【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2017年10月27日金曜日

第76号

●更新スケジュール(2017年11月10日)

+++11/10までお申し込みください+++
●「豈」忘年句会・懇親会のご案内 》詳細

第4回攝津幸彦記念賞 》詳細
※※※発表は「豈」「俳句新空間」※※※

各賞発表プレスリリース
豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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平成二十九年 秋興帖

第一(10/27)北川美美・仙田洋子・曾根 毅

【花鳥篇特別版】金原まさ子さん追善
北川美美
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平成二十九年 夏興帖
第八(10/20)北川美美・山本敏倖・佐藤りえ・筑紫磐井・網野月を・池田澄子
第七(10/13)田中葉月・近江文代・飯田冬眞・中村猛虎・小沢麻結・水岩 瞳
第六(10/6)岬光世・依光正樹・依光陽子・大井恒行・早瀬恵子・林雅樹
第五(9/29)木村オサム・青木百舌鳥・小野裕三・小林かんな・神谷 波・下坂速穂
第四(9/22)渡邉美保・渕上信子・五島高資・坂間恒子・前北かおる・辻村麻乃
第三(9/15)椿屋実梛・浅沼 璞・堀本吟・岸本尚毅・石童庵・高橋比呂子
第二(9/8)夏木久・網野月を・花尻万博・ふけとしこ・曾根 毅・加藤知子
第一(9/1)仙田洋子・杉山久子・仲寒蟬・望月士郎・内村恭子・松下カロ


【新連載】
前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
(1)子規の死   》読む
(2)子規言行録・いかに子規は子規となったか①   》読む
(3)いかに子規は子規となったか②   》読む
(4)いかに子規は子規となったか③   》読む


●新シリーズその1
【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む2】「喚起する俳人」…中西亮太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む3】 麒麟の目 …久留島元
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む5】「思ひ出帖」…安里琉太
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む6】きりん …松本てふこ
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む7】西村麒麟「思ひ出帳」を読む …宮本佳世乃
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
        ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む11】西村麒麟を私は知らない …原英
【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと …福田若之  》読む


●新シリーズその2
【平成俳壇アンケート】
間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
【平成俳壇アンケート 回答14】 浅沼 璞》読む
【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
【平成俳壇アンケート 回答16】 西村麒麟》読む


【抜粋】
<「俳句四季」11月号> 
俳壇観測178/二十四節気が世界遺産になった!――「俳句」に先がけて「二十四節気」が無形文化遺産に登録
筑紫磐井 》読む


  • 「俳誌要覧2016」「俳句四季」 の抜粋記事  》見てみる



【広告】
月刊「俳句界」12月号特集「あなたが選ぶ平成の名句」(仮)  》読む


<WEP俳句通信>




およそ日刊俳句空間  》読む
    …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
    • 10月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

      俳句空間」を読む  》読む   
      …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
       好評‼大井恒行の日々彼是  》読む 




      あとがき(筑紫磐井)  》読む



      冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
      No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
      桜色のNo.7


      筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

      実業広報社






      題字 金子兜太

      • 存在者 金子兜太
      • 黒田杏子=編著
      • 特別CD付 
      • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
      第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
       青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
       兜太の社会性  筑紫磐井

      ●「豈」忘年句会・懇親会のご案内



      恒例の、「豈」忘年句会・懇親会を下記のとおり開きます。
      豈以外の方の参加も歓迎です。
      参加の方は、11月10日(金)まで、筑紫ないし大井迄ご連絡ください。
      近傍には、大國魂神社があり吟行にはうってつけです。

      ・日時:11月25日(土)午後2時〜午後7時半
      ・場所:府中グリーンプラザ集会所(地下1階)
      http://www.fuchu-cpf.or.jp/green/
      ・作品:雑詠2句持参
      ・会費:句会 1000円(14時〜17時)
          懇親会 4000円(17時〜19時)

