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2019年2月22日金曜日

【葉月第1句集『子音』を読みたい】5 田中葉月への序章  谷口慎也

  面白く読めた一巻である。
 「私にとって俳句とは心をキャンバスにして描く絵のようなもの。(中略)。日常と非日常、実と虚を行ったり来たりできる自由な翼を持てる俳句が楽しい。」(「あとがき」)とある。そしてこれが、現在只今の作者の俳句への思いの総てである。他に難しいことは何も語っていない。
  この「心をキャンバスに」すること。「実と虚を行ったり来たり」するということ。これらは言葉を換えながら、今までいろんな処で言われ続けてきたことである。だが作者は、そのいちいちに拘泥することなく、大きく広げたその思いの中を、ある意味無頓着に、またある意味無防備に飛び回っていて、それが「楽しい」―のである。
 このことを端的に示すのが次の冒頭句である。

  もう一度抱つこしてパパ桜貝

 最初はこの句に少し戸惑った。作者は昭和三十年生まれ。であれば、人はここに、俗に言う「ファザコン」を指摘するかもしれない。また〈パパ〉は、時代と場所とによって陰のある言葉、いわば隠語としての機能を果たして来たが、この一巻にそういう趣味はない。作者はただただ無防備に、何の外連味もなくこの一句を吐いてみせたのだ。すなわち〈桜貝〉という具象としての言葉に、一瞬のうちに時空を超えた直観的な情感の導入を果たしているのである。他に何の計算も見当たらない。この句集は、そういう作者の手の内を冒頭から開示することによって始められている。
 この句に関して言えば、〈父と子の辿り着けないボート漕ぐ〉〈美しき父離れゆく草の絮〉〈非常口やや傾きてパナマ帽〉、そして〈風薫る母はしづくに帰りけり〉〈父母の遺影はいらぬ牡丹雪〉などがあり、その浪漫的な表現の裏にある作者の「生活」も見えてくる。だが作者にとって、その「生活」も、なべて冷静に「表現」の問題として捉えられている。「生活」が等身大のまま「表現」になる、などという素朴な信仰とは無縁である。 
 冒頭の一句もその視点から眺めなければならないことは、次の作品たちが証明してくれるであろう。

  ジオラマの駅から発車夕桜
  船出するチキンライスや春の月
  ぞくぞくと跳び込む亀や春の水
  負える子ののけぞる首や葱坊主
  籠鳥の目玉の中の春の闇
  ひまはりや歩き出したる少年兵
  折り鶴の翔つや五月の非常口


 一句目の擬似風景は、「動」を前提として永遠に「静」であるかのように描かれている。実際この場合の電車が動くものであっても、〈夕桜〉という背景は決して散らないからである。だがその「静」(虚)は、〈出発〉の措辞によって、今にも動き出そうとする「実」に転化されている。「虚と実を行ったり来たりする」(虚実合一の)作者の思いが静かに定着している一句である。             
 二句目。〈船出する〉句中の主体は「私」から〈チキンライス〉へと無理なく転化されている。ここに一人称であるべき「私」が、句中の「語り手」によって、三人称としての俳句として成立している。
 三句目は〈ぞくぞくと〉がなければ韻文としては成立しない。すなわち、その誇張表現(デフォルメ)に正比例して、〈春の水〉の豊かさが伝わってくる。
 四句目。ここは〈のけぞる首〉が眼目である。中七での切れはある種の古臭さが伴うために敬遠する向きもあるが、それを打ち破っているのがこの動的な措辞である。同時にそれは、無防備に〈のけぞる〉生命体(エロス)の動きでもある。それが一本の〈葱坊主〉と交感することによってさらに活き活きと表現されている。句中の「私」から〈のけぞる首〉は後ろにあり見えないから、この一句も、確かな「語り手」によって成立していると言える。
 五句目。〈の〉による読みの連続は、上から下へ視野を狭窄しつつ、結句〈春の闇〉は「点」と化す。と同時に、一句を包む全体となり得ている。そういう構造上のレトリックが見て取れる。
 六句目の〈ひまわりや〉以下の切れは、〈少年兵〉という措辞によって、一句を寓意として語るに成功している。すなわち一句は、寓喩というレトリックにより、ひとりの少年の未来への立ち姿を暗示しているのである。
 最後の句は〈非常口〉に理屈が見えないこともないが、それも〈翔つ〉のが「鶴」ではなく〈折り鶴〉(=人工的なもの)であれば、一句の調和にさしたる障りはない。
以上、どの句も情緒・情感に溺れることなく、表現を成立させるに必要な理知がきっちりと働いている。作者の句歴は、高齢者が元気なこの俳壇において決して長いとは言えないが、先述したように、俳句への思いは極めて大雑把に把握されながらも、書かれた作品のそれぞれは、読み手である私にいろんなことを考えさせてくれる。修辞法も含めて、俳句的な知識が先行したものであればたちまち鼻に付く。だがそうならないのは、作者が先天的に、言語感覚・定型感覚に優れているからではないかと思われる―ここで言う「定型感覚」とは、俳句の本質である定型(5・7・5音)の構造の在り方に対する運動神経だと思ってもらえればいい。
 次のような句もある。

