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2015年10月30日金曜日

「凧と円柱」による認識論  3   竹岡一郎

《びーぐる28号(2015.7、発行・澪標)より転載》



作者は見る事の疑いから始まり、あらゆる輪郭を疑い、人間も含めた様々な事象を干渉させ合い、溶かし合い、存在しつつ不在であるという認識へと読者を導いてきたのだが、それは決して虚無主義のなせる技ではあるまい。むしろ正しく観ようとすれば、こういう認識の過程は避けられないという事実を、様々に展開していったのだと思われる。その証明として、最後の「7」という章の二句の解析を試みたい。

すると地のまぢかに虻の浮び出づ     「Ⅲ」

「すると」とは、今まで模索してきた認識の果てに突然、と解する。虻とは、その小さく鋭く激しい翅音が眼目であろう。その翅音が、まだ肉体を持っている作者の、二本の脚で立っている地の間近に浮かぶ。それは啓示のようである。川端茅舎の「花杏受胎告知の翅音びび」を思う。そして、最後の句が現れる。

7は今ひらくか波の糸つらなる      「Ⅲ」

まず思うのは、次の一節であった。「彼はそこで、すべてを常に七と三とのめでたい数で所有していた高貴な一族が、その紋章である星の光芒の十六の数に負けて、ついに亡び去った遠い昔の遺跡が今も残っているのを見たであろう。」(リルケ「マルテの手記」望月市恵訳、岩波文庫)

3が堅固なバランスによる豊饒であるなら、7は不安定なる聖性であろう。古今東西、7は聖性を表わす数字として良く用いられてきた。聖性の抽象化といっても良い。掲句はアラビア数字で表記する事により、より抽象性を高めている。

もう一つ思い当たるのが、チベットの死者の書に記される「守護神を溶かす瞑想」である。要約すれば、次のようになる。信仰する守護神を、それが単なる見かけであって存在していないかのように、瞑想する。次に、視覚化された守護神を、先ずはその四肢より溶かし、遂にはその像(イメージ)を溶かし尽くし無くしてしまい、清澄なる虚空の状態、それがなにものであるかとは考えられぬ状態に瞑想者自身を置き、その状態を保持した後に、再び守護神について瞑想し、再び清澄なる光について瞑想する。その二つを交互に行なった後、瞑想者自身の知性を、先に守護神に対して試みたのと同じように四肢から溶かしてゆく。

死者の書に試みられるのは、聖性をあたう限り正しく客観的に、まっさらな状態で認識しようとする技法である。掲句もまた、同様な試みではあるまいか。なぜなら、「光」または「虚空」とでも記せば、どうしても意味が付き、思い入れが生じ、つまりは聖性と認識者との間の夾雑物は避けられない。

「7」、即ち聖性が「今」、即ち、過去でも未来でもない一点の状態で「開く」、つまり溶け広がり、啓示される。同時に、「波の糸つらなる」という認識が顕われる。全ては「波動でもあり粒子のつながった状態である糸でもあるもの」が連なっている、と認識されている。ここに作者が可能な限り正しく世界を認識しようとした一つの結果を見出すのだ。しかし、作者がこの結果に決して満足していないのは、「か」という疑問に示されていよう。ここで、この句集の冒頭に置かれている句を挙げるなら、

いきものは凧からのびてくる糸か      「Ⅰ」

この句から「凧」を除外すれば、「いきものはのびてくる糸か」となる。句集の掉尾の句との相違は、糸がまだ「波の糸」とは認識されていない事だ。空に不安定に浮かぶ凧という物体が何を表わすかは、読者によって様々に受け取れるだろう。「凧からのびてくる糸」から出発して、自らをも含めたあらゆる存在の認識を検証し、検証すればするほど朧になってゆく認識に耐えて、掉尾の句に至る。この句集を、私は、あまりに純粋に世界を認識しようとする苦闘と読む。

関悦史の句集をひもとくに、それは奇妙な年代記のような渾沌であり、固体性に溢れている。この度の鴇田の句集をひもとくに、それは肉体も場所も年代もみな輪郭を失くし、気体と化しゆき、ついには聖性を希求する。互いに対極に坐すような二つの句集が、三年の時を経て、共に田中裕明賞に並んだのは、この賞から俳壇が変わる兆しのように思う。


(了)

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