      【新連載】前衛から見た子規の覚書(4)いかに子規は子規となったか③/筑紫磐井



      ●【誕生と親族】
       正岡子規は本名常規(つねのり、幼名処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)と改めた)といい、慶応3年(1867年)9月17日(太陽暦で10月14日)伊予温泉郡藤原新町で誕生した。明治の元号年数が子規の満年齢と合致するので分かりやすい。
       父は常尚(隼太)といい、松山藩の御馬廻加番であり、士分としては中程度の身分であったが、明治5年大酒が原因で38歳で死去した。
       母は八重といい、明教館教授大原観山の長女であった。長命を保ち昭和2年に82歳で死去している。
       子規には当時には珍しく同胞(きょうだい)が一人しかおらず、3歳年下の妹で律といった。子規の生涯と切っても切れない女性である。明治22年に結婚しまもなく離婚して家に戻ったが、子規が日本新聞入社後は母とともに東京に移転し、発病した子規を看護した。子規没後、共立職業学校に学び、後同校教員も勤めたキャリアウーマンであった。子規没後は正岡家の戸主となり、(伯父)拓川の三男忠三郎を養子に迎え正岡家をよく守った。昭和16年に71歳で死去している。
           *     *
       子規の生涯には、子規の才能以上に親族が大きな影響を与えている。現代の日本と違った家族・親族環境を知らないと子規の伝記は十分理解できない。父を失ったあとの親代わり、交友や勉学、東京に遊学するきっかけ、子規の活動の場である日本新聞への就職などは何らかの意味でその一族の存在を無視できない。
       子規の親族関係については、父方の実家は影が薄く、記録も余り残っていない。母方の実家こそが子規にとっては欠かせない役割を果たしてくれた。
       まず祖父(つまり母八重の父)は大原有恒(観山)といい、藩校明教館の教授であり、後に子規に最初の漢学の手ほどきをした人物である。明治8年57歳で死去している。
       観山の息子たち、母八重の兄には、次男恒徳(五十二銀行役員)、三男恒忠(祖父の加藤家を嗣ぐ、拓川と号す。外交官となり、ベルギー公使、衆議院議員、松山市長などを歴任し、大正12年に64歳で死去した。)、四男恒元(祖母の岡村家を嗣ぐ)がいたし、娘たち、母八重の妹には、次女十重(藤野漸に嫁す。藤野潔(子規の親友であり、古白と号す)の母))などがいた。この伯父伯母の果たした役割には後に詳しく述べることとなる。
      [観山の妻、子規の祖母であるしげの甥に若き時代の親友三並良もいた。]

      ●【小学校入学と回覧雑誌】
       当時の学制に従い、明治7年に末広(のち智環)学校に入学、後に勝山小学校に転校した。近代的な小学校制度の中で子規がどのようなものを得たのかは不明だ(子規が残した課題文章から彼の文学的素養が紡がれた可能性は否定できない)が、むしろ当時の明治人の学問素養は漢学によって得られていたことを忘れてはならない。子規も、小学校時代、祖父大原観山に漢学を習い、観山没後(明治8年)は同じ明教館で助教授をしていた土屋久明に引き続き素読を習っている。明治11年11歳ですでに漢詩を作っていたのは驚きであるが、この程度は、当時にあっては子規のみが早熟であった訳ではないようである。

        子規を聞く
      一声 孤月の下 
      啼血 聞くに堪へず
      半夜 空しく枕を欹つ
      古郷 万里の雲


       最初の詩のテーマが子規つまり「ほととぎす」であり、吐血をした彼の終生のペンネームとなるのは偶然とはいえ興味深い。
       しかし、6年生となった明治12年には、当時の中央の新聞を真似た「桜亭雑誌:1,4、5」(週刊)@編輯:桜亭仙人(明治12年5月)、「松山雑誌:3」(月3回刊)、「弁論雑誌:6」(月3回刊?)といった回覧雑誌を次々に発刊しているのは早熟と言ってもおかしくないだろう。「回覧雑誌」とは、活版やガリ版などで大量に印刷して配布する近代のマスプロ的雑誌ではなくて、清書した原本を同人たちに回覧して読ませる方式の雑誌であり、時に回覧者に感想を付け加えさせたりもするような当時の一般的な雑誌購読方式であった。子規にとっては、小学校、中学校に止まらず、東京へ出て大学へ入ってからも回覧雑誌の方式は重要な活動媒体をなしていた。当時の雑誌の内容は、投書作文や論説、雑報、詩歌、書画などで、その文章も文語体や言文一致体などが交じって過渡期らしい文体表現となっている。ちなみに、「桜亭雑誌」は桜亭仙人(正岡家にあった老桜にちなんでつけた子規の別号)が社長・編集長・書記長・発行所を兼ねて発行していることによる。子規の行動力と企画力が優れていたことを想像させるものである。
       子規は漢詩を皮切りに、まずジャーナリズムの幼稚園に入学するのである。その頃は、自分が俳句改良の事業を成し遂げるなど思ってもいなかったはずである。その意味でも、これはあらゆる前衛俳人に共通していたはずである。誰も前衛俳句を始めるなど考えてもいなかったはずだからである。

