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2015年4月17日金曜日

【俳句時評】 荒金久平『改訂復刻版句集 炭塵』の記憶  /堀下翔



荒金久平『改訂復刻版句集 炭塵』(平成26年/文学の森)が刊行された。著者荒金(昭和4-)は昭和32年「芹」入会、素十没後は「蕗」に拠った作家で、昭和21年から定年まで三井三池炭鉱に勤め上げた。定年目前の昭和58年に刊行されまた今回復刊に至った『炭塵』はその炭鉱マンとしての生活を詠った句集である。編年体収録の掉尾が昭和55年の句でありながら、その後の第二句集『初空』(平成18年刊)が昭和47年の句に始まっているのは、『炭塵』あとがきに〈尚収録した句は全て「芹」誌入選句とし、一部「蕗」「雪」誌より炭鉱生活関連の句のみを採録、この句集の締めくくりとした〉とある通りであり、同あとがきが〈三池争議、三川鉱爆発事故、僚友や多くの知人の事故死、宮浦坑をはじめ多くの閉山、全ては炭鉱生活の思い出にあり一期一会ではなかっただろうか。/来春定年を迎うるに当り、今後の句作の一つの節目として刊行することを思い立った。この拙い句集が鉱山に逝った多くの人々の鎮魂の詩となり、炭鉱生活の証しとなれば幸甚と思う次第である〉と記す本句集の性格を表している。

刊行から30年以上が経過した『炭塵』が再び陽の目を見ることになった事情には、幕末・明治期の重工業施設を世界文化遺産登録にこぎつけようとする近年の運動が大いに関連している。

平成17年、鹿児島県が主催した「九州近代化産業遺産シンポジウム」に端を発する登録運動は、平成18年に九州地方知事会が「九州近代化産業遺産の保存・活用」を政策連合項目として決定したのを皮切りに複数県による取り組みへと発展した。世界遺産への登録を目指す暫定リスト――これは各国の推薦候補である――に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が掲載されたのは平成21年のことであった。ここに含まれたのは福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県、山口県、岩手県、静岡県、北九州市、大牟田市、中間市、佐賀市、長崎市、荒尾市、宇城市、鹿児島市、萩市、釜石市、伊豆の国市の8県11市であり、以後、上記で構成される登録推進協議会はシンポジウムや専門家会議を重ねた。平成25年に政府は同施設群を推薦案件に決定。そして本年6月、第39回世界遺産委員会において、登録の可否が審議される予定である。

萩の産業化初期の遺産群、集成館、韮山反射炉、橋野鉄鉱山、三重津海軍所跡、長崎造船所、高島炭鉱、旧グラバー住宅、三角西港、官営八幡製鐵所と共に同施設群の一つに指定されたのが三池炭鉱であった。登録の審議を間近に控え、各施設に大きな注目が集まる中、三井三池炭鉱を記録した文学作品として、『炭塵』が再び取り沙汰された。『炭塵』復刻版編集後記によれば、熊本大学文学部の学生がまとめた実習報告書、また〈京都在住の造園家の著書〉に句集の存在が紹介された結果在庫問い合わせが相次ぎ、次第に当時の残部では対応しきれなくなった――とのことである。

朝日新聞が取材した句集復刊の記事を筆者は興味深く読んだ。記事は上記の経緯に触れたうえでこのように書く。

その中で「人々の記憶も残したい」と大学研究者らから句集の問い合わせを受けた。(「朝日新聞」2015年1月30日西部・朝刊・福岡1地方)

いったい〈人々の記憶〉とはどのようなものであろうか。筆者が心惹かれたのはその点であった。一人の人間が書いたものが記憶などという個人的なものの集積を引き受けているのだとしたら、それははたしてどのような形をとっているのだろうか。まず思いが至ったのは、歴史の記述から抜け落ちたごく些末な事実関係はおそらくそういったものの一つとなりうるだろう、ということだった。たとえば以下の句は優れた炭鉱生活のデッサンと言いうる。

ポンプ座に餅を供へて坑内を守る 荒金久平(昭和33年)

