『意匠自在発句独案内』に引き継がれ、係り結びの法則を本格的に俳諧、切字に取り入れている。本書では、俳句理論を「切字」と「四季(季語)」に限定・体系化し、切字に係詞と結詞がありこれを組み合わせた係り結びの関係を切字に見てこれを俳句の中心に置く入門書である。ここまで徹底しているのは本書をもって始めてとするといってよいであろう。これはその後楓陰散士(秋の舎)『発句の栞』 (1896)に引き継がれている。これらは川本皓嗣氏の「切字論」の先駆けに当たるものといえるかも知れない。

②河東碧梧桐の切字論の実践

 碧梧桐が『俳句初歩』1902年における膨大な切字論を執筆した理由は、本書のその後の章の配合論・音調論の前提となるものだからである(実は子規没年に、子規一門の中では子規・碧梧桐の配合説と虚子の音調説が激しく対立し、それが虚子没後の碧梧桐・虚子の対立に引き継がれた)。このため、碧梧桐の(虚子とは異なる)音調の美を根拠付ける前提として切字を論じたものであろう。
 やがて碧梧桐は、理論を検証しつつ自ら実践することとし、句集『八年間』にその実験の跡を残した。碧梧桐のこうした試行の道筋を明らかにしたのは俳句関係者ではなく書家の石川九楊であり、近著『河東碧梧桐――表現の永続革命』で、次々と新しい切字(「かな」から「けり」「たり」)に挑戦し、切字なしの句に挑戦し、文語自由律、口語詩にまでいたる経緯を明らかにしている。これほど意図的な切字の改廃は俳句史上初めてであろう。表現の永続革命に切字研究は不可欠だったのである。

③『日本詩歌形式論』渡辺吉治著(神保書店, 1928) 

 切字に関する最初のアカデミックな学術書といえる。ただこの著者は国文学者ではなく、美学・修辞学の著書を多く著わした東京帝国大学美学科副手の渡辺吉治であった。渡辺は36歳で夭折したが、その晩年近くに著したのがこの『日本詩歌形式論』であった。日本の詩歌のあらゆる形式を体系化し、短歌、俳句、長詩、散文詩について考察したものであり、特に俳句では切字について言及している。浅野信、松下大三郎、福井久蔵に先立つ著書となっている。新味は必ずしも多くないが、全ジャンルからの鳥瞰をしているために広い視野を示しており、その結論において自著を評価して「わが詩歌の形式が形式として如何にして、如何なる美的効果を与へるかの説明であつて、その内容論に亘るものではない。従つて、上述の如き形式をとりさえすれば、詩歌として価値があるなどといふものではない。むしろ、事実として、反つて、かかる形式を破壊せるものに多くの佳作と称されてゐるものがある」と述べているのである。形式に固執した現代俳人に是非聞かせたい言葉である。

【新連載】英国Haiku便り(3) 小野裕三


俳句と翻訳
 機会があって、自分の俳句を翻訳してみようと思い立った。ネットの翻訳サイトも援用しつつ、まずは自分で英訳し、その上で、あるイギリス人に添削してもらうこことにした。
 彼に一時間ほどの時間をもらい、50句の自作の英訳を差し出す。一読して、「紅葉且つ散る王家ほどの明るさ」「鳥籠に夜の位置あり魂迎」などの句は好きだと言ってくれた。だが、何かが物足りないようでもある。聞いてみると、理由のひとつはそもそも英訳された俳句が575のリズムではないからのようだ。それは日本語の意味から直訳された英語だから仕方ない、と説明すると、「それはわかるけど、それにしても短すぎるのがあるよ」と言う。例えば、「ギリシア人夜の魚を食べにけり」の英訳「Greeks ate night fish」は、英語ではたったの4音節。17音には程遠い。日本語と英語の語彙の違いに加えて、「にけり」といった俳句独特の意味の希薄な言い回しが背景にあるのだろう。
 そんなことを考えていると、彼が突然、「これ、日本語で読んでみてくれないかな?」と言う。そこで、日本語で順番に句を読み上げていく。すると彼は、「いいね。意味はわからないけど、日本語の音楽性を感じるよ」と満足そうだ。へえ、と思い「じゃあ、日本語の発音をアルファベットで併記したほうがいいですか?」と聞くと、「そのほうがいい」との答え。確かに、イギリスで買ったHaikuの本にも、そんな表記が付いていた。それは、イギリスの人たちが詩の音楽性を重視するからなのか。逆に考えてみればわかるが、例えばイェーツの詩の日本語訳に、英語の発音がカタカナですべて併記してある、なんてことは絶対にない。イギリス人は詩の朗読を愛し、それに聞き入ることを愛する。たとえ異国語であっても、Haikuの音楽性に彼らは耳を澄ませようとするのか。
 一方で、彼にまったく受け入れられない句もあった。特に、「桃の花どすんと眠る高校生」といったオノマトペの句。日本語の特質とも言える多様なオノマトペは、それぞれに微妙なニュアンスや感情の襞のようなものを含み、これを正確に英訳するのは難しい。もちろん、詩の持つニュアンスや文化的背景を翻訳で伝えることに伴う困難さは、オノマトペだけに限らない一般的な課題だろう。
 だが、そんな言葉の壁を超えて、何かが伝わる時もある。ある機会に、日本の有名な俳人たちの句の英訳を、イギリスに来ているいろんな国の人たちに紹介したことがある。虚子と井泉水と三鬼の句をそれぞれ並べて、イタリア人の若者に聞いたところ、虚子の句がとてもいいと言ってイタリア語訳してくれた。イタリア人に虚子が受けるのか、とちょっと感動した。「彼一語我一語秋深みかも」という句である。
(『海原』2019年3月号より転載)

【新連載】ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい2 「眠たくない句集」杉山久子

 ふけさんの句は、いつも裏切られつつ裏切られない。予想を超える面白さで裏切られ、読めば必ず面白いという点で裏切られない。

 虻の眼のきれいな緑休暇果つ
 馬の眼に映つた順に寒くなる
 猫の眼草杉の暗さに目を開き
 春昼のひんやりとある眼の模型
 台風も布目も少しづつ逸れる


 羊や山羊はいつも眠たそうな表情をしているように私の目には見えて、本当に眠たいのか実はしゃっきっとしているのか判断がつかないのだが、この句集は眠たくない。むしろ目を覚まされる、見開かされる気分だ。
 そんなことを考えていたからか(?)眼(目)を詠んだ句が目に付いた。1句目、「きれいな」という形容詞がさらりと使われ、十分楽しんだであろう休暇の時間の煌めきが思われる。2句目は一転、しんしんとした静けさの中に或る種の怖れが迫ってくる。3句目は植物の中に動物的な感覚を見出した生々しい繊細さが魅力。動植物にとりわけ詳しい作者ならではの句だろう。4句目の明るさの中に感知する無機物の持つ冷たさ、5句目の思わず「あるある」と言いたくなる可笑しさなど多彩だ。