      【解説】
       いきなり、子規誕生の時点に飛んだのは、前回の連載では少し食い足りなかったので、補足したいと思ったからだ。それは、「子規は何故俳句を選んだか」という疑問である。漢詩・和歌を選ばず、何故俳句を選んだか。
       逆にいえば、当初何故、漢詩・和歌に手を出せなかったのかという疑問が湧くからである。連載本文に記した通り、子規の文芸の開始は漢詩であった。やがて短歌にも手を出す。俳句はよほど後だったのである。

      【抜粋】〈「俳句四季」11月号〉俳壇観測178/二十四節気が世界遺産になった! ――「俳句」に先がけて「二十四節気」が無形文化遺産に登録/筑紫磐井



      世界遺産とは何か
       俳人にとって重要であるが、余り知られていないニュースを紹介しよう。
       旧暦の時代から使われ、季語としても俳人に馴染みの深い「二十四節気」(「立春」や「啓蟄」、「秋分」など)がUNESCOの世界遺産となった。二十四節気は伝統的な歳時記の基準となっているものであり、これがなければ歳時記は成り立たない。春は、「立春」から始まり、秋は「立秋」から始まるのだ。こうしたローカルと思っていたものが世界遺産となるのだから一寸した驚きだ。
       もちろん世界遺産といっても幾つか種類があり、「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づく世界遺産(world heritage)と、「無形文化遺産の保護に関する条約」に基づく無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage)であるが、今回の場合は後者に当たる。これは、民族文化財、フォークロア、口承伝統などの無形文化財を保護対象とした事業の一つである。有馬朗人氏が熱心に推進している「俳句を世界遺産に」もこれに当たる(これについては、「鬣」八月号、「俳句界」九月号が特集を行っているので参照されたい)。
       そもそも「二十四節気」が最近話題となったのは、二〇一一年に日本気象協会小林堅吾理事長が「二十四節気は、古代中国で成立したものであり、現代の日本の季節感に合致しない」という理由で新しい二十四節気を協会が制定したいという意向を表明したことによる。協会はこのため「日本版二十四節気委員会」(暦の会会長岡田芳朗、俳人長谷川櫂氏らが委員)を設置し、検討準備したが、片山由美子、本井英、櫂未知子、筑紫らによる反対が唱えられ、毎日新聞によれば、「一般からも電話がかかるなど批判が殺到」(二〇一二年九月二七日)した結果、この提案は撤回された(経緯は拙著『季語は生きている』第三部「二十四節気論争」に詳しい)。
       もし、日本気象協会の「日本版二十四節気」ができあがっていたら、いまごろ国際的にも日本はかなり恥ずかしい思いをしたのではないかと思われる。

      無形文化遺産・二十四節気の思想
       どのような経緯で、二十四節気が世界遺産になったのだろうか。この登録の主体は中華人民共和国である。これは致し方ないかもしれない。永年にわたる準備行為があったらしいが、政府間委員会決定(二〇一六年一一月二八日~一二月二日会合11.COM 10.B.6。)で「二十四節気:太陽の年間活動の観測により開発された時間と実践に関する中国の知識(The Twenty-Four Solar Terms, knowledge in China of time and practices developed through observation of the sun’s annual motion)」が登録となった(すべてを含め「代表一覧表」と呼ぶ)。
       何分詳細は分からないが、「日本版二十四節気」に反対した俳人側として、この経緯を眺めてみると、反省すべき点もいくつかある。
       一つは彼らの主張に、「グレゴリオ暦に統合されたことで、それはコミュニティによって広く使われ、中国の多くの民族によって共有されている」「様々な機能は、無形文化遺産の一形態としての生存能力を高め、コミュニティの文化的アイデンティティーへの貢献を維持している。これら知識は、公式および非公式の教育手段を通じて伝えられる」と述べていることである。単に古いから残すというものでなくて、近・現代の技術と融合させ、それが国民に浸透して行く必要があるというのは、「伝統」が生き残る必須要件であるように思う。さらにこの登録は、「日本版二十四節気」の主張が一財団法人である日本気象協会が提案したのと違い、中華人民共和国文化省、中国無形文化遺産保護センター、中国農業博物館の支援があった。特に農業部門の存在が大きいようだ。
       また、その歴史的・思想的な扱いについても配慮が払われ、「人々の思考や行動規範に深く影響を与え、中国の文化的アイデンティティと結束の重要な担い手である伝統的な中国の暦の一部である。中国社会の持続可能な農業発展と調和のとれた全体的な成長を保証するために、日常生活と共同祝賀行事の時間枠を提供するため、中国人の社会的文化的生活に欠かせない役割を果たす。」と述べているのは深く考えさせられる。反対の運動をしていたときも、ここまでの文化的浸透度を考えていたかどうかはやや心許ない。
       (下略)