坑内で使用するポンプに鏡餅を供え、新しい一年の安全を神仏に祈る。炭鉱生活にこのような文化のあったこと、年末年始であれ鉱夫が労働に従事していたことなどがこの句からは分かる。また「坑内」を「こうない」と読めば定型をはみ出すので別の読みが考えられる。これ以前のある句には「しき」とルビを振っている。「鋪」からの転用であろう。「やま」と読ませる句ものちには登場する。「しき」にせよ「やま」にせよ、それ自体は「坑内」、ことに「内」の意味を持たない。以上の点から、鉱夫たちの文化圏にあっては「坑内」と書いて「しき」「やま」と読むことがあったこと、また、彼らにとって「しき」「やま」はその内部を指していたことが考えられる。

初風呂や炭塵の顔みな笑ひ(昭和38年)

この句もまた前掲句と同様に鉱夫が正月休みを持たなかったことを示している。〈みな笑ひ〉という表現に、当事者たちにとっての炭鉱業務が正月であれば正月らしくめでたく笑い合うという当然の生活上にあったことを嗅ぎ取ることも可能である。

俳句形式なればこそ示されることがらも当然あるだろう。たとえばそれは17音の短さが許さなかった部分、すなわちそこに何が書かれなかったかだ。

俳句の骨法としばしば称される省略は要するにどこまで書かないでも通じるかを判断する行為である。例として清崎敏郎の〈雪の上に樹影は生れては消ゆる〉(『島人』昭和44年)という句を考えてみよう。一句が描いているのは――「雲」が流れて「太陽」が出ると、雪の上に樹影が現われ、また「雲」が「太陽」を覆うと、その樹影は消えてしまう――一こういった情景である。この情景を示すのに、その原因である「雲」と「太陽」の存在は言わないでもよいのである。もちろんこの句が素晴らしいのは「雲」と「太陽」を切り捨てられると判断した敏郎の観察眼なのだけれど、重要なのは、この句を読んでいる筆者たちとこの句を書いている敏郎との間にはいくつもの共通認識がある、ということである。太陽があれば樹影は生まれること、雲が太陽の下に来ると光は遮られること、雲は切れ切れになって流れているものであること。常識的なことがらを前提として省略は成立しているのである。

筆者は『炭塵』を読みながら、しばしば句意の分からない句に行き当たるので困ってしまった。

花散らす雨は恐ろし入坑す(昭和40年)今娑婆に出でしを告ぐる梅雨の月(昭和37年)

どうして花を散らす雨が恐ろしいのか。そう思ってページをめくると〈花の雨気圧降下を恐れつつ〉というほぼ同義の句が載っており、そちらの句にはこのような註が付されていた。

気圧降下の日は旧坑や炭壁面のメタンガスが切羽面に湧出しガス爆発の危険が多くなる

また〈今娑婆に〉の句も意味不明瞭である。娑婆というと服役していた罪人が出所し、そのことを家族なり知人なりに告げているのかとも思うが、この句集の編集としては変だ。この句にも註が付いている。

死者の魂が坑内に迷はぬ様坑道の箇所を知らせながら昇坑する

つまり、事故で死んだ鉱夫の魂は坑内で道に迷って昇天できないという民間信仰があるのである。そうなれば〈梅雨の月〉は土の下の生業と対照をなすイメージということも分かって句意は判然とする。

〈人々の記憶〉というものにとって〈死者の魂が坑内に迷はぬ様坑道の箇所を知らせながら昇坑する〉という事実以上に重要なものがここにある筈だ。荒金にとって〈今娑婆に出でしを告ぐる梅雨の月〉は〈死者の魂が坑内に迷はぬ様坑道の箇所を知らせながら昇坑する〉という註がなくとも了解できる句であったのだ。この句を書いた人間にとってそれは常識的な内容であった……俳句がその特性として残しうるのはそういった部分ではないか。〈人々〉がその時代に持っていた意識のありようは、書き残されないことの方にこそ見出されるのである。

爆発に父失ひて手毬つく(昭和39年) 
憎み合ふ隣り同士や濃紫陽花(昭和35年)

