短歌における虚と実の問題といふのは、ときどき奇妙なかたちで僕たちの前にあらはれる。経験的な事実に基づかなければならない、嘘(虚構)を書いてはいい作品にならないといふのは、リアリズム的な一つの主張である筈なのに、それがいつのまにか、作品で嘘を書くのはよくないことだといふモラルの問題にすりかへられてしまふことがあるらしい。
(荻原裕幸「詳解「新・短歌入門」②虚実篇」『短歌研究』1992年3月)
「アイドル」という言葉は、文脈によってその意味がきわめて変動しやすい性格をもっている…。
「アイドル」と呼ばれる存在がどのような性質をもつものなのかを容易に把握できないのは、…用いられるたびに語義が錯綜するためである。
(香月孝史「アイドルという言葉」『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』青弓社ライブラリー、2014年)
事実を詠うから、あるいは実体験を詠うから、歌は力を持ちうるのではない。詠う「われ」と詠われる「われ」が作者の中で明確に区別され、前者が後者を見つめ始めたときに、はじめて事実や体験は歌の素材として生命を持つことができるのだ。
(山田消児「「私」に関する三つの小感」『短歌が人を騙すとき』彩流社、2010年)
2016年5月22日に大阪のたかつガーデンに開催された「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」に行ってきました。
そこで歌人の山田消児さんと川柳作家の小池正博さんによる「短歌の虚構・川柳の虚構」いう対談があったのですが、私の印象では大まかに言えば〈虚構〉というのは〈読み手〉(の所属する〈場所〉)の問題であるというのが今回の対談のポイントだったように思うんです。
たとえば山田さんが短歌の〈虚構〉を語る際に、「作者」と「作中主体」にわけて短歌の話をするときに、小池さんはそもそも川柳では「作者」と「作中主体」の区別すら川柳にはないと言う。それって作る側の虚構の問題よりは、もう、〈読みの制度〉としての〈虚構〉の問題なんですね。〈どう〉読むかという虚構が置かれる場所の問題なんです。
でも、実際に、〈虚構〉とはそうした〈制度面〉の問題がとても大きいように思うんです。〈虚構〉は、発信者の側よりもむしろ受信者の問題である。
今回の資料で示された【短歌の虚構】に石井僚一さんの短歌がありました。
父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を 石井僚一
この石井さんの歌に対して「父危篤」が事実かどうかを問いかける〈読者〉もいれば、事実かどうかはどうでもよくあくまで読み解くための記号テクストとして受け取る〈読者〉もいます。またそのどちらも決められず、ぶれながら・ゆれながら、じゃあ歌を詠む/読む倫理とはなんだろう、と考えながら読む読者もいるでしょう。
父親の死をフィクションとしても扱ってもいいのだろうか、でもそれが叔父の死だったらどうなのか、飼っていた猫の死だったら、他人の死だったら、草の死だったら、バクテリアの死だったら、というふうにその倫理のゆらぎも〈読み手〉によってまちまちになるはずです。
そしてその〈まちまち〉によって虚構の濃淡が変わってくる。ここまではよいけれど・ここからはだめだという〈虚構の濃淡〉は実はその〈読み手〉が〈どんな場所〉《から》今それを読んでいて、そして〈どんな場所〉《へと》自分がこれから向かっていきたいかで変わってくる。
〈虚構〉っていうのはそういうグラデーションになっていて、実は虚構を話し合える共通の地盤というのは〈ない〉んじゃないかと思ったんです。山田さんと小池さんの対談をききながら。もしそれが〈ある〉と思えたならそれ自体、〈虚構〉であると。
つまり、〈虚構〉についてなにかを話そうとするといつもそれ自体が〈虚構化〉してしまう。言葉の発信者の問題だけでなく、いつもセットとして受信者とともに〈虚構〉に関するなにかがつくられていくので、受信者がn人増えるたびにn個の虚構のありかたが増えていく。