 秋の蚊の大きな縞を着てゐたり
 黒蟻の死よ首折つて腰折つて
 刻かけて蛇が呑むもの三室戸寺
 嘴の痕ある椿ひらきけり


 生きものの生きている姿も死んでいる姿もそれらが同時にある姿も淡々としながら生き生きとしている。

 萍の陣や背鰭に割り込まれ

 どこかの池で鯉などが萍の間を縫って泳ぐ場面だろうが、萍主体のクローズアップで詠まれて接触の密度が濃くユーモラスな気配も漂う。

 雨の字に雫が四つレモン切る
 囀りの散つて隅々まで青空
 早春を雲もタオルも飛びたがる
 木の芽寒箸を入れれば濁るもの
 消印の地をまだ知らず青葉騒
 しまなみ海道レモンゼリーへ寄り道す


 動植物を仔細に観察するふけさんの目は、日常生活においてはどこかふわっと見るセンサーも働くようで、明るさを伴う肯定感は読んでいて軽やかに背中を押される心地になる。
 「消印」の句は、これから知るかもしれない地への期待を思わせつつはっきりとはしない永めの時間を内包している。それは未来へのかがやくばかりの祈りが感じられる、とても簡単な言葉で書かれた次の句にも表れているように思う。

 春の水とはこどもの手待つてゐる

2020年1月10日金曜日

第128号

※次回更新 1/24

【紹介】週刊俳句第650号 2019年10月6日 特集『切字と切れ』
【緊急発言】切れ論補足(1)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて
【緊急発言】切れ論補足(2)――週刊俳句第10月6日号 特集『切字と切れ』座談会に寄せて
【緊急発言】切れ論補足(3)動態的切字論1――現代俳句の文体――切字の彼方へ
【緊急発言】切れ論補足(4)動態的切字論2――現代俳句の文体――切字の彼方へ 
【緊急発言】切れ論補足(5)動態的切字論3――現代俳句の文体――切字の彼方へ ※1/10追加

【単発鑑賞】猪も神もまぐわう歓喜の熊野  『星糞』(谷口智行) 豊里友行

■平成俳句帖(毎金曜日更新)  》読む

令和歳旦帖
第一(1/10)辻村麻乃

令和冬興帖
第一(12/27)曾根 毅・小沢麻結・渕上信子・松下カロ・山本敏倖
第二(1/10)小林かんな・池田澄子・辻村麻乃・内村恭子・中村猛虎・夏木久

令和秋興帖
第一(11/8)大井恒行
第二(11/15)曾根 毅・辻村麻乃・仙田洋子
第三(11/22)小野裕三・仲寒蟬・山本敏倖
第四(11/29)浅沼 璞・林雅樹・北川美美・ふけとしこ
第五(12/6)神谷波・杉山久子・木村オサム・坂間恒子
第六(12/27)青木百舌鳥・岸本尚毅・田中葉月・堀本吟・飯田冬眞・花尻万博・望月士郎・中西夕紀
第七(1/10)渡邉美保・真矢ひろみ・竹岡一郎・前北かおる・小沢麻結・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・仙田洋子・渕上信子・水岩瞳

令和夏興帖
第一(11/8)飯田冬眞
第二(11/15)夏木久・山本敏倖・望月士郎
第三(11/22)椿屋実梛・曾根 毅・ 辻村麻乃
第四(11/29)仙田洋子・小野裕三・松下カロ・仲寒蟬
第五(12/6)山本敏倖・神谷 波・木村オサム・坂間恒子
第六(12/13)浅沼 璞・林雅樹・北川美美・青木百舌鳥・岸本尚毅・田中葉月・堀本 吟・花尻万博・井口時男・渡邉美保
第七(12/20)真矢ひろみ・竹岡一郎・前北かおる・小沢麻結・下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・水岩瞳
第八(12/27)早瀬恵子・佐藤りえ・筑紫磐井

■連載

【新連載】ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい
1 ~多くの虫・動物が登場~/内田 茂  》読む

【抜粋】〈俳句四季1月号〉俳壇観測204
片山由美子の季語の研究と実践――評論集『季語を知る』と句集『飛英』
筑紫磐井》読む

【新連載】英国Haiku便り(2) 小野裕三  》読む

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉖ のどか  》読む

句集歌集逍遙 秦夕美・藤原月彦『夕月譜』/佐藤りえ   》読む

麻乃第二句集『るん』を読みたい
インデックスページ    》読む
16 「こころのかたち」/近澤有孝  》読む

渡邊美保第一句集『櫛買ひに』を読みたい 
6 『櫛買ひに』を読む/山田すずめ 》読む

葉月第一句集『子音』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 生真面目なファンタジー 俳人田中葉月のいま、未来/足立 攝  》読む

佐藤りえ句集『景色』を読みたい 
インデックスページ    》読む
7 佐藤りえ句集『景色』/西村麒麟  》読む

大井恒行の日々彼是 随時更新中!  》読む


■Recent entries

 第5回攝津幸彦記念賞応募選考結果
 ※受賞作品は「豈」62号に掲載

特集・大本義幸追悼「俳句新空間全句集」 筑紫磐井編  》読む


「兜太と未来俳句のための研究フォーラム」アルバム

※壇上全体・会場風景写真を追加しました(2018/12/28)

【100号記念】特集『俳句帖五句選』


眠兎第1句集『御意』を読みたい
インデックスページ    》読む

麒麟第2句集『鴨』を読みたい
インデックスページ    》読む

前衛から見た子規の覚書/筑紫磐井
インデックスページ    》読む

「WEP俳句通信」 抜粋記事  》見てみる

およそ日刊俳句新空間  》読む
…(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保 …
1月の執筆者 (渡邉美保

俳句新空間を読む  》読む
…(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子





「俳句新空間」11号発売中! 購入は邑書林まで


豈62号 発売中!購入は邑書林まで


「兜太 TOTA」第3号

Amazon藤原書店などで好評発売中

筑紫磐井著『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)

