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2019年1月11日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~③ のどか

Ⅲ. シベリア抑留語り部の体験談

(1)ソ連軍の侵攻
 筆者は、2017年(平成29年)10月29日、新宿にある平和祈念資料館で、語り部の山田治男さんの体験談を伺った。
 山田さんは、92歳とは思えないほど姿勢が良く矍鑠とした風貌であった。 
 今回は、「ソ連軍の侵攻」について山田さんの体験談から紹介させていただくこととする。
 山田さんの所属した軍は、中国東北地方(旧満州の最北部とロシアの国境)を流れる黒竜江(アムール河)を挟んでロシア領ブラゴベシチェンスクの対岸の愛(あい)輝(ぐん)という町の関東軍独立混成第135旅団であった。
 愛琿陣地のある愛輝地区には、一般人も住み、日本人街ができていた。
 1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、侵攻してきた。
 そのころ太平洋戦争の戦況悪化により、関東軍は南方戦線に兵器を運んでいた。
 山田さんの軍も、南方戦線へ兵器を送るために段取りをし、駅に運んでいたので武器がなかったと言う。 
 竹竿の中に手留弾を5個詰めたものを持ち、蛸壺と呼ばれる壕に潜み敵の戦車を撃破する肉薄戦により防衛を図った。こちら側の作戦に気づいたソ連軍は、壕を大きく迂回して行った。
 邦人保護や祖国を守るため、武力の乏しい中攻撃に耐え、8月9日から8月18日まで交戦、10日間の戦闘で6万人の兵士が亡くなったと山田さんは語った。
 その粘り強い防御戦と対戦車肉薄攻撃は、ソ連軍を驚愕させ、「アイグンスキー」と畏敬の念をこめて呼ばせたと言う。
 山田さんは、その時の戦力の差について触れていたが、筆者の記録が明確でないため富田武氏の『シベリア抑留‐スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』から日ソ戦の戦力の差について紹介する。

 極東ソ連軍と日本軍(本土防衛軍を除く関東軍、朝鮮軍、南樺太・千島駐屯軍)の兵力を比較すると、兵員数では、約175万8千対約118万人(3対2)であり、大砲・戦車、航空機の保有量ではさらに大きかった。
 表2-1「極東ソ連軍と日本軍の兵力」では、大砲・迫撃砲は、29,835対6,640(4.5対1)、戦車・装甲車は5,250対1,215(4.4対1)、戦闘機は5,171対1,907(2.7対1)と示されている。(『シベリア抑留‐スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』富田武著 中央新書 2016)

 山田さんは、終戦を知らせに日本の将校が来たが、上官が「日本が負けるはずはない。」とその将校を射殺してしまい、その後皇族が終戦を告げに来たと言う。
孫(そん)吾(ご)で武装解除を受けソ連領ブラゴチェンスクへ、満州からの戦利品を運ぶ船に食料などを乗せる仕事をさせられた。
 それから、ダモイと騙されシベリアに連れて行かれ、強制労働をさせられ、厳しい環境に適応できず沢山の人がバタバタと死んで行ったこと、極寒・重労働・飢えに加えて捕虜を苦しめたのは、社会主義の思想教育を受けた仲間からの吊し上げによる日本人同士のいがみ合いであったと話した。
 山田さんは。シベリアで3年6か月の歳月を過ごし、昭和23年6月ナホトカ港より信濃丸で舞鶴に帰還した。
 体験談の中で山田さんは、1945年(昭和20年)8月23日のソ連の国家防衛決議第9898㏄に触れ、捕虜に対する強制労働は明らかに国際法違反だと述べている。
筆者は、山田さんの意見を理解するため、以下のことを調べたので紹介する。
 国家防衛決議第9898㏄を全て引用するのは、無理があるので要約する。
 国家国防委員会は、極東シベリアという環境での労働に身体的に敵した日本人捕虜の中から50万人を選び出し、バイカル湖アムール鉄道の建設、シベリア各地での石炭労働や鉄道労働、石油精製所の労働、森林伐採、などに充てることを定めている。(『戦後強制労働史第7巻強制抑留史編』国家防衛委員会決議No9898cc 平和記念事業特別基金:2005.3)
また、強制労働の違法性については、1995年(終戦50周年)の「国際法か
らみた日本人捕虜のシベリア抑留」東海大学平和戦略国際研究所教授 白井久也氏の論文にこう述べられている。

 日本が降伏に先立って受諾したポッタム宣言第9項には、「日本国軍隊は、完全に武装を解除されたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得しめられるべし」と規定されている。ソ連は、ポツダム宣言第9項を無視、さらに一部の民間人も含め、計60数万人を軍事捕虜としてシベリアなどへ連行、強制労働を課したのであった。(「国際法からみた日本人捕虜のシベリア抑留」東海大学平和戦略国際研究所教授 白井久也著 1995年)※「ポッタム宣言第9項」は、原文のまま。

    参考資料
    ポツダム宣言
第9条 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自の家庭二復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機械ヲ得シメラシヘシ
(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊)

《お詫び》
 12月28日掲載分のⅡシベリア抑留への歴史の中で、一部出典の不明瞭な
引用がございましたのでお詫びし、ここに記載します。
 
「横浜貿易新報」1918年(大正7年)の引用箇所:(与謝野晶子の『何故の出兵か』 岩波書店岩波文庫 青空文庫)

 満州開拓政策の隠された狙い(小川津根子:元帝京大学教授):平成19年(2007)1月20日、東京高等裁判所第十六民事部あて提出「中国在留邦人訴訟陳述意見書」第二 残留婦人を生んだ歴史的背景」、「1 農業移民の軍事的・政治的役割」の「(ロ)移民に課せられた任務」

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