      ※詳しくは「俳句四季」11月号をご覧ください。


      2017年10月6日金曜日

      第75号

      ●更新スケジュール(2017年10月27日)

      二十八年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞‼
      恩田侑布子句集『夢洗ひ』

      第4回攝津幸彦記念賞 》詳細
      ※※※発表は「豈」「俳句新空間」※※※

      各賞発表プレスリリース
      豈59号 第3回攝津幸彦記念賞 全受賞作品収録 購入は邑書林まで



      平成二十九年 俳句帖毎金00:00更新予定) 
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      平成二十九年 夏興帖

      第八(10/20)北川美美・山本敏倖・佐藤りえ・筑紫磐井・網野月を・池田澄子
      第七(10/13)田中葉月・近江文代・飯田冬眞・中村猛虎・小沢麻結・水岩 瞳
      第六(10/6)岬光世・依光正樹・依光陽子・大井恒行・早瀬恵子・林雅樹
      第五(9/29)木村オサム・青木百舌鳥・小野裕三・小林かんな・神谷 波・下坂速穂
      第四(9/22)渡邉美保・渕上信子・五島高資・坂間恒子・前北かおる・辻村麻乃
      第三(9/15)椿屋実梛・浅沼 璞・堀本吟・岸本尚毅・石童庵・高橋比呂子
      第二(9/8)夏木久・網野月を・花尻万博・ふけとしこ・曾根 毅・加藤知子
      第一(9/1)仙田洋子・杉山久子・仲寒蟬・望月士郎・内村恭子・松下カロ


      【花鳥篇特別版】金原まさ子さん追善
      秦夕美・佐藤りえ・筑紫磐井
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      【新連載】
      前衛から見た子規の覚書  筑紫磐井 
      (1)子規の死   》読む
      (2)子規言行録   》読む
      (3)続・子規言行録   》読む


      ●新シリーズその1
      【西村麒麟特集】北斗賞受賞記念!
      受賞作150句について多角的鑑賞を試みる企画
      西村麒麟・北斗賞受賞作を読む インデックス  》読む
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む0】 序にかえて …筑紫磐井
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む1】 北斗賞150句 …大塚凱
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む4】「屈折を求める」…宮﨑莉々香
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      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】火花よりも柿の葉寿司を開きたし
              ―北斗賞受賞作「思ひ出帳」評 …青木亮人
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む9】見えてくること、走らされること …田島健一
      【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む10】天地併呑 …橋本直
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      ●新シリーズその2
      【平成俳壇アンケート】
      間もなく終焉を迎える平成俳句について考える企画
      【平成俳壇アンケート 回答1】 筑紫磐井 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答2・3】 島田牙城・北川美美 …》読む
      【平成俳壇アンケート 回答4・5】 大井恒行・小野裕三》読む
      【平成俳壇アンケート 回答6・7・8】 花尻万博・松下カロ・仲寒蟬》読む
      【平成俳壇アンケート 回答9・10・11】 高橋修宏・山本敏倖・中山奈々》読む
      【平成俳壇アンケート 回答12】 堀本吟》読む
      【平成俳壇アンケート 回答13】 五島高資》読む
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      【平成俳壇アンケート 回答15】 小沢麻結》読む
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      【抜粋】
      <「俳句四季」10月号> 
      俳壇観測177/隠された芭蕉のこころを探る  ――矢島渚男と高浜虚子は芭蕉をどう読む
      筑紫磐井 》読む


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      およそ日刊俳句空間  》読む
        …(今までの執筆者)竹岡一郎・青山茂根・今泉礼奈・佐藤りえ・依光陽子・黒岩徳将・仮屋賢一・北川美美・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々 … 
        • 9月の執筆者 (柳本々々・渡邉美保) 

          俳句空間」を読む  》読む   
          …(主な執筆者)小野裕三・もてきまり・大塚凱・網野月を・前北かおる・東影喜子
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          冊子「俳句新空間 No.7 」発売中!
          No.7より邑書林にて取扱開始いたしました。
          桜色のNo.7


          筑紫磐井 新刊『季語は生きている』発売中!

