【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2017年12月22日金曜日

第80号

●更新スケジュール(2018年1月12日)

今冬発行!!
冊子「俳句新空間」No.8 
特集:世界名勝俳句選集
※※※通販は近日開始予定※※※

第4回攝津幸彦記念賞発表! 》詳細
※※※「豈」60号・「俳句新空間」No.8に速報掲載※※※

各賞発表プレスリリース
豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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平成二十九年 秋興帖

第九(12/22)下坂速穂・岬光世・依光正樹・依光陽子・ふけとしこ・浅沼 璞
第八(12/15)小野裕三・小沢麻結・渕上信子・水岩 瞳・青木百舌鳥
第七(12/8)林雅樹・神谷 波・前北かおる・飯田冬眞・加藤知子
第六(12/1)花尻万博・山本敏倖・内村恭子
第五(11/24)大井恒行・小林かんな・網野月を
第四(11/17)杉山久子・真矢ひろみ・木村オサム
第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅

【花鳥篇特別版】金原まさ子さん追善
北川美美

》読む



【新連載】
前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
(1)子規の死   》読む
(2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
(3)いかに子規は子規となったか②   》読む
(4)いかに子規は子規となったか③   》読む
(5)いかに子規は子規となったか④   》読む
(6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
(7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む
(8)いかに子規は子規となったか⑦   》読む



●新シリーズその1
【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」…安里琉太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む …宮本佳世乃
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
        ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと …福田若之  
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」 …筑紫磐井  》読む


●新シリーズその2
【平成俳壇アンケート】
間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む


【抜粋】
<「俳句四季」1月号> 
俳壇観測180/師系と世代のつながり ――六つの俳句大会に出席して
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる






<WEP俳句通信>




およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
    • 12月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




      ●【読み切り】BLOGは永遠か?——S夫妻のこと(筑紫磐井)  



      冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
      No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
      桜色のNo.7


      筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

      実業広報社






      題字 金子兜太

      • 存在者 金子兜太
      • 黒田杏子=編著
      • 特別CD付 
      • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
      第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
       青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
       兜太の社会性  筑紫磐井

      【抜粋】<俳句四季1月号>俳壇観測180:師系と世代のつながり ――六つの俳句大会に出席して  筑紫磐井


       振り返ってみると、夏から秋にかけて雑誌の祝賀大会が立て続けに開かれた。団塊の世代を中心にした中堅世代(七十~六十歳)の俳句雑誌の創刊記念大会である。本井英主宰「夏潮」、上田日差子主宰「らんぶる」、松尾隆信主宰「松の花」、嶋田麻紀主宰「麻」、中西夕紀主宰「都市」、鈴木太郎主宰「雲取」が十年、二十年を迎えて大会を開く、これは驚きであった。いつの間にか、若手であったはずの人たちが、主宰となり、結社も雑誌も十年二十年と歴史を重ねていたのだった。
       
      ●「夏潮」十周年大会
       本井英(72)主宰の「夏潮」十周年大会が八月二六日日の出埠頭で開かれた。埠頭でというのは誤解がある、埠頭に着岸していた「シンフォニー」に乗り、東京湾クルージングをしたのである。俳句の会としては、吟行ではなく、大会が船の中というのは珍しいことである。一八〇人に及ぶ大人数であった。
       本井英は清崎敏郎門であり、俳壇を活性化するためのイベントをいろいろ行っている。一つは、小諸日盛り俳句祭であり、虚子が戦中戦後に疎開していた小諸で、超結社の俳句大会を開催していることだ。小諸市の協力もあり、比較的俳人に馴染みのある地であるため、二百人近い参加者がある。句会だけでなく著名人の講演やシンポジウム、懇親会もあり、一寸した俳句祭となっている。
       もう一つは、虚子研究とその成果を発表する「夏潮」別冊虚子研究号を刊行していることだ。二〇一一年から毎年刊行し、今年で第七号となる。現代にあって、こうした特定作家研究が超結社の作家・評論家の論を集めて出されている例はないから、虚子研究だけが燦然と輝いているように見えるのである。

