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2017年10月27日金曜日
【新連載】前衛から見た子規の覚書(4)いかに子規は子規となったか③/筑紫磐井
●【誕生と親族】
正岡子規は本名常規(つねのり、幼名処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改めた)といい、慶応3年(1867年)9月17日(太陽暦で10月14日)伊予温泉郡藤原新町で誕生した。明治の元号年数が子規の満年齢と合致するので分かりやすい。
父は常尚(隼太)といい、松山藩の御馬廻加番であり、士分としては中程度の身分であったが、明治5年大酒が原因で38歳で死去した。
母は八重といい、明教館教授大原観山の長女であった。長命を保ち昭和2年に82歳で死去している。
子規には当時には珍しく同胞(きょうだい)が一人しかおらず、3歳年下の妹で律といった。子規の生涯と切っても切れない女性である。明治22年に結婚しまもなく離婚して家に戻ったが、子規が日本新聞入社後は母とともに東京に移転し、発病した子規を看護した。子規没後、共立職業学校に学び、後同校教員も勤めたキャリアウーマンであった。子規没後は正岡家の戸主となり、(伯父)拓川の三男忠三郎を養子に迎え正岡家をよく守った。昭和16年に71歳で死去している。
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子規の生涯には、子規の才能以上に親族が大きな影響を与えている。現代の日本と違った家族・親族環境を知らないと子規の伝記は十分理解できない。父を失ったあとの親代わり、交友や勉学、東京に遊学するきっかけ、子規の活動の場である日本新聞への就職などは何らかの意味でその一族の存在を無視できない。
子規の親族関係については、父方の実家は影が薄く、記録も余り残っていない。母方の実家こそが子規にとっては欠かせない役割を果たしてくれた。
まず祖父(つまり母八重の父)は大原有恒(観山)といい、藩校明教館の教授であり、後に子規に最初の漢学の手ほどきをした人物である。明治8年57歳で死去している。
観山の息子たち、母八重の兄には、次男恒徳(五十二銀行役員)、三男恒忠(祖父の加藤家を嗣ぐ、拓川と号す。外交官となり、ベルギー公使、衆議院議員、松山市長などを歴任し、大正12年に64歳で死去した。)、四男恒元(祖母の岡村家を嗣ぐ)がいたし、娘たち、母八重の妹には、次女十重(藤野漸に嫁す。藤野潔(子規の親友であり、古白と号す)の母))などがいた。この伯父伯母の果たした役割には後に詳しく述べることとなる。
[観山の妻、子規の祖母であるしげの甥に若き時代の親友三並良もいた。]
●【小学校入学と回覧雑誌】
当時の学制に従い、明治7年に末広(のち智環)学校に入学、後に勝山小学校に転校した。近代的な小学校制度の中で子規がどのようなものを得たのかは不明だ(子規が残した課題文章から彼の文学的素養が紡がれた可能性は否定できない)が、むしろ当時の明治人の学問素養は漢学によって得られていたことを忘れてはならない。子規も、小学校時代、祖父大原観山に漢学を習い、観山没後(明治8年)は同じ明教館で助教授をしていた土屋久明に引き続き素読を習っている。明治11年11歳ですでに漢詩を作っていたのは驚きであるが、この程度は、当時にあっては子規のみが早熟であった訳ではないようである。
子規を聞く
一声 孤月の下
啼血 聞くに堪へず
半夜 空しく枕を欹つ
古郷 万里の雲
最初の詩のテーマが子規つまり「ほととぎす」であり、吐血をした彼の終生のペンネームとなるのは偶然とはいえ興味深い。
しかし、6年生となった明治12年には、当時の中央の新聞を真似た「桜亭雑誌:1,4、5」(週刊)@編輯:桜亭仙人(明治12年5月)、「松山雑誌:3」(月3回刊)、「弁論雑誌:6」(月3回刊?)といった回覧雑誌を次々に発刊しているのは早熟と言ってもおかしくないだろう。「回覧雑誌」とは、活版やガリ版などで大量に印刷して配布する近代のマスプロ的雑誌ではなくて、清書した原本を同人たちに回覧して読ませる方式の雑誌であり、時に回覧者に感想を付け加えさせたりもするような当時の一般的な雑誌購読方式であった。子規にとっては、小学校、中学校に止まらず、東京へ出て大学へ入ってからも回覧雑誌の方式は重要な活動媒体をなしていた。当時の雑誌の内容は、投書作文や論説、雑報、詩歌、書画などで、その文章も文語体や言文一致体などが交じって過渡期らしい文体表現となっている。ちなみに、「桜亭雑誌」は桜亭仙人(正岡家にあった老桜にちなんでつけた子規の別号)が社長・編集長・書記長・発行所を兼ねて発行していることによる。子規の行動力と企画力が優れていたことを想像させるものである。
子規は漢詩を皮切りに、まずジャーナリズムの幼稚園に入学するのである。その頃は、自分が俳句改良の事業を成し遂げるなど思ってもいなかったはずである。その意味でも、これはあらゆる前衛俳人に共通していたはずである。誰も前衛俳句を始めるなど考えてもいなかったはずだからである。
【解説】
いきなり、子規誕生の時点に飛んだのは、前回の連載では少し食い足りなかったので、補足したいと思ったからだ。それは、「子規は何故俳句を選んだか」という疑問である。漢詩・和歌を選ばず、何故俳句を選んだか。
逆にいえば、当初何故、漢詩・和歌に手を出せなかったのかという疑問が湧くからである。連載本文に記した通り、子規の文芸の開始は漢詩であった。やがて短歌にも手を出す。俳句はよほど後だったのである。
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