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2016年6月24日金曜日

【短詩時評 21だ(よ)】 最果タヒと木下龍也-きみの『夜空はいつでも最高密度の青色だ』から、『きみを嫌いな奴はクズだよ』。-  柳本々々



  ツァラトゥストラは答えた。「人間を愛してるんだ」
  「なんで」と、その森の聖者が言った。
 

(ニーチェ、丘沢静也訳『ツァラトゥストラ(上)』光文社古典新訳文庫、2010年)


  あなたに助けられたから好きというわけでも無いし、あなたが風流人だから好きというのでも無い。ただ、ふっと好きなんだ。
    (太宰治「お伽草紙」1945年)

  私は自分の言葉単体よりも、その人と作り出したたったひとつの完成品を見ていたい。その人が、自分の「かわいい」を見つけ出す、小さなきっかけになりたかった。
  ……
  世界が美しく見えるのは、あなたが美しいからだ。
  そう、断言できる人間でいたい。
 

    (最果タヒ「あとがき」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』リトルモア、2016年)

   立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ  木下龍也 

(木下龍也「僕の身体はきっと君にふれるためだけにある」『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年)


前回は詩歌における〈わたし〉について考えてみたのですが、今回は詩歌における〈きみ〉について考えてみたいと思います。

2016年5月、最果タヒさんの詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトルモア、2016年)と木下龍也さんの歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年)が刊行されました。

実はこの二冊には共通点が少なくとも四つあります。

ひとつは、ブックデザインをどちらも佐々木俊さんが手がけていること。

ふたつめは本のタイトルが『夜空はいつでも最高密度の青色だ』『きみを嫌いな奴はクズだよ』と助詞「は」を活かした主述構造の口語的なセンテンス=文になっていること。

みっつめは帯文を最果さんの詩集は作詞家の松本隆さんが、木下さんの歌集はクリープハイプの尾崎世界観さんが書いており、どちらも音楽の世界から書かれたものであること。

よっつめはほぼ同じ時期(2016年5月)に刊行されたことです。

私はこの偶然にも通底していた二冊の本を読みながら、これは偶然ではないのではないか、この二冊の共振をさぐることで、現代の詩歌のシーンにおけるなんらかの〈風景〉をつかむことはできないかと思ったんです。

ここでひとつの問いかけからはじめてみたいと思います。

木下さんの歌集のタイトル『きみを嫌いな奴はクズだよ』は、

   あとがきにぼくを嫌いな奴はクズだよと書き足すイエス・キリスト  木下龍也

の歌の「ぼくを嫌いな奴はクズだよ」からとられていると思われるのですが、なぜこの歌の中の「ぼくを」を表題にするにあたって「きみを」へ転位したのか。この転位にとても重要な〈きみ〉への主題が含まれているように思うんです。

〈きみ〉という主題。

冒頭に引用した「あとがき」で最果さんはこんなふうに書かれていました。「その人と作り出したたったひとつの完成品を見ていたい」と。

私はこの最果さんの「あとがき」が「その人と…見て《み》たい」という〈一回性〉ではなく、「その人と…見て《い》たい」という〈連続性〉だった点が大事 なのではないかと思うんですね。つまり、「その人」=「きみ」が〈わたし〉のそばにずっと「い」るということなんです。〈わたし〉のかたわらに。一回だけ じゃ、一度だけじゃだめで、いろんなかたちで「きみ」が「わたし」のかたわらに「い」るということ。それが最果さんの詩集の全体的なひとつのベクトルに なっているとも思うんです。

〈わたし〉のかたわらにずっと「い」る〈きみ〉の主題。

  夜空はいつでも最高密度の青色だ。
  きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
  きみはきっと世界を嫌いでいい。
  そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。


    (最果タヒ「青色の詩」『夜空はいつでも最高密度の青色だ』前掲)


   君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を  木下龍也


この最果さんの詩にあるのは〈世界〉の強度が〈きみ〉の強度と連続していることなのではないかと思うんですね。「きみ自身を、誰も愛さない間、/きみはきっと世界を嫌いでいい」。逆にいえば、〈きみ〉が強度をもつことによってしか〈世界〉は強度をもつことができない。

だから〈きみ〉というのはいつでも〈世界〉に先だってある存在なのです。木下さんの歌では「君」が「特殊部隊」となって「僕の扉」を「突き破」ってくる。 「僕」を破砕するのは「君」であり、「僕」が施錠する/しない如何に関わらず〈きみ〉はやってくる。〈きみ〉のほうが〈法〉をもっている。〈わたし〉では なくて。

〈わたし〉を差し置いても尊重されている〈きみ〉という存在。

ではそのようなかたちであらわれている〈きみ〉の強度とはいったいなんなのでしょうか。なにが〈きみ〉の強度を支えているのか。

それは《きみがただそこにいること》だと思うんです。

  知らない人、きみが作るものより、きみがそこにいることを、好きになりたい、そうして勝手に幻滅をしたり、それすら心地よくなりたい。それを許してくれるひとがいるなら、それだけでもう、ぼくは安心して生きて、死んでいける。 
 (最果タヒ「水野しずの詩」前掲)

   全身が急所のシャボン玉を追う全身が凶器の君と僕  木下龍也

最果さんの詩に「きみがそこにいることを、好きになりたい」と書いてあるけれど、この〈きみの存在の言祝ぎ〉をバイオレンスなかたちで過激に突き詰めると 木下さんの歌の《全身凶器》になると思うんですね。つまり、「君」がただ《ここにいること》そのものが《凶器》になるくらいに《強度》あるものになってい く。

