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2017年7月21日金曜日

【抜粋】〈「俳句四季」8月号〉俳壇観測175/現代俳句協会の創設 ――協会の復興と分裂をたどる  筑紫磐井



協会を創設した世代
現代俳句協会がこの秋で七〇周年を迎える。私なりに協会の活動を中心に戦後俳句史を振り返ってみたいと思う。
昭和二二年九月、現俳協は俳人の生活の安定などの目的で創立された。創設時の会員(いわば原始会員)は次の三八名だった。名簿はよく知られているがこの時の会員の年齢は余り知られていない。見てみると興味深い。

安住敦(40)、有馬登良夫(36)、井本農一(34)、石田波郷(34)、石塚友二(41)、大野林火(43)、加藤楸邨(42)、神田秀夫(34)、川島彷徨子(37)、孝橋謙二(39)、西東三鬼(47)、志摩芳次郎(39)、篠原梵(37)、杉浦正一郎(36)、高屋窓秋(37)、滝春一(46)、富澤赤黄男(45)、中島斌雄(39)、永田耕衣(47)、中村草田男(46)、中村汀女(47)、西島麦南(52)、橋本多佳子(48 )、橋本夢道(44)、日野草城(46)、東京三(46)、平畑静塔(42)、藤田初巳(42)、松本たかし(41)、三谷昭(36)、八木絵馬(37)、山口誓子(46)、山本健吉(40)、横山白虹(48)、渡辺白泉(34)、池内友次郎(41)、栗林一石路(53)、石橋辰之助(38)

壮観な顔ぶれだが、このうち四〇代が21人、三〇代が15人であり、当時の俳句がいかに若かったかが分かる。都市伝説によれば、誓子と草田男の年齢(46歳)で足切りをしたとされている(『現代俳句協会五〇年史』)が、しかし一方で、麦南、一石路のような五〇代もいるし、二三年には後藤夜半(53)さえ入会している。じつは入会資格の実体は、①旧世代の虚子、蛇笏、そして(誓子以外の)4Sを排除し、新興俳句・人間探究派を中心とする、②波郷以下の戦後世代を排除する、の二基準が働いていたと思われる。当時の社会状況であるレッドパージを知れば容易にこれは想像できる。
 創設時の協会の主要な活動は、機関誌「俳句と芸術」の発行(桃蹊書房)、幹事会(代表は、波郷→不死男→登良夫→不死男と推移)、茅舎賞の設定とその選考であったが、二三年こそ活発だったが、二四年からは沈滞化する。例えば桃蹊書房の倒産で「俳句と芸術」は休刊、茅舎賞は三年間中断した。

協会を復興した世代
 こうした停滞の中で、主要幹事たちは入会資格の下限(②)を取り払うことにした。選挙の結果、二七年は16人中3人、二八年は50名中22名が三〇代会員となった(一部年齢不詳者あり)。会員総数一〇〇名のうち三〇代の会員は次の通りとなる(ぎりぎりの能村登四郎、古沢太穂を入れてもいいだろう)。

【二七年入会】角川源義(35)、伊丹三樹彦(32)、沢木欣一(33)[数字は入会時の年齢]
【二八年入会】石原八束(34)、飯田龍太(33)、小寺正三(39)、金子兜太(34)、桂信子(39)、楠本憲吉(31)、香西照雄(36)、小西甚一(38)、佐藤鬼房(34)、島崎千秋(32)、清水基吉(35)、杉山岳陽(39 )、鈴木六林男(34)、田川飛旅子(39)、高島茂(33)、高柳重信(30)、土岐錬太郎(33)、西垣脩(34)、野見山朱鳥(36)、原子公平(34)、目迫秩父(37)、森澄雄(34) 

この名簿を見れば、戦後派世代の陣容がほぼ出揃ったことが分かる。と同時に、二四年~二七年を「沈滞の時代」と呼ぶとすれば、戦後派世代が揃う二八年は現代俳句協会の「復興の時代」といってよかった。
(中略)
    *     *
 既に歴史的事実であるからこれを批判しようとは思わない。世代がそれぞれの論理を持っていることは当然であるからだ。しかし驚くのは、現俳協の創立時が四〇代・三〇代の作家、彼らを脅かす次の後続の世代も三〇代で構成されていたことだ。
 昨年俳句年鑑でこの世代を担当したのでその名簿を眺めてみたが、協会創立世代の年齢(四〇代)の作家は山田耕司、山根真矢、津川絵里子、五島高資、高山れおなといった顔ぶれに当たる。これを狙撃する世代(三〇代)が阪西敦子、大高翔、北大路翼、村上鞆彦、大谷弘至、高柳克弘となるのだろうか(これ以上の世代はパージされていた)。果たして現在の彼らにあんな元気はあるのだろうか。

※詳しくは「俳句四季」8月号をご覧ください。


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