も同様である。〈爆発に〉の句が示しているのは、昭和39年の炭鉱町の人々にとって〈爆発〉に失う父は、たとえば兵役にとられ戦闘に命を落とした父ではなく、炭鉱事故に巻き込まれた父であった、ということである。昭和35年作の〈憎み合ふ〉も何が原因で隣人が憎み合っているのかは分からない。句集には註がないが、先述の朝日新聞の記事に本人へのインタビューをもとにしたと思しき解説があった。〈石油へのエネルギー転換という流れの中で、59年から60年にかけて「総資本対総労働」といわれた三池争議が起きた〉。炭鉱町には会社側と労働者側の人間がともに住んでいたのであろう。あるいはストに加わらなかったり離脱したりした者もあったので、最後までストを強行した側とは確執も生まれた筈である。〈熱燗に酔ひし坑夫のスト嫌ひ〉(昭和39年)の句は労働者側の必ずしも全員がストに積極的ではなかった実態を伝えている。ともかくも昭和35年の彼らにとって〈憎み合ふ隣り同士〉とはすぐさまそういった事情に思い至る言葉だったのである。

『炭塵』を読めば分かることは多い。それらを〈人々の記憶〉と呼ぶこともできるだろう。けれども、と筆者は思う。そういった内実を受け取ることはこの句集を読むことと決して等しくはない筈である。二度目の引用になるが刊行当初に示された〈この拙い句集が鉱山に逝った多くの人々の鎮魂の詩となり、炭鉱生活の証しとなれば幸甚と思う次第である〉というあとがきにおいて彼自身それを鉱山の人々に対する鎮魂と述べこそすれ、炭鉱生活そのものに関しては自身のそれであるとしか書いていないのである。それは客観写生の忠実な実践者である高野素十門の作者にとっては至極当然の意識であったろう。とすればわれわれはもう一度この句集を読む必要がある。

『炭塵』所収の句を一作者荒金に引き寄せて読むとき――尤もそれは通常行われる読みの行為そのものなのであるが――まず気になるのは類似表現の頻出である。その一つである〈鉱害の沼〉という同一表現に展開される句を見てみよう。

鉱害の沼のさざなみ芦の花(昭和34年)
鉱害の沼に月あるさびしさよ(昭和36年)
鉱害の沼の一つの野火あかり(昭和39年)
鉱害の沼の枯蓮破れ蓮(昭和40年)
鉱害の沼のほとりの草を摘む(昭和41年)
鉱害の沼の末枯甚だし(昭和47年)
鉱害の沼の末枯はじまりし(同)
鉱害の沼に聞きしは初蛙(昭和48年)
鉱害の沼の大いに絮のとぶ(昭和49年)

おそらく作者にとって最も身近で心の騒ぐモチーフだったのであろう。十年以上に亘って繰り返し取り上げられる〈鉱害の沼〉であるが、これらの句を眺めるときに気づかされるのは、そこにあるのが〈鉱害の沼〉と季語との関係性のみである、ということである。コウガイノヌマという5+2音のあとに季語を含んだフレーズが挿入されるが、多くは季語を平易な言葉で引き伸ばした描写であり、そこにはなるほど素十門らしさを感じるものがあるが、とかく、ここには〈鉱害の沼〉と季語以外のものは存在していないのである。

ここに荒金と俳句との関係性がある気がする。荒金は俳句を詠む行為を愛していた。そして俳句と荒金とを繋ぎとめていたのは季語だった。数十年に及ぶ炭鉱生活、こと昼夜逆転もしばしばという状況において、荒金を困らせたのは季語であった。〈坑内の黴も暑さも皆俳句〉(昭和36年)という句もある通り、歳時記に記載されている多彩な季語が身辺に充実しているわけではなかった。結果荒金にとって、季語と出会うことは時として俳句を詠む行為そのものであった。