新元号「令和」の典拠となった『萬葉集』。その成立に貢献した斉明・持統・元明・元正の4人の女帝、「春山の〈萬〉花の艶と秋山の千〈葉〉の彩を競へ」の天智天皇の詔を受けた額田王等の秘話を満載する、俳人初めての万葉集研究。平成22年刊2,190円。お求めの際は、筆者までご連絡ください。

【新連載】ふけとしこ第5句集『眠たい羊』を読みたい1 ~多くの虫・動物が登場~ 内田 茂

雪の日を眠たい羊眠い山羊

『眠たい羊』変わったタイトルの句集だが、二年くらい前にこの句が出来たときから、次の句集のタイトルにしようと決めていたそうだ。<雪の日>のような寒いときに、羊や山羊は眠たくなるのだろうか、という疑問が湧いたが、「毛虫のふけ」(坪内稔典氏によって付けられたふけさんのあだ名)と言われるだけに、ふけさんは、動物や昆虫に対して人一倍、ぴんと来る感覚を持ち合わせているのだろう。眠たいも眠いも「眠ってしまいそう」という意味で、まだ寝ている訳ではなく、「微睡む」の前のステージだろうが、どこを見ているのか分からないような彼らの目を見ていると、そう思えたのかも知れない。<眠たい>、<眠い>というリフレインが良く効いているし、何よりもメルヘンチックで、読者を俳句や詩の世界へ誘う。

幻住庵の初蚊といふに刺されけり
蝶ひとつ埴輪の列を統べにけり
父とゐし時間の中に鴉の巣
蟻地獄暴いてよりを気の合うて
水光る腹を細めてくる蛭に
脚を病む蟻かも知れず日の落つる
ごきぶりの髭振る夜も明けにけり
ありんこと砂を払うて坐る椅子
ががんぼに三面鏡を貸したまま
刑死とや蜻蛉ひとつが沼を飛び
梟を泊めて樹影の重くなる
綿虫や地図を読み間違へたかも


 選句していくうちにはっきりと見えてきたものがある。ふけさんの句の中には、季語分類上の「動物」が実に多いということだ。興味を引いたので調べてみると、季語として動物が読み込まれている句は、実に78句に及んだ。虫37、鳥29、魚7、その他5という内訳だ。また、タイトルの<眠たい羊眠い山羊>のように、季語として使われていない動物が詠まれている句が別途45句あり、トータルで123句、句集全体328句の4割近くが動物ということになる。(独自の調査なので、誤りがあるかも知れません)一般的には時候・天文や植物の句が多く詠まれる中、この動物の割合は突出しており、正に「毛虫のふけ」の面目躍如だ。

宿り木も宿したる木も芽を立てて

 宿り木が芽吹いていることは詠めたとしても、宿り木が寄生している木のことを<宿したる木>と修辞し、その木も芽吹いているという、一見しただけではどちらか一方の芽吹きと見落としがちな景を鋭く観察して詠み込んでいる。さすがに「草を知る会」代表を務めているだけはある。一緒に歩いていると、知らない植物を次々教えてくれるし、その大半が初めて聞く植物で、単に名前を知っているだけでなく、その植生、種子から花、葉、実に至るまで、植物学者のように博識だ。

猫の目草杉の暗さに目を開き
畦道の昔へ続く仏の座
蘖を打つて白杖止まりけり
ジャガランダ濡れれば梅雨のむらさきに
スズメノチャヒキウシノシッペイ芒種なる
萍の陣背鰭に割り込まれ
切り口が乳噴く秋の野芥子かな
ハンカチの木の実こんなに硬いのか
穂草満つ待兼鰐のゐたところ


 ふけさんとは、ふけさんが講師をしていた夜間の俳句講座に生徒として受講させていただいて以来のお付き合いになるので、すでに16年にもなる。これほど長い間句座を共にさせていただいていると、一読して、ふけさんの句らしいというのが、なんとなくわかるようになってきた。

風鈴や酢へ放つべく魚を切り
新藁の強き匂ひを跨ぎけり
買ふ気になつてもう一度柿の前
連結の強き一揺れ冬紅葉
雪達磨だつたかもこの塊は
冬深し生きる限りを皿汚し

【抜粋】〈俳句四季1月号〉俳壇観測204 片山由美子の季語の研究と実践――評論集『季語を知る』と句集『飛英』筑紫磐井

評論集『季語を知る』
 片山由美子の評論集『季語を知る』(角川文化振興財団令和元年六月刊)が出た。膨大な歳時記や文献を引証する労作であり、従来とかく伝統派の人々、俳人協会の人々がこうした研究を行っていないだけに注目させられる。
 「はじめに」では、季語はどのように生まれたかについて、平安時代の和歌の題詠に行きつくとし、連歌からそれを引き継いだ俳諧時代になると、縦題(伝統的な季の題)から横題(俳諧独自の季物)が詠まれるようになり、近代以降の新たな時代を反映した横代が増えてきた。しかし近年の歳時記を見てみると定評を得ているある時代の歳時記の孫引きになっていることが多く、検証された形跡がほとんど見られないという。こんなところから、七十程の比較的新しい季語の由来を精緻に探り、その使い方の是非を論ずるのである。
 一例をあげると、帯文にもあるが花と桜の違いを挙げ、桜はあくまで植物、花は形あるものだけなく、観念や情緒を示す言葉まであるとし、その由来を連歌の正花(連歌は雪月花の読み込まれる位置が決まっており、その内の花の座に使える言葉)にまでたどる。この違いが分かると、「花びら」は桜と限定する根拠がなく、季語として極めて弱くなると言う。まるで手品のような見事さだ。
 従って、山本健吉が名著『現代俳句』で行っている
  うすめても花の匂いの葛湯かな 渡辺水巴
の句の「葛湯に匂う塩漬けの桜の花のほのかな感じ」を、この花は葛の花の匂いであり、山本は、句にはない桜漬を持ち出してしまい、葛湯という冬の季語が無視されかねないと糾弾する。十字軍のような正当さで、山本健吉を否定しているのである。
 私が思うのに季語の研究には二つの目的があるようだ。一つは、俳句の解釈をより正しくするためのもので右に上げた水巴の例だ。これはよい。第二は、季語を使うに当たって規範を与えるもので、片山氏は、「季語は科学ではない」というタイトルの下に「文学上共通の時間を持つために歳時記がある」という。しかし、古代の農民の時間的な生活基準として歳時記は生まれたもの(『荊楚歳時記』等)であり、それを俳人が借用しているに過ぎないことも忘れてはいけない。「科学」と「文学」との間に「生活」があるのだ。
 だから、この考えに従って、片山氏は「従来の歳時記の季節の体系を組み替えようという発想は、俳諧以来の俳句の作り方を全く変えてしまうものである」と批判するがこれは私に対する批判のようでもある。実は、現代俳句協会は平成十一年に『現代俳句歳時記』を刊行したが、これは春を三月から始るものとしたものであった(ただ、二十四節気はそのままに残している)。この編集のメンバーに私も参加していたのである。
 とはいえ私と片山氏はいつでも対立していたわけではない。平成二十三年に、俳句に知見があるとも思われない国土交通省から天下りした小林堅吾日本気象協会理事長が業績作りのために協会に日本版二十四節気の見直しを指示したとき(事務方は乗り気でなかったようだ)、共同して反対キャンペーンを張ったことがある。最後は気象協会の担当者も入れたシンポジウムを開き、この方針を撤回させたのである。この直後、二十四節気はUNESCOの「世界遺産」に登録されているから、世界で恥ずかしい日本版二十四節気を防いだ共同戦線の時期もあったのである。
 おそらく問題は、季語問題は常に背景に俳句観が控えていることであろう。虚子には花鳥諷詠思想が控えており、秋桜子には西欧風の美意識の肯定が控えている。季語だけにこだわっているのではなく、俳句の理想とするものが何かを明らかにしたらよいと思う。
(下略)
※詳しくは「俳句四季」1月号をお読み下さい。