そして最果さんの詩に書いてあるように「きみがそこにいること」は「生きて、死んでいける」と生死をめぐる強度に接続されていく。これは木下さんの歌でも そうです。「シャボン玉」に「急所」が与えられることによってシャボン玉に〈生死〉という身体感覚が与えられ、それが「君と僕」の《全身凶器》に通底して いく。もちろんここでは「僕と君」ではなく、「君と僕」なのです。ですからこれはこういうふうに取ることもできます。(全身が凶器の君)と僕、と。

〈ただそこにいるきみ〉という〈強度〉。

そしてこの〈きみがただそこにいること〉という強度は当然ながらそれを語る〈わたし〉とも関わってきます。〈きみ〉と〈わたしの言葉〉の問題として。

  きみがぼくに使うかわいいという言葉が、ぼくを軽蔑していない、その証拠はどこにあるんだろう。好きとも嫌いとも言えないなら、死ねって言っているようものだと、いつだってきみは怒っている。
    (最果タヒ「かわいい平凡」前掲)

   冬、僕はゆっくりひとつずつ燃やす君を離れて枯れた言葉を  木下龍也


この詩と歌にあるのは〈きみ〉から放たれた〈言葉〉への関わり合いを〈わたし〉が決めなくてはならない〈きみへの態度〉の問題だと思うんですね。

最果さんの語り手は「きみがぼくに使うかわいいという言葉」が「軽蔑」になっていない「証拠」を〈わたし〉が模索し、木下さんの歌では「君」から離れて枯れた言葉を〈わたし〉が「燃や」している。

こうした行為というのは、そもそも「きみ」が言葉の発生源として、根っことして、〈言葉の価値〉を裁定する〈審級〉だから起こり得ると思うんですね。〈わたし〉の言葉の価値は〈わたし〉にではなくて〈きみ〉によって価値づけられている。

〈きみ〉は語る。決めろ、と。

ここで冒頭の問いかけに戻ってくるのですが、だからこその木下さんの歌集タイトル『きみを嫌いな奴はクズだよ』だと思うんです。それは「きみ」を〈嫌う〉 ということは、〈言葉〉そのものが〈クズ〉になるということだから。ここに「ぼくを」から「きみを」に転位した理由が出てくる。〈わたし〉にとっての「イ エス・キリスト」は「イエス・キリスト」以上に〈言葉〉の審級をもっている「きみ」の存在であるから。

だから〈きみ〉をおそれ、尊重し、〈きみ〉から放たれた/離れた言葉の測量士となるときに〈わたし〉のことばは〈最高密度〉になる。でもそれができないの だとしたら、〈わたし〉が〈わたし〉のぐるりをえんえんと周回しているだけなのだとしたら〈言葉〉なんて〈クズ〉なんじゃないか。これはそういうタイトル なんじゃないかと思うんです。そしてだからこそ、この歌集と詩集のタイトルは〈主述〉構造であるひつようがあった。

最果さんの詩集も木下さんの歌集もタイトルがどちらも「AはBである」という主述構造をとっています。だから長いんですね。文だから。

主述とは、「AはBである」という構造です。ですから、それはひとつの態度決定なわけです。たとえばもし最果さんのタイトルが『青空』だったら、木下さん のタイトルが『クズ』だったらそれは名詞=体言としていろんな読者にさまざまにひらかれていくでしょう。名詞=体言は「A」だけしか言わないので、述部の 「B」を決めるのは読者だからです。

名詞はさまざまな解釈を呼び起こします。だから夏目漱石の『こころ』だって〈いろんなこころ〉の解釈を呼びこむ。さまざまな解釈を呼び込む装置になっていく。名詞のタイトルとはそういうものです。

でもそれではたぶんダメなんです。語り手が〈きみ〉との関わり合いのなかで、読み手が〈きみ(語り手)〉との関わり合いのなかで、態度を決定しなければな らない。〈わたし〉がつむいだ言葉を〈きみ〉との強度のなかで決めなければならない。読者もこの詩集を歌集を読んで、決断しなくてはならない。わたしに とって言葉とは、価値とはこのようなものであると。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』といえるしゅんかんを、『きみを嫌いな奴はクズだよ』と決められる 価値観を。

だから、タイトルは、主述構造として《閉じられ》ていなければならない。それは〈ひとつ〉の文(センテンス)でなければならない。

それがこの二冊の〈きみ〉との関わり合いからの〈態度決定〉だったと思うんですね。

だからこの二冊から私がみえてきた風景は次のような風景です。言葉は〈わたしの強度〉ではなくて、〈きみの強度〉によって決まる。きみは、強い。きみの密 度はぎっしりしている。そしてその強度によって言葉の価値が決まる。だからわたしも決めなければいけない。それがわたしの詩の強度=態度に、なる。

  きみに、血が入っていること、脂が漂っていることを、一度だって忘れたことがない。
  ……
  さよならぼくがいたことを、見失うきみの瞳は美しいまま。
    (最果タヒ「美しいから好きだよ」前掲)

   ぼくなんかが生きながらえてなぜきみが死ぬのだろうか火に落ちる雪  木下龍也


  ――では、ただ一人の語り手、ただひとつの言葉では、そうは見えなくても、決してそれを名づけることができないのはなぜなのか。それを語るためには、少なくとも二人でなければならないのだ。
  ――分かっている。我々は二人でなければならない。
  ――しかしなぜ二人なのか。なぜ同じひとつのことを言うのに、二つの言葉が必要なのか。
  ――それを語る者は、常に他者であるからだ。
    (モーリス・ブランショ、山邑久仁子訳「木の橋」『カフカからカフカへ』書肆心水、2013年)







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