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2017年1月13日金曜日

<抜粋「俳句通信WEP」95号> 三橋敏雄「眞神」考8 ~赤く流れ出む~ …北川美美



(76)鹽気帯び骨の山まで歩きゆくかな ~ (85)秋色や母のみならず前を解く
までの鑑賞。 秋色や~の句鑑賞を全文紹介する。



(85)秋色や母のみならず前を解く


聖母と娼婦の二面性を求める男のファンタジー…諸々のなまめかしい想像を掻き立たせる。しかしこれを母恋いの句、濃艶な句として一括りにしたくはない。それは読むほどに深まっていく状態があるからだ。ただ、おぼろげに恋の句であると思いたい。なぜ深まっていくのかを探りたい。
「雅」と「俗」を文藝の展開区分の旗印とした小西甚一は、領分外としながら、藝術とは何かという問いに、〈有限な人間が「永遠」につながりをつけようとする努力のひとつだ。〉―とし、その「永遠」につらなってゆく行きかたにふたつあると解く。ひとつは「完成」をめざすこと、もうひとつを「無限」にあこがれることとした。前者を「雅」、後者を「俗」として文藝の展開を解く。文学史のどの時代においての区分も、その切込みには揺らぎがない。そして俳諧を次のように解説する。

俳諧とは、その雅と俗にまたがった表現である。(中略)片足を雅に、片足を俗にかけた表現なのである。
『俳句の世界』小西甚一/講談社学術文庫

掲句には「雅」と「俗」のふたつを渡る性質があり、小西式分類からすれば俳諧に相当する原理がある。掲句は一読では、情交がはじまる光景を思わせるが、それは、読者を誘うきっかけであり、その奥には、「見えないこと」―人間の魂、情、言い表すことのできない心象がそこに潜むのではないか。それは、人が「無限」にあこがれる状態だと判断できる。

まず、構造をみてみたい。先行する類似句が三鬼にある。

広島や卵食うとき口開く  西東三鬼

敏雄の掲句、三鬼句ともに、「や」で切れ、句末が終止形。句意は異なるが、作りが同型だ。そして、当たり前の人間の日常動作が、それぞれが「広島」もしくは「秋色」と重なり合うことにより、映像が脳裏に繰り返され、深読みを誘う。とくに敏雄の「前を解く」に人間の心の内側までも解くことを思い、言葉の喚起力に圧巻される。

同じく小西甚一は、「五・七・五」で断ち切られた世界を「叙述しない表現」「無言の表現」と記す。終止形による切れは、まさにその「叙述の否定」と言えるだろう。また藤井貞和の『日本語と時間』は、助動辞の何も付加しない基本形という裸のかたちについて(終止形とは表記していない)、「裸で投げ出された動詞には時制がないことになる。(中略)時制がないとは時制から自由だということでもある。」と記す。「時制から自由だ」という具体例は、エピグラフ的効力と時を構わず読者の心に切り込む自由さが生まれることを思う。エピグラフは確かに時制に捕らわれない終止形が多い。

「秋色」は全体を雅な状態に昇華させ紅葉山を見る雅やかさ、秋という季節の移ろい、素肌が感じる空気感など様々な味わいを醸し出す。「もののあはれ」ともいえる美しさを添えていると言えよう。八田木枯は第二句集『於母影帖』の後記に掲句を引き、〈「秋色」の絶妙さに舌を巻く。〉と絶賛する。

秋の景または気分のことを示す、いささか捉え難い「秋色」ではあるが、具象でいうならば紅葉に見立てた、例えば赤から黄に展開する色とりどりの帯や衣を想起することも可能で、源氏の頃で言う「秋の襲(かさね)」を思うこともできる。「秋色」の「雅」を、「母のみならず前を解く」の「俗」に重ね合わせた、その取り合わせが秀逸といえる。

行きつくところ、「前を解く」という行為は、実は眼では見ることのできない「心を開く」ことを言っているのではないだろうか。具象でありながら極めて観念的だ。無償の愛を捧げてくれるのは母だけではない、と思うことは、やはり「恋」だと勝手に思いたい。

白泉句「われは恋ひきみは晩霞を告げわたる」の鑑賞文中、敏雄は恋の句について次のように書いている。

(前略)いわゆる連句の世界では、さらに遡って連歌の昔から、恋の句は月・花の定座に次いで重んじられた。 
ただし、恋の定義というものはなく、適宜、四季・月・花に絡ませて詠み込むか、または雑(無季)の句として詠んでもよいとされていた。いずれにしろ、言わば伝統的な作法上、恋の句を読むことは俳人にとって欠かさないものであった。にもかかわらず、独立形式とされてからの俳句には、なかなか恋の句が現われにくくなっている。 
(中略)もちろん恋に年齢はないから、青春をすぎての体験的な恋の句の場合はだいぶ事情がちがう。表現形式の生理のちがいによるとでも言っておくよりほかなさそうだが、試しに恋の句を作ってみればわかる。 おおむね体をなさない。だらしなくなってしまうのだ。 
(中略)恋一途のすぐれた句を現成させることは、実にむずかしいのである。 
『鑑賞現代俳句全集 第六巻』渡邊白泉句解説/三橋敏雄



青春をすぎての体験的な恋の句の場合はだいぶ事情がちがう。〉―これを敏雄は実作をもって呈示している。なまめかしい高揚する気分だけでは本当の恋とは言えない。無限に憧れる、永遠なることが恋なのではないか。秀でた恋の句は、断ち切れた形で恋の叙述を否定し続ける。

『眞神』の母の登場する句を再度引いてみる。

母ぐるみ胎児多しや擬砲音  (4)
生みの母を揉む長あそび長夜かな (25)
母を捨て犢鼻褌(たふさぎ)つよくやはらかき (51)
産みどめの母より赤く流れ出む (77)
秋色や母のみならず前を解く (85)
ははそはの母に歯はなく桃の花(94)
大正の母者は傾ぐ片手桶 (114)
夏百夜はだけて白き母の恩(124)

(76)~(84)句を含む鑑賞の全文は、 <WEP俳句通信>95号をご覧ください。



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