【連載】英国Haiku便り(2) 小野裕三


ポエトリーの国のHaiku
 あくまで個人的な印象での話だが、イギリスには詩(poetry)を尊重する気風があるように感じる。象徴的なのは、国立の詩専門の図書館(National Poetry Library)の存在だ。詩集や詩の専門書、雑誌の類が館内にずらりと並ぶ様はなかなか壮観でもある。街中の書店でも詩の専門書棚が大きく置かれていたり、地域の公民館では「詩を作りましょう」みたいな講座が普通にあったりする。もっとも、日本ではそのような部分の多くを俳句・短歌が担っている、とも言えるが、ただ、日本での「詩」よりも「ポエトリー」という言葉は幅広く使われているようで、時にはレースみたいな分野でも「スピードのポエトリー」みたいな表現が使われていたりして驚く。
 そんなポエトリーの国で、実は意外な形でHaikuが広く普及していることに最近気づいた。ある日イギリス人の若い女性にHaikuの話をしていたところ、「あら、私、小学校でHaikuを作ったわよ」と言われ、びっくりした。変わった先生でもいたのかな、と思ったら、別の中年の女性には「うちの子も学校でHaikuを作ったよ」と言われてまた驚いた。ネットで調べたところ、どうやら現在のイギリスでは小学校低学年くらいの時期に、多くの学校でHaikuを作るらしい。
 ネットにあったHaiku教材を見てみると、Haikuは日本に起源を持つ短い詩で、主に自然を材とする、といったことが書かれている。子供たちへのお手本作品もあるが、おそらくは日本の俳句を英訳すると五七五のリズムにはなりにくいからか、イギリス人が作った五七五のHaikuがお手本となっている。
 Haikuを小学校で学ぶ目的のひとつとしては、音節(syllable)の概念を理解することがあるようだ。英語の音節を一単位として五・七・五と数えていくわけで、「Haikuをみんなで声を出して読みながら音節ごとに手を叩くとわかりやすいですよ」とアドバイスする教材も見かける。
 面白いのは、子供たちに受け入れられやすいからだろう、Haikuが「なぞなぞ」のようなものとして指導されている例があることだ。例えば、「緑色で足に斑点があって、丸太などの上を跳ね、水に飛び込む」みたいなHaikuを元に、先生が子供たちに「さあ、これは何の生き物でしょう?」と聞くわけだ(ここの答えは「蛙」)。「このようにHaikuはなぞなぞみたいにもなります」と書く手引き書もあって、さすがに「いやいや…」と突っ込みたくなった。もちろんその一方で、「五感を使って季節を感じ取りましょう」と教える正統的な教材も多くある。
 いずれにせよ、こんな具合になぞなぞHaikuを作りながら、自国語の韻律の単位を理解して育ったイギリス人たちが、このボエトリーの国で将来どんな詩の文化を作り出すのか、と考えるとなかなか興味深い。
(『海原』2019年1-2月号より転載)

【単発鑑賞】猪も神もまぐわう歓喜の熊野  『星糞』(谷口智行) 豊里友行

 谷口智行俳句のいただき。
 この俳人の俳句開拓者としての目指すべきいただきを私なりに共振を持って俳句鑑賞したい。
 帯文の言葉をかりて云うならば「神々が恋をするやうに俳人は熊野とまぐはふのである」。
 湧き立つような熊野に生きるこの俳人の喜びは、土着を突き抜け、抱擁し、交わり、普遍的なポエジーを孕む予兆を期待を持って魅せられていく。
 星糞の季語のダイナミックなタイトルがいい。
 句集の見返しの表裏の荘厳な藤岡裕二氏の絵画、カバーや造本の島田牙城マジックとでも言おうか魅力的な句集に仕上がる。
 俳句も熊野の風土を丁寧に取り込みながら近くを切り、遠くを繋ぐ俳句の物語の飛躍に富む。
 それによる言葉の硬直を打破しようとする風格を成していて一見すると俳句鑑賞者を圧倒するだけの勢いもある。
 この風格と勢いで風土を詠む。
 それは、概知の言葉に息吹を与え命の鼓動となる。
 それらは、中央を中心に編まれた季語たちに匹敵するだけのポエジーを宿す。
 谷口智行俳句の視座には、確かな熊野の言霊が、胎動する。
 俳句の定型や韻律と風土の融合。
 いわゆる俳人たちの俳句形式の土俵を多様な日本風土のひとつ、熊野から谷口智行の視座の宇宙さえ萌芽していく感じさえある。
 そこには、俳人たちが口中で言葉を転がし続け季語を見出だしてきたように自らの熊野の風土の韻律の俳句形式を熊野という器と融合しながら注ぎ込む神業が、俳人に課せられている。
 それは、これまでの俳句の土俵を破壊し、自らのいただきの領域の覚悟と自負を持って創造するかもしれない。
 そういう無茶ぶりから期待を持って、共鳴句を戴きます。

