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2019年1月11日金曜日

〈新連載〉佐藤りえ第一句集『景色』を読みたい1 「大丈夫」ということ  宮崎斗士


中空に浮いたままでも大丈夫

佐藤りえ句集『景色』。一冊を読み終えたあと、ふとこの句に注目。これは一体何が大丈夫なのか?としばし考え込んでしまった。
「常にどこか所在なく、浮草のような現身を扱いかねながら、偶々此の世に端居しつつ、気づけば手になにか書くものを握り、日々紙を汚している。(中略)またぼんやりと浮世を漂いながら、ペンを握っている。(以上「あとがき」より)」――この浮遊感があらためて胸に沁みてくる。
作者ならではの浮遊感を湛えた作品群。たとえば、

つぎの世へ何を連絡する係
まるめろや主義があるんだかないんだか
生存に許可が要る気がする五月
蓮見てもいいし舟漕いでもいいし
うるはしき地球忘れてしまひけり

露霜や此の世はよその家ばかり


「よその家ばかり」とざくっと言い切る、その姿勢にまずは圧倒される。此岸での居場所の無さ、所在無さ。そして、

さうでない家のお菓子を食べてゐる

「さうでない家」という措辞に滋味あり。この「さうでない」から、型通りのお仕着せの「ホーム」という概念への作者の違和感が汲み取れる。しかし違和感ばかりではなく、そんな現実とあえて戯れている様相も見えてくる。「お菓子を食べてゐる」の巧。

加えて、身体感覚の独特な捉え方、描き方に唸らされた作品群。

酔ひ酔ひて椎茸になるかもしれぬ
満身の鱗剥落人となる
しはぶいてあたまの穴のひろがりぬ
雪のおとつらぬけば耳研がれるよ
ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ
首か椿か持てない方を置いて行く

テンピュール枕に猫のゐる暮らし


テンピュール枕のあの感触、そして猫と共にある日常。ただ単に「猫のような感触」というのではなく、下五「暮らし」とまで言って、ひとしきり印象深い一句となった。猫関連の句では、「茹で卵剥くとき猫の貌になる」にもいたく共鳴。猫のじっと睨んでくるあの目が浮かんでくる。感触を活かすといえば、

アストロノート蒟蒻を食ふ訓練

この句も、無重力状態を「蒟蒻」の食感に喩えて、際立つ一句に。

秋晴れやひたひに眼あきさうな

秋晴れ、天高しの爽やかさを、もっと受け止めたい、目に焼き付けたいという心身からの欲求だろうか。中七下五の措辞、大胆にしてすこぶる説得力あり。

盆の窪押されて春のこゑがでる

上五「盆の窪」が見事に決まった。ふと盆の窪を押されることで思わず「春のこゑ」が出る‥‥春の訪れを認識する。ユーモラスでありながら、作者の境涯感も滲む一景。

そして特に印象的だった作品群。問題句も交えて。

文字書いてないところだけさはりなよ 

一読「耳なし芳一」かと思った。刺激的な一句ではある。心身のうちの理でない部分、ロジックで防御していない部分のみを「さはりなよ」と挑発。スリリングな関係性がどこか心地よい。でも、こう言われると、逆に全身くまなく触りたくなるものだが‥‥。

乾電池銜へたやうな油照り

情景を思い浮かべ、そのトボケ味につい爆笑してしまったが、炎天下において身体がまるで一つのオブジェになったような感覚、十分に共鳴できる。

人工を恥ぢて人工知能泣く

この句集には「存在の哀しみ」を詠った句が幾度も出てくるが、この句はその一つの極北かも知れない。「人工を恥ぢて」、何とも鮮烈な、そして哀切極まる視点。「冬山に人工知能凍ててをる」もまた同様の視点か。

パリの地図ひろげておとなしい孔雀

図らずも時事俳句となってしまったか‥‥。作者の意図としては、お洒落で華やかなパリに気後れしている孔雀を描きたかったかのも知れない。ここ最近のパリの騒乱と「おとなしい孔雀」とが絶妙なコントラスト。

開かれるまでアルバムは夜の仕事

アルバムの内容の賑やかさ、溢れる懐かしさと対比する形で、閉じたままのアルバムの有りようをいかに表現するか――。下五「夜の仕事」、この「夜」の意図をどう捉えるかで句の解釈はいかようにも違ってくる。たとえば「開かれるまでアルバムは闇のよう」とすれば幾分かは明快になるが、作者の望むところではもちろんないだろう。筆者としては、「(アルバムが)開かれるべき明日に備えて、待機、準備している」というふうに解釈。アルバムというものの内実を的確に捉えた一句と思った。

生きてきてバケツに蟻をあふれしむ

一読、中七下五の映像のインパクトに息を呑まされた。自分という存在を持て余しているようで、どこかその蠢きを強く肯定している作者像が伝わる。

雲を飼ふやうにコップを伏せてみる

句集中の重要なポイントとなる一句と筆者は思う。「コップを伏せる」という何気ない所作による、一個人と大空――森羅万象との繋がり。コップの内側に浮かぶ作者の「雲」がしっかりと見えてくる。決して声高ではなく、自らの生、存在を訴える作者‥‥。作者の、この句集に込めた思いの丈、作者ならではの「大丈夫」のこころがじんわりと広がってくるようだ。

足首を摑んで投げる鳥雲に

これが句集『景色』最後の一句である。「鳥になりたい」という一般的、普遍的な願望。それに対し、「そんなに鳥になりたいのなら、こうしてあげる!」とばかりにその足首を摑んで雲の彼方へと投擲する。あっけらかんとした暴力性、闇雲なパワー‥‥。あるいは「足首を摑んで投げ」られるのは読者なのかも知れない。一冊の句集に圧倒され、翻弄され、魅せられたあげくの何とも快い幕切れである。

堪能した! このまま作者の隣で中空に漂っていたい、とさえ思う。

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