      一日とも一ト昔とも蓮に立ち 本井英

      (中略)

      ●「都市」十周年大会
       「都市」は中西夕紀(64)主宰の結社で、師系は藤田湘子。大会は文化の日の一一月三日(金)ホテルモントレ半蔵門で快晴に恵まれて開かれた。祝辞も乾杯も、筑紫磐井、高野ムツオ、本井英、行方克己、対馬康子、井上弘美と主宰に近い世代に囲まれて行われたのが特徴だ。
       五周年の大会に招かれたことがあるがその時は主催の地元の町田だったから、念願の都心での大会での開催となった。一歩づつ首都圏に向って歩を進めて行く。「都市」の伸び盛りと歩調を合わせているようだ。

      緑蔭の男女のどれも恋に見ゆ 中西夕紀

      ●「雲取」二十周年大会
       「雲取」は鈴木太郎(75)主宰の結社で、師系は森澄雄。大会は一一月一八日(土)王子の北トピアで開かれた。
       「雲取」創刊の数年前に超結社の会があり、まだ海のものとも山のものともつかぬ中堅俳人の鈴木太郎、鳥居三太(後に三朗と改名)、橋本栄治、遠藤若狭男、小島健、筑紫らで吟行会や句会を行い気炎を吐いたことがある。「俳句研究」の赤塚編集長が支援してくれたのだが、「東京ロマンチカ」といういかにも無頼な名称の会であった。当時はこうした超結社の会がいろいろにあったものである。その後、鳥居は「雲」、橋本は「枻」、遠藤は「若狭」、筑紫は「豈」の主宰や発行人となり、小島は「河」の同人会長となっている。みなそれぞれに一家をなし始めた。「雲取」の何周年大会にはいつもこうした仲間が集まっていたのだが、鳥居も今はなく、それぞれの都合もあるのだろうが、今回の参集者は多くはなかった。
       結社の大会の記録を並べながら何をいいたかったかといえば、師系と同世代のつながりこそが結社の歴史の背景をなしているということだ。特に私の場合は同世代のつながりが懐かしい。青春そのものであるからだ。

      しぐれ忌の己が瑕瑾をあたたむる 鈴木太郎

      ※詳しくは「俳句四季」1月号をご覧ください。



      【新連載】前衛から見た子規の覚書(8)いかに子規は子規となったか⑦/筑紫磐井


      ●【新たな校友と運命/本科時代】21年9月―23年9月
      明治21年9月本科に進学してからの2年間は子規の人生を決定するような事件が相次いだ。1つは本科進学と同時に、まだ出来たばかりの常磐会寄宿舎(本郷真砂町)に移転したことにより友人たちとの活動が活発になったこともある。また新しい友人たちが生まれたことにより、影響を受けやすいと自らも言ってた性格が確実に変化したことである。

      子規はそれまで一ツ橋にある第1高等中学寄宿舎に居住していたが、明治21年9月本科に進学するのに合わせて、本郷真砂町にある常磐会寄宿舎に移転することにする。子規はここ数年、夏は帰郷したり久松の若殿様に従って旅行したりと勉強が進まないことを反省し、この夏期休暇中(21年7月~9月)に向島長命寺境内の桜餅屋山本屋の二階に同郷の親しい友人三並良、藤野古白と同宿することとした。子規はこの下宿を月香楼と名付ける。ここで「(無可有洲)七草集」(明治21~22年)の一部を執筆する。「七草集」は向島にちなむ詩歌文集であるが、蘭フジバカマ(漢文)、萩(漢詩)、女郎花(和歌)、尾花(俳句)、舜アサガオ(謡曲)、葛(新聞体)、瞿麥ナデシコ(擬古文)の各編からなり、それぞれが独特の文体を持って綴られているという技巧的な一編であった。これを友人たちに回覧し評を求めたのである。この中に新しく登場した友人の一人漱石がいた。子規と漱石との関係は二人が寄席が好きだったことに始まるという。いずれにしろ、大学では英文学を学んではいたが幼少から漢学の造詣の深かった漱石の漢詩に対する批評は的確であった。のみならず後日(9月)、漱石の駿房紀行の「木屑録(ぼくせつろく)」が書かれ、子規に回覧され、これに対する子規の批評が行われる。子規はそこで最大級の賛辞を呈している。
      かくて絶好の知己を得た二人は、やがて帰省先の松山と東京で、手紙によって本格的な文学論争を始めるのである。