犬どれも元気猟夫の訃を知らず

 私の住む沖縄の島々にも猪(いのしし)は棲むので沖縄の猪として鑑賞してみる。
とある離島の畑は、ほそぼそ老人たちが成している畑が多く、山から降りて来た猪が作物を荒らして放棄された畑が増えていると島びとは、嘆く。
 猪の荒らした1平方メートルくらいの土の掘り跡は、妖怪か魔物の舞台を連想してしまう。
 猟もまた命懸けなのは、言うまでもない。
 猟夫の訃の不在を猟犬は、知らないで元気にはしゃぐ。

元いさな捕りに抱かれて七五三

 いさな捕りを引退したおじいさんが、孫を抱いている七五三の微笑ましい光景が立ち上がる。
 風土詠を俳句の器にただ当てはめても所詮は、土や風、火が宿してきた言葉の息吹、器が違う。
 その言葉の器の錬金術は、至難の業で、まるで神の成せる業のように思えてしまう。
谷口智行俳句の慧眼は、風土を超えて普遍へ、人間の唄をなしていく。

ありあはせなれどともいふ鹿の肉
股ぐらもしつかり拭いて生身魂
野良風になぶられてゐる裸かな
いづれ旨しや猿酒と鶚鮨
竹伐りてゐるらし山の揺れゐるは
獣糞のなかに通草の種あまた
弾丸(たま)喰いの猪は一等恐ろしと
木の股に懸けてゐたるは猪の腸
狩詞話せり熊に聞かれぬやう


 ありあわせと鹿肉を遠慮がちに薦めつつも豪快に。生身魂の季語と風土の融合でお盆の先祖を敬う儀式も赤裸々に。野良風に抱かれている心地良さ。猿酒と鶚鮨(みさごずし)が体中を踊るようにめぐるめぐる。竹伐っているのだろうと山が揺れるとダイナミックに感受する。通う道の種が星屑のようにあまたに獣糞の中に拡がる。猪を狙う猟夫の弾丸は心臓の部位を射止めたいのだが、神々の踊るように猪の畏敬が迫りくる。木の股に懸けていのるのは猪の腸という風土の記憶。狩詞(かりことば)を盗まれないようにひそひそ語り合う。

ふくらかにしなふ浦波初しののめ
ふんだんに星糞浴びて秋津島
神ときに草をよそほふ冬の月


 まぐわいとは、性交のことだが、熊野に抱かれる人、生きとし生ける全てを包み込み、抒情性が何度も歓喜を波のように連想される。
 もうこれ以上を語るのは、野暮かもしれない。
 最後に作者のあとがきから引用して、その谷口智行俳句の世界を多くの方に堪能して欲しい。
 「私たちの祖先は鳥獣、草木虫魚などに対しても自然の恩寵と畏怖を抱き、そこに篤い信仰を見出してきたのである。」

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~㉖  のどか

第3章 戦後70年を経ての抑留俳句
Ⅵ 百瀬石涛子(せきとうし)さんの場合(6)

【百瀬石涛子著『俘虜語り』を読む】‐その4
*は、インタビューをもとにした、筆者文。

毛布欲し丸太の棚に俘虜遺体(寒極光)
*収容所のベッドは棚になっており、暖かい空気は上に上がるため棚の上のほうが暖かい。体力の消耗の激しい者は、暖かい上の段に寝ることになる。仲間もその死期を察しており、死ねば虱が逃げてゆく。死者の毛布が欲しいと心の声がささやくのである。

死者の衣を分配の列寒極光 (寒極光)
*死体を処理する前に衣類を脱がす。多分それは、誰かが独り占めするのではなく、平等に分配されたのだろう。それは、靴の修理に、物を入れる巾着にリュックの補修に、ある者は一切れのパンに変えた者もいただろう。三途の川で死者から衣を奪う奪衣婆(だつえば)さながらである。一見して此の世の地獄絵図とも映るのだが、生存の厳しさの中においては、仕方の無いことである。そうしながらも心はその記憶に苛まれるのである。

柩なき遺体凍土に寧所なく(寒極光)
*柩に入れてあげられず、十分な弔いも出来ない。凍土を掘って何体も一緒に埋められる遺体は、安寧の眠りを得る事は出来ない。

置き去りし遺骸の山や木の根明く(寒極光)
*雪解けが進み、遺骸を置き去りにした山にも木の根が明くころになると冬を越せなかった仲間を悼むのである。

レーニン主義壁新聞の長き夜(寒極光)
望郷やレーニン称え夏の夜(寒極光)
*この二句は、赤化教育(思想教育)を詠んでいる。抑留一年を過ぎた頃から、天皇を神として教えられた日本の兵隊を、ソ連の戦後復興の労働力として使役する他に、天皇制や資本主義に対する批判や社会主義的民主主義を教え込み、民主主義的軍紀の確立と軍国主義的分子との確固たる闘争の呼びかけが、壁新聞や日本新聞により広められた。中には、ソ連に協力すれば、早く帰国できると考え「アクチブ」として積極的に活動する者もあったという。帰還前に入る、ナホトカの赤化教育の機関では、成績が悪いと再びシベリアの奥地に逆送され労働をさせられると聞いていたものも多いという。石涛子さんもインタビューの中で、赤化教育の成績が良いと早く帰還できるという思い込みが広まっており、それによる密告が日常化していたと語っている。
※アクチブ:赤化教育を受けて、それを広めるために取り立てられた役目の人

木の根明く帰還(ダモイ)列車の時折に(寒極光)
*木の根の開く春になるとナホトカに向かうシベリア鉄道を望郷の思いを胸に見送った。

帰還(ダモイ)待ち若菜摘む掌の弾みけり(寒極光)
*この年の春は石涛子さんの名前も帰還者の名簿にあり。早春の野の草を摘む掌も殊更に弾んだのである。

帰還船待つ霧籠めのレーニン像 (寒極光)
*石涛子さんはナホトカで同じ名簿であった仲間と一緒の船で帰還できなかった。ナホトカに留め置かれ、重症の病人の看護を任されたためである。苦楽を共にした仲間と一緒の船で帰れず落胆した。次の帰還船を待つことの不安が「霧籠めの」に重なっているようである。

