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2017年12月22日金曜日
【新連載】前衛から見た子規の覚書(8)いかに子規は子規となったか⑦/筑紫磐井
●【新たな校友と運命/本科時代】21年9月―23年9月
明治21年9月本科に進学してからの2年間は子規の人生を決定するような事件が相次いだ。1つは本科進学と同時に、まだ出来たばかりの常磐会寄宿舎(本郷真砂町)に移転したことにより友人たちとの活動が活発になったこともある。また新しい友人たちが生まれたことにより、影響を受けやすいと自らも言ってた性格が確実に変化したことである。
子規はそれまで一ツ橋にある第1高等中学寄宿舎に居住していたが、明治21年9月本科に進学するのに合わせて、本郷真砂町にある常磐会寄宿舎に移転することにする。子規はここ数年、夏は帰郷したり久松の若殿様に従って旅行したりと勉強が進まないことを反省し、この夏期休暇中(21年7月~9月)に向島長命寺境内の桜餅屋山本屋の二階に同郷の親しい友人三並良、藤野古白と同宿することとした。子規はこの下宿を月香楼と名付ける。ここで「(無可有洲)七草集」(明治21~22年)の一部を執筆する。「七草集」は向島にちなむ詩歌文集であるが、蘭フジバカマ(漢文)、萩(漢詩)、女郎花(和歌)、尾花(俳句)、舜アサガオ(謡曲)、葛(新聞体)、瞿麥ナデシコ(擬古文)の各編からなり、それぞれが独特の文体を持って綴られているという技巧的な一編であった。これを友人たちに回覧し評を求めたのである。この中に新しく登場した友人の一人漱石がいた。子規と漱石との関係は二人が寄席が好きだったことに始まるという。いずれにしろ、大学では英文学を学んではいたが幼少から漢学の造詣の深かった漱石の漢詩に対する批評は的確であった。のみならず後日(9月)、漱石の駿房紀行の「木屑録(ぼくせつろく)」が書かれ、子規に回覧され、これに対する子規の批評が行われる。子規はそこで最大級の賛辞を呈している。
かくて絶好の知己を得た二人は、やがて帰省先の松山と東京で、手紙によって本格的な文学論争を始めるのである。
漱石が東京での友人とすれば、常磐会寄宿舎に同郷人の新しい友人が増えてくる。内藤鳴雪、竹村鍛、新海非風、五百木飄亭、大谷是空らである。
内藤素行(鳴雪また南塘と号す)は、弘化4年(1847年)生まれで子規の20歳年長であった。県学務課長として勤務したのち文部省に勤めていたが、22年4月から常磐会寄宿舎監督となった。一方、五友の一人竹村鍛(錬卿、黄塔あるいは松窓)も常磐会寄宿舎に入ってきた。鳴雪は松山でも漢詩人として知られていたところから、鍛、子規を加えて言志会を結成し、聯句などが作られ「言志会稿」が出された。一方、新海(にいのみ)正行(非風)は常磐会寄宿舎で初めて知り合ったが、五百木飄亭は河東静谿の漢詩塾の仲間であり、彼らを中心として紅葉会が結成され、ここでも回覧雑誌「つづれの錦」が作られた。いずれにしろ、中学時代の回覧雑誌が復活する。そしてここで参加した友人たち(さらに古白を加えて)が、子規が俳句にのめり込んで行く際の最初の仲間となったのである。
大谷藤次郎(是空)は予備門で知り合った友人であるが、大阪に戻っていたところから「お百度参り」という葉書の交換を始め七十数回に及んだ。
また松山では、明治22年夏に河東碧梧桐とあってベースボールを教えたのが縁で、23年5月からは碧梧桐から子規に手紙が来て添削を施すようになる。以下、次の時期の記事となるが、24年3月には、碧梧桐が松山中学を中退して常磐会寄宿舎に入宿してくる。また、その直後に高浜清(虚子)を碧梧桐から紹介され俳句を指導するようになるなど、次の世代が漸く子規の周辺に集まり始めたのである。
だが、この時期の最大の事件は明治22年5月9日の突然の喀血である。子規の生涯を決めることとなる病気なのであるが、当初こそ伯父の大原恒徳に親族に肺病の筋がないか問い合わせているが、あとは漱石が親身になって入院加療を忠告するが聞かなかったらしい。静養どころか、7月には松山へ帰省し(帰省先の松山で碧梧桐に野球を指導している)、11月には大磯への旅行、第一高等中学校のベースボール大会への参加、12月には再びの帰省を行っている。また小説「山吹の一枝」(未完)、紀行文「水戸紀行」「四日大尽」、「筆まかせ」中の数十編の雑文を執筆するなど、旺盛な表現活動を行っている。
その中には、自らの病気を素材とし、「喀血始末」「読書弁」からなる「子規子」をあらわし、また時鳥の句四五十句を吐いたという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか時鳥
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