      漱石が東京での友人とすれば、常磐会寄宿舎に同郷人の新しい友人が増えてくる。内藤鳴雪、竹村鍛、新海非風、五百木飄亭、大谷是空らである。
      内藤素行(鳴雪また南塘と号す)は、弘化4年(1847年)生まれで子規の20歳年長であった。県学務課長として勤務したのち文部省に勤めていたが、22年4月から常磐会寄宿舎監督となった。一方、五友の一人竹村鍛(錬卿、黄塔あるいは松窓)も常磐会寄宿舎に入ってきた。鳴雪は松山でも漢詩人として知られていたところから、鍛、子規を加えて言志会を結成し、聯句などが作られ「言志会稿」が出された。一方、新海(にいのみ)正行(非風)は常磐会寄宿舎で初めて知り合ったが、五百木飄亭は河東静谿の漢詩塾の仲間であり、彼らを中心として紅葉会が結成され、ここでも回覧雑誌「つづれの錦」が作られた。いずれにしろ、中学時代の回覧雑誌が復活する。そしてここで参加した友人たち(さらに古白を加えて)が、子規が俳句にのめり込んで行く際の最初の仲間となったのである。
      大谷藤次郎(是空)は予備門で知り合った友人であるが、大阪に戻っていたところから「お百度参り」という葉書の交換を始め七十数回に及んだ。
      また松山では、明治22年夏に河東碧梧桐とあってベースボールを教えたのが縁で、23年5月からは碧梧桐から子規に手紙が来て添削を施すようになる。以下、次の時期の記事となるが、24年3月には、碧梧桐が松山中学を中退して常磐会寄宿舎に入宿してくる。また、その直後に高浜清(虚子)を碧梧桐から紹介され俳句を指導するようになるなど、次の世代が漸く子規の周辺に集まり始めたのである。

      だが、この時期の最大の事件は明治22年5月9日の突然の喀血である。子規の生涯を決めることとなる病気なのであるが、当初こそ伯父の大原恒徳に親族に肺病の筋がないか問い合わせているが、あとは漱石が親身になって入院加療を忠告するが聞かなかったらしい。静養どころか、7月には松山へ帰省し(帰省先の松山で碧梧桐に野球を指導している)、11月には大磯への旅行、第一高等中学校のベースボール大会への参加、12月には再びの帰省を行っている。また小説「山吹の一枝」(未完)、紀行文「水戸紀行」「四日大尽」、「筆まかせ」中の数十編の雑文を執筆するなど、旺盛な表現活動を行っている。
      その中には、自らの病気を素材とし、「喀血始末」「読書弁」からなる「子規子」をあらわし、また時鳥の句四五十句を吐いたという。

      卯の花をめがけてきたか時鳥
      卯の花の散るまで鳴くか時鳥


      2017年12月8日金曜日

      第79号

      ●更新スケジュール(2017年12月22日)

      今冬発行!!
      冊子「俳句新空間」No.8 
      ※※※詳細は近日公開※※※

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      ※※※「豈」60号に速報掲載※※※

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      平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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      平成二十九年 秋興帖

      第七(12/8)林雅樹・神谷 波・前北かおる・飯田冬眞・飯田冬眞
      第六(12/1)花尻万博・山本敏倖・内村恭子
      第五(11/24)大井恒行・小林かんな・網野月を
      第四(11/17)杉山久子・真矢ひろみ・木村オサム
      第三(11/10)松下カロ・坂間恒子・渡邉美保
      第二(11/3)岸本尚毅・辻村麻乃・夏木久
      第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅

      【花鳥篇特別版】金原まさ子さん追善
      北川美美

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      【新連載】
      前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
      (1)子規の死   》読む
      (2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
      (3)いかに子規は子規となったか②   》読む
      (4)いかに子規は子規となったか③   》読む
      (5)いかに子規は子規となったか④   》読む
      (6)いかに子規は子規となったか⑤   》読む
      (7)いかに子規は子規となったか⑥   》読む



      ●新シリーズその1
      【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
      受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」…安里琉太
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む …宮本佳世乃
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
              ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと …福田若之  
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む13】「結び」及び「最強の1句」 …筑紫磐井  》読む


      ●新シリーズその2
      【平成俳壇アンケート】
      間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
      【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
      【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
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      【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
      【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
      【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
      【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
      【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む


      【抜粋】
      <「俳句四季」12月号> 
      俳壇観測179/戦争を思う ――虚子は戦争をどう見ていたか 団塊の世代は戦争をどう見るか
      筑紫磐井 》読む


      • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



      【広告】
      月刊「俳句界」12月号特集「あなたが選ぶ平成の名句」(仮)  》読む


      <WEP俳句通信>




      およそ日刊俳句空間  》読む
        …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
        • 12月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

          俳句空間」を読む  》読む   
          …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
           好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




          ●【読み切り】BLOGは永遠か?——S夫妻のこと(筑紫磐井)  



          冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
          No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
          桜色のNo.7


          筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

          実業広報社






          題字 金子兜太

          • 存在者 金子兜太
          • 黒田杏子=編著
          • 特別CD付 
          • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
          第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
           青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
           兜太の社会性  筑紫磐井

          【速報】第4回攝津幸彦記念賞発表!     筑紫磐井



           「豈」60号が刊行されて、第4回攝津幸彦記念賞(選考委員:池田澄子・大井恒行・筑紫磐井)が公表された。
           作品は、次号「豈」61号に発表される予定。

          ◆第4回攝津幸彦記念賞◆

           37編の応募作品より決定。
             選考委員 池田澄子 大井怛行 筑紫磐井

          最優秀賞 なし

          優秀賞(五十音順)
           打田峨者ん「余白に献ず」
           亀山鯖男「猿と牛」
           久坂夕爾「山椒魚内閣」
           倉阪鬼一郎「諸国集」
           嵯峨根鈴子「ノン」
           田沼泰彦「あなたがここにいてほしい」
           中嶋憲武「旋律」
           山本敏倖「被写界深度」

          若手推薦賞
           佐藤りえ「七人の妹たち」
           椿屋実梛「待っている」
           牟礼鯨「くひちがふ雲」

          【読み切り】BLOGは永遠か?——S夫妻のこと   筑紫磐井

           現在このBLOGを始め、俳句関係のBLOGが沢山更新されている。しかしこのようなBLOGはどのぐらいつづくのだろうか。人の人生と,BLOGの寿命はどちらが長いのだろうか。