流氷来抑留の友置き去りに(寒極光)
*流氷の季節が来ると海明けである。日本に向う帰還船に乗れた自分の運命を喜ぶ一方で、帰還できない仲間へ思いを馳せるのである。

死者の声立夏の海にひしめけり(寒極光)
*望郷の思いに駆られながら死んでいった仲間の声や、船の中で死んで水葬された者の声が立夏の海にひしめいている。

海明けを知らぬ俘虜の死遺品なし(寒極光)
*このように帰還の日が来ることを知らずに死んでいった仲間の遺品の一つもないことに、ダモイと騙しながら略奪を重ねたソ連兵の身勝手な振る舞いに、怒りと悔しさが湧いてくるのである。

夏めけるナホトカに在り虜囚果つ(夏のペチカ) 
*夏を迎えるナホトカにやっと虜囚としての暮らしを終える事ができる安堵と感慨がわいてくるのである。

哭く風は虜囚の声か冬に入る(寒極光)
*故郷信州の冬も厳しい。哭く風はシベリアに死んだ虜囚の声にも聞こえるのである。

俘虜の名の生涯消えず雪を掻く(寒極光)
*戦後70年の歳月を経てなお俘虜の記憶は消える事が無い。雪掻きをするたびに、シベリヤ抑留の記憶はまざまざと甦るのである。

根深掘る自立に遠き九十歳(寒極光)
*家族のために菜園から葱を抜く、自立に遠いとはいえ家庭での役目を果たし、穏やかな日々を送る、90歳を迎えたのである。

俘虜に果つ我が身たりしを恵方巻(寒極光)
*生涯を俘虜の記憶に苛まれながら暮らす日々であるが、良きことを願って恵方巻を食べる。

若桜少年兵が今卒寿(寒極光)
*少年兵として志願した日から、抑留、帰還、日本の復興と経済成長に貢献した日々、家族を持ち子どもたちを一人前にした。抑留の記憶は走馬灯のように巡っているのである。そして卒寿を迎えた安堵が、いや戦争を体験した世代の使命が今を支えているのだ。

【百瀬石涛子さんの『俘虜語り』を読んで】
 シベリア抑留体験の話を伺う中で、石涛子さんは、関東軍の通信兵として従事する頃から俳句をされていたことについて、「戦争や抑留という過酷な体験の中で、俳句は心の支えになりましたか」と筆者が尋ねると、「いや、ならなかった。あのような境遇の中で詠んだ句には、詩は無いからね。」と静かに答えられた。
 先に読んできた『シベリヤ俘虜記』『続・シベリヤ俘虜記』で取り上げた5人の方と、違う意見を聞いたことが意外であり、石涛子さんの鑑賞文を書き終えるまで気になっていたので、筆者は平成31年4月、石涛子さんに1枚のアンケートを送った。
その内容は、俳句の価値について数字で表すとして、「俳句には価値が無かったを0点」とし、「俳句には非常に価値が有ったを10点」とするとご自分にとって俳句の価値は何点になりますかというものである。
 この質問に、「抑留中を0点」「2000年以降10点」と回答された。
 「抑留中を0点」の理由は、抑留中は終日生きる事のみに追われ、動物的感覚であったからと厳しい自己評価をしている。引揚げ後の生活では、レッドパージによる失業や生活に追われながら、安保闘争の参加や鎮魂と反戦・組合運動に参加する一方で、地区の句会へ参加した。このような活動を経て、2000年(75歳)頃から俳句の価値は10点の「非常にあった」となっている。このころから、石涛子さんの「シベリア抑留俳句」が結実し始めたのだと推察する。
 石涛子さんは、抑留という困難な境涯にあった日々も、奥様への介護生活に身をささげられている94歳の今も真摯な姿勢で過ごされている。
 そして、先立たれた仲間への「鎮魂」と戦争を知らない世代へ「反戦」を俳句により伝えたいと言う。
 そんな石涛子さんをやはり、「俳句」は、支えているのだと筆者は思う。
 石涛子さんに於かれましては、これからもご健勝に「鎮魂と反戦の俳句」をもって、「平和」への道筋を照らしていただきたいと願うのである。
 ※句集『俘虜語り』百瀬石涛子著 花神社 平成29年4月20日

【緊急発言】切れ論補足(5)動態的切字論3――現代俳句の文体――切字の彼方へ

■時代を溯る・切字の拡大の可能性
 さて前回は切字の時代を下ってみた。
   二条良基は新スタンダードのスタートの時代で、あったと言うことができる。『連理秘抄』は連歌の基本文献であるが、この良基の本からほぼ成熟完成した新選菟玖波集(その直前に傑作の「水無瀬三吟」が生まれている)までたかだか150年であるのに対して、後撰和歌集から良基まで400年もあることだ。これは江戸時代+近・現代日本が丸々中に入ってしまうほどの年数である。この長大な時間の中で実は切字が熟成するのである。今回はこの熟成過程を眺めてみたい。

785年 万葉集(巻8秋) 尼と家持の唱和連歌
951年 後撰和歌集の連歌1首(巻6・秋1首)
1005-7年 拾遺和歌集(巻18・雑賀6首)
1124年 金葉和歌集(巻10・連歌19首)
1221年 順徳院『八雲御抄』
1345年 二条良基『連理秘抄』
1357年 勅撰集『菟玖波集』
1488年 「水無瀬三吟」
1495年 勅撰集『新選菟玖波集』

 連歌の歴史は、大まかに言えば、
(1)唱和連歌
(2)鎖連歌
(3)百韻連歌
と推移する。切字を考察するには百韻連歌だけを考察するのではなく、これら全てを通じて切字の形態を考察する必要がある。
 そこで三つの連歌作品を収録する勅撰和歌集『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『金葉和歌集』を眺めてみる。資料としては、このほかに『散木和歌集』『俊頼脳髄』(1129年以前)や私歌集にも連歌作品が収録されているが、範囲を確定し、時代推移を眺めるためには勅撰和歌集が便利であるので採用した。特に他意はない。言っておけば、これら和歌集は唱和連歌から鎖連歌の過渡期にあったといえよう。

■3大勅撰和歌集の連歌における切字
①後撰和歌集(巻6・秋中1首)(951年)
              読み人知らず
白露のおくにあまたの声すれば[注]
 花のいろいろありと知らなん
[注]『俊頼髄脳』では「すなり」とする。

