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2015年7月24日金曜日

【俳句時評】 高原耕治の問いかた  /  外山一機  (最終回)



高原耕治が第二句集『四獣門』(書誌未定)を上梓した。『虚神』(沖積舎、一九九九)以来実に一六年ぶりの一冊である。

虹の臟腑を
つかみ
掴み出だせり
のつぺらぼうの爪

 *

冷えゆく腦髓
天心に
独樂
唸りゐて

 *

うつばり傳ひや
孤絶の
鬼の
垂れ来る動悸

 *

うなぞこに
簪一本
びんらんの
霊なびかせて

 *

死霊まじりの
なま雪
霏々と
降る なま富士

高原は一昨年、評論集『絶巓のアポリア』(沖積舎)も上梓しているが、富沢赤黄男の一字空白や高柳重信の多行形式についての見解を説くのみならず「私が無手勝流に編み出した《存在学》という概念やその適用が容易には他人に理解され難く、こうした事態をいささかなりとも解消するため」に刊行に踏み切った本書と『四獣門』とはあたかも陰と陽のごとく対をなすものであろう。たとえば掲出句にかぎらず『四獣門』には『虚神』に引き続き「のつぺらぼう」という語が散見されるが、『絶巓のアポリア』での高原の言葉を想起してこそ、それらの句の総量―ひいては高原耕治という俳人のスケールを思うことができるのである。

その多行形式の創出に当たり、「思考過程がそのまま詩作過程」であるとは、どういうことか。(略)換言するならば、それは、「逆説や反語の呪文」によって魂を不断に覚醒させようとする意志が、すさまじく、強固であればあるほど、それが、かえって、魂の恐るべき、取り返しのつかぬ不毛へと絶えず直結してゆかざるを得ない、その恐るべき〈呪縛〉の過程を、多行形式が創出される〈呪縛〉の過程として、これまた不断に、しかも多行形式に対する自覚せる客観のうちに認容しなければならぬことを意味している。その認容の一切を支え、また支配しながら、その認容作用自体のうちに発現してくるのが、あの絶対的空無性(「絶対的空無性」に傍点)、あの〈ノッペラボウ〉、あの《空白》や《虚性》なのである。 
(「《思考過程=詩作過程》における絶対的空無性」(「絶対的空無性」に傍点))

ところで『絶巓のアポリア』の上梓された二〇一三年といえば高柳重信の没後三〇年に当たる年であり、澤好摩を中心に高柳を偲ぶ会が催されたことがあった。僕がこれに参加したのは、今から思えばかなり悪趣味な好奇心によるものであった。高柳についてのコメントを求められた僕はたしか、高柳重信に実際に会ったことのある人間が全員いなくなった後でこそ新しい高柳重信論が生まれるはずだとか、高柳重信なんて忘れられてしまうんだとかというような、何ともしかたのない発言をしたのを覚えている。というのも、高柳の没年に生まれた僕にとって、この取り返しのつかない擦れ違いと不能感とが「高柳重信」に対峙する際のほとんど唯一のよすがであって、それを矜持とせずに「高柳重信」を思考することなど僕自身にとってあまり意味がないことだったからである。向かいの席に座っていた高原氏が僕の発言に何を思っていたのかその時はわからなかったが、後日届いた『未定』に次のようにあったのは、たぶん僕のことを指して言ったことなのだと思う。

ところで、つい先頃、高柳重信を語る会があり、それに出席したが、古くからの顔見知りの方々に久々にお会いし旧交をあたためているうちに、やはり歳月の経過に伴うさまざまな変化を痛感せざるを得なかった。しかし、それと同時に、討論の場での若い人々の言説の分かり難さとそれへの対応に苦慮せざるを得なかったことも事実である。そこに、種々の歪曲された齟齬や誤解や、討論にはあるまじきひねこびた(「ひねこびた」に傍点)態度がみられたことも否定できない。だが、高柳重信の俳句思想に対する見解の相違の内実が明瞭にされていないにも拘らず、その相違があること自体を世代間の違いや、高柳重信に実際に会ったことがあるかどうかといった経験の差異に起因させてしまう姿勢には、かなりの違和や封殺的誤魔化しの感を抱かざるを得なかった。なぜなら、編集子などは富沢赤黄男に実際に(「実際に」に傍点)会ったことは無いが、句集『天の狼』を開くたび、そこに富沢赤黄男が実際(「実際」に傍点)以上と思しき現実性を帯びて、必ず《居る》からである。 
(「編集後記」『未定』二〇一三・一一)

「富沢赤黄男に実際に会ったことは無いが、句集『天の狼』を開くたび、そこに富沢赤黄男が実際(「実際」に傍点)以上と思しき現実性を帯びて、必ず《居る》」という、高原の俳句への対しかたは、僕にはとても真似のできない見事なものであるし、僕もまたこのようにありたいと思う。しかしこのようにありたいと願うことと、すでにこのようであると語れることとの間には、決定的な差異がある。そして僕はどこまでも前者であり続けたいと思うのである。だがこのことをもって高原を批判するのはちがう。とりわけ、『四獣門』を読み、『絶巓のアポリア』を再読したいまとなっては、その思いはますます強くなるばかりである。

避けがたい死や病、老いや苦悩、そして孤絶や被災といった極限的な状況でこそ、真の芸術は闇のなかにいっそう映える大輪の花を開く。その意味では宗教に近い。が、宗教が何らかのかたちで共同性を必要とするのに対し、芸術にはそのような分かち合いが―神とのあいだでさえ―存在しえない。あくまで個の体験に発し、個の内にしか帰りようがないものだからだ。つまり、宗教に託されている「信仰」のような他者性さえ及ばぬほどの苦しみが人の生に訪れたとき、初めて扉が開かれるような性質のものなのだ。
(椹木野衣『アウトサイダー・アート入門』幻冬舎、二〇一五)

