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2018年3月23日金曜日

【抜粋】〈「俳句四季」4月号〉俳壇観測183・虚子の不思議な心理 ――虚子の写生文の表面と裏面 筑紫磐井

●本井英『虚子散文の世界へ』(二〇一七年五月ウエップ刊)
   虚子の俳句作品、評論や俳話は、その全体を知る人は少ないものの俳人である限りは一部は必ず読んだことがあるはずだ。そこに登場する「客観写生」「花鳥諷詠」「存問」などは重要なキーワードとして、現代俳句においても、伝統・前衛、社会性などと並んで必須の概念となっている。
   ところで、虚子は俳句や評論に劣らぬ多くの散文を残し、それらは、「写生文」と呼ばれている。本井英『虚子散文の世界へ』(このたび俳人協会評論賞を受賞した)は、この写生文を総括した論集である。俳句作品や評論に比べて、虚子の写生文に対する注目が薄いことへの本井の義憤のようなものも感じられる。
   本井は、高濱虚子全集の小説篇・散文篇が散文世界全体に目配りしたといい難く珠玉の作品を落としてしまった、筆者の把握している限り一千編を超えているという。実際虚子自身は自らの略歴に「活字となりたる文字の多きことおそらく世界一なるべし」と豪語している。ここまで言う人はおるまい。
   この本の有難いのは、特定の写生文作品を深く読み込むというよりは、出来るだけ多くの代表作品(五十数編)の概要とポイントを摘出してくれている点である。今日風に言えば虚子写生文データベースとなっていることである。これにより虚子の写生文における全体的な関心と特徴が浮かび上がってくる。虚子の精神活動の全貌が表われているのだ。この作業があって、初めて後続者も色々な考察を加えることができる。
もちろん五十数編の主要なものには本井の独自な目が光っているのだが、やはり何といっても全体構成が優れているのが特徴だ。それは、これだけの虚子の写生文を現代にあって読み通す人はいまいと思われるからである。我々はその全体知に参加する喜びを得る。
 しかしこれを読んで感じるのは、虚子が想像にまして複雑な人物であるということである。そしてその作品も複雑な作品である。
これは私の偏見だが、虚子の写生文には、文章の技法は卓抜しても、文学的感動の本質が欠落しているように見える。これは、何も虚子を否定しているのではない。写生文は文学の一部である必要はないし、文学の外側にある部分と内側にある部分を持っているからだ。写生文を文学に言い換えたり、文学を写生文に言い換えたりする必要はないのである。
   関東大震災に当たって、虚子は、俳句で震災を詠むべきではない、しかし文章こそその独壇場であると写生文を勧めている。本井の本には入っていないが、虚子の震災記録を読むと、写生文の「写生」は真実を写すと思っていたがどうもそうではないらしい。写生文は客体を描写するのだが、そこには選択や解釈が混じっており、被災者や地震の悉皆を写しているわけではない。確かにそこには卓越した表現技術があるが、そこで描かれているものは客観的事実ではなくて、写している筆者(虚子)の主観である。とりわけ虚子という奇怪な作者の主観が映し出される。虚子の文章がしばしば真偽が疑われる(例えば杉田久女の件)のはそうしたところにある。『虚子散文の世界へ』を読むと迷路のような虚子の心理を伺う手がかりが見えてくる。
(以下略)

※詳しくは「俳句四季」4月号をお読み下さい。

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