           私の職場の後輩が長いこと(10年以上)がんを患って治療をしていた。家では妻の看護を受け、職場に時々通う生活を送っていた。ほとんど人のいないオフィスで、ひっそりと仕事している彼を見たことが何回かある。
           彼の妻は割と知られたイラストレーターだった。はじめから美術の専門家だったわけではなく、趣味が嵩じてプロとなったらしい。宝くじの背景の図案を描いていたから、その絵は多くの人がかつて見たことがあるはずであり、何枚かは今でも記憶に残っているはずだ。メルヘンティックな絵であり、確かに宝くじにはふさわしい夢のある図案であった。
           夫の看護を続けながら、その妻が2005年からホームページを始めた。
           直後不調を自覚し、やがて6か月後に妻に小腸がんが発見され、ホームページにそれは掲載された。
           以後身辺をホームページに記載し続けた。二人に子供は無かったので、ペットと絵と病気の話題が多かった。
           余命は1年と宣告されていたが、2006年、2007年、2008年と記事はつづいた。
           最後の記事は2008年12月23日、イラストレーターらしく、例年クリスマスには自分の描いた画を掲載していたが、その時はそれも難しくなっていたらしく、旧作を掲げて謝っていた。それが最後の記事になった。
           妻の死後、夫(つまり私の後輩)が、その後の妻のようすを1か月分記録している。
           年明けと共に食欲もなくなり、外出も出来なくなり、歩くのも不自由になり、意識も薄れて行ったそうだく。
           病院でみまかることは望まないだろうという妻の意向を夫が推測し、最後まで自宅で看取った。
           そして2009年1月のある朝、妻の寝息が消えかけているのに気づいた。脈もほとんど途絶えていた。
           当初の余命予測に比較して、3年近く生き延びたことになるのは、自分もがん患者である夫の看取りがあったからだろう。BLOGから、妻の没後の夫のなまの言葉を転載する。

           「このブログを開いた直後に、10万人に一人という小腸がんにかかっていることがわかりました。
           しかし、妻は、このブログをやめることなく、3年余りの治療生活の間、作品の発表を続けるとともに、各記事のコメント欄をお読みいただければおわかりのように、多くのブログ仲間と親交を深め、交流の輪を広げていきました。
           このブログを通じて、ブログ仲間に支えることにより、治療生活が続けられたというほうが正確でしょう。」


           2009年秋、夫が中心となり遺作展をギャラリー日比谷で開催した。画集は闘病中に刊行したが、未だ個展を開いたことがなく開きたかったという妻の遺志に沿うものであった。1000人近い入館者があり好評であった。
           この遺作展の好評を受けて、夫は、2010年秋に、第2回の展覧会(友人との「三人展」)を開催準備することとした。
           準備は順調に進んだが、途中体調不調を訴え入院し、展覧会の開催1か月前に、夫はがんで死亡した。
           2010年秋、仲間たちにより第2回の展覧会が開催された。
           夫の亡くなる直前の日記を転載する。

           「ちちなみに、現在のところ、ほぼ外見上は「元気」です。
           さすがに筋力は低下していますが・・・
           ということで、「わざわざ」お見舞いにきていただく必要はありません。恐縮してしまって、若干、迷惑な感じすら覚えそうです。
           ちなみに、がんという病気の場合、症状が出始めるのが最後の数ヶ月前で、最後の一月ないし半月で急速に悪化するというのがほとんどですので、いま「元気」なのは当然ですが。
           病室にパソコンなどを持ち込んで、三人展関係や、死後の後始末の準備(本人しか頼れそうにありませんので)をしていますので、入院患者としては、忙しいのですが、やはり「暇」はかなりありますし、たまには気分転換に看護師さん以外の「顔」を見るのも悪くはありません。
           ということで、「近くにきたついで」ということならば歓迎します。ただし、面会時間は午後7時までですから、会社帰りは無理でしょう。」


           妻のホームページの日記をみると、最後まで淡々とした生活が描かれている。
           最後の数年は、夫は妻のためにあったようである。
           まわりに迷惑をかけることもなく、周囲の友人たちもこの夫婦を温かく見守っていた。
           未だに妻のホームページの日記は見られるし、別のページでは展覧会の準備をしている夫の記録も見られた(ホームページに夫ははじめ興味がなかったようだが、妻の死後、妻のホームページを更新したり、自分でも始めたりしている)。
           今年、その夫の7回目の命日を迎えた。
           彼の名前は、もう職場でも忘れられかけているが、ホームページだけは妻の死後8年間ものこり、彼女の作品を燦然と輝かせている。

          (妻のホームページは現在も開かれている。のみならず様々な彼女の作品も眺めることが出来る。しかし余り広く公開する性格のものではないような気がする。もし、関心のある人がいればURLをお知らせするので私までご連絡願いたい)