椹木野衣が「芸術」について語ったこの言葉は、高原の俳句のある部分を言い当てているように思う。すなわち、高原にとって多行形式で書き続けるということは、多行形式「で」書く、というような間接的ないいかたで表しうるような営みではなく、いわば多行形式を生き、多行形式を死ぬというような、もっと直接的で絶対的な営みであって、そのような高原にあってみれば、多行形式とは存在論(高原は「存在学」と称している)の謂ではなかったか。そしてこのような高原のありようは、たとえば林桂の高柳重信論にふれた次の箇所に端的にあらわれているように思われる。

ところで、林桂が言うところの「異化」という概念は多行形式生成の方法意識において特筆すべきものであり、また、多行形式における《改行》の意義にも優れて強力な有効打を放っている。《改行》の問題はこれで、一応、解決されたかにみえる。しかし、私見によれば、林桂の論理は多行形式の俳句技術と方法意識上のそれとして認めるにしても、この問題は更に奥が深く、それは、多行形式の発生、或いは生成において、この「異化」作用が多行形式という存在(「多行形式という存在」に傍点)、その存在上の密契(「存在上の密契」に傍点)としてなにゆえ生じさせられねばならなかったのか、その謂わば存在論的必然的根拠は何か、という、《改行》の意義に最も深く関わる問題意識の突起にのっぴきならず触れて来ざるを得ない。それは、多行形式という《存在》を掘鑿しつつ、その根底から、多行形式が成立するべき《存在学》上の最高概念を問い上げることを意味している。
(「多行形式の歴史と改行の《存在学》」)

ここで高原が提起しているのは、多行形式の意義にかかわる問題のみならず、なぜ多行形式なのかという、いわば多行形式の意志にかかわる問題である。高原の《存在学》とはこの問いに対峙するうえで要請されたものであったろう。そしてまた、ここで思い起こされるのは、安井浩司に次の言葉のあることである。

私にとって、かなり具体的に直達的に先輩と思われる戦後の俳人の殆んどすべての人たちが、俳句形式にたいする対向的在りようを、やはり生活という答えで受けとらざるをえない道を選んでいる。そういう俳句行為の持続の中に、俳句を書き続ければ書き継ぐほどに、俳句とは何かという命題は肥厚し、なぜ俳句なのかという命題はうすめられ、矮小化してゆく。形式へ殉ずるというきわめて詩の本質に捉えられた逆説が、遂には絶望としての正説に循環し、帰納してゆくのだ。これが定型詩の、とりわけ俳句の私共にむけられた悪意というものではなかったろうか。 

(安井浩司「海辺のアポリア」『海辺のアポリア』二〇〇九、邑書林)

安井もまた「なぜ俳句なのか」と問い得る稀有な存在の一人であるが、安井に『海辺のアポリア』があり、高原に『絶巓のアポリア』があるのは、蓋し偶然ではあるまい。とすれば、『未定』最新号で高原が安井について記していることもまた、当然のことであったろう。高原は安井の発言(「俳句の一行にはなんとも解き明かしがたい謎が、魅力があるんです。言葉を変えれば多行俳句はどこか浅いんだ。形式の仕組みの装置が早々と見えやすいんだ」)について次のようにいう。

田沼氏(田沼泰彦―外山注)は安井氏の発言を多行形式に対する「挑発」と把握しているが、安井氏の卓抜な高柳重信論を読む限り、私には、多行形式に対する歴然たる「否定」にみえた。氏の高柳重信論は、多行形式に対して軽々しく「挑発」するような態のものではないからである。「否定」は「否定」でよいのである。そう考えなければ、私は、俳句形式に対する安井浩司氏の誠実さを疑うであろう。「多行俳句はどこか浅い」「形式の仕組みの装置が早々と見えやすい」、そう厳格に判断したればこそ、安井氏は一行形式を採択し、氏の唱える《俳句の構造》の理念も、そこからしか出現しなかった筈である。
(「編集後記」『未定』二〇一五・七)

ここには「なぜ俳句なのか」と問う安井の本懐を見つめようとする高原の姿がある。そしてここに高原の俳句形式に対する誠実さも、その《存在学》の切実さもうかがわれよう。もっとも高原のいう《存在学》なるものは、高原自身がその評論集の巻末で述べているとおり、僕たちには理解しがたいものであるかもしれない。だがそれ以上に僕は、「多行形式という《存在》を掘鑿しつつ、その根底から、多行形式が成立するべき《存在学》上の最高概念を問い上げる」という高原の営為を自らのそれとして引き受けることの困難を思うのである。

黒い装丁の『絶巓のアポリア』、白い装丁の『四獣門』を並べ置くとき、それらは玄武と白虎のみならず、葬送の鯨幕を想起させる。いわば、高原はここに自ら成就せしめた生前葬のめでたさのなかで、彼岸から僕たちに問うているのではあるまいか。安井の言葉をかりるなら、それはすなわち「お前はどうするのか」という問いである。そしてこの問いから目をそらしているかぎり、僕たちは、たとえば大岡頌司や志摩聰が引き受けていた痛みを振り返るすべを持たないだろう。そしてまた、ここにいずれ安井浩司や高原耕治の名が加わらないともかぎらない。実際、僕たちはそうやってどれだけのことを忘れてきただろうか。

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