          実業広報社






          題字 金子兜太

          • 存在者 金子兜太
          • 黒田杏子=編著
          • 特別CD付 
          • 書籍詳細はこちら (藤原書店)
          第5章 昭和を俳句と共に生きてきた
           青春の兜太――「成層圏」の師と仲間たち  坂本宮尾
           兜太の社会性  筑紫磐井


          【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む12】金沢のこと菊のこと  福田若之



          バフィ: あんたはうちらが置かれている状況を何だと思ってるの、ホラー映画にでも出てるつもり?
          一同: アハハハ……!
          シンディ: マジそれ。で、もしそうだったらさ、あたしの役にはジェニファー・ラブ・「デカパイHuge-tits」みたいなバカがキャスティングされるんだろうねきっと。
          グレッグ: そうそう。俺たちの役はみんな、二十代後半とか、三十代前半の奴らが演らされる。 一同: アハハハハハ……!
          (キーネン・アイヴォリー・ウェイアンズ監督、『最終絶叫計画』、アメリカ、2000年。文中の「デカパイHuge-tits」は、1997年に28歳で『ラストサマー』の主役の女子高生を演じたジェニファー・ラブ・ヒューイットJennifer Love Hewittのファミリー・ネームのもじり)

          と、まあ、こんなふうにホラー映画のパロディ映画の主人公である彼らは笑ってみせるけれど、実際、二十代の後半から三十代の前半にあたるひとびとにあっては、自らの学生時代の思い出の情景が、若づくりした自分たちのいまさらの演技を撮った映画のようにして思い出されてしまうことがないだろうか。

          西村麒麟『思ひ出帳』は、そのタイトルどおり、ひとつの思い出から始まる。

          月下美人学生服のまま見たり

          学生服という記号は、「たり」という過去の助動詞のはたらきによって、即座に思い出として理解される。見たことの思い出。「学生服のまま」という表現には、まるで、もはや学生ではなくなってしまった自分が、そのままの身体で学生時代の思い出のなかへ入ってその当時の自分を演じているかのような不思議さがある。あのころ、自分はまだ学生服を着ていた。学生服のままだった。いま、自分はそれを思い返して、あのころの学生服のまま、いまのこの身体で、もういちどあの月下美人を見てしまったかのようだ。自分は過去の自分を見ている。と同時に、過去の自分として、見られている。こうして、はじまりの一句が作品全体のテーマを導き出す。この作品においては、見ることや見られることがくりかえし意識されるのだ。そのこと自体は、すでに大塚凱「北斗賞 150句」久留島元「麒麟の目」において指摘されていることではあるが、後述するように、僕としては、これを時間の問題に結びつけて考えてみたいと思うのである。

          それに先立って、まずは、見られるほうの側からいくつかの句を見ておこう。

          喘息の我を見てゐる竹夫人

          文鳥に覗かれてゐる花疲れ

          こんなふうに、「我」は竹夫人に見られたり、文鳥に覗かれたりする。あらぬものに見られるという感じが、思い出の印象を鮮明なものにしているのだろう。だが、見られるということがはっきりと言われるのは、実のところ、「我」についてではない。

          角隠し松の手入に見られつつ

          角隠しということは、婚姻の場面だろう。式が執りおこなわれているその神社の境内で、庭師が、松の手入れの仕事のさなかに、自分とは縁のない花嫁のことを見ているのだろうか。すでに引用した「思ひ出帳」のはじまりの句で、見られていたのは月下美人の花だった。その名は、やはり女性を思わせる。男性的な主体が女性的な客体に一方的な視線を注ぐという典型的な構図は、この「思ひ出帳」においてもやはりある程度まで機能しているといわざるをえない。だが、この典型的な構図に混乱を引き起こす一句が、すでに引用した竹夫人の句なのだった。そこでは、ひとがものを見るという構図が転覆されると同時に、視線をめぐる男性と女性の典型的な主客関係が逆転されているのである。

          それでは、見ることに話を移そう。しかし、見ることは、すでに大塚凱がそのことを指摘しているとおり、この「思ひ出帳」にあっては必ずしも意図的なことではない。

          日射病畝だけ見えてゐたりけり

          冬の日や東寺がいつも端に見え

          火が見えてそこに主や花の寺

          これらの句において起こっていること、それは、見えてから、自分がそれを見ていたことに気づくということだ。要するに、ここには見えることに対する気づくことの遅れがある。だから、見ることは時間的なことがらなのだ。したがって、それは同時に暇というものにも関わっている。

          盆棚の桃をうすうす見てゐたり

          帰省先の盆棚だろうか、そこに供えられた桃を、うすうす見ている。この暇そのものに、見ることは関わっているのである。

          あやめ咲く和服の人と沼を見て

          秋風や一日湖を好きに見て

          和服の人と見る沼と、ひとりで見る湖との違いは、結局のところ、それを「好きに」見ることができるかどうかなのだろう。視覚の自由は、一日という時間をどうするかの自由にそのまま関わっているのだ。次の句において春の日が詠嘆されるのは、鯉を見ることによってそれが謳歌されているからなのだろう。