②拾遺和歌集(巻18・雑賀6首)(1005-7年)
流俗の色にはあらず梅の花 右大将実資
 珍重すべきものとこそみれ 致方の朝臣
春はもえ秋はこがるるかまどやま 元輔
 霞も霧もけぶりとぞみる
おもひたちぬるけふにもあるかな 藤原忠君朝臣
 かからでもありにしものを春がすみ むすめ
くらすべしやは今までに君 侍女
 とふやとぞ我もまちつる春の日を 広幡御息所
さ夜ふけていまはなぶたくなりにけり 天暦御製
 夢にあふべき人やまつらむ しげのの内侍
人ごころうしみつ今はたのまじよ 女
 夢に見ゆやとねぞすぎにける 平貞文


●切字に相当する句末の形態
 この歌集から、切字に相当する句末の形態を眺めてみると、次のようなものが挙げられる。

[拾遺和歌集連歌句末一覧1]
かな 1句 
けり・ける 2句 
らむ 1句 

 あまり、切字に相当する句末は多く出現していない。のみならず、興味深いことには、575(上句)、77(下句)と分けると、

[拾遺和歌集連歌句末一覧2]
かな・・・下句1
けり・ける・・・上句1  下句1
らむ・・・下句1

と、後の切字のように、575(上句)に特徴的ではないことである。

③金葉和歌集(巻10・連歌19首)(1124年)
あつま人のこゑこそ北にきこゆなれ 永成法師
 陸奥国よりこしにやあるらむ 律師慶範
ももそののももの花こそ咲きにけれ 頼経法師
 梅津のうめは散りやしぬらむ 公資朝臣
しめの内にきねの音こそきこゆなれ 神主成助
 いかなる神のつくにか有らむ 行重
春の田にすきいりぬへきおきなかな 僧正源覚
 かのみなくちに水をいれはや 宇治入道前太政大臣
日の入るはくれなゐにこそ似たりけれ 観暹法師
 あかねさすとも思ひけるかな 平為成
田にはむ駒はくろにさりけり 永源法師
 なはしろの水にはかけと見えつれと 永成法師
かはらやの板ふきにても見ゆるかな 読人しらず
 つちくれしてや作りそめけむ 助成
つれなく立てるしかの島かな 為助
 ゆみはりの月のいるにもおとろかて 國忠
かも川をつるはきにてもわたるかな 頼綱朝臣
 かりはかまをはをしとおもひて 信綱
なににあゆるを鮎といふらむ 読人しらず
 鵜舟にはとりいれし物をおほつかな 匡房卿妹
ちはやふるかみをはあしにまく物か 神主忠頼
 是をそしものやしろとはいふ 和泉式部

(別本の作品)
たでかる船のすぐるなりけり 源頼光朝臣
 朝まだきからろのおとの聞こゆるは 相模母
花くぎは散るてふことぞなかりける 読人しらず
 風のまにまにうてばなりけり 前太政大臣家木綿四手
ひくにはよわきすまひ草かな 読人しらず
 とる手にははかなくうつる花なれど
雨ふればきじもしととになりにけり
 かささぎならばかからましやは
うめの花がさきたるみのむし 律師慶暹
 あめよりは風吹くなとやおもふらむ (まへなるわらは)
あらうと見れどくろき鳥かな 頼算法師
 さもこそは住の江ならめよとともに
よるおとすなりたきのしら糸 読人しらず
 くり返しひるもわくとは見ゆれども
奥なるをもやはしらとはいふ 成光
 見わたせば内にもとをばたててけり 観暹法師


●切字に相当する句末の形態
切字に相当する句末の形態を眺めてみると、次のようなものが挙げられる。

[金葉和歌集連歌句末一覧1]
かな 8句 
けり・けれ・ける 8句 
らむ 5句 
なれ 2句 
けむ 1句
ばや 1句
やは  1句
か  1句

このように、切字に相当する句末の形態で、「かな」、「けり」、「らむ」がやっと顕著になってくることがわかる。しかしそれでも、575(上句)、77(下句)と分けると、驚くことに下の句が結構多いのである。

[金葉和歌集連歌句末一覧2]
かな・・・上句4  下句4
けり・けれ・ける・・・上句5  下句3
らむ・・・上句1  下句4
なれ・・・上句2
けむ・・・下句1
ばや・・・ 下句1
やは・・・下句1
か・・・上句1

さて切字を離れて、特徴的な句末の形態を拾えば次のようになる。煩わしいので、上の句、下の句の区別をつけないで単純に列挙すると次のようになる。

[金葉和歌集連歌句末(非切字)一覧]

とはいふ 2句 
て 2句  
ども  1句
ともに  1句
なれど  1句
は 1句

 このように、前回の二条良基以後の下って行く切字にかかわる全品詞の推移表で見られた切字の増加が、実は溯ってすでにたくさん発見することができたのである。

 金葉和歌集の選者の藤原俊頼には、『散木奇歌集』のような歌集、『俊頼髄脳』のような歌論書の中でも連歌に関心を示しており、初期連歌の集積として貴重である(『散木奇歌集』はその名の通り奇歌が多いので正統的な連歌としてはやや逸脱しているようであるし、『俊頼髄脳』は歌集ではないので、すぐれた連歌を選んだという意味ではやや割り引く必要があるかも知れない)。このほかにも、『忠岑集』のように私家集に連歌の含まれているものが多く見られる。ただこれらを総合しても、後撰和歌集、拾遺和歌集、金葉和歌集の勅撰和歌集の傾向を出ることはないようである。