たとえば現代川柳の側からすれば、石井僚一さんの《実は父親は亡くなっていなかったのに父親が亡くなった歌を詠んだ》という〈虚構問題〉は〈なぜそもそもそんなことが問題になるのか〉と川柳の側から受け止められがちだったように思うんです。今回の対談においてのオーディエンス側からの質疑もそうだったと思います。どうしてそんなことが《わざわざ》問題になるのかと。現代川柳ではフィクションは当然のことだからというのもあるんだと思います。
現代川柳という土壌で受信すればそうした〈虚構のありかた〉が出てくる。だから、〈虚構〉というものを〈どこ〉で受信するかで〈虚構〉のありかたが構造的に決まってくる。虚構にはいつもその虚構のための《土壌》がついてまわっている。それが短歌と川柳が出会い、ズレたときに、よくわかってきたことだったように思うんですね。
虚構は実は〈虚(うつろ)〉な〈構〉造なんかではなくて、実はその場所に基づいたみっちりした構造でできあがってくる。ただその場所が複数化していくために、〈虚構〉が次第に〈虚構化〉していくんだと。
だから〈虚構〉って実は〈すごく正しく構造的に〉各場所にもとづいて決まっているものなんじゃないかと思ったんです。
で、ですね。もうひとつ対談をきいていて思ったのが虚構をめぐる《可能性》の問題です。
当日、【川柳の虚構】として資料に示された句に兵頭全郎さんの句がありました。
乳飲み子と歩調があえば船は出る 兵頭全郎
たとえばこの句を読むときに、「乳飲み子」と「船」は「歩調」があうのかなあ、そういう事実がありうるのかなあ、ということはあんまり〈可能性〉として考えないと思うんです。たとえばもしそれが〈事実〉だったとしても〈虚構〉だったとしても〈意味がない〉からです。
むしろこの句を〈意味ある〉ものにするためには、事実/虚構という二項対立の図式の〈上〉を行く必要があります。
たとえばそれはこの句を〈記号の連なり〉として読むということです。「乳飲み子」と「船」が「歩調」があったときに、「船」はもしかしたら生物的に・赤ちゃんのようにぐにゃぐにゃしはじめるのだろうか、そういうこれは奇蹟のようなタイミングによって機械が生物化する句なのだろうか、といった記号のなかで記号的解釈をする。そういうことによって意味が生まれる句だと思うんですね。
だから全郎さんのこの句でいえば、「乳飲み子と歩調があ」う〈可能性〉は初めから排除されているために、読み手は初めからこれを〈フィクション〉として読むことができるわけです。はじめからこの句をフィクショナルな意味作用として読み手=受信者はとらえる。
そこからわかってくるのは〈虚構への問いかけ〉というのは〈可能性のふり幅が受信者にどれくらい生まれるのか〉ということから起こっているのではないかということです。
たとえば、石井さんの歌では〈父親の死を詠みながら・父親が生きている可能性〉があった/出てきた。そうするとその〈可能性の圏域〉のなかで読み手がどんどんn次的に枝分かれしていくわけです。受信者が受信したものに〈可能性のふり幅〉をみいだし、そのふり幅のなかで読みがゆれることが〈虚構〉と関わってくる。
今回山田消児さんがあげられた短歌資料には性別や死にまつわる虚構の短歌が多かったのですが、死や性別といった読み手自身の境界がゆらゆらしやすいものは〈ふり幅〉が大きくなります。読み手自身の死や性別の可能性もそこでは問われることになるからです。そのとき、歌は(歌にとっては記号的には不幸かもしれないけれど)〈事実/虚構かどうか〉を解釈しはじめたほうが〈大きく意味が生まれる〉場合もある。そういう、〈解釈〉よりも〈解釈行為〉の方が〈生産〉的になる/なってしまう場合がある。それが歌がもつ〈可能性のふり幅〉のように思うんです。
で、当日対談をききながらふっと思ったことなんですが、この〈虚構〉のありかたって非常になにかに似ているなあって思ったんですね。なんだろうって考えていたときに、これはアイドルに似ているんじゃないかと思ったんです。
実は先ほど句をあげた兵頭全郎さんは先日『n≠0』(私家本工房、2016年)という句集を出されたのですが、そのなかで「二〇一〇年代の川柳~女性アイドルグループ史からの連想(+追記)」という〈アイドル=川柳論〉を書かれているんですね。で、私が興味深いと思ったのは、アイドルっていう存在はまさに〈虚構問題〉そのものじゃないかと思ったんです。
