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2018年4月27日金曜日

【抜粋】<「俳句四季」5月号> 俳壇観測184/金子兜太逝く――海程終刊後何をしようとしたのか 筑紫磐井

兜太の訃報

 この「俳壇観測」は公的時評のつもりで書いているが、今回はすこし私的事項にわたり筆を延ばしたい。
 二〇一八年の九月の白寿の誕生日にあわせて「海程」を終刊することとし、今年に入ってから新しい雑誌「海原(かいげん)」の創刊と新体制(発行人安西篤)の準備が進み、着々と予定をこなしている感があったが、そうしたただ中、あれほど元気であった兜太の訃報が届いた。
 一月七日に肺炎で入院したが、これは軽かったらしく二五日には退院している。ところが、二月六日誤嚥性肺炎で急遽熊谷総合病院に入院し、以後意識がほとんどない状況となり、二月二〇日午後一一時四七分息を引き取った。
 葬儀は熊谷市の斎場で三月一日通夜、二日告別式があった。家族葬と聞いていたが、俳人は家族だということで海程、現俳協の人など二~三〇〇人に混じって参列させていただいた。偲ぶ会は改めて行われるそうだ。驚いたのは自宅にいた二週間の間に三本のインタビューをこなしていたことだ。最後の一瞬まで自分が亡くなると意識はなかったようである。
 「アベ政治を許さない」と全国に発信した反戦俳人に死亡叙勲の話が届いたとは聞かない。その代わり、最後の見送りに、近所のおばさんたちが折ったという小さな折り鶴が数百用意されており皆でこれを棺に納めていた。民衆俳人らしい最後であったように思う。死後叙勲を貰うよりはるかに兜太にとって光栄ではなかったかと思う。
      *      *
 実は、昨年一二月一三日に仲間たちと金子邸を訪問しインタビューを行っている。元気だった。俳句に関するインタビューとしては多分最後のものになるのではないかと思う(退院後こなしたインタビュー三本は必ずしも俳句に関わるものではないらしい)。私の手元にはテープ起こしした原稿がきており、しかるべき時期に公表することになると思う。
 私自身兜太と話をする機会はむしろ最近の方が多かった。主宰誌「海程」への戦後俳句史の連載を依頼され、その後「海程」の秩父俳句道場には二回招かれた。掲出の写真は二〇一五年四月のもの(左から安西篤、筑紫、金子兜太、関悦史氏)であるが、この背景のホワイトボードには、見づらいが私の「金子兜太:老人は青年の敵 強き敵」の句が書いてある。なかなか意味深長な句なのだが、兜太も「海程」同人たちも気にしないで話を聞いてくれた。気を許した相手には、至極磊落な態度を示す人だった。
 俳壇観測の前々号で「二つの大雑誌の終刊――高齢俳人の人生設計こそ俳壇の課題」と時評を書いたが、この中で兜太自身の今後の仕事について書いている。実はこの時、すでに兜太と話を重ね、白寿以後の兜太と新しい仕事を一緒に始めようと申し合わせたのであった。前述のインタビューもその時のためのものである。私個人としては、高浜虚子がホトトギスの選者を止めた後、新人たちと戦後俳句を論評する座談会を五年にわたって続けていたこともあり、兜太にも戦後俳句評を是非語らせたかった。「そんなのはアンタがやればいいんだ」と言っていたが、それでもこの最後のインタビューではいままで語られなかった波郷の評を語ってもらっている。もう少し長く聞くことが出来たらばと惜しまれる。
(以下略)
※詳しくは「俳句四季」5月号をお読み下さい。

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