  さつきですめいですおたまじやくしです
  空豆の見ざる言はざる聞かざるよ
  浮き沈むここらでお茶に黒目高
  とりあへずグッドデザイン賞天道虫
  水掻きのゆつくり開く放生会
  投げ入れる石の足りない花野かな


 一句目は、口語調によるダイアローグの良さである。だが〈おたまじやくし〉は単なる〈さつき〉の比喩ではない。それを突き崩すのは〈です〉による反復法である。それがごく自然に、姪である〈さつき〉と〈おたまじゃくし〉とを合一化していき、そこに生命の交感が表現されている。
 二句目の滑稽感は、中七・下五の俗語が〈空豆〉の語韻・語感(あるいはそこから派生して来るいくつかの意味性)によって詩として昇華されたものである。ウイットとしての詩、と解釈してもいい。
 三句目は「人生浮き沈み」の俗語感が、〈ここらでお茶に〉の、いわゆる俳諧的な「とりはやし」によって、明るい兆しを見せている。〈黒目高〉のその目も涼しげである。
 四句目。これまた面白い句である。〈放生会〉とは捕えられた生類を山野や沼に放つ儀式のこと。そこに思わず、己の掌に生えてくる〈水掻き〉を見てしまうという仕掛けである。。簡単に書けそうな句にも見えるが、そうではない。そこには結句〈放生会〉のような、的確な言葉の選択が無ければ、一句は曖昧のままで終わってしまう。
 最後の句は、直截な叙述とその「逆接(性)」が命である。〈花野〉に従来の美意識を同行させれば、それは季語への「順接」となる。ところがそこに〈石〉を投げれば、それは「逆接」となる。思えば俳諧・俳句とは、この逆説としてのアイロニーが大きな特質のひとつではなかったか。

 さて、句の抽出とその解釈も、今回はこれで充分であろう。

 まとめて言えば、「作者」はいまだ「途上」にある。だがそれは、「作品」が完成に向けて「途上」であると言うのではない。一句の完成度は高い。それゆえに、縷々述べてきたように、私なりの鑑賞も安心してできるのである。でなければ、敢えて鑑賞する必要はない。
 繰り返すが、「心をキャンバスにして、実と虚を行ったり来たりする」ということに対する作者の明確な思いは、散文としての俳句論が無いゆえに見えにくいが、その俳句理念はすでに具体的にいちいちの作品に具現化されている。すなわち作者は、その広大な俳句理念の中を現在只今自由に飛行中なのである。そして作者の先天的な言語感覚・定型感覚は、あらゆる言葉(素材)に突き当たり、そのつど一句を成していく。「途上」とはまさにそのことを意味するのである。それは作者の中では「永遠に途上」であるのかもしれない。
 句集最後に次の一句が置かれている。

  風花す銀紙ほどのやさしさに

 作者は表現としての「わが俳句」の在り様を、遥か遠方に、静かに見すえているようにも思えてくる―だが、ここは、あくまで私のモノローグである。                     

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