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2018年7月27日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい10 出会うべくして――『御意』を詞書から探る 岡村知昭

 「極めて個人的な印象です」との断り書きをした上で恥ずかしながらここに記すのだが、私にはいわゆる「詞書」が付けられた一句に対しての若干の苦手意識があるようなのである。特に大きな理由があって、というものではないのだが、強いて挙げるとしたら、一句の前の詞書の存在によって、読み手である自分が一句に対して向かい合おうとするときに、作者から「このように読んでください」との制限が課されてしまったかのように思い込んでしまっているから、なのかもしれない。もちろん、詞書の存在が一句により広がりを産み、その一句が一冊の句集のなかで他の一句との響き合いをもたらし、句集にさらなる広がりをもたらしてくれるということも重々わかってはいるので、この『御意』に収められた詞書付きの作品に対しても「一句に広がりをもたらしているか」「一冊に広がりをもたらしてくれるのか」との目線をもって向かい合っていきたいのである。なぜ、このようなことを長々と書いてしまうのかといえば、この『御意』においては、詞書の付いた作品が五句あるのだが、それぞれの作品に付けられた詞書の中身を見ていくと、この句集の全体へとつながるものが見えてくるような印象を受けるからなのである。

  優衣へ
 ふらここに立ちて冒険始まりぬ
  彩子へ
 断髪の少女夏野の扉を開く
  達哉へ
 小鳥來ぬ少年の棋譜読みたれば


 この三句に登場する「優衣」「彩子」「達哉」の三人、おそらくは子どもで、作者をはじめとした大人たちからの愛情をいっぱいに浴びていて、といった具合にひとまずは受け取るのだが、もし「優衣」「彩子」「達哉」の詞書がなかったら、この三人を子どもと受け取っただろうか、との気持ちにもなる。ぶらんこに立ち乗りする「優衣」をまぶしく見守っているのが友達であっても、棋譜を読んでいる「達哉」を見つめているのが別の少年である可能性だってないわけではない。
 しかし、作者はこの三句ではあくまでも、一句の詞書に三人の名前を付けることにこだわる姿勢を崩さない。それはこの三人に対して寄せる想いの深さの表れから来るものなのだろうが、誰かへの想いではなく「優衣」「彩子」「達哉」への想いであると確かに記しておかなければ成りたたない、との確信の固さも、それぞれの詞書からは浮かび上がってくる。そういえば、一読したときにはこの「優衣」「彩子」「達哉」の三人は作者の身内とか近所の誰か撮った身近にいる子供たち、と思い込んでいたのだが、この印象すらも、この三句に付けられた詞書からもたらしたものなのかもしれないのだ。いまここにいる愛おしい存在への想いの深さは、詞書を通じてよりはっきりと伝わってくるのである。

   阪神淡路大震災
  まだ熱き灰の上にも雪降れり
   父死す
  白木槿身のうちに星灯しけり


 この二句では、句に付けられたそれぞれの詞書が、自らが抱え込んでしまった死者への鎮魂や悲しみといった感情を、一句により深く刻み込む役割を担っている。
 「まだ熱き」の句では、もし詞書がなかったとしたら「阪神大震災」ではなく、東日本大震災を詠んだ一句としても通用したのかもしれない。「雪降れり」は東北の被災地に降った三月の雪になったのかもしれない。だが詞書が付されたことによって、自らが目の当たりにした「阪神大震災」への想いが、あの日「熱き灰」の一部となってしまったのかもしれない、との想いと、時が経つにつれて薄れてしまいそうになる記憶に対して抗おうとする気持ちをともなって、「阪神大震災」を詠んだ一句として読み手を導いてくる。
 一方、「白木槿」の句はこのあとの「風花や父の匂ひの牧師館」と合わせて、亡き父への想いにあふれた作品であるが、亡くなった父の身体が「星灯し」ている、と捉えたのは、これからはじまる父の不在という現実の大きさを、懸命に受け止めようとしているかのようである。身のうちに輝く星と、白木槿の白の取り合わせのまぶしさは、自らの悲しみの深さをより際立たせるために選び取ったのかもしれず、それを受け止めるには「父死す」の詞書はどうしても欠かせなかったのだろう。逆に「父の匂ひ」の句で詞書が付けられなかったのは「父」がはっきり登場するからだけではなく、父の死を受け止めた時間の経過を、自らの身のうちに感じ取ったからなのかもしれない。作者にとって「阪神大震災」の記憶をつなぎとめようとする姿勢と、父の死への溢れるばかりの哀しみとは、もうここにいない、もう会うことのない人たちへの哀しみと慈しみに満ちているのだ。
 一冊の句集に収められた詞書にこだわりすぎたかもしれない、という気持ちは正直あるのだが、しかし、こだわってみてきたからこそ見えてきた『御意』の側面は確かにある。いまここにいるいとけなき者への愛情、肉親や巨大災害の犠牲者といった、すでにこの世のものではなくなってしまった人たちへの哀しみ。このふたつの想いの底に流れているのは、いまここにある存在を慈しもうとする、ひとりの女性の姿ではないか、それこそが『御意』という句集なのではないか、という風に、この一冊を読めば読むほどに感じずにはいられなくなっているのが、只今の個人的な印象なのである。

  生前の指冷たかり紙漉女
  大寒の星の匂ひを嗅ぎにゆく
  銀行の金庫に育つ余寒かな
  朝寝して鳥のことばがすこしわかる
  カッパ卷きしんこ卷春惜しみけり
  アマリリス御意とメールを返しおく
  リアス式海岸に水打ちにけり
  蜘蛛の囲いにかかつてばかりゐる人よ
  一人唄ふ國歌はさびし稻光
  薄紅葉記念写真に鳩がゐる


 印象に残っている句をこうやって挙げてみると、どの作品もモノや人との出会いを喜び、「紙漉女」であれ、「リアス式海岸」であれ、対象に対しての慈しみの深さを感じずにはいられない。そして、作者にとっての喜ばしい出会いの数々をもたらしてくれたのは、まぎれもなく俳句との出会いである。俳句との出会い、俳句を通じての出会いによって生まれた、この『御意』という句集。詞書のある作品は五句なのだが、もしかしたら、どの作品においても、こんな隠れた詞書が付されているのかもしれないと思ってしまうのだ、「ここで出会えて、うれしい」。

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