          【新連載】前衛から見た子規の覚書(7)いかに子規は子規となったか⑥/筑紫磐井

          【漢詩・短歌・俳句・漢文・擬古文・雑文】
          子規は自らの作品を記録をするだけでなく、それらを何回も整理編纂して選集・全集にすることに異常に執着していた。たとえば一番早いのが、松山を去る直前の明治15年に「自笑文集」を作成しているが、これは明治11~12年の小学校在学中の作文27編に教師の評語を付けて写している。
          こうした自作の編纂は、おそらく予科時代にその体系を完成させたものであるらしい。子規のエッセイ「筆まかせ」(明治17年から23年までの執筆した雑文をまとめたもの)の明治22年の記事「自著」で、筐底の反古を取り出し分類し年を追って1冊づつにしてみたと述べている。子規はこれを、①「詩稿」②「水蛙花鶯」③「寒山落木」④「文稿」⑤「枯れ野」⑥「無花果草紙」と名付けたという。現在残っている子規の稿本と比較してみると興味深い。

          ①「漢詩稿」秋風落日舎主人(子規)編の漢詩集.(明治11年~29年):「青苔黄葉」の題あり
          ②「竹乃里歌」竹の里人(子規)編の歌集(明治15~35年)
          ③「寒山落木」獺祭書屋主人(子規)編の句集(明治18~29年。浄書以前の俳句が「俳句稿(明治31~34年)」として残っている) 
          ④「文稿(3,4のみ)」漢文集(明治14~22年の松山中学在学中の中学校の作文と明新社会稿、共立学校、東京大学予備門の課題作文)
          ⑥「無花果草紙」雑文集(明治15年~24年の松山中学から文科大学までの雑文記録。同種の文集を子規は「手つくりの菜」(明治17年~26年)としても編纂しているが、別に分けた理由は分からない。「筆まかせ」自身もこの系列と考えることが出来るし、さらに晩年の『松露玉液』『墨汁一滴』『病床六尺』『仰臥漫録』へとも続くものであろう)

          ほとんどすべてが符合している。少し付け加えれば、おそらく「自著」に書いてある「水蛙花鶯」はその後名称を変えて「竹乃里歌」となったものと考えられる。⑤「枯れ野」だけはその行方も分からないが、本科時代に子規の執筆した「(無可有洲)七草集」が参考となるだろう。これは後述するように七つの文体をかき分けた超絶技巧的エッセイであるから、ここにあって列記されてないものは何かを推測すると見当がつくわけで、どうやらそれは擬古文集である可能性が高い、「枯れ野」という標題も擬古文集にふさわしいようである。実際子規は、擬古文が得意であり、日本新聞に入社したあとも紀行文のかたちで膨大な擬古文を書いている。やがてこれらは、子規自身によって擬古文を否定し写生文を提唱することにより子規の文学形式の大きな流れとなっていく。
          このように予科時代において自分の過去の作品を分析分類し鳥瞰した結果を、子規は生涯を掛けて設計図通りに進めていったことが分かるのである。

          最後に予科時代の子規の交友に触れておく。興味深いのは子規とその友人たちが行った人物評である。松山出身の24人を評した「郷党人物月旦評論」(17年11月)がそれであり、予備門の友人たち7人を評した「七変人評論」(19年1月)もそうである。これらは共同で作成し、回覧雑誌のように回覧してメンバーの閲覧に供したものである。やがて、「筆まかせ」の「交際」(明治22年)でその決定版と言うべき一覧ができあがっている。

          【解説】
          何故こんなことを縷々と書いているかと言えば、子規はこの時点で誰にも似ていないからである。子規の目の前には漢詩・短歌・俳句・漢文・擬古文・雑文が等しく並んでいた。決して俳人子規としては存在していないのである。未だ子規は、漢詩・短歌・漢文・擬古文・雑文と決別していない。俳句とも親炙していない。未分化の子規がいるばかりなのだ。
          それは、その時点で建築家の道や、哲学者の道を歩むかもしれなかった漱石と同様なのである。