          春の日や古木の如き鯉を見て

          見られるものとしての鯉は、この一句のなかで、古木のように年老いる。それは、次の句に描かれているように、見る主体にあっても同じことだ。

          蟷螂枯る草木の露を見上げつつ

          草木の露を見上げながら、蟷螂はそのうちに枯れてしまう。露というモチーフが伝統的なものとして想起させるはかなさもまた、この枯れのイメージと無縁ではないのだろう。この「思ひ出帳」において、見ることは、はかないもののはかなさを見てしまうことであり、そのはかなさのなかで自ら衰えていくことでもあるのだ。ふたたび月下美人の花を思い起こそう。それは、夕暮れにひらき、夜明けにはしぼんでしまうはかない花である。書き手は、そうした花のはかなさを、「学生服のまま」というあの回想のさなかにおいて、自らのものとして引き受ける。竹夫人の句における見る主体と見られる客体の反転によって引き起こされた混乱は、実に、このことに関わっている。そのようにして、見ることは、自らの過去がすでに過去であるということの確認に、そのまま通じているのである。

          だが、それだけだろうか。違うのだ。「思ひ出帳」において、見ることの時間的なひろがりは、はかなさの自覚とともに、ある不気味な錯覚をもたらすものとして捉えられている。たとえば、次の二句を見てみよう。

          秋の昼石が山河に見えるまで

          天牛の巨大に見えてきて離す

          そう、見ることは対象が巨大化する錯覚を引き起こすのだ。そして、大きすぎる対象は、目によってはもはや捉えることが不可能になる。

          目が回るほどに大きな黄菊かな

          大きすぎる対象には、目が回ってしまう。だから、そのあふれんばかりの大きさと色彩をもってそれを捉え、かつ捉えそこねながら、あとは詠嘆するほかはないのである。

          それにしても、ここで視覚を超越するものとして、なぜ菊のことが語られるのだろうか。麒麟は、彼がウェブマガジン『スピカ』誌上に連載している「きりんのへや」の三百回記念の際に、「好きな百句」のうちの一句として、田中裕明の《渚にて金沢のこと菊のこと》を挙げている。金沢という地名は、「思ひ出帳」のなかに二度書きこまれているのだが、それはいずれも、見ることに関わってのことである。

          金沢の雪解け水を見て帰る

          金沢の見るべきは見て燗熱し

          「思ひ出帳」における金沢は、このとおり、実に視覚的な対象として捉えられている。地名に言及しながら見ることを語っている句としては、ほかにも《栃木かな春の焚火を七つ見て》があるが、栃木の名が書かれるのが一度だけであるのに対して金沢は繰り返し言及されており、さらに、「見るべきは見て」という視覚による全容の把握を思わせる叙述があることからも、やはり特別に視覚的な対象として語られていると考えてよいだろう。裕明の句の渚で語られたふたつのことがらが、「思ひ出帳」においては、見ることの可能性とその限界として立ち現れているのである。

          ところで、「金」の一字は、この「思ひ出帳」にあって、「金沢」のほかにはある一語を記すためにしか用いられていない。その一語というのは、「金魚」である。金魚は、まず、次のとおり、見られる対象として立ち現れる。

          妻留守の半日ほどや金魚玉

          ここでも暇が見ることに関わっている。金魚は、まるで妻の不在を埋め合わせるかのように、見られる対象としてそこにいる。

          秋の金魚秋の目高とゐたりけり

          金魚は目高とともにある。目高。その目。見るもの。見られるものと見るものは、ひとつの水のなかで暮らしているのである。

          そして、「思ひ出帳」は次の三句をもって結びとしている。

          少しづつ人を愛する金魚かな

          墓石は金魚の墓に重からん

          金魚死後だらだらとある暑さかな

          いまや、なぜ「思ひ出帳」の結末部分が金魚の死の描写にあてられたのかは明らかだろう。金沢と同様に見られる対象であったはずの金魚は、書き手の見る行為の果てに、少しずつ人を愛するようになって、見る主体と見られる客体の混乱を引き起こすようになる。それと同時に、金魚は、石の山河化や菊の巨大化によって暗示されていた、見ることの限界に到達してしまう。それこそが、膨れあがるはかなさの極限としての計り知れないもの、すなわち、死だったのだ。重たげな墓石は、芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中に金沢で詠んだ《塚も動け我泣声ハ秋の風》を思わせるものでもあるが、それがいまや金魚の姿を隠してしまう。