【結論】
 連歌の歴史は、冒頭、(1)唱和連歌、(2)鎖連歌、(3)百韻連歌があると述べた。これを踏まえて結論をまとめてみたい。

❶連歌論の通説や仁平の切字論で言う「発句(上句575)と脇句(下句77)を切断するために切字がある」というのは正確ではないようである(これは百韻連歌についてのみ言うべき事だからである)。すべての連歌[注]では、上句でも下句でも句末で切断する構造が必要なのである。そのために句末の類型構造ができあがってきた。その理由は、上句と下句が独立しないと融合してしまい短歌形式となってしまうという恐怖感によるものであると考える。
[注]「連歌」と言ってしまうのは不正確である。短歌(五七五七七)を分断してできる短詩型形式と言うべきである。五七五も七七も両方含めて言うのである。
❷句末類型構造の代表が(上句にも下句にも共通で)、すでに三大勅撰和歌集で見たように「かな」、「けり」、「らむ」であった。しかしそれ以外にさまざまな表現も発展した。百韻連歌で次第に登場する「なれ」、「けむ」、「ばや」、「やは」、「か」、も早くからあったし、連歌でまだ使われていない(次回以降説明しようと思う、俳句時代に「切字もどき」で登場する)「とはいふ」、「て」、「ども」、「ともに」、「なれど」、「は」なども句末類型構造となる可能性があったのである。少なくとも、百韻連歌に先立って、唱和連歌・短連歌形式にあっては、多くの「切字もどき」があふれていたのである(制度化した百韻連歌によって初めて「切字」という固定化した言葉、固定化した概念が生まれたと言って良いであろう。制度化以前の自由な表現における連歌の句末類型構造は「切字」とは言わない)。
❸この変遷を追ってみると、後撰和歌集時代では句末構造は未だなく、拾遺和歌集時代でその傾向が現れ始め、金葉和歌集時代で盛りを迎えたと言って良いだろう。その意味で示唆的なのは、[注]で述べたように、後撰和歌集の連歌を俊頼が『俊頼髄脳』に収録するとき誤記してしまっていることである。これは後撰和歌集の連歌を、金葉和歌集時代の基準で俊頼が読みとってしまったからなのである。「誤記」には合理的根拠があるのである。

【詩学的総括】
 短歌形式から分裂した上句(575)、下句(77)の短詩形式は、短歌形式に吸収されないように句末類型構造を常に希求する。百韻連歌時代はそれが「切字」となったのであるが、しかしそれが全てではない。連歌(俳諧も含めて)と言うジャンルが文学史から消滅しても、上句、下句の短詩形式が独立して存在する限り、句末類型構造を求める運動が永遠に続くのである。いわば短歌形式とはブラックボックスのように、上句、下句を吞みこんで行く宇宙なのである、これに対する抵抗が句末構造である。だから我々がこれから求めるのは、連歌(俳諧)の切字ではなく、独立の俳句系式(近・現代俳句)において句末構造がどのように究極化されるかである。
 こうした時代にもはや「切字」を前提とした「切れ」等は求められないであろう。

【句集歌集逍遙】秦夕美・藤原月彦『夕月譜』/佐藤りえ

「夕月譜」は昨年11月にふらんす堂より刊行された。元になったのは昭和59年から63年まで、筆者である秦夕美、藤原月彦両氏が発行していた同人誌「巫朱華(プシュケー)」である。
 あとがきで秦自身が明かしているように、赤尾兜子主宰の「渦」で両氏は出会い、師亡き後、この超絶的共同制作をはじめたという。

「夕月譜」は約20センチ四方の一折り糸綴じの書物で、綴じ糸が本の背で結ばれ、ごく薄い不織布が遊び紙として用いられた典雅な外観をしている。
 超絶的、とは用いられた折句等のルールの厳しさゆえに冠する言葉であるが、技法そのものも作品といえる点からすれば、あまり詳細に内容を記してしまうのは無粋なことであるかもしれない。この稿ではいくつかの作品の紹介を試みたい。

「月光泥梨――雨月物語抄」はタイトルどおり「雨月物語」を題材とした13句。1句目は頭文字、2句目は頭から二字目、というように「月」の文字(そこのみゴチック書体が使用されている)が一句に1文字読み込まれ、13句全体で左下がりのたすき掛け状に並ぶ趣向となっている。「弓張月化鳥をまねく魔道かな」(「白峰」)「湖底にもあをき月射す夢の鯉」(「夢応の鯉魚」)「修羅関白殿風雅に月の宴かな」(「仏法僧」)など、「雨月物語」の各話を明確に下敷きとしながら、それぞれの句に必須の「月」は有機的に詠み込まれ、統一された世界観、緊張感のなかに夢幻の「月」を浮かび上がらせている。

「定家曼荼羅」は31句の俳句に、藤原定家の新古今和歌集収録歌「春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空」を句の頭に、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」を句の掉尾に読み込んだ沓冠の連作。「春の夜の~」は1句目から、「見渡せば~」は31句目からスタートしている。つまり、それぞれの句の最初と最後の音はあらかじめ組み合わせが決まった状態で作句していったことになる。5句目と8句目は頭も掉尾も「の」である。5句目が「呪はしき綺語の華咲く紫野」、8句目が「野火の香の紅旗征戎化野(あだしの)の」。23句目と24句目はいずれも先頭が「る」、掉尾が「も」である(23句「類鳥の遥かに遠き羽撃きも」24句「累世を歌よむ家の哀れやも」)。制約の厳しさもさることながら、艶然たる語彙と古語によって紡がれた退廃的な世界が、定家の本義を異界から照射するような、奇観ともいうべき景色を見せている。

 ほか、芭蕉の「白芥子に羽もぐ蝶の形見哉」と雪月花を詠み込んだ「乱蝶――好色五人女」(この連作が集中最も難易度の高い超絶技巧を見せている)、杜牧の「山行」の折句「妖妃伝」など、めくるめく言語世界が閉じ込められたこの一冊は、しかし「どの句をどちらがつくっていたのか、完全に思い出せなくなっている」と藤原はあとがきにしたためている。「これは当時の秦夕美と藤原月彦の言葉に対する美意識が、一ミリのずれもなく一致していたことの証左だろう。」(同あとがきより)。互いの詩的世界が一致し、渾然一体となってしまう、そのような経験があるということに、驚きと同時に幾分かの羨望を抱く。

 言語遊戯的技巧は今日の言語表現—とくに短詩—の領域において、関心を持たれづらくなっているのではないか、と筆者は感じている。言葉の扱い方の巧緻より、直截な物言いであること、卑近な素材であること、とっつきやすいことなどが尊ばれているようにも感じる。
 しかし言語による表現が「伝わる」ことを目的の一に数えるのだとしたら、そこに技巧は不可欠なものに違いない。技巧が言語のためにのみ発揮されるようなこれら作品の軌跡も、言語表現の豊穣の一角を確かに担い、醸成しているはずだ。
 天上の遊戯ともいえるこれら作品が作られた奇蹟があったこと、それをふたつ後の元号となった今、一冊の書物として手に取れるのは実に喜ばしいことだ。言葉の奥義に触れたいという欲望のある向きには一読をお薦めしたい。

夕月譜(ふらんす堂)2019年11月11日刊