たとえばよくアイドルは〈恋愛禁止〉だったりします。でも実際のところはそのアイドルが恋愛をしているか・どうかというのはよくわからないわけです。そのアイドルがどこまでが〈虚構〉でどこからが〈虚構〉でないかというのはよくわからない。「わたし、恋愛したことないんです」と言ってもそう言っているだけかもしれないし、本当にしたことないのかもしれない。わからないわけです。
そしておそらくそのアイドルを受け止める受信者=ファンもそこは枝分かれしていくはずです。本当に恋愛をしていないんだと信じてファンでいる場合もあるし、演じているだけだよねとアイロニカルに思いながらも楽しんでファンをしているひともいる。別にどちらでもいいという立場やどっちなんだという緊張感のなかでファンをしているひとだっている。そういう〈虚構〉に対する態度ってまちまちだと思うんです。
そしてそういう〈まちまち〉に出てしまう〈状態〉そのものこそが〈虚構・的〉なんじゃないかと思うんです。そういうアリーナというか、つねに虚構に対する〈異議申し立て〉があっちゃこっちゃから出てきてぶつかりあっている状態そのものが〈虚構〉なんじゃないかと。でもそれによって躍動し、息づいていくジャンルもあるんじゃないかと。
そしてこうした〈虚構のアリーナ〉のありようは、必ずしも〈事実 対 虚構〉の図式には回収していくことができないものです。むしろ、虚構1 対 虚構2 対 虚構3 のような図式になっていく。
だから〈虚構問題〉というのは〈虚構かどうか〉が問われるのではなくて、〈虚構に対するそれぞれの態度〉がそのジャンルとのかかわり合いのなかでどのようにそのつどあらわれるかが〈問題〉になるのが〈虚構問題〉なのかなとも思ったんです。
たとえばアイドルが恋愛が発覚したときに、その恋愛に対してどういう受信者=ファンの態度があらわれるのか。そのときに、そのジャンル特有の〈なに〉があらわれてくるのか。受信者のひとたちはどのようなアイドルの〈可能性〉のなかでゆれていくのか。そしてどうアイドルというカテゴリーを再構築しようとするのか。
もし川柳も「器」としての存在だとしたら、私はこれまでの川柳をそのまま引き継ぐよりも、その器がもっと進行形で魅力的なものになって欲しいと思う。ただし、器の方に変わる気がないのであれば、私はそこを「卒業」する道を選ぶ。
アイドルとはこんなものだ、川柳とはこうだ、という決めつけが、すべての可能性をなくす。
(兵頭全郎「二〇一〇年代の川柳~女性アイドルグループ史からの連想(+追記)」『n≠0』私家本工房、2016年)
「こうだ」という決めつけが「すべての可能性をなくす」と全郎さんは書かれていましたが、〈虚構問題〉とはその「すべての可能性」を取り返すための「器」の〈心臓マッサージ〉になっているのではないかと思うんです。アイドルに恋愛が発覚したとき、短歌の虚構が問題になったとき、もう一度、アイドルや短歌の〈すべての可能性〉を検討するアリーナがひらかれる。
〈虚構〉の耐久性としての「器」の検討。
〈虚構〉が出てくることによって〈すべての不可能性〉が奪われ、もう一度〈すべての可能性の圏域〉のなかで〈こんなものだ/こんなものではない〉をジャンルがジャンル自身のなかで問い返しはじめる。
それこそが〈虚構問題〉のように思ったんです。だから今回の対談からわたし学んだ〈虚構〉とはこうです。〈虚構問題〉とは〈すべての不可能性(~してはいけない)〉を奪われた後に、〈すべての可能性(~ならしてもよい)〉を検討するものである。
虚構を虚構と知りつつ、なおかつそれにすがって生きねばならぬ人間の性(さが)が、どのようなことばを必然とし、またそれに裏切られたのか、という検証を通して初めて「文学」は始まる。それはまた、あらゆる「アイデンティティ」は自らその崩壊の瞬間に立ち会うことによってしかこれを把持することはできない、という永遠のパラドックスにも通じている。
(安藤宏「太宰治における“滅び”の力学」『国文学 解釈と鑑賞』2001年4月)
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