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2016年12月9日金曜日

【部分転載】座談会 「震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって」(3) 筑紫磐井



【欠落しているもの――ディスコミュニケーションの可能性】

筑紫:
・・・ちょっと一つコミュニケーションの話で例を挙げたいんですけれども、東大の福島智(さとし)さんてご存知ですか。失明して耳も聞こえないという二重苦の方で東大教授。

司会:いらっしゃいましたね。

筑紫:そういう不自由者の社会について教えられているんですが、最初目が見えなくて、それから耳が聞こえなくなったということなんで、歳取ってから次々手段が奪われていくものですから、コミュニケーションがなくなってしまうとどうなのかというということを講演を依頼して伺ったことがあります。人との会話が成り立たないことというのは、非常に大きなハンディキャップであるけれど、じゃ、そういう中で今の世の中、一見コミュニケーションが溢れているように見えるけど、コミュニケーションって一体何なんですか、とちょっと禅問答みたいですが伺ってみたんです。するとしばらくして言われたんですけど。コミュニケーションとしてラジオを例に取ると、二台のラジオのスイッチ入れて向かい合わせて喋らせておく、これはコミュニケーションじゃないと思います、といわれるのです。

 コミュニケーションの本質は聞くことですから。発信がなくたって聞く姿勢があって受け止めればコミュニケーションのきっかけみたいなのはできるけど、喋りまくっている人同士は、あれはコミュニケーションは成り立っていないと言われるんです。多分そこら中で現在いろいろな情報が出ているものも、発信はしているけど受け取ろうとしてないのならば、発信はあるけれどコミュニケ―ションは存在していないことになります。その時以来できるだけわたしは寡黙になるようにこころがけています(笑)。

筑紫:ただ、一方的に望んで声が聞こえるのを待つ、それもコミュニケーションかもしれない、神の声を待ち望むようにね。ラジオから声が出るか出ないかを一時間に渡って待ち続ける(例えば終戦の玉音放送を)という、そこにも一種のコミュニケーションの本質があると思うんです。だから何も言われなくたって、それで満足する人もいるかもしれないというね。あとは欠落の問題ですけれど、何て言うのかな、俳句は欠落がないことが欠落かなという気もします。欠落のないままにもう永遠に俳句は続いちゃうかもしれない。そこはまさに欠落がないことが大きな問題。

ただ、念のために言うとその代表者が高浜虚子で、虚子が言うんですね。俳人は季題以外にできるだけ関心は持たない。牡丹といったら牡丹を頭に思い浮かべて、牡丹の俳句を作ればよい。もちろんそういう中に少し社会関心があってもよろしいという、牡丹季題の体系を乱さないように作りなさいという指導をやっていて、今の俳人の八割方は多分、そっちのほうと思うんですが。虚子のやり方が正しいとは思えないですけれど、無批判で俳句を作っていくやり方の中に何か今回の震災の反省点が滲み出ていく可能性が、それこそ震災を詠むと言わない震災の詠み方みたいなものが、少しずつあちこちには出ているような気はしますね。短歌・詩の方にすると歯痒いでしょうけれど、もう俳句に許されるというのは、きっとそういうところなんじゃないかなと。


司会:最初に筑紫さんが言われたように、できたものに対してどう読むかということの重要性ですよね。)

加藤:筑紫さんが八割方とおっしゃる、ぼくはその残り二割に期待をかけたいと思うんですけれど。・・・)


筑紫:期待はしたいけど、ちょっとそういうふうに残るかどうかわかりません。たぶん、特に俳句特有のそういう定型の叙し方の中で、今おっしゃられたような意味を辿るような、なぞる行動によって成功しているかどうか。

わたしはちょっと違う意味でヒントになるのかなと思うのは、金子兜太のお弟子さんで亡くなられた阿部完市という人がおりまして。非常にユニークな作家・評論家で、いろんなことを言っているんです。

その一つに俳句の本質を詰めていく場合に、「意味」であってはならない、「意識」だというのです。

窪田空穂の「気分」に近いかも知れない。


要するに、多分今のも五十嵐さんの句は意味の領域なんですけど、それを意識のところまで持っていけば、まさに名句に行くだろうというのは、阿部完市の方法論でした。ただ、それは阿部完市の場合は成功しているんですけどそれほど簡単に万人に向くかは難しいです。

でも、俳人はそれぞれ独自のそういう手法を開発しないといけない。正直言って、虚子以降の俳句で十本の指に入る名句というのは、ほとんど意味がない俳句ですね。

箒木に影といふものありにけり」とかね、これも極めつけの名句なんだけれど説明するのは難しい。意味じゃない。何か俳句独特のそういう技法を個人個人が開発していって、そういう震災俳句だったら震災俳句、戦争俳句だったら戦争の俳句を詠む。

阿部完市が生きていたら、たぶん震災俳句もそういうやり方で詠んでいたと思います。露骨に意味は辿り切れない。残されたのはそういう方法かなと、わたしは思っていますけれど。


【意味と意識  今後への視点】

筑紫:わたしが思うには、十七文字の中で季語と切れ字を入れて、さらに意味と意識を入れてというとそんなに盛りだくさんの中ではたしてどうやればいいのかわからないという気がしているんですよね。

だから何かを犠牲にする。季語を捨てる、定型を捨てる、その中でたとえば阿部さんのように意味は捨てていくしかないでしょうね。意識を捨てちゃって意味だけにすると、俳句と言う言語空間は小さすぎて十七文字の中で作れるのはほとんど限られていますよね、常に問題になる類想句になってしまう。