もう一例挙げよう。〈鉱害の沼〉とともに頻出するのが〈入坑す〉およびそれに準ずる表現である。

除夜の鐘鳴る頃ならん炭車押す(昭和35年) 
硬山の月惜しみつつ入坑す(昭和36年) 
坑出づる七日の月の冷まじき(同) 
秋天の好日惜しみ入坑す(昭和37年) 
いささかの花の疲れや入坑す(昭和39年) 
坑口の大魂棚や入坑す(同) 
元日の灯のあかあかと入坑す(昭和40年) 
短夜のあさきゆめみし入坑す(同) 
坑口の大初灯り入坑す(昭和43年) 
口笛を吹いて朧や入坑す(昭和44年) 
てふてふのひらひらとんで出坑す(同)

〈鉱害の沼〉と同様、ここにおいても季語と〈入坑す〉(=荒金自身)との関係性のみが只管に書きつけられている。季語と出会うことと俳句を詠むことは、やはり同一の行為として荒金の句に現れている。

そう考えたとき、季語と出会った荒金がしかし、一物仕立てとしてそれを一句ならしめず、〈鉱害の沼〉〈入坑す〉と、炭鉱に身を置く自身との関係性において詠み続けたことが、非常に切実なものとして筆者には思われる。あとがきに荒金はこのように書く。

炭鉱に働く一俳徒として、季感の少ない坑内や職場を描写し得る範囲は限られている。しかし、ありの儘を虚飾なく詠い続けたいと願う思念があればこそ今日まで作句し得たものと思う。

荒金にとって師素十の示した客観写生の道は自身の生活を偽らずして書きつけることであり、かつ、荒金の生活はつねに〈鉱害の沼〉〈入坑す〉という視点に保証されることでリアリティを持つものであった。『炭塵』にはきっと、頭の中で作った句は一つも入っていない。第二句集『初空』もそうだ。倉田紘文は序において、第一句集が炭鉱生活の記録として評価されたことに対する荒金の言葉を紹介している(倉田はこの言葉を荒金の書いたものからの引用としているが出典は不明である)。

私の俳句は見たままを詠む写実俳句。第二句集には炭鉱の句は入れません。二度と詠むことはないでしょう

事実、第二句集は炭鉱の句を、昭和59年に起きた有明鉱火災に駆けつけた時のものを除いて一切収めていない(なお同句群は改訂復刻版に『炭塵』以後として再収録されている)。この誠実さはまさしく『炭塵』を〈記憶〉として信頼すべきもののように思わせるものである。

作者自身が〈鉱山に逝った多くの人々の鎮魂の詩〉と述べた通り、

今年又新しき魂鉱山の盆(昭和38年)
冷やかに火薬負ひたるまま逝かれ(同)
炭坑の花にひとりの男逝く(昭和55年)

といった炭鉱事故を描いた句が『炭塵』には無数に見られる。そんな中にあってやや毛色の異なるのが句敵という田中茂季を詠った句である。それらは断続的に登場する。

九月二十八日 三川鉱に於て坑内火災あり、吾が無二の友であり句敵である田中茂季氏ガスに倒る。七七忌
菊焚いて菊焚いて酒温めん(昭和42年)

昨年九月二十八日 三川鉱坑内火災に倒れし友、田中茂季氏の初盆 
坑口の大魂棚に君ありし(昭和43年) 

鉱山に逝きし友田中茂季氏三回忌 
月に忌を修し三番方にゆく(昭和44年) 
霊棚に汝がありし入坑す(同)

初盆の句に見覚えのある人は多かろう。昭和39年の〈坑口の大魂棚や入坑す〉とほとんど同形である。昭和39年において〈坑口の大魂棚や入坑す〉と捉えられたその情景は、昭和43年の荒金にとっては〈坑口の大魂棚に君ありし〉として書きつけられるものだったのである。〈入坑す〉を抜きにして〈君〉を呼ばなければならなかった事態がどれほど切迫していたかは想像に難くない。かつまた、同じ情景を再び〈入坑す〉の生活の枠組みで回収し始めた昭和44年の句が、しかし決して〈坑口の大魂棚や入坑す〉ではなかったという結果は、荒金がどれほど生活をリアルに感じていたかをありありと伝えている。


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