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2019年1月25日金曜日
寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~④ のどか
Ⅲ シベリア抑留語り部の体験談(2)
(2)武装解除
2017年(平成29年)10月29日中島裕(ゆたか)さんは、足を少し引きずりながら、平和記念史料館の壇上に立った。 92歳の中島さんは、年齢を思わせない若さと優しい人柄のにじみ出るとても謙虚な印象の方である。足は、抑留中の伐採作業時の怪我によると言う。
後日、中島さんからは、「戦場体験放映保存の会」主催の“戦場体験者と出会える茶話会”(浅草公会堂)での体験談と著書「我が青春の軌跡 絵画集」を併せて参考にすることの許可を頂いたので、ここからは中島さんの体験を基に、話を進める。
太平洋戦争が進み加藤隼(はやぶさ)戦闘隊にあこがれ、先輩たちも皆兵隊になろうとしていた時代、中島さんも1943年(昭和18年)暮れに、陸軍特別幹部候補生の学校に入学した。初年兵の基本教育を経て、中島さんは満州に出征した。
1945年(昭和20年)8月9日のソ連の侵攻を受け、中島さん達は、兵舎や飛行機を燃やし、旧満州(現在の中国東北部)の東京(とんきん)城(じょう)から8月13日に脱出、8月17日にトラックを捨てて山中を歩いた。
疲れて眠った時にソ連兵に取り囲まれ、ソ連軍の隊長と思しき将校が戦車の天蓋から姿を現し、2日前に日本軍は敗戦となり連合軍に、無条件降伏をしたことを告げられ直ちに武装解除され、敦化(とんか)の沙河沿(サガエン)まで歩いた。
ソ連兵は、71連発連射できるマンドリンという銃を持っているのに対し、日本兵は三八式歩兵銃(装弾数5発)である。(三八式歩兵銃は、明治41年から昭和20年まで日本陸軍に配備された。)
(3)ダワイトウキョウ(東京へ行こう)
中島さん達日本兵は、9月1日に沙河沿(さがえん)飛行場の一角に収容され、10月12日までテント生活をした。
敦化(とんか)、沙河沿(サガエン)から「ダワイトウキョウ(東京へ行こう)」と騙され牡丹江(ぼたんこう)まで250㎞を5日かけて歩くように言われたが、5日では到着できなかった。
移動の途中開拓団の老人や婦人、子どもたちの一団に出会った。「兵隊さん、助けてください。」と言われても、武器を持たず、マンドリンを持った兵士に監視され、何もしてあげることができず本当に無力だと思った。
満州からの邦人避難民は、飛行場格納庫に収容され厳しく監視をされ、ソ連兵は、自由に格納庫に出入りし、婦女子の強姦や輪姦を重ねていた。
当時ソ連の第一戦にいた兵士たちの中には、恩赦を受けた犯罪者も多くいたと言う。
牡丹江郊外の掖河(えきが)の戦場跡。小高い草原は、激戦の跡が生々しく、腐敗した日本兵の遺体があちらこちらに散乱し裸の部分は、白骨化して被服に覆われた部分は、大量の蛆が蠢いていた。
戦車に蹂躙され野犬や狐やカラス等に食われてまともな遺体は、一つも無かった。
中島さん達は、牡丹江掖河(えきが)で10月18日から11月3日まで、帰国命令が出ないまま野営生活を続けることになる。
連日、ソ連軍の指示で貨物列車に物資を乗せる仕事に駆り出された。
在満部隊や在留日本人家庭からとりたてた物資を貨物列車に積む仕事である。中島さん達日本兵が帰国してから復興に役立つ物ばかりだと巧みに騙された。
(4) シベリアへ
シベリア抑留地と言っても、ある一定の地域の名称では無く、東はカムチャッカ半島から沿海州、西は黒海沿岸部からモスクワ、北は北極圏から南はモンゴルまで及んだ。
昭和20年11月3日。掖河(えきが)の貨物駅を50両編成の列車が出発した。(中島さん達日本兵50大隊1,000名は、各車40名ずつ25両、他にソ連軍将校車、監視兵の乗った車両、炊事車25両。)
ダワイトウキョウと騙され乗り込んだ貨車で、16日間に及ぶ日数をかけ、シベリアの奥地まで運ばれることとなる。
有蓋貨車内は、ドアの幅だけ空間はあるが、薪を積みストーブを置き、トイレ用の樽を置くと殆ど隙間が無かった。発車後5日目初めて外で用を足すことがゆるされた。
貨車は、バイカル湖を通過した。湖面は既に見渡す限り凍結し、荷物を満載したトラックが走っていた。
とある駅で、カーシャ(粥)の配給があり、食事当番だった中島さんは、戦友と食缶をさげて受け取りに向かった。
長いこと待たされて、中島さんはあまりの寒さに失神してしまい、仲間に貨車内に運んでもらい事なきを得たという。
こうして、タイシェット46キロ地点の第五収容所に到着した。
(5)収容所(ラーゲリ)
敷地の中には、宿舎、医務室、炊事場、食堂などがあった。中島さん達は、自分たちを閉じ込める鉄条網を張り巡らし、監視塔も作らねばならなかった。
敷地の四隅には監視塔があり、昼夜ソ連兵がマンドリンを持ち見張ってをり
、日本人捕虜が塀に近づけば容赦無く発砲された。
宿舎はログ式テント(ドイツ兵の使っていた二重張り)酷寒期のマイナス60度では、ストーブを焚いても温まらない。
翌朝には、服から鼻の穴まで煤で真っ黒になった。
床について10から15分で、無数の南京虫に襲われる。たいまつの火を近づけるといなくなる。一晩中、南京虫との闘いで寝られなかったと言う。
参考文献
『我が青春の軌跡 絵画集』中島裕著(戦場体験放映保存の会収蔵)
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