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2015年6月12日金曜日

【催眠術ノート】催眠術師・石川啄木-ひかることとしゃべることは同じことだからお会いしましょう、ねむって、眼をみひらいて-  柳本々々



夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう
   (穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館文庫、2014年)

石川啄木の日記を読んでいると、明治39年(1906年)3月27日の「渋民日記」にこんな「催眠術」をめぐる記述が出てくるんです。少し長くなるが、引用してみます。


催眠術こそ面白いものである。厳密に云へば、無論催眠術とは単に或る方法を以て人を催眠状態に誘ひ入れるといふ丈けの事で、その上に起る種々奇蹟的の現象は、一切人間の精神感応の作用で、催眠術そのものの結果ではない。精神活動の盛んな人で、よく心気交通の呼吸に達したものは、催眠術を施さずして一切の奇蹟を行ふ事が出来る理である。大基督を初め古来幾多の予言者等の驚くべき奇蹟も、自分の考へでは決して荒唐不稽の附会説ではなくて、実際あつた事、且つあり得べき事である。そして古来基督程精神活動の盛んであつた人は殆んど無い、
  (……)
のみならず、自分が今迄二年許りの間に実験し考察し研究したところの決論によると、生零(イキリヤウ)、幽霊の存在は無論の事、神を見、神の声をきゝ、夢中に暗示せられ、人を呪ひ殺し、未来を洞察し、千里以外の出来事を知り、人の心を読むなど、乃至一切の迷信とせられる事は、皆確実なる理由を有する合理的の事柄である。若し是等を否定するならば、同時に、吾人の常に実験して居る、人格の感化、危険の予感、遺伝等をも否定せねばならぬ充分の理由があるのだ。但し自分の此研究はまだ完結しないから、広く発表する時機が来ない。
科学と形式万能の今の世に、この研究を発表したなら如何に愉快な事であらう。
  (……)
精神交通の呼吸に達する唯一の捷径は実に催眠術である。
   (石川啄木「渋民日記」『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』筑摩書房、1978年、P.88)


それからして催眠術の記述は一年もたたないうちに再び啄木の日記にあらわれます。明治40年(1907年)1月8日の記述です。

懺悔未だ終らず、一団の訪問者ありて入り来れり。談会々催眠術の事に及ぶや、一人あり、慶三と呼ぶ、またこれ最も予の愛する学童なり、みづから其術を施されむことを望む。睨視三分許りにして彼は眠りぬ。これ予が初めての催眠術の試験也。
予は静かに眠れる児を起して日く、「慶三、起きよ。」と。
   (石川啄木「明治四十丁未歳日誌」『石川啄木全集 第五巻 日記Ⅰ』筑摩書房、1978年、P137)

最初の催眠術の記述では啄木は「催眠術こそ面白いものである」と断言し、「精神交通の呼吸に達する唯一の捷径は実に催眠術である」と断定しています。二年ばかり彼は〈催眠術に関する研究〉をやっていたらしいこともわかります。

二度目の記述においては、じっさい〈催眠術・師〉として自分の生徒に〈催眠術〉を実践しています。催眠術が言説上のことばや知の枠組みのものだけでなく、啄木のなかで行為のレベルにもちあがっているのです。

啄木は、どうも催眠術に関心があったようなのです。

ただこれは実は啄木が特別だったわけではないようです。

なぜなら、一柳廣孝さんの『催眠術の日本近代』(青弓社、2006年)によれば、「明治三十六年(一九〇三年)、催眠術ブームは、一気に加速し」ているからです。文化的には、ブームだったのです、催眠術が。

その加速ぶりは、催眠術関連書の刊行点数をみるだけで、一目瞭然である。明治三十五年には花沢浮州『催眠術』(高等成師学会)一冊のみだったのが、明治三十六年には、現在確認しているものだけでも十六冊。翌三十七年には二十三冊、三十八年は十四冊。明治三十六年から四十五年にかけてでは、じつに百冊以上の催眠術所が刊行されている。
   (一柳廣孝「催眠術ブームの背景」『催眠術の日本近代』青弓社、2006年、p.64)


つまり、啄木は当時流行していた〈催眠術・文化〉の言説空間のなかに身をおいていたようなのです。

先ほどの啄木の一回目の催眠術の記述をみていると、ひとが催眠にかかるのは「人間の精神感応の作用で、催眠術そのものの結果ではない」と書いてあります。この「感応」という言葉が気になるんですが、この啄木の記述の三年前に催眠術の本で「刊行後わずか三ヵ月で六版を重ねていた」富永勇『感応術及催眠術』(明治三十六年、哲学書院)という本が出版されています。啄木はその本を読んでいた、或いはそれに近い言説に触れていたのではないかとおもうんです。