          こうして、あとには暑さが残るばかりなのだ。見ることの喪のために。したがって、この暑さをただひたすらに詠嘆しつくしながら、言葉をかぎりなく失いながら、ここで「思ひ出帳」は閉じられなければならない。西村麒麟という書き手は、きっと、ここから、この思い出を越えてゆくのだろう。

          【新連載】前衛から見た子規の覚書(3)いかに子規は子規となったか(続・子規言行録) 筑紫磐井



          □新入社員正岡子規君(25~27年)――『子規言行録』古島一念「日本新聞に於ける子規君」より

          ●過激な主張で政府から忌まれていた「日本」はしばしば発行停止を受けていた。主筆の古島一念は直接に時事を批評せず、間接的に批評する方法として時事文芸を採用することができないかと期待していた。すでに「日本」では、「評林」という時事漢詩を国分青厓が、「諷叢」という狂言ふうの文章を中川四明が書いたが、もともと「日本」創刊の日(明治22年2月11日)は文部大臣森有礼が暗殺された日であり、当時「廃刀論者包丁を腹にさし(森は廃刀論の主張者であった)」「有礼が無礼のものにしてやられ」の狂句が投書されて以来古島は短詩型の力を有望と見ており、「譚淵」という欄では時事を諷した俳話を載せたりしていた。古島の思惑は、こうした企画に時事俳句で子規を参加させようというのだった。古島は、子規がまだ日本新聞への入社前、「獺祭書屋俳話」の連載こそしていたものの大学中退しようという文学士に何が出来るかと思っていた。ちょうど九月一日から「日本」がまた発行停止を受け、気の利いた一句がないかと子規に口頭試問してみると、子規は即座に
           君が代も二百十日はあれにけり
          と自作を詠んだ(9月1日はちょうど二百十日であったのだ)。至極感服した古島は解除停止の前日の「大日本」(「日本」の代替紙)の「譚淵」に、この句を取り上げている(無署名)。子規のこの句は、日本新聞という団体の政府に対するメッセージとなっていたのである。
          明治25年12月2日、子規が日本新聞記者としての入社直後の最初の仕事はこの時事俳句であり、「海の藻屑」という文章と俳句であった。これは、直前の11月30日松山市堀江沖で沈没した水雷砲艦「千嶋」(74人溺死)の事件を取り上げたものであった。

          奔浪怒濤の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ舩端なくとつ国の舩に衝き当たるよと見えしが凩に吹き散らされし木の葉一つ渦まく波に隠れて跡無し。軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹に葬り去りし愛国心の価問はまし。

           もののふの河豚に喰はるる哀しさよ

          テーマは古島から与えられたものらしく、同じテーマを青厓は「評林」で、「轟然響発水雷止。帆裂檣摧不可収。」と詠んでいる。
          その後もこうした子規(多くは無署名で)の時事俳句が多く残っている。

          子をなぶり子になぶられて冬籠
          (明治25年、時の議会を侮るもの)
          家もなし水滔々として天の河
          (岐阜の天災)
          金銀の色よ稲妻西東
          (銀貨幣乱相場)
          咲きさうにしながら菊のつぼみかな
          (延引する行政整理)

          さすがに古島もこれが子規の本領であるとは思っていず、こんなことで子規を煩わしたのは気の毒だと反省した。そこで、子規と相談し俳句に代えて川柳を用いることにした。こうして子規以後、足達半顔、藤井紫影、阪井久良伎などに依頼したがうまくゆかず、結局明治36年井上幸一が入社するに及んでやっと人材を確保できた。余談になるが、これが近代俳句の創始者子規と併称される、近代川柳の創始者井上剣花坊の登場であった。
              *
           これも余談となるが、「日本」の編集方針は明治短歌にも少なからぬ影響を与えている。新派短歌は落合直文に始まる。直文の下から、鮎貝槐園、与謝野鉄幹、大町桂月、金子薫園、尾上柴舟らが排出し、やがてアララギと対峙する勢力を構成した。しかし直文がまず世に知られたのは新体詩の方であった。明治21~2年「孝女白菊の歌」や明治22年「於母影」(森鴎外編)ですでに令名が高かった。明治24年以後、日本新聞の古島が後に子規に期待する紀行文を直文や池辺(小中村)義象に書かせて話題を呼んでいた。やがてその直文が、短歌における浅香社を起こしたが、最初に浅香社詠草「野若草」を発表したのは「日本」26年2月11日号であった。この号は「日本」発行記念号付録(日本は明治22年2月11日紀元節の日に創刊)であり、じつは子規もこの時和歌入りの随筆「野のわかくさ」を書いている。やがて古島は、子規に対すると同様、時事短歌を浅香社(直文)にも要請し、これに答えて「馬車(うまくるま)がらすにうつる影見ればかむり(冠)ただせるましら(猿)なりけり(新官人)」「しかご(シカゴ)にもまづおくらまく思ふかなふじの白雪みよし野の花(米国博覧会)」などが発表されている。いずれにしても子規と直文は意外に近いところにいたし、余り関心も持たれない時事作品において活躍もしていたのである。