別の意味でちょっと面白いと思ったのは、角川書店が年鑑の震災俳句特集でいろんな人に依頼して書かれたものの中に、宇多喜代子さんの「かぶとむし地球を損なわずに歩く」という句をあげられている人がいるんですが、これは『記憶』っていう二〇一一年五月刊の句集で、二〇一〇年までの作品なんですよ。だからこの記事を書いた人は、震災が起こる前の宇多さんの句を引き付けて、この東日本大震災に思うという特集で書いちゃっているというのがひとつ。

(広瀬:僕も一番良いのがこの句だと思いました。)

筑紫:これは震災知らないときの。

(広瀬:まさしく予言的ですよね。)


筑紫:そう、そう、そう。鑑賞者はわざと「意味」を取り違えているんです。それともうひとつ面白いなと思ったのは角川俳句年鑑「諸家自選5句」からの抜粋資料。これは江田さんが選ばれたんですね。これを見てわたしも納得したんですけど、実はこれらは全部題詠句集になっていますよね。津波・地震・余震、どんな詩人や歌人が選んでも題詠句で選んでしまうんです。

意識しないで題詠句を選んでしまう、そういう意識構造が俳句を作る場合も、読む場合もあるんです。これが俳句の本質なんじゃないかなと思います。短歌や詩がどうなのかよく分からないんですけれど、ある意味で(題詠を強制する)恐ろしい世界がこういうふうに俳句の場合はあり得るということを理解していただきたいです。

広瀬:やはり、時を経て突出していく句というのは、意識の句が多いのでしょうか。)

筑紫:と思いますね。

広瀬:というのは、やっぱり意義があるところで。)

筑紫:並べてみると分かるんです、「意味」で並べてしまうと同じ句ばかり、類想句になるんですね。「意識」があって初めて飛んだ関係が生まれるのかなという気がします。


(2015年3月22日)



[あとがき]

3回の連載を終るに当たって、少し補足したい。第1回の、私の詠まれてしまった俳句をどう読むか――「沈黙せよ」と「発声せよ」という私のテーゼに共感され、広瀬氏から、短歌の機能には「文芸」と「実用」と「気分」の3つがあると述べられているところから、共感することが多かった。

特に第2回の【言葉から生まれる思想②――詠む以上は作者として傷つくべきだ】に関して、震災俳句をひとつの例においてみると、広瀬氏の語られる詩と私の述べた俳句においてジャンルの違いを意識することはほとんどなかった。以下、私の発言に対して広瀬氏の答えたものを掲げるが、広瀬氏の言いたいこともよく分かったし、私の話したかったことも分かってもらえたように思う。

よく俳句は言葉であるというが、表現はそれぞれのジャンルにおいて異なっても、その言葉の向こうには思想・哲学があるのであり、そのレベルにおいて詩も短歌も俳句も違いはない。こんなのは当たり前のことなのだが、座談会後にむしろかえって俳人に分かってもらえなかったのではないかという苦い思いをしている。


【言葉から生まれる思想②】筑紫Aに対して

広瀬:あえてする必要はないんでしょうけれども、被災者から批判されるような歌を詠うとして、それを受け容れることによって逆に自分たちがどう生きているのかが露出する場合もありますよね。自分たちはこういうところに生きているということを表現することは必要かなと思います。それは別にこの3・11に限ったことではもちろんないんですけれども、人間が生きるということはある意味で非常に残酷なことですよね、社会の仕組みを含めて全てが残酷性に満ちている。そういうところが露出された作品を作った上で、被災者なり誰なりから批判され、それで傷つくのかどうか分かりませんが、創作者がその批判を受け容れるというあり方というのはとても重要であると思いますね。

俳人一人一人が残酷を持っていることに気付けば、花鳥諷詠や社会性の向こうにある意味ももう少し深く理解できるであろう。極楽蜻蛉のような花鳥諷詠や社会性はあり得ないと思う。

【言葉から生まれる思想②】筑紫Cに対して

広瀬:難しいですね、良い悪いではないんでしょうね。個というのが出ましたけども、個として個に対して詠う、あるいは詠む、詩を書くというのは、悪くはないと思うんですよ。ところがこの一連の震災関連の作品を見ていると、よく言われるように一万人という集合体が亡くなったのではなくて、一人の死が一万回起こったのだという視点からの作品というのは、あんまり見当たらないような気がして。一人が一人に対して詠むというときには、トレードオフじゃないですけど、同じレベルの反作用を自分が背負わなきゃいけないという、その覚悟は要ると思います。作品の出来が悪いと冒頭で言いましたけども、それはなぜかと言うと覚悟のある詩がないんじゃないかなと。本当に死にそうな人に対して「あなたの詩を詠むから、俺も覚悟する」というやり取りはないですよね。あるいは書き切れていない。

震災俳句が震災俳句であるがゆえに非難される理由はない。覚悟のある詩でないことが非難となる。しかし、覚悟のない詩を覚悟がないということは、実は、非難ではない。「覚悟のない詩を覚悟がないという」こと自身、それを言う人にも覚悟があるか問い詰めているからである。お前ごときに、そんな非難をする資格があるかが問われるのである。では我々は沈黙すべきであるか。そこで再び冒頭の問題に立ち返る。俳人は、詩人は、「沈黙せよ」と「発声せよ」を一身に引き受けなければならないのである。

【言葉から生まれる思想②】筑紫Dに対して

広瀬:大きい括りで詩の真理というところは、そういうところを備えていると思いますね。それぞれの様式の中で、結局は哲学、思想が後づけでも先付けでもかまわないと思うんですけども、それが形式に見合った言葉で出てくるという。

およそ思想のない詩などはない。退嬰した思想の詩、無自覚な思想の詩、大勢に迎合する思想の詩、(いやことによるとなまじ思想を持つことに)怯える詩があるばかりなのである。


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