この本もやはり一柳さんが前掲書において説明されているのですが、「当時の催眠術書がウリにするのは、実用的な要素」であったそうなのです。「あらゆる病を癒すだけでなく、教育・社会・経済面などでも有効」である〈実用性〉を催眠術はもっていた。

啄木は教師をやっていたこともあってそうした教育面のレベルから催眠術を学んでいた可能性も高い。だから、学童に対して催眠術を正面切って〈実践〉できるわけです。

こうした〈感応術=催眠術〉は、教育面では「人生の発達と、身体の発育に伴える諸種の情感的誘惑」を防ぐことができると富永勇は記述しています。

啄木が催眠術をかけた学童のときもある事件が起こって催眠をかけることになったみたいなんですが、その事件とは「男女両生間の或る悪風潮を根底より一掃せむとする」と啄木が書いていることからどうも〈不純異性交遊問題〉だったようなんです。つまり「身体の発育に伴える諸種の情感的誘惑」です。

こうしたことからわかってくるのは啄木にとって〈催眠術〉はふだん顕在化できない部分や顕在化しえない他者にアクセスするためのツールでもあったようなのです。

「目を閉じる啄木」(『佐佐木幸綱の世界6 評論篇1 底より歌え』河出書房新社、1998年)という石川啄木の短歌と〈見ること〉を取り扱った論考において、石川啄木の短歌には「〈見る〉ことをうたった歌が多」く「啄木が、彼の歌の方法として、意識的に〈見る〉設定の歌をつくったのは、ほぼ疑う余地のないところだろう」と指摘したのは佐佐木幸綱さんでしたが、たとえばとても啄木の有名な〈見る〉歌があります。

はたらけど 
はたらけど猶(なほ)わが生活楽(くらしらく)にならざり 
ぢつと手を見る
   (石川啄木『一握の砂』明治43年(1910年)) 
 

佐佐木さんが「手を見ている時間の長さが、現在あるいは過去の内奥の深度を暗示するかたちになっている」と指摘するように、ここではただたんに「ぢつと手を見」ているだけなのに、にもかかわらず、佐佐木さんが「内奥の深度」とことばに言いあらわしたように、〈それ以上のなにか〉が見えている(ように感じられてしまう)ことが大切です。

なぜ〈見ている〉こと以上のものが〈見えてしまっている〉ように感じるのか。

それは、語り手が「ぢつと手を見る」=〈注視〉しているからではないかとおもうんですね。

そしてこの〈注視〉というのは実は催眠術でも相手を〈催眠〉にかけ〈感応〉させるための大切な行為だったんです。

先ほどの富永勇は『感応術及催眠術』において催眠術の方法としてこんなふうに記述しています。

被術者を適宜の位置に置いて一物を物質的方法の如くに注視させる、然る時は五分か十分或は二三十分で眼球結膜は充血して来る、流涙を来たして来る、遂に眼球疲労のために睡眠の眼状を呈して来て自ら眼瞼(がんけん)を開いて居ることが能きなくなりて来る、そこで眼瞼を閉ぢさせて「睡眠せよ」又は能く睡眠(ねむ)れると云ひ聞かせつゝ、先づ顔面又は頭部を軽く摩で下すか、或は又肩胛部から上肢を指の尖端(さき)に至る迄「ズツト」摩(な)で下すか、これを数回繰りかへして行ふのだ、すると凡そ眼を閉ぢてから十分乃至十五分も経たらば普通の睡眠状態即ち第二度睡眠に為りて来る、 
   (富永勇「第六章 催眠術及要訣」『感応術及催眠術秘訣』(明治36年(1903年)、哲学書院、p.141-2)

催眠はまずなによりも〈注視〉からはじまるのです。

そうすると啄木にとって〈見る〉という行為は「精神的感応」や「種々奇蹟的の現象」を引き出す〈超越的な行為〉になってくるかもしれません。

〈見る〉という行為は、催眠術文化の言説空間においては、〈見ているもの〉以上の〈見えなかったはずのもの〉を〈深奥〉から引き出してくる、特別な意味作用をもっていたかもしれないということ。たとえば次の啄木の短歌の〈見る〉という行為が「時計」が「とま」って「吸は」れそうになることを引き寄せたり、「人を殺したく」なる欲動にアクセスしていってしまうように。〈見る〉ことは、〈見えない〉ものを〈見る〉ことへ、と。

見てをれば時計とまれり
吸はるるごと
心はまたもさびしさに行(ゆ)く
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな

   (石川啄木『一握の砂』明治43年(1910年))





「催眠方法 其二 被術者ノ身体ニ触接セスシテ術者ノ一眼ヲ注視セシムル状態」
   (富永勇『感応術及催眠術秘訣』明治36(1903)年、哲学書院、p.125(国会図書館デジタルコレクションより))

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