          ●順序は逆となるが、このように子規入社後の仕事に対する具体的要請は主筆の古島一念が指示したようであり、その主たる内容は上記の時事俳句の他に紀行文があった。新聞「日本」は欧化主義に反対し国文を振興する趣旨でしばしば和歌入りの紀行文を掲載していたところから、子規にも俳句入りの紀行文・身辺文の執筆を期待したものらしい。これはすでに入社前から打診があったようであり、入社前の「かけはしの記」(25年5月)はまさにこうした文章であり、過激な「獺祭書屋俳話」(25年6月~10月)でさえ、連載開始の冒頭はこうした季節の俳句つきの文章であったのである。けっして卑俗な俳諧において論争を起こして貰いたいなどとは期待していなかったのである。日本新聞の社是は、論文と漢詩と和歌であったからである。

          【かけはしの記・冒頭】明治25年5月
          浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も或病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし。腰を屈めての辛苦艱難も世を逃れての自由気儘も固より同じ煩悩の意馬心猿と知らぬが仏の御力をツエにたのみてよろよろと病の足もと覚束なく草鞋の緒も結ひあへでいそぎ都を立ちいでぬ。

           五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉

          知己の諸子はなむけの詩文をたまはる。

           ほととぎすみ山にこもる声ききて木曽のかけはしうちわたるらん 伽羅生

           卯の花を雪と見てこよ木曽の旅 古白
           
           山路をりをり悲しかるべき五月哉 同


          又碧梧桐の文に(以下略)

          【獺祭書屋俳話・第1回(明治25年6月26日)】
               時鳥
           連歌発句及び俳諧発句の題目となりたる生物のなかにて最も多く読みいでられたるものは時鳥なり。此時鳥といふ鳥はいかなる妙音ありけん昔より我国人にもてはやされて万葉集の中に入りたるもの既に百余首にのぼる位なれば其後の歌集にもこれを二なく目出度ものに詠みならはし終には人数を分けて初音の勝負せんとて雲上人の時鳥ききにと出で立てることなど古きものの本に見えたり。されば其余流を受けたる連歌俳諧に此題多きも尤もの訳にて若し古今の発句にて時鳥に関したるものを集めなば恐らくは幾万にもなるべからんと思はるるなり。(中略)
           時鳥に関する古人の発句十数首をあぐれば


            時鳥なかぬ初音ぞめづらしき     一遍上人

            山彦の声より奥や郭公        宗碩

            ほとゝぎす思はぬ波のまがひ哉    宗牧

            鶯の捨子ならなけほとゝぎす     守武

            郭公大竹原をもる月夜        芭蕉

            時鳥時鳥とて寝入りけり       涼菟

            ほとゝぎす啼や湖水のさゝ濁り    丈草

            蜀魄なくや雲雀の十文字       去来

            ほとゝぎす雲踏みはづし踏みはづし  露川

            目には青葉山ほとゝぎす初鰹     素堂

            子規二十九日も月夜かな       蓼太

            川舟やあとへ成たる郭公       士朗

            子規啼て江上数峯青し        道彦

            この雨はのつ引ならし時鳥      一茶


          【解説】
          近代をいつから始まり現代をいつから始まるかは議論があるところである。現代俳句が子規から始まるのか、虚子から始まるのか、いろいろな視点が有り得る。これについてはまた色々議論したいと思うが、しかし、まずは前者の近代は、間違いなく子規から始まると見てよいであろう。
          とすれば、以上から伺えるように近代俳句の創始は「社会性俳句(時事俳句)」であった。政府を非難する俳句であり、より大枠(政治的枠組み)から言えば欧化主義に反対する国粋主義の運動であった。こうしたパッションがなければおよそ文学運動など起こりはしないのである。だから子規の基準は、その後の虚子のように守旧派VS新傾向、あるいは伝統俳句VS社会性俳句・前衛俳句なのではなく、欧化主義VS国粋主義、官憲VS民権なのであった。その意味で間違いなく、子規は金子兜太の血の繋がらない祖父であったと言ってよいであろう。