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2018年6月22日金曜日

【抜粋】〈「俳句四季」7月号〉俳壇観測186/俳文学研究者の現代俳句への提言  ――山下一海・復本一郎・堀切実の業績 筑紫磐井

 ●『山下一海著作集』完結
 平成二五年から始まった『山下一海著作集』(全一〇巻)の配本がこの四月で完了した。俳句文学者は何人か知っているが、全著作集をまとめたのは穎原退蔵(全二一巻)ぐらいで、俳文学研究者の全集は珍しい。著名な井本農一氏も尾形仂氏にも全著作集はない。山下一海氏(昭和七年~平成二二年)からは単行本は何冊か頂いていたこともあり親しみやすかったが、全集で見ると印象が大部違う。
 山下氏の著作集を読むと、芭蕉、蕪村、近世俳句、そして近・現代の子規や虚子までを含むから、勢い、古典から現代までの一貫した視点を見ることが出来る。アカデミックに裏打ちされた、古典から見た現代俳句の展望というものが見えてくるのである。特に、現代俳句への言及は穎原退蔵よりも多いのではないか。
 最終巻に当たる別巻は「俳論・随想・著作目録」となって未刊の文章が多く収録されておりとりわけ興味深い。一つは、単行本として収録されなかった俳論が多く収録されているのが見どころである。俳文学を総覧し、現代俳句にまで関する知見を持った山下氏が現代俳句に関する幾つかの問題についてどのような意見を持っていたかは興味深いところだ。芭蕉・蕪村の研究をすれば当然に、伝統に対する深い考え方が生まれるだろう。その代表である季語論を見てみたい。

 「俳句に季題が必要であるという絶対的な理由は何もない。歴史的に必要とされてきたもので、それなりの理由はあるが、それは絶対的なものでも何でもない。あった方がよいという相対的な効用性が認められてきたにすぎない。それを風土性や民族性から、あたかも絶対のもののように説く論があるが、それは往々にして国粋主義的な匂いを帯びてくる。むしろ今は、絶対的な理由がないのに生きてきたところに、俳句における季題の意味の大きさを考えるべきだろう。」(「季題観種々」)
 「俳諧にとって、伝統とは破壊するためのものであったのではなかろうか。しかし、大切なことは、伝統を破壊することによって新しい伝統を創開しているということである。・・・真の伝統は、伝統と意識される以前の何ものかである。伝統と意識され、名づけられるとき、それは伝統としての生命を失い、形骸化し、いつかはくだかれてしまう。そして、伝統はくだかれることで新生の意義を発揮する。」(「俳諧にとって伝統とは何か」)


 伝統墨守の俳人はびっくりするだろう。芭蕉・蕪村も現代俳句も通じて言えることは、「伝統ということを否定するところに俳諧の生命がある」「否定されるべきものと否定するものとの間の往復運動が、俳諧史を動かして行くエネルギーであった」ということになるのである。社会学にも通じる科学的な視点であった。
 もう一つの最終巻の見どころは、山下氏が若き時代に書かれた詩編があること、そして自伝が掲載されていることである。すぐれた研究者には俳文学以前の文学体験があるのではないか。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」7月号をお読み下さい。


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