【俳句新空間参加の皆様への告知】

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2015年11月27日金曜日

字余りを通じて、日本の中心で俳句を叫ぶ (その1) / 中西夕紀・筑紫磐井



【その1】

はじめに

「BLOG俳句新空間」では様々な対談を併行して進めている。座談会になっていないことには理由がある。論者に様々な意見があり、A,B,Cそれぞれの関心が重なるわけではないことが大きいが、さらに座談会として話が流れているように見えながら、必ずしもABの関心と、BCの関心が同じではないこともあり、ABの座談部分と、BCの座談部分が異なる文脈で語られている為である。座談会の傾向として、鼎談で、AとBが語りCが全く沈黙してしまう部分があることはよく見られるはずだ。もっとも有名なところでは、昭和14年8月の山本健吉司会の「俳句研究」座談会「新しい俳句の課題」(いわゆる人間探求派座談会)がそうである。中村草田男と加藤楸邨が実によくしゃべり、石田波郷はろくに応答すらしていない。波郷のこの態度に、これを読んだ俳人たちは翌月号で非難のコメントを寄せている。しかしこれは座談会という形式が悪かったのだ。草田男・楸邨の熱心な(人間探求派らしい)話題に反対の態度を持った波郷(当時すでに古典派に転向しつつあった)は沈黙しているしかなかったからである。その意味では、「人間探求派座談会」という後世のネーミングそのものが間違っていたわけである。

対談がいいのは、相手の言うことに反対であったら反対発言すればよいのである。反対であるが沈黙していると・・・・対談原稿が出来上がらない。

まあこんなこともあり、本当は3人、4人で語り合った方が面白そうな話題だが、3本の対談が並行して進み、交差しながら離れてゆく形で記録された。

今回は、他の対談へ闖入を予定していた中西夕紀さんと対談してみることとした。話題が自由律から字余り、字足らずの話題となり、この夏に小諸で行った日盛り俳句祭のシンポジウムの話題と重なり合うことになったからだ。

あのシンポジウムでは、時間の制約もありあまり語りきれない人が多くいたので、フォローアップという意味でもちょうどよいであろう。

出来れば二人以外の関係者にも参加していただければありがたいが、それは成り行き次第となりそうだ。前書はこれくらいにして開始したい。

筑紫:

[「評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その12」(筑紫磐井)の読後感を頂戴した]・・・・若い作家との対談をご覧いただき、ご意見まで頂戴しありがとうございます。言いたかったのは、花尻氏の作品を見て、定型が分らなくなった、とか、自由律なのか何かわからない、過去の連作と比較してよくない、というような「俳句は575」と考えている固定観念が見えるようだということでした。オジサンやオバサンたちでなく、詩人とか若い作家がこうした固定観念を持っているのが愉快です。作品のいい悪いを離れて、放った批評の言葉が俳句を狭くしているようにみえました。とはいえ、中西さんの、

 <いろ   に詩情は感じられませんでした。>

はごもっともです。私も同感です。ただ面白いのは、詩歌の中に日本では定型詩があり、定型詩の中に俳句があり、俳句の中に自由律があり、その自由律の作品として「いろ」が詠まれてしまったことです。詩情は感じられなくても作品として確立してしまったことが大事なのです。
詩歌には著作権があり、俳句にも著作権があり、自由律にも著作権があるとすれば「いろ」に著作権があることになります。

いろ   青木此君楼

の作品があることを知った段階で中西さんが「いろ」を使って俳句を詠むと(たとえば「秋蝶来何いろと問ふ白と答ふ」なんて)ひょっとすると此君楼の著作権侵害になるかもしれません。もちろんこれは文芸の問題ではなくて法律の問題です。

私自身野暮なことを云うつもりはありませんが、しかし「俳句はどこまでぎりぎり切り詰めていって俳句の本質が残るのか」という根本的な問題にぶつかります、これは大事です。問題は此君楼を超えて短律の自由律(特に山頭火や放哉)は常に575の俳句を脅かしていることを言いたかったのです。

同じことは現代詩についても云えます。
三木露風の「赤とんぼ」の詩があります。その第4節は、

夕焼け小焼けの赤とんぼ  
とまっているよ竿の先

です。「赤とんぼ」の詩の起承転結の「結」にあたるなかなか巧みな詩です。
しかしこれは、三木露風が小学生時代に習作で詠んだ

赤とんぼとまっているよ竿の先

に「夕焼け小焼けの」をつけたものだそうです。詩の中に俳句の自治領が存在しているわけです。
これくらいぐすぐす状態の中で現代詩と俳句と自由律があるとしたら、「定型は何だかわからない」というような批判はナンセンスであることが分ると思います。定型とは定型があると思った人の心の中にあるのであって、定型という客観的な属性があるわけではないのです。正岡子規は、字余りを、定型の字余りではなく、「字余りの定型」として考えて作ればいいじゃないかと言っています。575が定型ではないのです。576も定型です、675も定型です、・・・(無限に続きます)。

話が長くなりました。続きは又。

中西:

お返事ありがとうございました。

(中略)

今回、定型のことで私も疑問がわきました。

定型に「字余りの定型」があるというのは私には不思議に思えました。
定型があるから、それに対する字余りと字足らずがあるのではないでしょうか?
それは定型と比べて、字余りであり、字足らずなのだと思いますが。

たとえば、「字余りの定型」が675だとしたら、「字余りの定型」というのも変な言葉ですが、たとえば、上6の字余りの定型というのがあるのなら、定型は動くということになりませんか?
上6の定型は定型と言われた時点で、字余りではなくなるのでしょうか?今度は上7から字余りということになるのでしょうか?

定型は動かないから定型といわれているのかと思いましたが。

「575が定型である」と言ったら、原理主義なのでしょうか?磐井さんの批判対象ですか。

私は俳句が今まで続いているのは、定型のお蔭だと思っています。俳句という形式が定まって以来、575という定型があったから、その律が面白いと感じる人たちが時代を越えて、次々と作り続けてきたもののように思います。

現在、575にするために、使う言葉が古典調で、現代人には使い慣れていないせいで、文法的な間違えも多く指摘されているところですが、それでもこの形が捨てきれない魅力があるのだと思います。

この間の日盛会のシンポジウムに戻りそうですね。磐井さんの定型とは流動的なものなのでしょうか?

では、何に対して字余りであり、字足らずと言えるのでしょうか。「字余り字足らずの定型」でしたら、すべて定型という認識で、字余りも、字足らずもなくなるのではないでしょうか。

こんがらがってきました。シンポジウムはパネラーに磐井さんが坐るべきだったようですね。
我々4名(寒蝉、伊那男、睦、夕紀)はだれもが原理主義的で、磐井さんのような進歩的な発想はしていませんでした。

続くと書かれていましたので、次回をたのしみにしております。



参考掲載
シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   … 仲栄司 》読む 

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